毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「学生の作文に吹いたり、唸ったり……」No.1808

2016-11-30 18:02:03 | 教育

昔から間違いの答えなど見ると、つい笑ってしまうのですが、

決してバカにしているのでなく、想像するとおかしくてたまらないのです。

皆さんはそういうことありませんかね。

「間違いを笑うな」という言葉は、「間違った人を馬鹿にするな」だと理解して、

間違い文を見つけるとやっぱり思い切り笑ってしまっています。

今、2年生の作文教科書には語彙を増やすために、

副詞や擬声語・擬態語などがどんどん出てきています。

昨日、次のような短文作りをしました。

青字部分は教科書に書かれてあり、

下線部に適当な語を入れて文を完成させる問題です。

 

1:今年はずっと仕事が忙しくて、気がついたらあっという間に       

もちろん、下線部に下のように普通の言葉を書いた学生たちもいるのです。

○年末になりました。     

○もう忘年会の時期になってしまいました。

○一年が経ってしまいました。 

○時間が経ってしまいました。

しかし、まだ発展途上の2年生のこと、

文の前半を色々考えた挙句、こうなってしまう人たちが確実に存在するのです。

○今年はずっと仕事が忙しくて、

 気がついたらあっという間に病気になってしまいました。          

 気がついたらあっという間に仕事が終わりました。

 気がついたらあっという間にちょっと休憩しよう。

 気がついたらあっという間に頑張ってください。

思わず、「何でやねーん!」と関西弁がでてしまいます。😂


2:同級生に嫌味を言われても、とっさに       

正解例

○「バカと言うのがバカだ」などと言い返さず、冷静になった方がいいです。

○反駁しません。 

○反論したほうがいい。

○悪口を返さないでください。

言い返した方がいいのかどうか、意見が分かれるところですが、

私はどちらも良しとしました。

しかし、なかなか良しとは言い難いものもあるのです。


同級生に嫌味を言われても、とっさに仲直りしました。        

同級生に嫌味を言われても、とっさに振り返って走っていきます。

同級生に嫌味を言われても、とっさに腹を立てました。        

同級生に嫌味を言われても、とっさに喧嘩になりました。        

同級生に嫌味を言われても、とっさに気分が悪くなります。        

再び、「何でやねーん!」😂😂

学生が真面目に書いている姿を想像すると

よけいに笑いがこみ上げてくるんですね~。

しかし、「とっさに仲直りする」神業や、「とっさに喧嘩になる」短気さも

捨てがたいですよね。

半年後、今より上達していることを祈って( ^ω^)・・・。

 

 

*今日もまた、研究室からです。今までで最悪のネット断絶状況で、

研究室のwifiを使っても、VPN(有料)に繫がらず。

10月に、「中国政府がさらにインターネットの規制を厳しくする」 と報道されていたのは

これかなと思わざるを得ません。

もう、フェイスブックもツイッターも日本に帰るまで見られないかも……。

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「水俣病患者の反公害闘争を授業で紹介」No.1807

2016-11-29 18:32:53 | 教育

「日本人もやるときゃやりますよ。」

自分がしたわけでもないのに、今日、私は思い切り誇りを持って

学生たちにこう言いました。

水俣病患者とその家族、支援者たちの50年に及ぶ闘いのことです。

 

高度経済成長期には全国規模で様々な公害が発生しましたが、

その一つ、熊本県水俣市の水俣病について写真と文で紹介しました。

今の中国社会も公害問題で苦しんでいます。

日本の経験を学ぶことで、

学生たちに中国の人々の被害を最小に抑える方策を考えてほしかったのです。

写真は以前ネットで探して保存しておいたもので、

申し訳ないのですが出所を記録していませんでした。

私自身、感動を持ってスクリーンに写し続けた何枚もの写真を、

学生たちも固唾を飲んで見ていました。

熊本大学医学部の学生たちのハンストには驚きの声が上がりました。

自分たちにそんなことができるとは想像もしていないからでしょう。

お金をチッソの社長に突き付けて、

「お金じゃない、健康な体を返せ」と要求する女性の映像に、

何人もの学生が頷いていました。


それにしても、日本ではこうして先輩たちが直接行動を辞さず、

法律が制定されていなかったら、制定するように政府に働きかけ、

裁判にも訴え、公害を垂れ流す元凶の会社にも押しかけて、

実力行使で頑張ってきたからこそ、

公害対策基本法(1967年)、現在の環境基本法(1993年)が制定され、

2009年には、未認定患者を救済する

水俣病被害者救済特別措置法」が成立したのです。


そして、今、沖縄の辺野古・高江でがんばる人たちも同じことをしています。

なぜ一部の人々は、

沖縄の主張を、政府と一緒になって足蹴にしようとするのでしょう。

基地も公害なのです。

 

 

 ↑補償額提示に反対する水俣病患者家族の代表らが、遺影を抱いてチッソ本社前に座り込んだ=1970.5.14撮影

 

↑指が曲がったまま自由がきかない水俣病患者の手 =水俣市で1970年5月撮影

 

 

↑厚生省前で座り込み、水俣病患者の写真を掲げて企業責任を追及する「水俣病を告発する会」のメンバーら。中央が「苦海浄土」の著者・石牟礼道子さん=1970年5月25日撮影

 

↑教授陣に対して「水俣病患者放置の責任をとれ」とハンストする熊本大医学部生

=熊本市で1971年12月2日

↑患者たちの自主交渉要求を拒絶していたチッソ側は、本社内への通路を閉ざした=1972年撮影

↑スウェーデンで開かれた「第1回国連人間環境会議」。政府代表だけにまかせておけないとストックホルム市内で水俣病の被害を訴える患者の浜元二徳さん(左から3人目)と坂本しのぶちゃん(同4人目)1972年6月6日、毎日新聞特派員団撮影

「他人には預けられない」と16年間、胎児性水俣病患者の上村智子さんを自宅で介護する母親の良子さん=水俣市1972年10月4日

↑水俣病訴訟最終弁論を迎え、熊本地裁前に立ち並んだ「怨」の旗=熊本市で1972年10月11日撮影

↑市立リハビリテーションセンターでリハビリに取り組む胎児性・小児性水俣病患者ら=水俣市1973年3月20日撮影

↑預金通帳と現金を島田賢一・チッソ社長(手前)の前に積み上げ、

「もとの体に返せ」と詰め寄る患者たち

東京都千代田区のチッソ本社で1973年4月13日撮影

↑胎児性水俣病患者の上村智子さんを抱き上げながら、

父の好男さんから苦しみを聞く三木武夫環境庁長官

=水俣市の坂本さん宅で1973年年5月9日撮影

 

水俣病の公式確認から40年軌跡をたどる「水俣・東京展」が東京品川駅前の特設会場で開かれた。水俣病患者500人の「遺影」が並ぶ会場1996年9月28日撮影

 

 

水俣病関西訴訟判決で最高裁判所が行政責任を認め原告(奥)に頭を下げる小池百合子環境相ら2004年10月15日、環境省で佐々木順一撮影

50年前の写真とともに、記念撮影に臨む水俣病被害者たち

=水俣市のエコパーク水俣親水緑地で2010年5月1日、和田大典撮影

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「耳鳴りの部屋から」No.1806

2016-11-28 16:16:51 | 中国事情

今日のタイトルは目取真俊さんのブログ「海鳴りの島から」の真似してみました。 

↑上の写真は「お姫様寮」と呼ばれる新しい寮です。

昼食後、2年生女子たち(右端・黒マスクでこちらに手を振っているのが班長の唐瀾さん)は、

菏澤学院では最高に設備の整ったこの寮(4人一部屋)に戻って一時間弱昼寝をします。

同じ寮でも、こことは雲泥の差の鼠がよく出没する

1960年代に建築された悲しい寮がありますが、

寮費には設備の差ほどの違いはありません。2年生女子は非常にラッキーです。


我が宿舎は、まだグズグズと漏水(2か所に増えましたよ)、

ネットの断絶が続いています。

ここ3週間、工事、漏水、インターネットの断絶という住居環境の悪化に伴い、

私は歯痛、中耳炎、むくみなどいくつもの体調異変が起きました。

特に、朝7時から寝ているベッドの壁のすぐ向こうでバリバリバリと始められたら、

精神的に疲れ果てます。

我が宿舎の工事はまだ続いており、

私の住む一階のビル横にいろいろしなければならないことがあるらしく、

土日もお構いなしに早朝からドリルでバリバリやっているのです。

(高江で生活してはる方々の訴えがちょっとはわかる気がする)

