JAZZ SINGER REIKO OSHIBUCHI 押淵玲子オフィシャルブログ

福岡で活動しているSINGERです。乳がん闘病中(再発転移あり)の事や、音楽の事など。
そして、趣味の着物リメイクなど

押淵玲子CD、画像など

CD好評発売中詳細はHPまで
押淵玲子オフィシャルHP

尚、CDは2,800円のものは800円を2,500円のものは500円を
「がんの子供を守る会」また「あしなが育英会東北レインボーハウス建設募金」に寄付いたしております。

ライブ画像をアップしています

2016年12月4日(日)18:00~
ANIME JAZZ THE LAST
10年間皆様に愛されて続けてきたANIME JAZZ LIVE
ライブはこの日が最後となります。
どうぞ、お見逃しなく!

年末に色々忙しく

2015-12-31 18:00:18 | 日記

今年はたまっていた部屋の片づけをしました。
それで、というか
検査もありーので
大分更新をさぼっておりました。

まず、25日の検査結果ですが
前回と変わらず
つまり、悪変なしということでした!

良かった。

薬は70%量だったのですが
ちゃんと奏効しているようなので
次回、来年の8日からですが
50%量にさらに減量されます。
これでピアノが弾けるかもです。
色々諦めかけていたものが出来るかもです。

思えば、今年は初めから実家の片づけで大変で
何度倒れただろう、という感じでした。
その上、父は我儘放題で
施設になじもうとせず、文句ばかり。
一体どうしろというのだ、というくらい毎日悩まされました。
荷物の事も、自分が何もせずにいたのに
あれも取っておけ、これも取っておけ、と
一体あの古い家財道具を誰が使うの?と何度もめたでしょう。

土地の売買契約時にも
相手方に「まだ価値のある家具があるから」としつこく
契約成立後にも
「あれを取って来い」と出来ない事を言うし
老人ってなんでこんなに訳がわからない事ばかり言うのだ、と。

そんな中、4月のライブ
その後札幌でのライブ
5月のライブ
と結構私にしたらライブをよくこなしていました。

ライブに忙しくしても1週間に一度は父に呼び出され
母は段々暴力を振るうようになるし
杖を常に持っているので
振り回されると恐い、という感じになってしまいました。

まあ、そんなこんなで忙しいのと精神的に参っている時期に

なんと声が出なくなってしまいました。

耳鼻科へ行ったり
色んな事を試してみたけど
声がかすれて、何だか呼吸も苦しいし
私はてっきり喘息が酷くなったのかと思ったら

肺に転移した乳がんはすっごく悪化していました。

特に肺の入り口の腫瘍は気道を押しつぶすくらいで
右の肺は無気肺になり
そりゃあ声が出ないはずよ!と。

アバスチン+パクリタキセルの治療になり
ほぼ毎週通院して抗がん剤治療という
何だか結構忙しい毎日が始まりました。

主治医の話だとゆっくり脱毛すると言う話でしたが
結構すぐに脱毛が始まりました。
で、年末の片づけ時に見つけた8年半前の脱毛しかけの写真



7月の七夕ライブは
すごいハスキーボイスで
本当に泣きそうなライブになってしまいましたが
8月末のライブには少し薬も効いてきて
選曲も気張らない曲で、ギターDuoという事もあり
何とかハスキーも利用しつつちょっとずつ元気に。

9月のスージーさんの50周年記念ライブには
ギリギリ声が出るくらいで
心配でしたが、何とか歌い上げることが出来ました。
お祝いの席ですもの
失敗するわけにはいきませんでしたもの。



そして、
その後数年間金髪にしていたので
8年前に買ったウィッグが地味に見える。
結構値の張るものだったし、まあ、普通に上等なウィッグだったのですが
ん~~~・・・・?
でも、他の方の葬儀に出席する時には、やはり必要なので
一応キープしているんですけどね。

でも!!東京で見つけましたよ!
やっと好みのもの!!



