武道・禅の心で臨床を読み解く(武道、禅、心理療法、ボディワークを学ぶ理学療法士)

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リハビリテーション・ルネサンスと現代武道ルネサンス

2011年02月15日 | 武道
 リハビリ界ではとある療法が「これこそリハビリテーション・ルネサンスだ!」と提唱しています。しかし世界的な思想の変化、ボディーワークの台頭、心理療法の変遷などなど世界的に見ればとっくにルネサンスは起きています。そういう発言はただ単に世間を知らなかっただけのような気がしてなりません。リハビリは歴史が短く、まだ未熟なんですね。

 私の定期購読誌である『月刊 秘伝』の1月号特集で現代武道・合気道についての解説がありました。そこで合気道は現代武道のルネサンスであると解説しています。素晴らしい文章なので長いのですが引用させていただきましたちなみに、武道をはじめとしたアジア諸外国の東洋思想は西洋圏における現代ルネサンスに多大なる影響を及ぼしています。西洋を学び、かつ東洋も学ぶのが現代の自然なスタイルだと思います。

(以下、引用)
西欧化で失われた日本武道の構造

武士と日本武術の成立

 直接人の生死に関わる武術が、闘争術という技術を超えた日本の一文化の中核へと昇華したのは鎌倉一幕府から明治まで続いた七百年に及ぶ武家政治だとされている。職業的な兵士であると同時に、国を治める施政老としての役割を持った武士は、自らを律し、規範となるモラル・道徳を示文心の学問と教養が必要となった。このため武術は神道、仏教、儒教そして密教などの東洋的世界観(哲学)・一生命観や行法を採り入れ、その結果、”日本武術”と”武士”が生まれたわけだ。そのため武士が修める日本武術は身体を鍛えることは無論だが、同時に如何にして心を制御し鍛えるかが重大要素であり、その具体的な方法論として密教などの世界観とその修行法(呼吸法を中心とする行法・瞑想法)が用いられたわけだ。


心を制御する呼吸法

 ただ、哲学者や思想家、宗教家と武士が大きく異なるのは、この「心を制御」することがそのまま生死に関わることだ。どんなに素早く、力強くても、いざという場面で心が震え、一瞬でも隙が生ずれぱ死と直結する(この部分で掠めただけで致命傷となる世界に類を見ない斬れ味の日 本刀の存在は極めて大きく、日本武道が厳密に型を持ち、その骨子に”一撃必殺”という信条が深く刻まれていることに影響していると思われる)。
 無論、実際に戦場で戦うという場面でなくとも、己の判断が一族・国を滅ぽす選択を求められる武士にとって、心をどう扱うかが重要なのは当然だろう。だからこそ、日本武術はその根幹を「心を制御]することによって、恐れや怒り、驚き、悲しみ、執着は無論、敵と我という相対的な関係を超えることを目指したのであり、単なる格闘術を超えた哲学とも言える存在となり得たのだ。この「心を制御」する具体的な方法のひとつが「呼吸法」である。ヨーガや仏教などで伝わる呼吸法と瞑想法は、見えずコントロールが困難な心へ如何にしてアプローチするかを研究し尽くしたものであり、今日ではメンタルトレーニング、イメージトレーニングとしても知られている。
(中略)

日本武道の歴史的断絶

 ここで誤解して欲しくないのは別になにかの宗教や神を信じよと言っているのではない。ここで理解して欲しいのは、日本武術はその根本に、大宇宙と共に小宇宙としての己を、行・呼吸・瞑想とい一う手段によって感性を磨き、そこにコネクトすることが普通を超える有効で効率的な「構造」として存在していたということだ。ここに明治までの武士・日本人一と我々との間に大きな断裂が存在笥する。明治維新の廃仏敗釈と西洋一思想の流入、それに続く先の大戦が、それまで武士は無論、日本人一が神道、仏教、シャーマニズム、アニミズムを問わず、前提に持っ一ていた「未知の大いなる存在」との関係を破壊してしまったからだ。その代わりに入ってきた科学は、見えぬ心や、気を切り捨て、身体は運動生理学によって使われるものとなり、心と身体は切り離された。その結果、武術の多くは西欧的スボーツ、あるいは体育としてのみ生き残らざるを得ず、心法の道は影を潜め、心学の道としての道徳が辛うじて残ったわけだ。その意味で、戦後にあって宇宙と気を稽古の中心に据え、その重要性を説いた植芝翁の合気道は日本武術史におけるルネサンス(復興)と言える。特に宗教色を主張せず、「心を制御し心身を統一する」という日本武道の根本の可能性を追求し、戦後という現代に合わせ、格闘術を超えた万人のための「現代に活きる武道」としたことは奇跡的だそして多田宏師範は、植芝翁の起こしたルネサンス=合気道を、いま一人の師、中村天風翁の教えをもって、今日我々に具体的な方法として紹介しているのだ。

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武道を学ぶ上で知っておくべき二つの道

 武術はその根本に「如何に生きるか」という命題を抱えていることから、道徳と強く結びついてきた。しかしこの道徳にも「心学の道]と「心法の道」という二つの道が存在する。心法の道とは神道、密教、禅などの行・心の探究から発した法・理であり時代によって変わらない。一方、心学の道は封建制度が確立したのち、社会を成り立たせる為に生まれた社会倫理の道。そのため時代によって変化する。今日一般的に、「武道の心」というと後者の心学の道が儒教的精神論として捉えられることが多い。

心法の道
 大字宙に対する小字宙としての自合のあり方のうぇでの道。命を磨き、配身一如嬰の実践東洋哲学と武術が同化した道で、時代によって左右されない普遍の道。

心学の道
 封建制度、社会システムが確立したなかで生まれる道徳。例)武士道、主家への忠誠、忠君愛国など、その時代、状況に反映されたものであり変わる。

(以上、引用終わり)
 私はこれまで道徳に心法の道と心学の道の二つがあるとは知りませんでした。思えば私の小中学校時代、学歴社会だった当時「道徳」は偏差値とは無関係であることから随分軽んじられていました。それでも道徳の授業はありました。今では道徳という授業はないと聞きます(他の授業になっているようですが、希薄な感じがします)。そして、私が習っていた空手は道徳的な理念はなくスポーツ空手となってしまっていました。

 今まで現代人の心の荒廃から瞑想・黙想の大切さをブログで述べてきました。これはいわば心法にあたります。そして心学にあたる道徳・倫理(『義』『誠』『仁』などの精神)も現代人に欠如しています。
 全人間的な復権を謳うリハビリテーションも心法・心学を満たしてこそ本当のルネサンスではないでしょうか。


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