としみじみ思います。

オスプレイの音がどれほど生活に実害のあるものか、

いくら住民が口を酸っぱくして説明しても、

体験しなければ分からないことが分かりました。

工事のドリル音はオスプレイとは全然違いますが、

その耐えがたい気持ちは共有できます。

病気になるのも頷けます。

歯が痛くなってきたときは、(あれ、体弱ってきたかな)と思っただけでしたが、

耳の芯が痛むとか、顔がむくんだりとか、今までなかったことです。

日本から持参した各種薬を適当に飲んだり、

耳の中に綿棒で塗り込んだりしているうちに少しずつ良くなってきていますがね。

 

↑上海の江財大卒業生、余立君さんが私のブログで工事後の部屋の惨状を見て、

「安物ですけど~。」と掃除機を送ってくれました。ホロリ。

 

そして、一階が最もひどいのか分かりませんが、

今まで漏水が5回、そのうち2か所は現在もポトポトと漏れ続けています。

私が毎日受け容器に溜まった水を捨てているからいいようなものの、

冬休みに日本に帰ったら誰がこれをするんでしょう。

それまでに直してくれるのでしょうか。うーむ。


このように問題だらけで、ネットもまたまた繋がらず、

また日本学科研究室(上の写真)で一人、エアコンつけてブログを書いています。

今学期早々、

一階から五階の長年使っていなかった倉庫のようなこの部屋へと追放されましたが、

2年生の数人に手伝ってもらって、床も机も、とことんきれいにしました。

次第に愛着がわいてきています。

ちなみに、右側手前の段ボールには

日本から持ってきた二十数枚の浴衣や帯が詰まっています。

浴衣用収納庫を買ってくれると約束を勝ち得るまではよかったのですが、

いつ現物が届くのか、これも定かではありません。


こんな冴えない生活でも卒業生や学生が遊びに来てくれたりして、

まあ、鬱にはならないっていうか。

 

昨日、卒業生の楊芬さんが菏澤市に属する鄄(けん)城県から2時間かけて

 

遊びに来てくれたので、後輩も2人招き、

オムライスを作ってみました。

ケチャップが喜ばれるかどうか不安だったので中国では初めてです。

でも、みんな(と言っても3人ですが)「お~いし~!」と言ってくれましたよ。

写真は「オムライス・鶏のぶつ切りとサツマイモのスープ」とか。

 

楊芬さんは、故郷の鬘会社に就職しています。

「鄄城県は『鬘の故郷』と呼ばれています」

と自慢するのですが、後輩たちは誰も知りませんでした。

彼女は1700元の給料で、月~土まで朝8時半から午後5時まで会社で、

世界の顧客に鬘を売り込み、契約を勝ち取るというネット営業をしています。

でも、7月から働き出して、

今だに一つの契約も取れていないそうです( ^ω^)・・・。

寮費、食費は全てただですが、食堂のメニューは「キャベツとご飯」だけとか、

週に一度だけ肉が出るとか、シビアな状況を報告していました。

近いうち、南の広州に行って働きたいとのこと、

長距離移動に抵抗を感じない態度がさすがは中国の子だなと思います。


実は、この研究室のWi-Fiも一応繋がってはいますが、

2週間前まではできていた有料VPN接続が今はできません。

今も「接続済み、セキュリティ制限あり」と表示が出ています。

写真アップも、実はこの編集画面に映像が出てこないのです。

そういう訳で、自分がどの写真をどの順で画像フォルダに保存したか

確かめながら、(日本からは見ることができますように)と

手探り状態で貼り付けています。

この状況はかなりストレス溜まりますよ。

この様子をさっきまで研究室にいた中国人の先生が見ていて、

「中国には言論の自由がありませんから・・・・・・」と。

私が「ちょっと残念ですね」と言うと、

「ものすごく残念ですよ!」

と言っていました。

ここでもホロリ。

日本もじりじりとこうした中国の状況に近づいているように感じるのは、

私だけではありますまい。


〈付録〉この記事はFB,やtwitterに載るかも知れませんが、

今、私自身はFB/twitterを見ることができません。

もし、よかったらコメントはこのブログにお願いします。

返事は遅れに遅れるのが常ですけど(笑)。

 




 


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「フィデル=カストロの死」No.1805

2016-11-26 22:19:13 | 人間

風邪が治らないのに、二日前からおそらく生まれて初めての中耳炎まで併発し、

耳は痛むし、奥歯は痛むし、どうすんねん状態だったのです。

しかし、今日、キューバのフィデル=カストロが亡くなったことを知り、

ズーンと胸に大きな石を抱えたようになって、痛みが縮んでしまいました。

 

フィデル=カストロがこの世から消えてしまったのですね。

今思えば、私は彼がキューバにいたからこそ、

世界はつながっていると実感することができた気がします。

「我々は悲観論に打ち負かされてはならない。」

そう言ってくれる存在があったからこそ、

それを頼りにして歩くことができました。

ただ、ただ、悲しいです。

カストロ氏(中央)=首都ハバナで2006年1月、ロイター

 

革命家のチェ・ゲバラ(中央)らと話し合うカストロ氏(左)=キューバ国内で1960年、AP

 

銃を持つ若き日のカストロ氏=キューバ国内で1957年2月、AP

 

バチスタ政権を倒し、群衆を前に演説するカストロ氏=首都ハバナで1959年2月、AP

 

ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領(左)と抱き合うカストロ氏=南アフリカで2001年9月、ロイター

 

真剣なまなざしで原爆資料館を見学するカストロ議長=広島市中区の原爆資料館で2003年3月3日午後2時38分、山田耕司撮影

「このような野蛮な行為を決して繰り返すことのないように」と記されたカストロ議長の直筆=2003年3月3日午後2時48分、山田耕司撮影

平和記念公園の原爆慰霊碑に参拝し献花し黙祷するカストロ議長=広島市中区の平和記念公園で2003年3月3日午後1時57分、山田耕司撮影

 

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「ミミズよ、ミミズ」No.1804

2016-11-24 21:48:04 | 自然

小学校に上がる前から私は、ミミズが不思議でした。

雨の後、水溜りの中で必ずと言っていいほどミミズが溺れているのです。

小学校低学年の時、私は北海道網走管内の厚生開拓村の奥地に住み、

毎日4kmの道のりを歩いて学校に通っていました。

帰り道は同級生のマサハル君という子と途中まで一緒に帰るのですが、

一週間のうち半分くらいは喧嘩になってしまい、

マサハル君の家の前まで来たらホッとして、

(ああ、ようやく一人になれる)とサバサバしたものでした。

そのマサハル君が、あるとき帰りながら、

ミミズは雨の日、空から降ってくると言い出したのです。

私は非常に驚きました。

そんなことなら、雨と一緒にミミズも頭に落ちてきて、

顔に当たったりするかも知れません。

しかし、マサハル君の言うのもあながち否定できない気もしました。

雨上がりの水溜りにはミミズが何匹も沈んでいるのを、私も知っていたからです。

それを見るたびに、(ミミズはどこから来たんだろう)と私も考えていました。

しばらく考えてから、私はマサハル説に異論を唱えました。

もし、雨の日に空からミミズが降ってくるとしたら、一度ぐらいは見たことがあるはずだが、

私は未だかつて、そんなもん見たことない、と。

マサハル君は怒り出して、走って行ってしまいました。

私は(マサハル君の言うことは間違っている。ミミズは土の中から湧いて出てきたのだ)と、

心で呟きました。

キャンパスの雨の日、歩道はミミズだらけです。

どれも似たり寄ったりですが、全部違うミミズなのです。

なぜ、雨になったらミミズは危険を顧みず歩道に出てくるのでしょう。

人間たちがときどき踏んで行くにもかかわらず。

私は、小学生のあの時に考えた説に付け足しました。

土の中の水分が過剰になって、居心地が悪くなり、逃げ出してきたのではないかと。

しかし、逃げると言ってもこんな大理石の歩道は安全ではないのに、

気の毒にもミミズにはそれが分からないのです。

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「逮捕拘留中の山城博治さんのこと」No.1803

2016-11-23 21:42:17 | 人間

私のデジカメにはこの夏以来消さずにずっと取ってある2枚の写真があります。

一枚は高江の森、

もう一枚は山城博治さんです。

8月6日の朝、ほとんど寝ていない博治さんは

疲労がずいぶん溜まっている様子でした。

この日の午後、小休止のためテントを離れたと聞いて、さもあらんと思いました。


下はフェイスブックから借用したものです。

天真爛漫な博治さんの雰囲気が伝わってきます。

 