私らしいと思ってます。

11月のライブは
企画したのが結構状態が悪かった7月なので
「Life is]という題名にしていたこともあり
ハゲはハゲだったので
まあ、ありの~ままの~と剥げても笑っている写真だったし
「もう死ぬんじゃないの?」と
心配したお客さんで溢れて
いや、まだまだ死にませんから。。。。
でも、今までで一番よかったんじゃないか、というくらい
良いライブが出来たと思います。

あ、この時の録画とか
全然YouTubeにあげていませんでしたね。
年が明けたら、アップします。

その頃に
父と母を別居させることにしました。
施設内ですが
やはり一緒の部屋にいることがお互いのために良くないのでは、と。
父は3階の普通のフロア
母は少し徘徊するので2階の部屋
どちらも一人用の部屋で
1年間で2回の引っ越しって。。。。
私はとことん疲れて
抗がん剤の副作用もしんどくなるし
これをきっかけに、両親の所へはあまり行かないようにしました。

自分を守るためです。

施設は誰もがうらやましいと思うようなホテルのようなところです。
そして、私が死んで、誰も面倒を見れなくなっても
施設でずっと過ごせるようなシステムです。
ちょっと無視して、施設で暮らすことになれさせようと。
別居が良かったのか
これ以降、父は酷い我儘は言わなくなりました。
母は別の世界の人ですから。。。まあ、へんてこな事はよく言うし
あれこれと文句は言いますが
無視できるような範囲なので、まあ、いいか、と。

で、

まあ、色々片づけをしていて
バッグも沢山没にしました。
これは一部。



カルチェとかありましたが、中がボロボロ。

事務用机は、もう経理をしないので
上2段は文具が入っていますが
大きな裁縫箱にしました。





机の上にはミシン常設。

その他、色々片づけましたので、年末はお疲れ。

そんな中でも魔女会が久しぶりにありました。
魔女はやはり肉食でしょう。
ガッツリ食べて、ガッツリ飲んで
魔女二人は実は先祖も繋がりがあったわけですよ。
すごいよね~、と。
やはり肉は元気になりますよね(笑)



そして、文楽鑑賞にも出かけていきました。
来年の歌舞伎はどうしよう、と
今思案中です。



1年を振り返りながら
今年はまじめに年末の掃除をして
目いっぱい疲れて1年を終えることとなりました。

来年はANIME JAZZの年です。
そして、ANIME JAZZは最後となります。
それまでも、色んなライブをやっていきますので
皆さん、来年もよろしくお願いいたします。

寿命といつまで闘病するのか

2015-12-23 00:32:05 | 日記
今日は明日が休みなので
クリスマス前に大人の時間を、とダ~リンと飲みに出かけた。

いつものミニイタリアンでちょっと食事をして
行きつけのバーで強いお酒を。

他愛ない話とか
どうでもいい話が多いのだが
宝くじの話から
色んな話に発展。

当たりもしない宝くじ
当たったらどう分配するのか。
子供たちには「当たっても七隈の土地はいつかおじいちゃまから相続するから税金の問題で、相続まで待って、ここを買わないように」
なんて言っているのだが
私もダ~リンも色んな事を考えて
自分たちのどちらかが当たったら
七隈の土地を父から買おうと思っている。

父があまりにお金の話をするのと
110歳以上まで潤沢な資金がない、と言うので
では、七隈の土地を私たちが相続ではなく
買い取れば、彼らとの色んな確執もけりがつくし
それを武器に文句を言われることもなく
「私はおなたたちの財産を一銭も受け取らなかったでしょう?」
なんてことも言えるわけだし
まあ、買い取ろうかな、と思っている。

それ以外のお金は、、、、と言う話で
私はそんなに長生きはしないから
上等な施設に入って、そこで暮らすお金はいらない、とか
今のところ、ダ~リンが父母と同じような老後を過ごすお金は
家を改築すると出ないので
それは諦めてもらわなくてはいけない事や
(むしろ、そういう施設にダ~リンは死んでも行きたくないと思っている)
老後の資金に関しては
私が死んだときに数千万入るので、それで何とかなるでしょう、と。

