毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

中国共産党建党90周年   2011年6月30日(木) No.163

2011-06-30 19:48:19 | 中国事情
 今日じゃなくて明日7月1日のことだが、中国共産党建党90周年を迎える。90年前の中国はどんなだったんだろう。

1911年 辛亥革命(臨時大総統 孫文)清朝崩壊。 
1912年 中華民国成立。袁世凱が中華民国初代大統領じゃない大総統に。(はてな?1)
1915年 袁世凱、自ら帝位に就く。
1916年 袁世凱 反帝政運動に遭い憤死。(当時57歳)
1916~21年 五-四文化革命。反儒教・反封建運動。白話運動。陳独秀、胡適、魯迅。(おお~!1)
1919年 孫文、中国国民党を組織。国共合作、三民主義、国民革命の実現目指す。(はてな?2)
1924~27年 第一次国共合作
1921年 中国共産党創立。李大、陳独秀。
1925年 孫文死去。
1927年 国共合作分裂。周恩来、朱徳ら中国共産党江西省南昌で武装蜂起(八一蜂起)。紅軍建設の発端。(おお~!2)
    建党リーダー李大、張作霖により逮捕殺害。
    毛沢東、朱徳とともに江西省井岡山に革命根拠地を建設。
1931年 江西省瑞金にソビエト建設。

1936年 西安事件(旧東北軍張学良が南京から督戦に来た蒋介石を監禁)。
    共産党の周恩来のあっせんで蒋介石は釈放され、抗日民族統一戦線のきっかけになる。
1937~46年 第二次国共合作(対日交戦)
1949年 中華人民共和国建国(首都北京)。蒋介石、台湾に国民党政府樹立。(ハテナ?3)

キラ星のように名前が次々と出てくるが、高校の歴史で習ってから幾星霜…。ちょっと略歴を整理したい。

孫文(1866~1925)広東省出身。初め医者、興中会→中国同盟会組織。しばしば日本へ亡命。
           1911年、辛亥革命臨時大総統に選出されるも、袁世凱にその地位を譲る。
           しかし、袁世凱、段祺瑞らの軍閥専制化に反対、19年中国国民党を組織。
           国共合作推進。新三民主義提唱。国民革命目指す。志半ばで北京に死す。
陳独秀(1880~1942)安徽省出身。日本に留学。1915年、「新青年」を創刊し、伝統的儒教倫理を否定。
           北京大学教授となり、新文化運動を指導。21年、中国共産党初代総書記。
           29年、トロツキストとして除名される。
李大(1889~1927)日本留学。北京大学図書館主任、五四運動後、教授。中国共産党創立に尽力。理論家。
          国共分裂後、張作霖のために逮捕され殺害。
胡適(1891~1962)上海生まれ。アメリカ留学。北京大学教授。白話運動。1938年駐米大使。48年アメリカに亡命。
魯迅(1881~1936)浙江省出身。日本留学。医学を学ぶも、文学による社会変革を目指す。
周恩来(1898~1976)江蘇省出身。初め日本に留学、五四運動のときは天津で活動。
          のちフランスに留学し、中国共産党フランス支部を組織。第二次国共合作に尽力。
          中華人民共和国成立後は政務院(のち国務院)総理兼外交部長。以後死去まで首相。
朱徳(1886~1976)四川省出身。軍人。1927年、南昌蜂起。のち毛沢東とともに井岡山で紅軍を組織。
          抗日戦では八路軍総司令。人民共和国国家副主席、全国人民代表大会常務委員長。
毛沢東(1893~1976)湖南省出身。1921年、中国共産党創立に参加。農民暴動を指導、朱徳とともに紅軍組織。
          31年江西省瑞金で中華ソビエト共和国臨時政府主席に就任。34年、長征敢行。
          陜西省延安に拠点を置き、抗日・革命運動を展開す。戦後は国共内戦で蒋介石を打倒し、
          49年中華人民共和国を建設。国家主席となった。59年党主席を専任。
          66年文化大革命を起こし、再び全権掌握。その死後、晩年の誤りが指摘されている。
蒋介石(1887~1975)浙江省出身。日本留学。軍事を学ぶ。辛亥革命参加。孫文によりモスクワ派遣。
          軍官学校を創立し国民革命軍を要請して北伐に成功。
          のち反共独裁の国民党政府最高指導者として対日交戦を遂行。
          第二次大戦後、国共内戦に敗れ台湾に退いたが、反共復国を呼号し続けた。
                                             ―広辞苑より抜粋