 

私はこのブログで何度か、

沖縄辺野古や高江の座り込み活動のリーダーとして、

山城博治さんほど、みんなの信頼を得ている人はいないと書きました。

 

しかし、機動隊の「土人」「シナ人」「ボケ」発言について、こともあろうに、

「山城博治ら、座り込みしている者たちの狂暴さに耐えて、

ずっと我慢を重ねてきた若く、純粋で、おとなしい機動隊員が、

遂に我慢しかねて、ついぽろっと言ってしまった」

というストーリーを作り、

ネットでガンガン広める活動をしている人々がいます。

そのグループが証拠として提示している動画の一つに、

機動隊員の誰かが座り込みをしている人を車で轢いたにもかかわらず、

名乗りもせず、仲間に匿われてどこかに逃げた直後の

博治さん怒り爆発シーンがあります。

博治さんは、目の前の機動隊員に

「お前か、やったのは!許さんぞ!」

と、怒鳴って若い機動隊員の帽子をペシッと叩いていました。

「ペシッ」です。「ボカッ」ではありません(動画を見れば分かります)。

 

私が頭に来るのは、その動画を、

「反対派リーダーの狂暴さを見よ」とかタイトルを付けて提示する、

その手法に対してです。

どれか一つの場面だけを取りだしたら、白を黒ということも実に簡単です。

しかし、その動画を見た人には、

博治さんが何のことを「お前がやったのか!」と怒鳴っているのか

冷静に調べる態度をキープしてほしいと願います。

 

ここで、博治さんの

辺野古キャンプシュワブゲート前でのエピソードを再度紹介します。

これは、今年の冬、

高里鈴代さんが雨降るテントの中で私たちに教えてくださったものです。

曰く、

「私たちは、こうやってテントの中で雨風をしのげるし、

機動隊は立派な雨具を着ているんだけど、

アルソック(註:民間警備会社・機動隊の下請けみたいなことをさせられている)の人たちは、

以前、雨でも雨合羽も何も着せられず、そのまま警備に当たらされていたの。

あるとき、大雨が降ってきたんだけど、やっぱりアルソックの人たちは

ずぶ濡れで、立ち尽くしていたの。

それを見て、博治さんが激怒して、

『闘争はタイム取るから、直ちに職員に雨合羽を支給しなさい!』

って、アルソックの会社に電話したのよ。」

それ以来、アルソック職員は雨合羽を着られるようになったとのこと。

確かに、アルソックの人の中には、

博治さんの横を通るとき、

「おはようございます。」と頭を下げていく人がいるのを私はこの目で見ました。

去年春、博治さんがガンで入院し、6月、久しぶりにゲート前に姿を現したとき、

沖縄県警の中にも「病気よくなって嬉しいよね。」と呟いた人がいると、

沖縄タイムスか琉球新報に書いてありました。

いや、これはネトウヨと違って作り話ではない、真実です。

山城博治さんて、そういう人だから座り込みしていても、

よっぽど、緊急の高圧的弾圧がない限りとても和やかなムードで盛り上がるのです。

 

ネトウヨは、そんな現場に足を運んだこともないくせに

動画編集で政府に都合のいいストーリーを作り上げています

どうしたら、その愚かさは治るのでしょうか。

そのストーリー作りはひょっとしてアルバイト?

その可能性はありますね。だから、座り込みしている人に対して

「お金をもらって座っている」などというデマを思いつくのではないでしょうか。

私たちは、日々節約してお金を絞り出し、ピーチ航空とか格安飛行機で

自前で活動に参加しているのです。

自分で考えて、自分で決めて。

さあ、また冬休み、大阪に帰ったら沖縄に行くぞー!


山城博治さんは、もう一人の仲間と一緒になんとまだ名護署に拘留中です。

政府が手を下しているのは明らかです。

 

いくら沖縄でも、今の季節に靴下なしでは寒いだろうに、

靴下の差し入れは許可されていないそうです。

どうか、元気で一日も早く解放されますように。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「菏澤に初雪」No.1802

2016-11-22 22:20:33 | 中国事情

去年はもっと早くドカッと大雪が降り、

(菏澤ってこういうところか~)と侘びしく思ったものです。

今年は数週間遅く、今朝起きた時(あれ、寒いぞ)と感じて外を見たら、

地面が雪で薄っすら覆われていました。

ところで、あの水漏れだらけの暖房はまだつきません。

しかもまだ別の箇所から少量の水が漏れているのに(昨日夕方発見)、

Mr.張に連絡して配管工事の人に来てもらいましたが、

「壊了」と言ったなりそのままです。

私の家じゃないからね、床が腐ろうと知ったこっちゃないけどさ。

 

12月の第一日曜日は日本語能力試験があります。

菏澤市には会場がないので、最も近い済南まで4時間半ぐらいかけて

バスか汽車で行かなければなりません。

今回、2年生は12人中2人しか受験しませんが、

来年に向けてクラスで初めて模擬試験をしてみました。

N2(以前の2級)なので、日本人的にはとても簡単ですが(当たり前)、

日本語を勉強し始めて1年3か月の学生たちにはそんなわけありません。

今日は文字・語彙・文法・読解を105分通してしました。

寒かったので、写真を撮ってみました(笑)。

貧乏くさい教室なんですが、写真で見るとそうでもないですね。

でも、パワーポイントなどスクリーンを使う時にも、

このペラペラのカーテンしかないのです。しかも前方2枚しか・・・・・・。

普段、写真や動画以外は極力スクリーンを利用しないようにしていますが、

中国人教師は全員PPTで授業をするように通達されているそうです。

なんかね、よくないですよね。

試験中暇なので、4階の教室から下を見降ろしても

誰も通っていませんでしたが、

よく見ると窓ガラスの蠅も一緒に外を眺めていました(黄色の↓)。


試験後、学生の解答用紙をかき集めて家に帰り、

水漏れのところに当てがった容器にたまった水を捨てて、

夕食の支度をしました。

今日は、昨日安かったので喜んで買ったマッシュルームと、

レンコン、サツマイモならびに水餃子のごった煮です(いや、意外とおいしいですよ)。

マッシュルームの値段を書くと

日本の皆さんが腹を立てるかも知れないので言い辛いです。

(ヒント:マッシュルーム全部でチロルチョコ5個分程度の値段です。

あ、でも今チロルチョコ、1個いくらになったのかな)。

 

