今日は記念日というにはとても残念な記念日で
昨日はダ~リンの誕生日だったので
ナントモ複雑な日ですが。
7年前の今日、私は乳がん中期と宣告されました。
まあ、検査の時にどういう結果になるかわかっていたので
覚悟もできていたし
それが悪いこともわかっていたし
ゴロンというくらい
ピンポン球くらいの腫瘍はあるな
しかも、リンパにも転移しているんだろうな、と
検査が多かったですからね
(細胞診があったし、其の時にエコーの画像が見えたので)
早期って言うことは有り得んよね、と思ってました。
或いは末期に近かったらどうしようか、と。
だいたい中期くらい
ギリギリ2bかな、ということで
ホッとしたような・・・・。
今後のだいたいの治療の流れを説明されて
「仕事の区切りをつけなくてはなので、すぐには治療には入れません」
というと、そういう人は多いので快諾してくれて
でも、早期ではないから、抗がん剤治療開始は1ヶ月程度しか待てませんよ、と。
まあ、それくらいあればいいので
1ヶ月間で色々準備しました。
抗がん剤治療は8クール。
ほぼ4週間毎に打ちます。
私は目眩持ちなので、入院加療にしました。
保険もバッチリ入っていたし。
4クールまではこの赤い薬が多いのですが
これがね、吐き気を誘うんですよ。
でも、前日、当日と1日2リットルの水を飲むと回避できるらしい、と
主治医が他の患者さんから聞いて教えてくれました。
経験者の助言はありがたいですからね。
そして、3剤を注入するのですが
これが何だかリレーというか、かけっこというか
手元に速度を調節するものがあるので
微妙に調節して揃えたり・・・
今考えるとバカみたいですが
そんなこともしてました。
今は通院の方も多いのですが
通院と言っても
先に血液検査があり、結果が出るまで約1時間待ち
治療OKとなり点滴をして1時間半くらいでしょうか?
その後、安静時間があるので
ほぼ1日仕事です。
電話もできないし
音楽は聞いても良いし、テレビも見てよいですが
多分、PCはダメだと思います。
「仕事はするな!」ということですね。
ということなので、保険に十分入っている方は
入院したほうが自由にできるかな?と。
もちろん、病院が許してくれたら、です。
抗癌剤も色々あるのですが
私が打ったのは8クールとも(ほぼ半年間)はげるタイプです。
何が悲しいかというと
脱毛は覚悟していたけれど、落ち武者のようになるんですよ。
この時期が「もうステージに戻れない」と思いました。
そんな時に心ない出来事や発言もあったりして
あの時はさすがに泣きました。
この気持は健常者には理解できないと思います。
で、禿げるということは、体毛全部なくなるということで
ちょっと小さめに
お化粧はお絵描きですよ。
でも、困ることはまつげがない、鼻毛がない・・・。
外のゴミが入り放題。
これはほんとうに困りましたね。
そして、紫外線に異常に弱くなって
まるで針が降ってくる感じ。
飲酒は止められませんでしたが
飲めません!
酒がまずいなんて・・・・残念な半年でした。
そして、最後のタキソテールが終わると
指も足も、怪我をしても感覚がないのでわからない状態に。
これは怖いですよ。
なんか焦げ臭い。肉が焦げる匂いが・・・と思ったら指が大やけど。
最初の蜂窩織炎も爪が刺さって膿をもっていたのに気が付かなくて
高熱の上に腕が腫れ上がるという感じで・・・。
これが何時になったら消えるかというと
最後の治療から半年。。。
そして、その頃にやっと髪の毛も生えてくるわけで
かわいいもんですよ
最初の抗がん剤から1年後です。
こうなると、何故私が休業したのかご理解いただけると思います。
これではステージに立つとか考えられません。
体力も落ちているし。
そうはいっても経理マンでもありますから
一応経理の仕事はしていました。
だから遊んで暮らしていたわけではありません。
で、おそらく、珍しいのはこれ。
これがコヒーシリコン しずく型です。
こういうのが胸に入るのですよ。
まあ、あれから7年間
主な治療が済んで2年間何もなかったし
3年半。色々不安もあったけど、再発しないんじゃないか?とか。
再発率4割って結構大きな数字でしたからね。
でも、そんなこともないんじゃないか、とか