いやいや、ここまで写すだけでへとへとだわ。(ハテナ?)とか(オオ~!)とかについて書く元気喪失…。とにかく、激動期だったということだけはわかる。さらに、当時の中国社会のリーダーの多くが日本に留学した経験を持つ文字通りのエリートだった。その中で毛沢東はそうではない。とりあえず、今日はここまで。続きは明日、明日。
          



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ナメクジ部屋  2011年6月29日(水) No.162

2011-06-29 21:52:22 | 中国事情
 麦路(マイルー)キャンパスにある外国語学院(日本語で言うと外国語学部)の建物の一階端に日本語学科の資料室があり、そこが私にあてがわれた「職員室」だ。他の先生は遠慮しているのか、私に用事があるときしか来ない。
 朱老師と新平老師は、日本語学科の主任・副主任であり、二人で二階の一部屋をシェアしている。あと二人、熊老師、高老師には決まった部屋は与えられていない。教室があるビルの各階には教師用の小さい休憩室があり、先生なら誰でも使える。しかし、いつも決まった人が休憩していて、ニューフェースが入り込む余地はない。熊先生や高先生は授業以外の時間どうしているかというと、学校にはいない。授業が終わり次第、脱兎のごとく家に帰っていくからだ。
 熊先生は三十代後半。結婚していて2歳の赤ちゃんがいる。家を購入したことを昨年九月、赴任したての歓迎昼食会で嬉しそうに語り、あとは黙々と食べたり飲んだりしていた。学生から「マイホームパパ」と言われている。
 高先生は、独身。本部北部キャンパスの職員寮に一人で住んでいる。よくスクールバスの中で会う。一度は家にお招きしたいものだが、電話番号、E-メールアドレスの両方知らない。九月以降の課題だ。

 私の前任者のk先生もまた、脱兎派だったそうだが、私は職場で長時間過ごすのは慣れているというか、仕事を家に持って帰りたくない。特に学生のノートは重くて、はじめは旅行用キャリーバッグに入れて引きずって歩いていたが、資料室に落ち着くと、ノートチェックはそこで片づけることができるので、本当に楽になった。

 その部屋には、前々任者の大竹先生が日本から運んだたくさんの書物がある。(わずか二年の間にどうやってこれだけの本を運んだのだろう)と思っていたら、新平老師が先日、
「大竹先生が本を運ぶために、奥さんまで一緒に南昌まで荷物運びに駆り出されていました。」
と教えてくれ、さもあらん…と納得した。時間があるとき、その書庫から適当に取り出して読む。日本語の本を選んで読めるのは思いがけない喜びだった。及ばずながら、私も少しずつ蔵書を増やすように心がけている。日本語学科の学生たちは、2年生ぐらいからそこの本を借りて読んでいる。「世界の中心で愛をさけぶ」「1リットルの涙」など、ドラマ化されたものの原作や、日本現代文学の作品、中学の教科書や参考書などが好んで読まれているようだ。DVDやCDもいくつかある。

 落ちこぼれ学生の補習もここでした。昨秋9月から11月まで4年生の二人が「みんなの日本語Ⅰ」「みんなの日本語Ⅱ」標準問題集を毎週一回3~4時間、ぶっ通しで答え合わせと解説をしたが、11月に入ると、床から寒さがシンシンと上り、椅子に正座したり、お湯を入れたポットで手を温めたりして頑張った。それでもしまいに寒くて勉強できなくなったので、我が宿舎に移動したものだった。
 冬はとても寒かった。新平老師がどこからか中古の電気ストーブを持ってきてくれたのは助かった。しかし部屋の温度はそんなものでは全く変化しない。その電気ストーブは直方体で側面が4つと上面1つに熱線が通っていたが、上面は既に壊れ、側面も3面が使えるだけだった。まもなく次々と別の側面も壊れていき、春になるまでには全ての面が使えなくなり、ただの直方体の物体になった。今は蚊取り線香置きとして役立っている。
 4月からは湿気だ。夜のうちにジットリと濡れた床と壁を、翌朝、ため息とともに確認しつつ入室する。窓を開けても湿度は変わらず(というか、もっとひどくなるので閉めきる)、箒で掃くと、シミ、ムカデ、蟻など多種の虫たちが採集される。な、なんとナメクジの子どもまで這いまわっているではないか。私は汗疹からアトピーを再発した。