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「中国の少子高齢:2年生の説明」No.1801

2016-11-21 22:58:27 | 中国事情

2週間前、突然の暖房器具付け替え工事のため、

2年生の「日本国家概況」の授業を自習にせざるを得なくなり、

急遽レポートを書くようにしました。

テーマは「日本の少子高齢化とその影響をまとめ、中国の状況を日本と比較して述べよ」

というものでした。

2年生は、他人のを写して書く学生がほとんどいないという、

この大学的には奇跡のようなクラスで(笑)、

書き方もそれぞれ違い、読んでいて面白いです。

例えば、

「中国も日本と同じで、少子化、高齢化の状況は深刻だ。

『計画出産』政策の前の時代は、人々は普通、3~4人の子どもがあった。

多い場合、9~10人も子どもがいた。

(それは大変だ)と思った政府は『計画出産』を実施した。

これによって人口の増加が制御されたが、少子化問題が現れてきた。」

とかいうかわいらしい表現もあれば、

「中国の高齢化率は国連が高齢化社会の基準とした7%を2000年に超え、

12年後の2012年に高齢社会を意味する14.3%に達した。

その後も、高齢化率は急速に進んでいる。しかし、現段階で中国はまだ、

社会主義の初期、中等収入国家に属する。

この背景に『未富先老(富を持たない者は先に老いる)』の壁がある。

まして、日本には完全な社会保障制度があるが、

中国の両親は、主に子女による養老に頼っている。

2030年頃からは、中国の一人っ子のメリットが、逆に負担になってしまうのである。

つまり、一人っ子が数多くの高齢者を支えて世話をしなければならなくなるのだ。」

と、「GDP世界2位」のランキングとは相いれないシビアな分析をする学生もいました。

また、

「中国人の生活はとても幸せです。人々はみんなおいしい食べ物を食べて、

いい家に住んでいることがあります。高齢者はいい医療衛生制度があります。

だから、子どもと一緒に遊びます。身体は健康です」

と、お花畑に住んでいるような子もいます。

(こういうのには、言う言葉が見つからない( ^ω^)・・・)

 

下のが一番、長文で少子化に至る経過が詳しく書かれているものです。

途中、「毛沢東主席の思想に従って、人民ができる限り子どもを産んだ」

という表現には、思わず吹き出しましたけどね。

また、一人っ子政策を守らない場合、「女性の生産能力を奪う」という事例は、

全国一律だったかどうか、確認の必要があります。

なぜならば、私が中国に来てからの事件で、

陝西省か山西省かで、一人っ子政策に違反して妊娠した7か月の女性が、

罰金も払わないというので、強制的に病院に連行され、

無理やり堕胎手術をされたというのがありました。

これには衝撃を受けましたが、

一方、私のいた江西省では至ってのんびりしていて、

大学に来ている学生の多くには弟やお姉さんがいたのです。

「農業大省」というニックネームがある通り、

江西省の農村では人手が欲しいために、特に男の子が生まれるまでは

何人女の子を産んでも多めに見るというのが実態だと教えられもしました。

さて、最後の力作?です。


「今現在の中国も、日本と同じような少子化と高齢化の状態です。

しかし、日本との違いは、中国の少子高齢化の元々の原因は中央政府の

『計画生育』という政策が子供を産むことを制限していたからです。

1949年新中国が成立してから、『個人崇拝』の影響で、中国の人々は

毛沢東主席の『人が多ければ多いほど、力も強くなる』という思想に従い、

一つの家庭ができる限り多くの子どもを産みました。

第二次世界大戦を終えてからの、ようやくの平和と新中国の成立に伴い、

ベビーブームとなりました。

結婚年齢が若すぎて、子どももいっぱい産むので、

中国は『四世同堂』という大家族に満ちていました。

それで、現代中国は世界中で人口が最も多い国として知られています。

中国の人口はもう多すぎて、そのまま人々に子どもを何人も産ませるとなると、

中国の人口は間もなく20億人以上に達するに違いありません。

中央政府は人口の増加を防ぐために、1979年に『計画生育』を全国で始めました。

この政策によって結婚年齢が上昇し、結婚した夫妻には子どもを一人しか産ませません。

そうでなければ高額罰金の上に、女性は生産能力を奪われます。

それから中国の家庭は『四世同堂』に代わって『四・二・一』になりました。

つまり、祖父母と外祖父母四人、父母二人、子ども一人の小さい家庭の仕組みです。

『計画生育』のおかげで、すくなくとも4億人の子どもを減らしました。

一方、子どもを産む数を抑えたため、

中国の少子化と高齢化は一斉に巨大な社会問題となりました。

それで、2015年に『計画生育』が廃止され、

その代わりに政府は『二胎』という、子どもが二人産める政策を行っています。」

注)56民族を抱える多民族国家で、それぞれの民族にまで教育制度が整わない中、育てる能力を超えての子だくさん状態が続き、「浮浪」児や犯罪が深刻な問題になったことも、「計画生育」実施の原因の一つだと聞いたことがあります。―ブルーはーと

 

〈付録〉今日のキャンパス

菏澤学院で初めてのキャンパス内清掃車(あ、いすゞトラックだ!)。

日系企業が中国で健闘している気がして嬉しくなりました。

 







 

 

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「君死にたまふことなかれ、若者よ」No.1800

2016-11-19 22:20:19 | 反戦平和

とうとう、出発させてしまいました。

稲田防衛大臣がたった7時間しか滞在しない中で、「落ち着いた状態」だと太鼓判を押し、

安倍首相が「戦闘ではなく、ただの衝突」だと詭弁を弄しても、

政府の主張を妄信せず、少しでも他からの声に耳を傾ければ、

南スーダンの状況がどれほど混乱しているかは

世事に疎いこの私にでも分かります。


2011年に独立したばかりの南スーダン国の国づくりを支援するとして

日本政府は2008年から自衛隊を国連指揮下のPKO部隊として派遣してきました。

(当初は2名だけ)。

しかし、はじめの活動目的は国連施設の整備や道路補修、

国際機関の敷地整備など、情報・インフラ整備だったはずなのに、

今回、日本政府はPKO平和維持活動の範囲を遥かに逸脱した「駆け付け警護」などと、

軍隊でもない自衛隊員に危険極まりない任務を与えました。

 

南スーダンでは今年7月、約300人の死者を出した「衝突」の時期に、

国連やNGOの職員たちがビル内に立てこもっていたのを襲われて、

女性職員たちが何度もレイプ、暴行され、記者1人が殺害される事件も起きました。

しかし、なんと襲った暴徒たちは

「南スーダン政府軍の制服を着た兵士たち」だったというのです。

これは、一体どういうことなんでしょう。

国造りの手伝いのために派遣された自衛隊員は、NGOや民間人を守るために

南スーダン政府軍と戦う可能性もあるじゃないですか。

こんな敵味方が分からなくなって混乱している状況にすっ飛んで行ったら、

内戦に参加することになりかねず、

即ち、それは当初の目的とは全く異なる「戦争参加」になっていまいます。

下の二つの興味深い記事で、

1:PKO部隊が南スーダンで何かできるような生易しい事態ではないこと、

2:そもそも、南スーダン人の多くは国連PKO部隊を「外国の介入・国家侵略」と見ていること、

を確認することができると思います。


CNN.co.jp 『AP通信や人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチが15日に伝えたところでは、事件は南スーダンで大統領派と副大統領派の衝突が起きていた7月11日に首都ジュバで発生。外国人職員などが滞在していた施設が、制服姿の南スーダン兵80~100人に襲撃された。

同施設の周辺では数日前から衝突が続いていたが、11日午後3時ごろ、兵士らが鉄鋼製の扉を1時間以上にわたって銃撃して2階建ての建物に侵入。現金や貴重品の略奪を始めた。

米国人女性によれば、浴室に隠れた約16人は、国連や大使館に電話やメールで助けを求め続けたという。

しかし兵士らはドアを破って室内に乱入し、女性を1人ずつ連れ出して暴行。米国人女性は自動小銃で殴られ、銃口を突き付けられて脅されたと話している。

国際機関職員の別の女性も、ほかの数人の女性と共に、複数の男に何度も強姦されたと証言した。

援助団体のフィリピン人男性職員はベッドの下に隠れ、室内を荒らし回る兵士たちを目撃した。兵士たちは「お前たち外国人がこの国で問題を起こした。これはアメリカ人が南スーダンに対してやったことだ」と主張していたという。(中略)

目撃者らの話では、襲撃された施設の近くには国連の拠点があり、国連南スーダン派遣団(UNMISS)は同施設から何度も救援要請を受けたにもかかわらず、対応しなかったという。このため救助は民間警備会社や南スーダン軍に頼らざるを得なかったと目撃者は話している。