10年間の治療が済めば、色んな物から開放されると思っていたら
鎖骨のところにコリッとしたものを発見。
主治医に言うと、すぐにエコー検査。
「何かあるね。細胞診するから、結果は1週間後。結果を期待しないできてね」
ああ、再発したんだろうナ・・・。
そして「今日は一人でいらっしゃいました?」
「いや、初発の時だって一人だったので大丈夫です」
「今からどこまで広がっているのか検査をしますね」云々
結局、鎖骨近辺のリンパ節に10箇所以上の転移巣があり
一番嫌なものが声帯まで約2センチのところにある、と。
薬は即変えられたけれど
放射線治療は声帯を焼かれては嫌なので、一度断っていました。
その年には息子の結婚式もあったけど
気分は晴れないまま。
そして、ANIME-JAZZもあったりして。
一応の大きな行事が終わってすぐに
弱っていた愛猫が死にました。
ダ~リンと涙に暮れていたら
「猫が死んでもこれだけ悲しいのだから、お前が死んだらどうする!」と。
再度放射線治療のために検査。
問題は声帯に影響を与えないようにすること。
せっかくANIME-JAZZのCDも発売したのに
再び治療でプチ休業。
放射線治療は照射時間は短いかいけれど
本当にフラフラで帰って、その日は何も出来ないくらいになり
マックスだったので
ほぼ2ヶ月間、病人らしい病人していました。
その間に何も宣伝できなかったCDはYouTubeでひとり歩きして
色んな所から注文が入り
ラジオ出演に
テレビ出演に・・・・
そんな折、東日本大震災があり
その1か月後、姉が大腸がん末期とわかり
私は一生で一番悲しい、忙しい日々を過ごしました。
間質性肺炎になったけれど
姉のいる東京へ老いて一人で歩けない両親を連れて行かなくてはいけない。
「自分の命と両親やお姉さんの世話とどっちが大切?」
家族からも放射線科の主治医からも怒られたけれど
「私にその選択権がないんです。行きたいという両親を連れて行くだけで」
治療痕も硬化が始まって
「今、大事にしなくちゃ。安静が必要なんだよ」と言われたけれど
私の安静など、両親にとっては大した問題ではなく
「ちょっと自分たちを東京へ連れて行くだけじゃないか」
そう。ちょっとしたことだと思っている人たちだから理解してもらえない。
姉は死ぬまで「玲子に負担掛けてない?」と心配していたけれど
その意味が両親には判らなかったみたいですね。
それから2年後。
またもやANIME-JAZZの年に
「肺に影がある」と。
「もしかしたら、肺がんかもしれないので呼吸器内科へ行ってください」
え~~~!!!
この時が今までの色んな宣告の中で一番びっくりしました。
だって、何の症状もないのに?
呼吸器内科へ行くと
「これがもし全部肺がんだったとすると4期になります。」
え~~~~~!!!!!
最終ステージ?
何も症状がないし、酒も美味しいし、色んな企画もいっぱい抱えているんですけど!
そんなこと言われても・・・・ってなもんですよ。
PETにも行きました。あれは更に詳しいので
小さなものも含めると8~10個位色んな物ができているそうな。
そして、世にも恐ろしい気管支鏡検査。
最初は胃カメラみたいなものですよ、と言われたけれど
どうも違うらしいぞ、と。
もう二度と受けたくない検査でした。
検査終了後、病室にやってきた乳腺の主治医に
「もう呼吸器内科卒業して乳腺に帰らせて!」と泣きを入れてみたりしました。
結果は動脈を挟んでの大きな腫瘍だったので
ほんの少ししか細胞が採れずにグレーのまま乳腺外科へ帰りました。
あれから1年半。
フェソロデックスが今でもまだ使えることに感謝です。
今年中におそらく薬が変わるかな、というところですが
どうも肺転移した人は割と元気に最後まで過ごして
ちょっと具合がわるいかも、と
まさか死んでしまうとは思わないまま入院して
ガタガタと悪くなり
余命宣告など無いままに召されていくようなので
私も最後までライブをして
バリバリ歌って
「え?2ヶ月前にライブしてたよ」ってくらいであの世へ行ける予定です。
でも、まだ死なないですからね。
目標は60才(わぁ~しょぼい)
還暦のお祝いくらい経験してみたいので
お迎えはそれからにしてほしいと思っている所です。