 こういうわけで、私は資料室にエアコンを買うことを決意したのである。
その旨を告げ、3年の数人と市内に買いに行く手筈を整えた今日、新平老師から電話があった。エアコンを外国語学院で買ってくれるよう交渉したら、電気屋さんや学院の院長が資料室を見に来て、
「こんな部屋ではエアコンの効き目は期待できない。」という結論に達したとのこと。(どういうこと~?)と思ったら、
つまり、資料室を二階か三階の空き部屋に引っ越すことにしようと話がまとまったという。ああ、夢かしら!二階や三階なら、ジットリ床から解放される。エアコン設置はひとまず頓挫したが、部屋を変わる方がダントツ良いに決まっている。言ってみるものだなあ。9月からはあのナメクジ部屋から解放だ~い!

 
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南昌の季節の果物  2011年6月28日(火) No.161

2011-06-28 21:18:17 | 中国事情
 今日は陳さんと二人、旅行の相談がてら昼食に招かれて岡田先生の宿舎に行った。江西農業大学の奥にある江西青年職業学院キャンパスも初めて訪れた。
木々が十分に成長しているだけでそのキャンパスは風格と落ち着きが出る。陳さんと我が財大麦路園キャンパスとの違いを言い合い、散々羨ましがった。樹のいい匂いがするしっとりしたキャンパスだ。裏には大きい池(湖?)まであった。
 旅行の相談や「地球の歩き方」のコピーを借りることやらして、オムライスをいただき帰ってきた。思えば南昌に来てオムライスを食べたのは初めてだ。数か月前、全家百貨にケチャップがたくさん並んでいるのを発見し、ケチャップライスは何回も作っているが、オムライスというのは、卵焼きでご飯をくるむのがバリヤーになってひどく面倒に思え、作ったことがない。人に作ってもらう食事の何とうれしいこと。特に中華料理でないのが新鮮だ。

 手土産に財大裏にある野菜市場で果物を買っていくことにした。
陳さんは3年間財大にいても、この本部のスーパーや野菜市場とはとんと縁がなく、どこにそんな市場があるのかも知らなかった。確かにわざわざ本部まで来なくても麦路園キャンパスにだっていくつかスーパーがあり、買い物に不自由はしない。しかし、ここの野菜市場はいつ行っても本当に新鮮な野菜や果物が積み上げられていて、行ったときはいつも(これからはずっとここで野菜を買おう)と決意するほどだ。それなのに、その決意は三日もたてば(ああ、あそこは遠い。横断歩道がバリヤーになって~。)といたるところにバリヤーをこさえてしまう。

 果物は野菜の奥にあった。トマトがあまりにもきれいにカチッとしているので、思わず(トマトをお土産に買おうかな?)と思った。しかし、それは自分が食べたいだけのことだったので、その案はひっこめた。果物コーナーには西瓜、リンゴ、バナナ、ブドウ、細長いミニトマト、マンゴーなどいつものラインナップに加え、新鮮そうな数種類の桃がずらりと並んでいた。その傍にはライチ(レイシ)がてんこ盛り、そして大粒、小粒のさくらんぼがプリッとした顔で箱に入っている。他に「果物の女王」と呼ばれる黒くて固い殻と柿に似たヘタを持つ果物(殻をむくとレイシにそっくりの上品な味の白い果肉がコロンと出てくる)。
 私たちは(というか私は)、陳さんが「それは高いです。」というのも聞かず、大粒の方のさくらんぼを買った(あの黒くて大きいアメリカンチェリーではない)。1斤20元だが、大阪のコーヨー鮮度館で買ったら2000円はするだろうと思う量が12元ほど。あと、どこも傷んでいないホワホワの毛が生えた桃を6個買った。13元。
 こういう時、(中国の暮らしはいいなあ)と思う。果物が本当に安い。そしてリンゴ以外は全部美味しい。皆さん、さくらんぼを食べに南昌にいらっしゃ~い!