一方、UNMISSの広報は当時の同国の状況について、「極度に困難かつ予断を許さない治安環境」にあり、「危険にさらされた人員の救助を実行できる能力に重大な限界があった」と説明。UNMISSは事実関係や経緯について調査に乗り出すと表明した。』http://www.cnn.co.jp/world/35087633.html

 

また、ニューズウィーク日本版には別の詳しい記事もあります。

こうなったら、もう何が何だか、どちらを向いて誰と戦うのかさっぱり訳わかりません。

南スーダンで狙われる国連や援助職員10月12日 19:30

 <日本の自衛隊もPKOに参加する南スーダンでは、国連職員や外交官、援助職員らが政府軍に襲撃される事件が相次いだ>

7月7日、南スーダンのユネスコ(国連教育科学文化機関)職員トップだったサラフ・ハレドは、首都ジュバの繁華街で開かれた自分の送別会に参加していた。すると突如、街の反対側から爆発音と銃声が響いた。政府軍と反政府勢力との間で散発的に行われていた戦闘が首都全体に広がるのではないかと考え、ハレドらは出口へと急いだ。

エジプト人のハレドは、国連のマークが入った白のトヨタ・ランドクルーザーに乗り込むと、滞在先のエジプト大使館へ急いだ。時刻は午後8時15分を過ぎたところ。外は雨が降っている。大使館へと続く最後のでこぼこ道に入ると、暗闇の中を行き交う歩行者を避けるため、車は速度を落とした。

大使館の入り口まで約25メートルの地点まで来たとき、通りの向かいのパノラマ・ホテルに設けられた軍検問所から、私服の男が突進してきた。車の助手席側から銃弾が浴びせられ、ドアや窓を貫通する。銃弾4発の欠片がハレドの左脚や腕、手に突き刺さった。

敵も味方もわからない

アクセルを踏み込み、なんとか大使館の入り口ゲートをくぐり抜けた。車内には割れたガラスが散乱していたが、これでひとまず安全だ。しかしその後2時間、検問所の南スーダン治安部隊はハレドの救護に駆け付けた国連の救急車に銃を向けて追い返したり、PKO部隊がジュバ中心部にある国連施設内の診療所にハレドを運ぼうとするのを妨害した。南スーダンの大統領警護隊が介入し、治安部隊を説得してハレドを診療所に運ばせてくれたのは、夜も10時を過ぎてからだ。
ハレドが生き延びたのは「奇跡だった」と、ある国連職員は言う。

この事件は地元メディアで報じられたが、駐米南スーダン大使は知らないと回答。ユネスコは事件の容疑者についての推測を差し控え、調査中だと米フォーリン・ポリシー誌に語った。だが、ある米国務省当局者と国連当局者は、南スーダン政府軍がハレドを銃撃したのは間違いないと述べている。

7月7日のハレド襲撃は、南スーダン政府軍による一連の外国人襲撃事件の端緒を開いた。1時間後には、南スーダン大統領サルバ・キールの警護隊が、外での食事から戻るところだった米外交官7人と南スーダン人の運転手に向けて発砲。ハレド救護のために検問所の治安部隊と交渉したのと同じ大統領警備隊が、である。

さらに4日後、80〜100人の南スーダン政府軍がジェバのテレイン・ホテルを急襲し、同国のジャーナリスト1人を処刑、5人の援助団体職員を集団レイプした事件があった。アメリカ人が選び出されたという。

国連安保理の専門家パネルが先月まとめた報告書は、「(テレインでの)襲撃を境に、南スーダン兵士による国際援助団体職員攻撃の残忍さが増した」と結論付けている。「犯人らはよく組織されており、偶発的な暴力・強盗とは考えられない」

国連にとって厳しい現実を象徴する事件だ。2011年7月にスーダンから分離独立した、世界で最も若い国家である南スーダンが内戦に陥ったのは3年前。以来、国連と南スーダンの関係は日増しに緊迫したものとなってきている。国際援助団体の職員や外交官らが今、まさに南スーダン政府軍の主要な攻撃対象となっているのだ。

政府軍と反政府勢力との戦闘が再燃し、事態が緊迫化した今夏以降、アメリカなど各国が和平を実現しようとしてきた。しかし紛争当事者である南スーダン政府が外国勢力に敵意を向け、最近ではPKO部隊や外交官を攻撃対象としたことで、戦闘終結は一層困難になっている。
PKO部隊を4000人増派しようというアメリカの計画に基づき、サマンサ・パワー米国連大使らが9月にジュバを訪問、増派受け入れをキールに認めさせた。

大統領より強い部族長老会議

ところがこの約束は、キールの出身部族であるディンカ族で構成する「ジエング長老評議会」の圧力で、あっという間に反故にされた。同評議会は長年、外国勢力によるいかなる介入にも反対してきた。7月18日にはキールの腹心であるアンブローズ・リーニ・ティークが、PKO部隊の配置は事実上の「宣戦布告であり国家侵略」に等しいと警告した。

さらに翌19〜20日には、ケニア、ウガンダ、エチオピアから新たに部隊を派遣するという国連の計画に反対するため、長老評議会が抗議集会を組織。ジュバから北方200キロに位置する都市ボルでは、国連南スーダン派遣団(UNMISS)施設付近で、4名の国連職員が抗議に参加した数人の若者から刃物で襲撃された。

安保理の専門家パネルは、キール陣営が故意に市民の間に排外感情をかき立てた結果、一連の武力衝突に発展したと指摘した。
「危険の及ぶ範囲が国連や国際機関で人道支援を行う職員まで広がり、被害件数も増加。暴力の度合いも増している。サルバ・キールを含む南スーダン政府の高官は、国連や国際社会に対して民衆の敵愾心を煽るレトリックを強めている」

ここ数カ月、国連職員は政府軍の検問所で殴られ、拳銃で撃つと脅されるなど、日常的に虐待行為に遭っている。戦闘が再燃した7月には、政府軍の兵士が国連世界食糧計画(WFP)の物流拠点で22万人の1カ月分に相当する食料を略奪し、被害額は3000万ドルに上った。

8月2日には出産間近の妊婦を搬送していた国連の救急車が、15カ所の政府軍の検問所で次々に足止めされ、医療施設への到着が当初予定より2時間も遅れた。国連の機密報告書によると、「赤ん坊は生まれた時すでに死亡していた」。AP通信が最初に伝えた。

その3日後には、自動小銃を持った南スーダン政府軍兵士が国連施設の外で車両を止め、2人の外国人職員に「言いがかりをつけて激しく暴行」、殺すと脅した。8月16日にも南スーダン兵が国連の事務所近くに設置された検問所で、国連車両に乗っていた運転手を電気コードで打ちすえたうえ、解放のために賄賂をよこせと脅迫した。

「7月にジュバで戦闘が起きて以来、国連職員を標的にした襲撃は、残虐さも、暴力が及ぶ範囲もエスカレートしている」と、国連の専門家パネルは報告書で指摘した。

もっとも当の国連も、武力衝突が起きた最中に市民の保護を怠ったとして、痛烈な批判を浴びている。7月に大規模な武力衝突が起きた際、中国のPKO部隊は数千人の市民が避難していた国連の保護施設の持ち場を放棄して逃走した。

7月にテレイン・ホテルで援助職員が南スーダン兵士に襲撃された事件では、現場から何度も救助要請を受けたにも関わらず、中国とエチオピアのPKO部隊が出動を拒んだ。南スーダンにおける国連の活動状況について調査した米NGO「紛争地域民間人センター(CIVIC)」が、今月5日に公表した調査報告書で明らかにした。』

http://news.goo.ne.jp/article/newsweek/world/newsweek-E178558.html

 

≪PKO部隊の配置は事実上の「宣戦布告であり国家侵略」に等しいと警告した。≫

 ・・・・・・国連は、南スーダンの国内では欧米の手先であり、

アフリカをめちゃくちゃにしたグループに属するとみなされているのですね。

そう思うには、それなりの根拠があるのでしょう。

そこを直視することから私たちはスタートすべきじゃないでしょうか。

それなのに、今日午前の産経ネットニュースでは、

「人々は【日本のために頑張ってきてください】と送り出し、

【笑顔で元気に】自衛官たちが出発した。日の丸の旗を振る姿も見られた」と。

これ、まるで、

「立派に死んで来いよ~!」と日の丸振って送り出した

あの忌まわしい戦争の時と同じではありませんか。

戦闘要員でもない自衛官を内戦現場に無理やり放り込み、

一人でも死者や怪我人が出たら、

「やはり、今の憲法では自衛官の命を守れません」

などと言って、憲法改定する政府のシナリオが余りにも露骨に見えるのです。

どこが「日本のため」ですか?

