ライブ前から数回目眩で倒れて
直前には風邪を引き
大変なライブだったのですが
終了後、病状は悪化し
3日間寝こむことになりました。
まあ、翌日などに無理をしたのがたたって
寝こむ結果となってしまったのですが・・・。
やらねばいけないことが色々あって
寝てられない、と。
実際に寝込んで
「親が引っ越してからでも出来る」という結論にはなりました。
実家の家は私が10歳位の時に建てた家です。
土地が300坪
建物は100坪以上。
小さなクリニックも兼ねていましたが、広い家です。
庭に桜の木があり、柿の木があり、梅の木、ミモザ・・・
そして、石庭の部分もありました。
今は後ろ半分を駐車場にして
石庭だった部分もジャングルになっていますが
当時はとても豪華できれいな家でした。
これを売却処分します。
家は古いので、残した家具、物々と共に壊されます。
皆さん、「惜しいでしょう?残されたら?」とおっしゃいますが
私はこれを処分して
両親には豪華な老人施設へ移ってもらいたい、と。
この2年、いや3年位もめていました。
母の認知症が進み、父も大事な契約事ができなくなり
やっと、私の言ったとおりに家を移ることになりました。
父は骨董収集の趣味がありました。
そこら辺の骨董屋さんよりずっと目利きで
偽物というものはありません。
(本物でも高いものと安いものがありますが)
それらも全部処分します。
10点位、父が施設に入っても楽しみたいものがあり
それは持っていくつもりですが。
母は日展にも入選した書家です。
書道の道具は4部屋くらいを占領するくらいに山ほどありますが
認知症で字も忘れているし
段ボール一箱分くらいの道具を持っていくだけになります。
紙も、殆ど捨てることとなります。
断捨離という言葉が流行っていますが
そういう意味ではなく
私はこの家ごと「未来のないもの」を処分したいと思っています。
私が大事にしているのは
「夢」「希望」です。
この家は過去にしか生きていないし
ここで暮らした私達も「過去」に縛られて身動きできなかったし
両親は「過去」の引き出しから希みのない事をあれこれ持ち出し
「今」の周囲の人達を非難し、潰そうとします。
人は変化するものです。
その過程において、未熟であった「過去」は必要ではありますが
「過去」の評価を「今」持ち出すことは何の意味もありません。
大事なのは「今」です。
目標を持っているのか、夢を持っているのか、が重要であり
「そんなこと思っても無駄だ」
「そんなことが出来るわけないから、早々諦めろ」
というふうな後ろ向きな発言は切り捨てねばなりません。
私の両親はこの後ろ向きな発言を
毎日毎日、何回も子供、孫達に言います。
夢は小さい内に摘みとり、希望は持たせない
それが正しい生き方だと信じています。
私はそういうものを家もろとも葬り去ろうと思っています。
人が生きるために必要なのは
「明日」です。
そう、未来なのです。
それに向かう夢であり、希望であり
そのための努力です。
親族の中には屋敷を売るのはもったいないとか
もっと高く売れたのでは、という人も居ます。
父も母も、退路を断たねば新しい所へ移らないし
後ろ向きの人生を若い人たちに押し付けるのは終わりにさせたいと思っています。
家屋敷を売って
二人で豪華な老人施設で優雅な晩年を過ごして
おそらく、築いた財産はほぼ使ってしまうでしょう。
葬式と、後始末のお金くらいしか残らないと思います。
でも、それでいいじゃないか。
自分で働いて自分で使ってしまう。
それでいいんじゃないか、と私は思っています。
今、私が大鉈を振るう理由は
もしかして、私のほうが命が短いかもしれないから。
子供たちの世代にこの「過去」の象徴を残してはいけない。
ただ、そう思うから。
何度でも訴えたいのは
人が生きていくために必要なのは「夢」や「希望」です。
直前には風邪を引き
大変なライブだったのですが
終了後、病状は悪化し
3日間寝こむことになりました。
まあ、翌日などに無理をしたのがたたって
寝こむ結果となってしまったのですが・・・。
やらねばいけないことが色々あって
寝てられない、と。
実際に寝込んで
「親が引っ越してからでも出来る」という結論にはなりました。
実家の家は私が10歳位の時に建てた家です。
土地が300坪
建物は100坪以上。
小さなクリニックも兼ねていましたが、広い家です。
庭に桜の木があり、柿の木があり、梅の木、ミモザ・・・
そして、石庭の部分もありました。
今は後ろ半分を駐車場にして
石庭だった部分もジャングルになっていますが
当時はとても豪華できれいな家でした。
これを売却処分します。
家は古いので、残した家具、物々と共に壊されます。
皆さん、「惜しいでしょう?残されたら?」とおっしゃいますが
私はこれを処分して
両親には豪華な老人施設へ移ってもらいたい、と。
この2年、いや3年位もめていました。
母の認知症が進み、父も大事な契約事ができなくなり
やっと、私の言ったとおりに家を移ることになりました。
父は骨董収集の趣味がありました。
そこら辺の骨董屋さんよりずっと目利きで
偽物というものはありません。
(本物でも高いものと安いものがありますが)
それらも全部処分します。
10点位、父が施設に入っても楽しみたいものがあり
それは持っていくつもりですが。
母は日展にも入選した書家です。
書道の道具は4部屋くらいを占領するくらいに山ほどありますが
認知症で字も忘れているし
段ボール一箱分くらいの道具を持っていくだけになります。
紙も、殆ど捨てることとなります。
断捨離という言葉が流行っていますが
そういう意味ではなく
私はこの家ごと「未来のないもの」を処分したいと思っています。
私が大事にしているのは
「夢」「希望」です。
この家は過去にしか生きていないし
ここで暮らした私達も「過去」に縛られて身動きできなかったし
両親は「過去」の引き出しから希みのない事をあれこれ持ち出し
「今」の周囲の人達を非難し、潰そうとします。
人は変化するものです。
その過程において、未熟であった「過去」は必要ではありますが
「過去」の評価を「今」持ち出すことは何の意味もありません。
大事なのは「今」です。
目標を持っているのか、夢を持っているのか、が重要であり
「そんなこと思っても無駄だ」
「そんなことが出来るわけないから、早々諦めろ」
というふうな後ろ向きな発言は切り捨てねばなりません。
私の両親はこの後ろ向きな発言を
毎日毎日、何回も子供、孫達に言います。
夢は小さい内に摘みとり、希望は持たせない
それが正しい生き方だと信じています。
私はそういうものを家もろとも葬り去ろうと思っています。
人が生きるために必要なのは
「明日」です。
そう、未来なのです。
それに向かう夢であり、希望であり
そのための努力です。
親族の中には屋敷を売るのはもったいないとか
もっと高く売れたのでは、という人も居ます。
父も母も、退路を断たねば新しい所へ移らないし
後ろ向きの人生を若い人たちに押し付けるのは終わりにさせたいと思っています。
家屋敷を売って
二人で豪華な老人施設で優雅な晩年を過ごして
おそらく、築いた財産はほぼ使ってしまうでしょう。
葬式と、後始末のお金くらいしか残らないと思います。
でも、それでいいじゃないか。
自分で働いて自分で使ってしまう。
それでいいんじゃないか、と私は思っています。
今、私が大鉈を振るう理由は
もしかして、私のほうが命が短いかもしれないから。
子供たちの世代にこの「過去」の象徴を残してはいけない。
ただ、そう思うから。
何度でも訴えたいのは
人が生きていくために必要なのは「夢」や「希望」です。
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