そこから、私の死期についての話になる。

今からは良かったり悪かったりだけど
そらだって色んな副作用が付いてくるわけで
自分のやりたいことが一段落して
それでも数年かかるわけだけど
それが終わって、副作用と付き合うのが嫌だな、と思ったら
自分のいのちの時間は自分で決められるしね、と。

ダ~リンは私はずっと乳がんと闘い続けるものだと思っていたらしい。

まあ、その精神力があれば、だけど
私は実の所そこそこ生きれば、死んでもいいと思っている。

今すぐ死ぬと言う話ではない。

自分のやりたい仕事が終われば
その時に副作用が嫌になって来たら
闘病するのに疲れたら
もう、闘病をしないという選択が出来るのだ。

転移して、それを薬でコントロールしているのだから
無治療になれば、確実に死ぬ。
乳がんだから急激に進行するわけじゃないかもしれないけれど
緩和ケアで痛みを和らげながら
1年なのか、2年なのか、それくらいを
死に向かって生きるだけになる事だろう。

「そんな事を勝手に決められては困る」

ダ~リンはそう言うが、闘病しているのは私。

結構緩やかだったけれど
今までだって副作用がなかったわけではなく
結構「出来ない事」とか「出来なくなった事」に
色んな思いで付き合ってきたのだ。

普通ではないから
色んな不具合だっていっぱいあった。

今、このアバスチンとパクリタキセルの治療も
まだやりたい仕事があるから何とか耐えているけど
結構、色んな事が出来なくなってイライラしているのだ。
もし、憎悪している細胞が縮小しているのなら
もう少し緩やかな治療に変えても良いと主治医が言うのであれば
すぐにでも治療を変えたいと思っている。

「私の日々の不快な思いはあなたには判らない」

ダ~リンは黙ってしまったが
明らかに怒っていた。

でもね、本当に闘病って
特にエンドレスの闘病って結構辛いんだよ。
ここまで頑張れば、という事も見えないし
今はただ「歌う」という目的があるから耐えていけるけど
数年後にやりたい仕事を終えたら
闘病も目的を失うんだよ。

そこから、何のために副作用を耐えていくのか
それはとても難しい問題だと思う。

自分が生きていて価値のある人間かどうか
そういう事を常に問わなくてはいけない日々が始まるのだから。

楽しく飲んで終わるはずが結構難しい顔で終わってしまった。

でもね、私はダ~リンの重荷になりたくないと思っているだけなのよ。
歌って華やかな夢を追える間は
そういうステージ、姿を見せられるけれど
それが終わったら、私は何の価値もないんだよ。
現実は厳しんだよ、ダ~リン。
私はがん患者だから、色んな厳しいこともあるけれど
自分で命の長さを縮めることができるんだよ。
私が闘病してるんだからね。

寂しい老後を押し付けるようで本当に悪いと思っているよ。
ごめんね。

咳と鼻血と鼻水と・・・

2015-12-19 10:08:04 | 日記
何だかなぁという日が続いています。
咳がぶり返して
声もかすれているので
もう少しちゃんと声が出るまでは歌の練習が出来ない

これも結構ストレスです。

一体私は歌い手として世間に戻れるのか?