 岡田先生の宿舎から帰る途中、せっかくだから隣の農業大学のキャンパスも見学することにした。ここは、さっき褒め称えたばかりの青年職業学院の緑樹が翳むほど、うっそうとした森を抱えるキャンパスだ。この大学の敷地は江西省一とのこと。実験や研究用の田んぼや畑、池か湖だかもある。陳さんとひとしきり、自分の故郷の植物と比べたりして喜んで歩き、散々蚊にさされたところでバスに乗って財大に戻った。
同じ南昌北部郊外にある学校なのに、今日行った地区は、緑豊かでひなびた懐かしいような地区だった。
 宿舎に帰り、江西省産の細長い米(タイ米に形が似ている)のもち米を炊いて、激辛豆腐ようと一緒に食べた。これも美味しかった。
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2年生と陳さん   2011年6月27日(月) No.160

2011-06-27 21:23:53 | 中国事情
 午後8時過ぎなのに気温は一向に下がらず、32℃強ある。明日、明後日と傘マークがあるので、またジメジメが戻ってくる。
今日、いつものように直前予約(昨夜電話あり)で、2年生の羅さんと洪さんが遊びに来た。9時に来ていいかと聞くので驚いて30分繰り下げてもらった。9時に来られたら、まだ鳥に餌をやったり、コーヒーを飲んだりと、朝のルーティーンを終えていないかもしれない。

 来る前に人参と玉ねぎを買ってきてもらい、例によってカレーライスを作った。羅さんは、
「僕の妹さんは、料理が上手です。」
と言って洪さんに「妹。」と注意されていた。もうすぐ3年になるのに、まだこんなミスをしている。洪さんは2年生の中で飛びぬけて流暢な会話ができる子だ。ただ癖で、何か言うたびに「う~、う~。」と唸るのが気になる。
「う~、う~。私の妹も料理が上手です。私はう~、勉強ばかりしていたので全然ダメです。」
つまり、羅さんも洪さんも、長男長女で、親の言うことを聞いて一生懸命勉強に精を出していたが、二人の妹は、どちらも勉強が嫌で成績が悪かった。その分、料理や絵描きやほかのいろいろなことができるようになった、ということだ。これは日本の家庭でも実によくあるパターンだ。しかし、私の子ども二人について言えば、両方ともあまり勉強に精を出したのを見たことがない。
「親がもっと勉強しろ、と言えば勉強したのに~。」みたいなことを以前上の子が言ったとき、
「勉強したかったら勝手にすればよかったやん。誰が『するな!』と止めましたか?ええ?」
と反論したが、よその家では確かに、「勉強しなさい。」か「ほったらかし~」のどちらかだったようだった。振り返ってみると、我が家はどっちつかずの中途半端だったが、やや放任気味だったかな。心配は一応していたのだが、「失敗は宝物。人生の糧になる。」と子どもにというより自分に言い聞かせていたような気がする。今、二人の我が子は、奇跡的にちゃんと大人になっている。自然と社会が子供を育ててくれたというか…。

 陳さんがここんとこ、ほぼ毎日顔を見せている。九寨溝行の相談や、予約の手配など、なにしろ彼が仕切る初ツアーだ。精一杯頑張ってくれているのがよくわかる。2年の2人と彼と私は、カレーを食べながら、ぺちゃくちゃおしゃべりのひと時を過ごしたが、2年生の勉強への不安に3年の陳先輩は、優しく、後輩の気持ちを引き上げるようなアドバイスや経験談をしてあげていた。その後は小さいころの楽しい話。
 陳さんの家は江西省吉安近くの農村だったのでなかなか電気が来なかった。そこで彼のお父さんは川から水を引いて水力発電し、その電気でテレビを見ていた。冬の乾季には、水不足で見ていたテレビがスーッと消えたりして不便だった。そこで更に近くに溜池を作り、恒常的に水を供給するようにしていた、という。川から引いた水路には魚が入り込み、時には蛇まで泳いでいたそうだ。私も水路を泳ぐ魚やホッチャレの鮭を何度見たことだろう。年齢は35歳も違うのに、子どもの頃やっていたことはほぼ同じ。これは日本社会と中国社会のずれと重なっている気がする。だが、江西省の農村生活は、ほぼ35年前の北海道の山奥の暮らしと同じと言っても、北海道の山奥の暮らしは、日本人のほとんどが知るところではないので、ピンと来ないないだろうなあ。

