柿の産地としても有名な九度山。
大河ドラマ『真田丸』は次週からついにクライマックス「大坂の陣」へと突入ですが、最後の三カ月を堪能するべく、信繁幽閉の地・九度山へ行ってきました!
奇しくも本日10月10日は400年前に信繁(幸村)が大坂城へ入城した日。
訪問に今日ほどふさわしい日はありません
という訳で、しばらく九度山訪問記続きます
お天気も最高!
真田庵とありますが、実際は善名称院というお寺でもあります。
九度山駅から徒歩10分くらい? うねうねと細い道沿いにあります。町全体がこのような道ばかりで、おそらく400年前から大きく地形は変わっていないと思われ、すでに気分は真田信繁(笑)。
真田庵は真田昌幸・信繁父子の居住跡ですが、当時のもので残っているのは昌幸のお墓と松、それから井戸くらいのようです。
昌幸公のお墓。
真田大権現として祀られています。
大坂城落城より126年後、大安上人によりこの地に善名称院が建立されましたが、その大安上人によって昌幸・幸村(信繁)・大助は大権現として祀られることになりました。寺に怒った昌幸の霊が現れたからとも、大安上人が本尊からお告げを受けたとも言われています。
昌幸を偲んで植えられた松らしいですが、二代目とあったので当時のものではないかもしれません。
高野山に行った時も思ったのですが、和歌山県のこの辺りの空気はとても大らかで、雄大な山に囲まれて空の色もきれいだし、高野山のお膝元という土地柄も手伝ってか、世間からの隔絶感は強いです。現代でそうなのですから、400年前にここで暮らすのは、島流しに等しかったと思われます。
このあと同じ敷地内にある宝物館を拝見したのですが、中に信繁(幸村)が大坂の陣で使用したと伝わる槍の穂先が展示してありました。この穏やかな空気に不似合いな殺傷兵器を見ていると、九度山を脱け出して大坂城へ入ったことはとても大きな決断だったのだと改めて感じます。
何かを忘れるにも、一つの土地に馴染むのにも15年は十分な年月ですよね。それでもなお行くと決めた志の強さ、また15年の歳月を超えても信繁を必要とする人物がいたという事実の重さが伝わってきました。
真田庵は春のぼたんが美しいそうです。次は花の季節に訪れたいです
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