4月のライブのテーマは「嘘」だが
まだ、しっかりと題名は決まっていない。
だけど、曲も用意しはじめているし
もう、後には戻れない時期よ。
ああ、どうにか、声よ、戻ってきてくれよ。

そして、不快なもののオマケは
鼻血と鼻水、そして、クシャミ。
鼻血は大したことないと言えばそうなんだけど
鼻毛がないのでタラっとくるとダラダラダラっと流れてきてしまう。
これが嫌なのだ。
洋服にシミを作ったり
鼻水かな?と思って指でちょっと鼻先を拭くと
あ!血じゃん!と思った時は遅く
乾いたティッシュでは血の跡は取れないし
ウェットでは化粧も取れてしまう。

微妙だ。。。。。

そんな中、時々私への批判的な意見が風の便りに乗ってやってくる。

「だいたい、本当に病気なの?」

そう。8年半も闘病してるから
そんな意見も出てくるのだろうけど
乳がんって中期くらいの初発だとそんなもんなんだよ。
しかも、幸運な事に放射線治療も副作用はあったけど、効いてくれたし
フェソロデックスというホルモン治療の注射は
1年10か月くらい奏功してくれて
大変有難いことに大分延命できた。

もちろん時々に色んな副作用と付き合っているし
いつも元気というわけではなく
出来なくなったことも多い。

新聞には「乳がん闘病中の」という風に書かれるが
それは事実なので、そう書くだろうし
その冠、要りますか?と尋ねたこともあるが
「罹患して何年も再発転移もなく、治療も終了した人も沢山いて
そういう人たちに比べると、闘病中ですよ」と言われた。

確かに

そうなのですよ。

皆さんご存知ないと思うけど
肺にも転移して、一生闘病ですよね~、という私は
乳がん患者会などへ行くと
「え~!そんなにひどいんですか?」みたいな存在になり
う~ん、どこかにお仲間はいないのかな?ってなる。

ブログなどでは結構病状の進んだ人が多いけど
日本では乳がん患者ってそんな感じなんですよ。

米国が医療の最先端だと思っている人が多いけど
日本と同じ治療を受けている患者って中の上くらいの生活レベルの人以上だったりするのよ。
治験という形で治療を受けている人も多いけど
健康保険の制度がないから
契約した保険会社の査定でいのちの長さが決まるんだよ。

日本でも結構がんの治療にはお金がかかるけれど
一部負担金って高くても数十万で(数字前半ね)
1千万かかるなんて話は聞かないでしょ?
あっちは医師の指名料、医師の報酬なんてのも支払う金額に入っている。
言わば歩合制みたいな感じで、日本みたいに何人診ても同じ給料ってことはない。
しかも、その上に、日本と同じように診療費。
日本は診療費しかとっていないから、安いんだよ。
それに、がん治療の苦しさを紛らわすのにマリファナを認めているのよ。
副作用止めも高価な国なのよ。
普通に同等に比べたらダメだってば。

とあるサイトでそういう細かな比較をしているところがあり
うーん、これでは薬の評価はあまり信用できないな、と。
米国が勧める薬をそのまま使う事も危険だし
米国が薬効がないとしているものが、本当に薬効がないのかもわからない。
やはり、日本で使用する前にちゃんと深く検証すべきだろうな、と思った。
お役所仕事でグダグダどこの大学にしようかとかそういう時間は無駄で
治験でさっさとやんなさい!だけど。

まあ、そんなこんなで、私は恵まれた日本の治療で
8年半も生き延びて
今は指も動かないし
6月に声が出ないという最悪な状態になった事もあり
色んなお店に顔を出さなくなってるけど
大人しく地味に闘病してるんだよ。

ライブでちゃんとバリッと歌いたいから養生もする。
最高の仕上がりでみなさんにお聞かせしたいから
空気の悪いところへ出かけてセッションとかもしない。
家で暇になったから裁縫で何とか気分を紛らわしている。

私も病気から解放されて
色んなところで歌い
色んな人と話し、飲み歩いて
そういうミュージシャンらしい生活もしたい。

だけどね、それはもう出来ないの。

肌も白くて、顔色も良いし、、、、
うーん、それは化粧してるからね。
見かけでは何もわからない事っていっぱいあるんだよ。

冬になると思いだす・・・

2015-12-17 17:19:06 | 日記
FBの友人の書き込みを見ていて
高校時代の冬ならではの「わぉ!」と言う話を思い出した。

私が通っていた高校は
結構お嬢様学校というか
規則が厳しいというか
そういう事で有名な女子高だった。(小学校から高校まであるが)