 銀行で予約する話が出たついでにキャッシュカードでATMからお金を引き出し、その後残高を調べるのにはどうしたらいいか聞いてみた。この一年間ずっと疑問に思いつつほったらかしにしていた問題だ。「銀行によってATM機種が違うので、実際行ってみましょう。」ということになり、一番近くの中国銀行のATMで調べてみた。ああでもない、こうでもないとあれこれしゃべりながら、結局INQUIRYのボタンを押すと、画面にベラベラと各種情報が出るではないか。印刷は無理だったが、目で見て確認できるだけで十分だ。今日は一つ新しいことを覚えてうれしかった。その足で、陳さんの中国工商銀行のATMに行ってみたら、何と機械の上に「HITACHI」と書いてあるので驚いた。このHITACHIは陳さんの暗証番号を「間違っている!」と却下して、成都のホテル予約は今日できなかった…。
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実質的夏休みが始まった  2011年6月26日(日) No.159

2011-06-26 22:09:57 | 中国事情
 夜になって、急に蒸し蒸ししてきたものの、朝から午後までさわやかな風が吹く、晴れたり曇ったりの適度な天気だった。最高気温34℃。
朝7時半起床。トイレ、洗顔を済ませ、歯磨きをしながらお湯を沸かす。インスタントコーヒーを飲むためだ。それなのに、沸かしてからもうコーヒーの粉がなくなっているのを思い出した。冷蔵庫を引っ掻き回して、まだかろうじて残っていたインスタントじゃない豆を挽いた粉を探し出して入れた。冬休みに阪急梅田の成城石井で買ったもので、もう酸化が進みおいしくないし、香りもあまりない。だが、あるだけマシだ。

 ベランダに出て鳥にパンくずをやる。テキパキしないとコーヒーがぬるくなるので、のんびりしてはいられない。そんなことを気にする割に、コーヒーを入れたカップをどこに置いたか忘れてウロウロ探したりする。飲みながらガラス越しに鳥の観察をした。以前にも書いたが、やはりどの雀も日本の雀より痩せて小さい気がする。しきりに仲間と囀りあいながら、パンくずを嘴にくわえては安全圏まで避難し、そこでゆっくりついばむ。雀同士だからといって完全に気を許しているのでもない。他の雀が来たら、さっと飛び退くのもいるし、闘いっぽい仕草をするのもいる。それでも、一羽が同じ場所にいるのはせいぜい30秒ほど。飛んで行ったりまた来たり、頻繁に飛び回っている。それが鳥たちの安全対策なのだろうか。ベランダ前の桜の木の葉には最近チョコチョコと糞が見えるようになった。パンくず効果だ。きっといい堆肥になることだろう。

 3年の陳さんから携帯に電話あり。今本部キャンパスでどこやら学部の卒業式に出ている。なぜなら人数が足りなくて3年生が員数合わせに動員されたからだと言う。本を貸す約束をしていたので、帰りに寄るように言うと、間もなく同じく動員された英語学科の女の子と一緒にやってきた。彼は、もう就職している幼馴染のガールフレンドがいる。しかし、それとは関係なく社交的にどんどん女の子たちの会話に入っていく。以前日本語コーナーで隣の理工大学に出かけた時もそうだった。
 郭さんが、
「僕は楼さんがいるので、できるだけ男性とだけ話したけど、陳さんは女性ばかり選んで話していました。」
と指摘したとき、
「彼女は上海にいるので、ここの様子は見えません。」
と澄ましていた。
 彼はお祖母さん、お母さん、妹という家族構成の中で育った。お父さんは春節以外はずっと出稼ぎで家に居ず、畑仕事はお母さん、ご飯の支度は妹、お祖母さんと彼が家畜の世話をしていたと言う。女の子の中にいる方が、安心できるのかもしれない。大学に入った年に最愛のお祖母さんを亡くし、本当に悲しかったと聞いたのはつい先日だ。