「安倍のため」と言い直してほしいです。

こんな、国民(自衛官は日本の民です)の命を犠牲にして当然だとする政府、

まだ支持を続ける人がいるのが、情けない・・・Σ(-□-;)

 

 

 

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「山東省菏澤の古き街の様子」No.1799

2016-11-19 17:33:23 | 中国事情

今朝はぷしゅーっと激しい水音で目覚め、またしても別箇所から漏水しているのを発見、

「It's emergency!」と助けを呼ぶ事態となりました。

原因は先日同様、部品の破損です。

配管工事の人とFrankさんが5分以内に来てくれて、全室水浸しは回避できたものの、

これで三度目とあって水漏れに敏感になり、

2階から5階の住人のシャワー、トイレ、洗面の水は全て

我が一階のバスルームを通過するのですが、そのたびに(すわ水漏れ!)

ぶっ飛んでいって確かめなければ落ち着きません。

しかし、今日の水も石油臭のない普通の水だったのは不幸中の幸いでした。


先週の土曜日、久しぶりにキャンパスの外のレストランで昼ご飯を食べました。

「重慶小麺」という店に行ったのですが、中に入ると昔の菏澤の写真が、

年代はバラバラで分からないのですが、掲示されていたのでデジカメに記録しました。

 

👇綿入れを着こんでモコモコ歩く女の子たち。

戦後すぐの日本の写真にも似た写真がありますね。 

 

👇首からの札に「新郎」「新娘」とあり、結婚式であると窺わせます。

「祝毛主席万寿〇←読めない」と書いてあるのでその時代なのですね。

写真では輝くような若さと希望にあふれるこの二人は、今何歳くらいなのでしょう。

どんな人生を歩んで来られたかお聞きしたい気がします。

👇おしゃれして人力車に座り、記念写真におさまるお嬢さんたち。

服装から見て1960年代でしょうか。

👇レストランで勉強する若者たち。

今、菏澤学院でこんなことする若者は誰もいないと思います(笑)。

帽子で清朝時代であると察せられます。

👇人力車で一服する車夫たち。時代は分かりません。

今の菏澤市内では、電動バイクに二人乗り用の小さい箱車を接続させて営業するタクシーが

よく走っています。

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「今度は漏水・スモッグ・・・でもネットは回復!😄」No.1798

2016-11-19 01:38:16 | 中国事情

宿舎でゆっくりブログを書くのは心が安らぎますね。

11日ぶりです。

昨日の早朝、工事の不備により部屋が漏水で水浸しになり、

オフィスのFrankさん(と言っても生粋の中国人)に来てもらいました。

漏水は酷かったですが、おかげでインターネット接続を直してもらえ、

物事にはBAD POINT と GOOD POINTがあるものじゃわい、と思いましたよ。

漏水は悲惨でしたけどね。

石油臭い水がバスルームを覆いつくし、かなり暗い気持ちに…。

右下に室内履きがプカプカ浮いています。👇

 

👇こちらはリビングの漏水。

朝7時半、モップで水を吸い取り、4Lのペットボトル3本と

桶に10Lぐらいになったところで、工事の人とFrankさんが到着しました。

こちらの水はきれいで助かりましたっていうか~。

 

本当に2週間、次々と要らん事が起こりましたが、

Mr.張が出張でいないため、代わりに来てくれたFrank さんは

たいへんフランクな人で(;^_^A)、

まず、「おはよございます」と言って入ってきたのに度肝を抜かれました。

日本語を話す(と言っても「おはよう」だけでしたが)スタッフが外国語学部以外にいることは

想像していませんでしたので。

私が暖房工事後の清掃に約一週間かかったと愚痴を言うと、

「この漏水でまた一週間かかりますね」

とニコニコして言うので、脱力しましたよ。

漏水の修理をしてもらっている間に、

インターネットが10日間断絶していることを言うと、

「O.K.私がやってましょう」とみてくれて、なんと、5分で繋がりました。

Mr.張と2年の韋彤さんが土曜日、1時間以上格闘してダメだったのに・・・・・・。

なんか、別のつなげ方があるんですって。

分からない者から見ると、見事な裏技でした。

昨日は10日間の疲れが溜まり、奥歯が痛くなってきたので寝ましたが、

今日は元気回復し、ここ一週間の菏澤学院の様子を紹介することができます。

 

👇帰ってきたP.M.2.5。(去年に比べて空気がいいわあ)と喜んでいましたが、

ここにきて、やはり重度汚染の日々が復活しました。

写真で見ると、ロマンチックな感じすらしますが、空気に変な臭いと味があるんですよ。

 

👇昼ご飯を食べに行く前の日本語学科2年生。

この期に及んでまだマスクをしていない人がいます(「もう慣れた」とか言って)。

👇向こうに翳んで見える建物が第三食堂です。

👇班長、学習係のゴールデンコンビはおしゃれな黒マスクを着用。

 

👇どこを見ても落ち葉だらけ。毎日清掃スタッフが気のない風に掃除をしています。

やるだけ無駄ですからねえ。

 

👇これは数日前、いい空気の日でした。

本当に、樹木は菏澤学院の宝物だと思えるシーンです。

👇『トトロの道」のあるナンテン林の実も色づいてきました。

 

👇日本語能力試験の特訓後、帰り道が一緒の韋彤さんと晩御飯を食べて、

ペチャクチャお喋りしながら帰ってくる途中、

2匹の子犬が丸くなっていました。白い犬の前に肉まんが置いてあります。

これからの人生(犬生)の多難を思い、胸がチクチクします。

 

👇最後にまた、部屋に戻ります。

実は、壁のこの丸い模様は私の仕業で、どうしたものか。

いやね、工事の人が砥の粉を壁に擦り付けて行ったので、それを雑巾で拭いたら、

そこだけ白くなって(こりゃまずい)と思い、さらに拭いた結果、

円がここまで拡大してしまったのです。

でも、壁に可愛いアクセントができたとみることもできますよね。

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「基地反対派の暴力に耐える機動隊」👈その悪意ある大嘘(その2)」No.1797

2016-11-16 18:46:22 | 人間

インターネットが宿舎で使えなくなって今日で9日目。

毎日、この日本語学科研究室に重いノートパソコンを

持ってきて、持って帰る暮らしです。

今回中国に来るとき、娘夫婦がi-padを持たせてくれたのですが、

それにはまだVPN接続をしていないので、

フェイスブックやツイッターが見られません。

それにこのビルディングは夜9時半には閉めてしまいます。

早くブログを書かないと…と焦って打ち込むとろくなことになりません。

ネットの復旧を待ちかねて、さっきもMr.張に催促のメールしたところです。

―――

今日は、今年の2月に辺野古に行った時に撮った写真を貼り付けます。

機動隊によってけがをさせられた人の写真がゲート前テント横に

張り出されていたのを記録したものです。

機動隊は決して黙って耐えてなどいません。

黙って見えないところで、時には公然と、

様々な暴力で座り込みを圧殺しようとしてきたのです。

 

 

私のブログ「宿で腕の見せ合いっこ」2015年6月6日(土)No.1377にも、

写真入りで機動隊がしていることが載っています。

ワザとラバー手袋で他人の素肌が出ている腕を捩じりながら引っ張るその技!