制服は可愛い・・・かもしれない
女学生らしい感じで
あの学校の制服は長目が良くて
今みたいにミニにしちゃって可愛い制服ではなかった。

校章はブローチに出来るくらい綺麗で高価だった。
(当時で1000円くらいしたと思う)

夏は夏生地のプリーツスカートで
冬も同じデザインで冬生地+上着+全コート。
Pコートみたいなのは禁止だった。
でも、学校で決まった全コートは
チューリップみたいな形で
古臭いけど、可愛かった
それに何より、山の中腹にあったので
暖かくて良かった。

夏生地のスカートは黒でも透けて見える。
中学も同じような生地だったが
透けても全然気にしなかったが
高校では透けて見えるので下着をちゃんとしなさい、と言われていた。
長目のスリップ
もしくは長目のペチコートを履かなくてはいけなかった。
確か、透けて見えている子は注意されていた。
うちも親に電話が来たような気がする。
暑いのに面倒くさいもの履かせるのね、と思ったが
女子として当たり前だと。

最近は女子高生はちょっとお辞儀をしただけで下着が見えそうな
凄く短いスカートを履いている。
それで、覗いたとか
スカートを少しめくろうとしたとか
自転車に平気で乗るくせに「見ただろう!」とか
いや、そんなに文句を言うなら
そのスカート丈を何とかしろよ!と思ってしまう。

私の感覚では
ミニスカートを履くのなら、見えてもいい下着だろうし
その下にタイツとか履かなくちゃ!と。
例えば超ミニじゃなくても、OLがミニのスーツを着て椅子に座ると
スカートの間からどうしても下着がちらっと見えてしまう。
男性じゃなくても気になるだろうし
何より足がむき出しなのは「見るな」と言われても見えてしまうではないか。

やはり、色々気を遣わなくても良いように
女性側も配慮は必要だろうと思うことがある。

さて、堅い話が長かったが・・・

高校時代。真冬の話だ。

私は理系のような文系のような受験科目で
受験に伴う補習授業では数学が付いていた。
殆どの子は数学など取らなかったから
数学の補習は早朝になっていた。

半端なく早い
朝7時半くらいからだったと思う。

それで、宿題の板書等も含めると
朝6時20分のバスに乗らなければ、間に合わない
2日に一度だったか、もっとだったか忘れたけれど
とにかく、寒いのに朝早かった。

私は昔から夜中に勉強したり
音楽を聞いたりと言う習慣があったので
「さっき寝たばかり」と言う状態で起きなければいかなかったから
寝ぼけている日が殆どだった。

当時はまだ冬が普通に寒く
5時半なんて時間に起きるのは私だけで
ストーブなんてつけたって
私が出かける頃にしか暖まらない。

トーストとミルクとチーズと、と言う朝ご飯を用意して
早く暖まる炬燵に入って登校の準備をするのが常だった。

その日も炬燵で準備をして、コートまで着て「いってきます」と。

言い訳をはじめにしておこう。
とにかく寒いし
タイツは2枚重ね履きは普通だった。
ぶ厚いシャツとかセーターとかをブラウスの下には着込んでいたり
もちろん、毛糸のパンツ的なものは欠かせなかった。
でも、まあ、その時代はそれが普通だったので
着ぶくれしようが関係ない。
とにかく寒いのが当たり前の冬がある時代だった。

早朝の補習は暖房もないし
教室も冷たいから
生徒も先生もコートを着たままだった。
1時間ほどの授業があり
それが終わって教室へ行く。

教室でさて、コートを脱ごうか、と・・・
え?
私、スカート履いてない。。。

何たること!