 それにしても陳さんの日本語は日に日に滑らかになってきている。やはりしょっちゅう日本人と話すことが会話上達の最短距離なのだなあ。英語学科の女の子も第二外国語で日本語を一年勉強したそうだが、全く話せなかった。一週間に一回ぐらいの授業じゃね~。
陳さんが日本語を中国語になおして彼女に伝えたが、これは本当にいい通訳練習になると思う。副専攻を途中で辞めた彼がやっているのは、自分で機会を見つけて日本語会話力を鍛えるというものだ。今のところ着実に効果を上げているようだ。彼は、押しの強い方じゃないし、競争は嫌いだというし、将来はそこそこ困らないくらいの収入さえあれば、田舎でのんびり暮らしたいと言う。ある程度の収入を確保するためにある期間、上海など大都市で暮らさなければならないかもしれないが、そんな都会の暮らしを続けていけば、田舎の良さを忘れてしまわないか、今から心配している。
 生姜汁と蜂蜜を水で薄めたのを勧めると、生姜好きな陳さんはごくごく飲み、内田樹の「街場の中国論」を持って英語学科の子と帰って行った。夏休みは正式には7月11日からだが、実質的にはすべてのテストが終わった今日からスタートすると言える。日本に留学できなくても、あの手この手で日本語力を身につけようと頑張る子たちは、全面的に応援したい。
 夕方には、何と1年生が電話してきた。電話で日本語が話せるようになれば、1年生としてはかなりのものだ。でも、この夏休みに忘れるんだろうなあ…。
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送別会    2011年6月25日(土)   No.158

2011-06-25 23:40:10 | 中国事情
 朝起きるのが次第に遅くなってきた。
授業のある日は6時に起きる。今は8時頃自然に目が覚めるまで寝ている。こういうスケジュール枠が取り払われた暮らしがうれしい。人間の暮らしを取り戻したようで。しかし、枠の中できちんきちんというか、「次!はい、終わった。また次!」とテキパキこなす癖がついていて、いまだにちょっと毎朝、(さて、こんなことはしておれん)なんて一瞬ソワソワする。
 退職直後の人たちは、(みんな働いているのに、自分だけこんなにノンビリしていていいのか)と申し訳ない気持ちになるという。何十年もかかって体と心に沁みついたリズムは、どれくらいで洗い流せるのだろう。私はどちらかというと鈍重で、自分のペースを崩せず、何でもてきぱきこなすのは苦手な方だ。それでも、日本の組織で仕事をするということは、苦手のヘチマの言ってはいられない。見よう見まねで何とか全体のペースに合わせて片づけなければならない。私は教員だったので、まだ融通かかなり利いたが、一般の会社員だったらどうなっていただろう。ぜったい自信喪失した窓際族だろうな。
 そんな私が、今中国で、(もっとチャッチャと進めてくれないかな!)などと偉そうに思ったりしているから可笑しくなる。「のんびり屋さんは中国に集まれ!」だ。

 今日は、南昌市で働く日本語教師の一人が3年ほど勤めた大学を辞めて、日本に帰るので何人かが集まり送別会をした。以前からずっと、誰かが帰国するときは南昌に残る日本人たちが送別会を開くのが伝統のようだ。このほかにも、帰国した人が南昌を訪れた時には、歓迎パーティーを催す。だから一年間に何回も歓送迎会がある。帰る人たちは、日本に戻っても、ここでの生活がフラッシュバックするに違いない。ここにいた時には、腹立たしかったことも、何年か後に日本で思い出すと全く別の感覚でとらえられるかもしれない。そんなことを思いながら、食べたりしゃべったりした。江鈴杯スピーチコンテストについて、ひとしきり話題になった。自分の大学の子が優勝すると思っていたとか、最優秀賞の楼さんの即席スピーチ内容はテーマからはずれていたとか、即席スピーチのテーマのレベルに差がありすぎだとか、散々言い散らかしていた。テーマのレベルの差はその通りだが、最優秀賞を得た子の指導をした者に言うことではない。こういうとき、コミュニケーションの取り方が下手なのは私だけではないな、と思う。