スゴイ鍛錬ですよ。

 

さて、座り込みが公道を占拠する違法行為だから弾圧されて当たり前だという人、

座り込みは道を占拠していませんよ。本来、道の端に座っているので

車はスイスイ通れるはずです。

辺野古では基地に入る工事の車だけを通さないように体を張って

歩道に座ったり、立ちふさがったり、歩いたりしていました(全部歩道)。

高江で地元の人たちの通行を妨害していたのは、

工事車両を援護して連なる何十台もの機動隊の車両でした。

ネトウヨ業界の人たち、

実際に辺野古や高江に行きもしないで、

ある部分のみを切り取って真実に見せかける

あなた方の汚いやり方には吐き気を催すんですよ。

一体、なんのためにそんなことをしているのですか?

正直に、正しく生きたいと思わないのですか?

せっかく生まれて、一度だけの人生を生きているというのに。

少なくとも、

平和のために頑張っている人たちを攻撃するのはおやめなさい。

今あなたがしていることは、自分で自分の首を絞めているのと同じなんですよ。

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「基地反対派の暴力に耐える機動隊」👈まさに白を黒という超悪意ある嘘(その1)No.1796

2016-11-15 18:33:53 | がんばろう沖縄

最近、沖縄県辺野古の新基地建設や、高江のヘリパッド建設に反対する

沖縄県民をはじめとする全国からの意思を同じくする人々に対して、

こともあろうに、「機動隊が何もしないのをいいことに、やりたい放題しているテロリスト」

とまで言い出すネトウヨ業界の人々がいます。

また、「道路に座り込んで不法占拠する人は処罰されて当たり前」と、

何故、人々が座り込みを続けているのかを一顧だにせず、したり顔している人には、

何のために頭に脳みそがついているのか問いたいです。

沖縄の歴史を知ればそんな愚かなことが言えるわけがないのに……。

 

1872年に始まった「琉球処分」以降、

沖縄県民はずっと日本政府から差別されてきたばかりではなく、

先の戦争では本土に敵軍を攻め込ませないための盾にされ、

米軍に捕虜となって凌辱されるより死ねと言われて、

可愛いわが子まで手にかけて殺すという、

言葉にするだけで気絶するくらいの悲惨な経験をしなければなりませんでした。


戦後は上陸してきた米軍がそのまま居座って、

住民の土地を銃剣とブルドーザーで奪い取り、

本土が1951年、サンフランシスコ平和条約で独立を復権しても、

沖縄では司法・立法・行政権の全てをアメリカが握ってきました。

基地拡張のための強制収容、アメリカ軍人による犯罪も一切公平に裁かない米軍政に

どれほど沖縄県民の怒りが募ったか、もし、自分がそんな目に遭ったらと考えたら

分かると思います。

下は多くのレイプ事件のうちの一つです。

『敗戦後10年を経過した1955(昭和30)年9月3日、沖縄本島中部にある旧石川市(同市はもともと2000人ほどの静かな農村であったが、敗戦後は収容所ができ、3万人以上にもなっていた。2005年4月1日、2市2町が合併して「うるま市」になった)、市内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちゃんが、その日の夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となった。沖縄の夏は午後8時まで明るく、当時の沖縄の住宅は台所を別にすると、1間か2間しかなく、それゆえ、日が暮れるまで子どもたちは表で遊んでいることが多かった。

由美子ちゃんは、翌日死体で発見された犯人は、由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てたのである。由美子ちゃんは、唇をかみしめて、右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた。

驚くなかれ、由美子ちゃん事件の起きた1週間後に再び、9才の女の子が米兵によってレイプされた(第2の由美子ちゃん事件)

また、悲惨な「宮森小学校ジェット戦闘機墜落事故」も同じ石川市で、しかも、由美子ちゃん事件と同年に起きた米軍による事故です。

『1955年6月30日午前10時30分、同市宮森小学校にジェット戦闘機が墜落するという大惨事(宮森小学校ジェット戦闘機墜落事故)が発生した。

 事故による死者は17人、重軽傷者121、建造物全焼(民家17棟、公民館1棟、3教室)、半焼(民家8棟、2教室)に達したが、当時の教師は、「すべて、アッという間の出来事であった。ガソリンをかぶった子どもたちが、全身火だるまになって水道の蛇口のいたるところで水をかぶりながら、先生たすけて、 お父さん、お母さん、戦争だ、戦争だと泣きわめきながら、1200人余の子どもたちは校庭を駆けめぐり助けを求めていた」と証言している。また、「黒煙が石川市上空をおおい街中が焼けるのではないかと市民は半狂乱におちいった。軍民全消防、警察が出動して約2時間後に火災をくい止めた。米軍は事故の完全補償 する旨発表したが、その解決は、立法院石川事件対策特別委員会や琉球政府の努力にもかかわらず難航、結局、賠償問題の完全解決には事故後3年近くもかかり、児童に対する賠償額は、死亡者が約4500ドル、重傷者が最低2300ドルから最高5900ドルが支払われた」にすぎなかった(『石川市制施行50周年記念・市勢要覧』)。』

http://tamutamu2011.kuronowish.com/yumikotyannjikenn.htm

 

日米安保条約によりアメリカが日本を守ってくれる基地は必要だという人もいますが、

アメリカは沖縄基地は「太平洋のキー・ストーン(要石)」と呼び、

ベトナム戦争では核兵器を搭載したといわれる戦闘機が日々沖縄から飛び立っていました。

要するに、沖縄の米軍基地は日本の国を守るのではなく、アジアや中東への

戦略的基地であったのです。

つまり、アメリカのつごうで、沖縄は好き勝手に使われていたのです。

そんな中で、戦後一貫して阿波根昌鴻さんたち沖縄の反戦地主たちが、

非暴力直接行動で自分たちの土地を取り戻し、

豊かな生産地づくりを目指すたゆまぬ戦いを続けてきたことや、

1965年、那覇で8万人もの人々が結集して「祖国復帰を目指す集会」を開いたことなど、

日本国の全員が知らなければならない事でしょう。

「祖国」って、日本のことですよ。

日本政府が犠牲の山羊としてアメリカに差し出した沖縄なのに、

その酷い仕打ちをした日本に復帰して平和で安全な生活を営みたいという

願いで頑張ってきた人たちに、私たちはどんな顔ができるでしょうか。

私は、ただうなだれるしかありません。

 

沖縄県民の悲願と言われた1972年の沖縄の本土復帰によって、

人々は「これでようやく米軍基地が返還され、

日本国憲法の諸権利を沖縄県民も享受できる」と喜びました。

しかし、現実にはそうなりませんでした。

当時子どもだった人の話を聞くと、

「復帰したら沖縄は本土並みになって、米軍基地もなくなると思っていた大人たちは、

ものすごくがっかりして、何年も元気をなくしていたよ。」

とのことです。

1995年、12歳の少女がまた、犠牲になりました。

 『95(平成7)年9月4日午後8時、沖縄県に駐留する米・海兵隊(アメリカ海軍の独立部隊で、上陸作戦・空挺降下などを任務とする部隊。陸・海・空軍続く、第4軍〈侵略部隊〉ともいわれている)の兵士3人(マーカス・ギル、ロドリコ・ハープ、ケンドリック・リディット。いずれも20~22歳で黒人)が基地内で借りたレンタカーでドライブ中、沖縄本島北部国頭(くにがみ)郡の商店街で買い物をしていた12歳の女子小学生を車に押しん込んで拉致、車中において粘着テープで顔を覆い手足を縛ってしたうえ集団強姦し、全治2週間の傷を追わせるといった、悪質この上ない計画的な逮捕監禁(刑法220条・強姦致傷刑法第177条刑法第181条事件が発生した(主犯格である2人が姦淫〈かんいん=男女が不倫な肉体関係を結ぶこと〉をとげ、他の1人が幼いことに気付き姦淫を断念した。なお、主犯格の被告人の1人は自らの暴行と姦淫行為を法廷において否定した)

だが、アメリカ政府と日本政府との間で締結された日米地位協では、日本側が起訴しなければ、アメリカ側は容疑者の身柄を引き渡す必要はないと定められていたため、沖縄県警は犯人を逮捕できなかった。まさに日本人にとって屈辱的な不平等条約である。』http://tamutamu2011.kuronowish.com/heiwanasimawokaesite.htm#jikenn