スカートなしで上着を着て
毛糸のパンツは丸見え。
でも、目いっぱい防寒しているから
コートを着込んでしまえば、全然気づかないという。。。

「ギャ~~~!誰かジャージ貸して~~~!」

女子高の良いところは
何か困った事があれば
教室で叫ぶと、助けになるものが飛んでくるところだ。
これは宿題を忘れても、ノートが飛んできたりもする。
結構気前のよい子が多かった。

私はジャージに上着と言う変な格好で一日を過ごすことに。

朝礼にシスターが入ってきて
「あら、その格好、どうしたの?」
「あの・・・スカートを履き忘れてきました」
「え?スカート履いてこなかったって?呆れた・・・」
まあ、いろいろ説明して
コート来てたから気が付かなかったとか
それでも、本当につくづく呆れた子だという顔をされて
「じゃあ、下校前に私の所に寄んなさいね。
コートがめくれないように安全ピンでとめてあげますからね」

その日は一日、色んな人にそうしてスカートを履いてないのかの話をした。

たまたまなんだよ。。。

しかし、そのうちの一人に聞いた話では
だいたい1年に一人くらいはそういう人が居るらしい。
特に早朝補習受けている人。

やっぱり同類は存在した。

帰り際にシスターのところへ行くと
丁寧に
表にはピンでとめているとはわからないように
コートの裾がめくれないようにピンでとめてくださった。

有難いことです。

「明日はちゃんと忘れないでね」

当たり前です!!
そんなことがなんかいもあっちゃあ私はおバカです。

そんな事もあったとさ、と言う話でした。

当たり前で当たり前ではない事

2015-12-15 09:20:06 | 日記
先日、百貨店のトイレでの出来事。

丁度清掃中というか
清掃の人が使用後のトイレを見つけては掃除をしているというところ。
まあ、よくある事ではありますが。
「ご苦労様です」
私はいつもそう声をかけます。

ビルの清掃の人でも、何でも
すれ違った時
特にそういうときは彼らは仕事の手を休めて
通行人優先で
それでも、皆が気持ちよく生活できるように仕事をしていらっしゃるのだから。

その時はトイレが少し混んでいて
2~3人並んでいる状態だったのですが
私の後ろの若い女性がちょっと驚いた顔をしました。

「ご苦労様です」
「いいえ・・・」

たったそれだけの会話ですが。

その女性は初めてそういう状況の時の言葉を聞いたようで
「あの、いつもそうやって声をかけられるのですか?」
「すれ違った時は大体そうかな・・・ビルの清掃の人とかも」
「そう!そうですよね!偉そうにしてるのって違うと思って
私はずっと下を向いて心苦しかったんですけど
そうですよね!ちゃんと声をかければよいのですよね!」

そうなんだ。
彼女は何となく引っかかっていたことが
今、分かったんだ。

「ご苦労様」が正解なのか
「有難うございます」が正解なのか
きっと、こんな記事を書くと
色んな人がワイワイと文句をつけるところだと思います。
こんな些細な事で。
それで、多くの場合、「その人の仕事なのだから挨拶はいらない」みたいな
そんな事が横行して
ちょっとした言葉かけや挨拶がなくなっていくのでしょう。

でも、私は「ちょっとした事」こそが大切なんじゃないかと思います。

仕事のメールでも
「お疲れ様です」から始めるじゃないですか。
あれと同じだと思うのです。

誰とでもすれ違ったら挨拶をするのかと言えば
朝、近所の人とか、子供たちが登校している時等は
挨拶をしますが
それ以外では、エレベーターで一緒になったら会釈をする程度で
誰にでも言葉をかけるわけではありません。
工事をしている人に声をかけるわけでもありません。
ただ、私が通るために止まってくれたりとか
そんな風な状況の時にちょっと頭を下げるとか
交通整理の人に聞こえる場所にいたら「有難うございます」と言います。

気持ちをちゃんと態度に表す。

っていう事だと思うわけです。

最近の若い子達はそんな事も知らないのか、と言う人もいますが
そう批判をする人たちも
ちゃんと「有難う」や「ご苦労様」と言葉をかけていましたか?
私たちの日々の行動で若い人たちも学ぶわけです。
心しましょう。