そして、今年、2016年4月28日、うるま市に住む20歳の女性が、

午後8時ごろウオーキングに出かけて、米軍軍属の男(32歳)に

棒で殴る、首を絞める、刃物で刺す等の暴行を受け殺害されました。

 

これらは、氷山の一角です。

基地反対派の人々を「基地外」と呼ぶ、魂の劣化したヒトには、

自分や、家族のだれか、または、自分が大切に思う人が、

由美子ちゃん、または他の犠牲者だったら、と想像してもらいたいのです。

想像力まですり減って無くなっているから無理…かも知れませんね。

実際に自分がそういう体験を強要されたら、ようやく分かるのかも知れません。

残念ですが。

 

普天間基地 http://tamutamu2011.kuronowish.com/heiwanasimawokaesite.htm#jikenn


 

 

 

 

 

 

 

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「外国人教師たちのそれぞれのスタンス」No.1795

2016-11-13 19:52:11 | 人間

夜、ベカベカに輝く大学のメインビルディング。ある学生が

「中身のない大学ほど表面を飾りたがるという典型例です。」と。

下は「広場ダンス」ですが、主体はおばちゃんではなく学生達です。

宿舎のネット断絶5日目。

おかげで夜のキャンパスの様子がちょっとわかりましたよ。

 

一年間以上の滞在で、ここ菏澤学院で働く

外国人教師たちの姿勢や性格も少しずつ分かってきました。

国による特徴はあるとしても、やはり一人一人の個性が第一なんですね。

フィリピン人のCJとEVEの2人の先生を見ても、

歌が大好きでマイクを握ったら離さないという共通の特徴はありますが、

今回の暖房交換工事やブロードバンド接続の断絶問題に対して態度は全く異なります。


CJさんは

「なぜ、学期中に工事をするの?冬季・夏季の長期休暇にすればいいものを。

私は工事の人たちに部屋を荒らされるのが堪らない!」

と嫌悪感をあらわにし、私が

「工事中の2日間はキッチンで暮らせばいいよ。キッチンには誰も入ってこないよ。」

と慰め?ると、

「フィリピン人にはあんな寒い台所は耐えられないよ!」

とヽ(`Д´)ノプンプン怒っています。

確かにキッチンは狭いだけでなく、アパートで北向きの一番寒い場所なので、

私はそれ以前に引いていた風邪をすっかりこじらせてしまいました。


片やEVEさんは、

「ここで暮らすにはここのやり方に慣れるのが一番。気にしなければいいのよ。

汚くされるのは嫌だけど、ま、仕方ないんじゃない」

というタイプです。

彼女は、私がソファーのカバーをめくった時のあまりの酷さに腹を立て、

「私たちは外国人とは言え、人間なんだぞお!

家畜としてここに来たんじゃないんだ!

カバーであのような汚れを隠すとは卑怯なり!」

と叫べば、

「ああ、そうね~、ところでブロードバンド接続できないでしょ?

学生に教えてもらったんだけど、図書館でwifi使えるって。知ってた?」

と、どこ吹く風でした。

彼女は決してMr.張にwifiを設置するよう要求しないし、

工事の後片付けが汚いと文句を言ったりもしません。

現状を変えるのではなく、

現状の中で少しでも生き易い場所を探すというスタンスです。

これは、以前知り合った日本人教師の多くにも共通しています。

しかし、EVEさんは故国に帰って、

「いや~、中国は汚くてどうしようもないよ。

マナーも守らないし、契約もあってないようなものだ。」

と陰で悪口を言うことも決してないのです。

「その国にはその国のやり方があり、自分はそれに対してとやかく言う立場にない」

という考えが徹底しているようなのです。


半年で首になったイギリス人のビクターさんは、

「洗濯機が作動しない、洗濯機が、洗濯機が、作動しないんだあ!

早く、早く、直してくれええ!!」

と大騒ぎするタイプでした。

でも、そのせいで首になったのではないようです。

彼はクラスのディベートで【香港は中華人民共和国に属するか否か?】などと、

非常にデリケートな問題を好んで取り上げたり、

印刷が多すぎたりして大学からクレームがあったそうです。

私の部屋には初めからプリンターがありましたが、

全ての教師の部屋にあるわけでもないことが分かり、

ビクターさんにはちょっと気の毒な気がしました。

香港問題のディベートは、わざわざする必要がないと思いますけどね。


さて、私はと言えば、いちいち契約書を取り出して、

「安定的なインターネット接続は、契約に書いてある。

だから大学は是非それを実行してほしい。

私はMr.張の心の温かさを信じ、日頃の気遣いに感謝しているが、

それとこれは別だ。」

とごちゃごちゃ言うタイプです。

なぜそんな波風を立てるのか?

確かに、もうすぐ日本に帰るかも知れないのに、

私だけのためならリスクのある交渉などしないで黙っていた方が楽です。

しかし、もし交渉によって何かを勝ち得た先例を作っておけば、

それが実績として残り、

私の後でここに赴任してきた人もその実績を享受できるし、

また、交渉することで事態は進展するという可能性を明示します。


私は、(なんだよ、前任の人は。こんな理不尽なやり方を放置して、

部屋の床も家具も全て汚しまくり、あとは野となれ山となれとばかりに

自分だけさっさと引き上げたのか。無責任で自己中だな)と

自分が前任者に対して感じたのと同様に思われたくありません。

大風呂敷を広げますが、

外国人教師、ひいては中国人教師全体が利益を受けるように、

少しでも改善できることはして引き上げたいと思い、

そのために、宿舎に来たMr.張に特製ミルクティーをご馳走するなどと

老獪策も弄しつつ( ̄▽ ̄)、

彼から「たぶん、次の学期にソファーの修理をしましょう。」という回答や、

また、ブロードバンド接続がうまく機能していない現実を大学に報告するという言辞も

引き出したのです。

何だ、そんなことかいと思うなかれ。

千里の道も一歩からですだ。

         


今日、カバーも全て洗濯して表面的にはたいへんきれいになったソファー。

ここまで長い道のりでした。


我が同志たち。モップは半分壊れながらも、身を挺して頑張ってくれました。

箒さん、塵取りさん、そして、歯ブラシさん。

あなた方がいなかったら、私の宿舎は永遠に工事現場そのままでした。

THANK YOU SO MUCH!!

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「ゴミ掃除の後、驚愕の事実に直面」No.1794

2016-11-11 21:46:18 | むかむか

研究室にて夜9時前です。

これで3日3晩ネットにつながらず、今朝Mr.張に「wifi買ってください」

と送ったところ、部屋に見に来ました。見に来ただけで結局どうしようもないのでした。

ついでに、私がこの週、どれほど苦しい日々を過ごしたか、

保存していた写真をお見せしましたよ。

まず、1日半かかった暖房工事の後始末をなんもせずにスタッフが立ち去ったので、

私が全部掃除をしたということ。

「これは誰の仕事だ?私の仕事か??」と言うと、

「おう、彼らに工事が終わったら掃除してくれと言ったんだけどねえ、

彼らはそれは俺たちの仕事じゃないと言うんだ~。インターナショナルじゃないのは

知ってるけど、どうしようもない。」と。

でも、納得できないほど限度を超えて私は掃除をしたと思いますよ。

辺り構わず部屋の床に捨てられたたばこの吸い殻までぜ~~んぶきれいに掃いて、

10回以上モップ掛けしたんですから。

↓シャワー室の悲惨。

↓エアコン脇の砥の粉の塊。

↓意味わからん。

↓この部屋は使っていないので、ショールームとしてこのまま永久保存します。

↓こんなのを2杯、外に捨てに行きながら、怒りがこみ上げてきましたよ。

 

しかし、驚愕の事実はこの後です。

余りに粉塵が飛んで、部屋中粉だらけだったので(もちろん一切カバーとかなし)、

私は粉だらけのソファーカバーを外して選択することにしました。

で、外しかけて、オエッとなったのがこれですだ。

コーティングが剥げまくり。どうりでね、今まで一年間、掃いても掃いても

意味不明なダストが床に落ちていたわけがようやく呑み込めました。

表面を掃いて、こんなにとれた。

こーゆー感じです。はあああああああ

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