 宿舎に戻ると、どっと疲れが出た。私はあまり知らない日本人と話すと、そのあと滅茶苦茶疲れる。こういうのを人見知りというのだろう。そうとは気づかれないように気を付けている。でも、あまり知らない中国人と話してもこんなにまで疲れないのはどうしてだろう・・・。
言葉が通じるということと、心が通じることは別だからかな。今日は疲れたのでもうおしまい。
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豪華大パーティー   2011年6月24日(金) No.157

2011-06-24 23:50:20 | 中国事情
 陳さんは顔が広い。昨夜遅く電話があった。今日夕方、南昌市郊外でお金持ちのパーティーがあるので、一緒に行きませんかというものだった。別荘を買う人たちが集まる豪華な大パーティーだそうだ。金持ちのパーティーとは全く無縁で生きて来たし、そのことを清々しいと感じる私だが、ここ南昌では何でも見聞しようと思っている。それに豪華パーティーとなると、どれほどご馳走が出るだろうと期待感が膨らんだ。

 今日のメインイベントのパーティーの前に、宿舎で布団を干した。掛布団2枚、敷き布団1枚。これで布団干しも三日目になり、ようやく黴臭さが薄らいできた。できたら敷布団をカプセル式シャワールームで洗いたい。狭いが何とかなる気がする。これは天気予報を見ながら、数日好天が続く日に実行しようと思う。
 布団をベランダにベラベラ広げていると、鳥たちが警戒して寄り付かない。しかし、数時間後にふとベランダの外を見るとパンくずはひとっつも残っていない。いつの間に…。

 夕方、迎えに来たのは陳さんと、陳さんが日本語を教えている小学生の胡哲ふん(土へんに申)君だ。両親が6時ごろ迎えに来るまで、宿舎で待機した。お父さんの方針で小学校に一度も行ったことがなく、英語と日本語の英才?教育を受けている12歳の彼は、「ドラえもん」の大ファンだ。「のび太」の中国名は「大雄」(ダーション)、ドラえもんはそのままの時もあるし、「机器猫」(ジーチーマオ)と呼ばれたりもする、と解説してくれた。それは以前大阪でも青木先生の中国語会話で教えてもらったことがあり、(そうだった、そうだった)と懐かしく思い出した。胡君の態度を見ていると、非常に日本の今の小学生の雰囲気に近い。のびのびしているとも言えるが、ズバリ行儀が悪い。人の家に来て、うろうろ歩き回るし、ソファーに寝転がったりしている。陳さんが、時々たしなめると、その時だけ、「はい、兄さん。」といい返事をする。お金持ちで寛大な両親の庇護の下なのはいいといて、躾をされていないのはダメだ。人間はサルや牛じゃないんだから。

 さて、迎えに来たご両親の車で、パーティー会場に向かった。車はニッサンだ。お父さんが運転し、私は助手席に乗った。お父さんはチックのような症状を呈していた。中国でも金持ちだとこうなるのか、気苦労が多いのかな、とか心中考えていた。
40分ほどで会場についた。南昌市内から少し離れた青山湖のほとりの別荘地らしかった。道路も整備され、日本の広い道の幅と同じくらいで、人工的にすっきり整えられた感じがした。
しかし、車から降りたところは工事がまだ進展中で、舗装じゃなく段差だらけのでこぼこ道だ。可笑しいことに、そのでこぼこ道から会場までレッドカーペットが数十メートルの長さで敷き詰められ、何人ものパーティー嬢が美しいドレスに身を包み、そこここでぶらぶらしていた。
更に、会場のビル入り口前には2組の男女が全身を金色に塗りたくり、微動だにせず立っている。衣装、日傘なども全部金色。以前シアトルで、微動だにしない銀色人間が、コイン1つを箱に入れると、突然ねじまき人形のように跳び跳ねるというのをよく見かけた。それにそっくりだが、お金を入れる箱もなく、2組は始めから終りまで動かなかった。
 行って初めて分かったが、今日の催しは新車と別荘販売のキャンペーンだったのだ。新車の前には西欧系のキャンペーンガールがポーズをとり、撮影会さながら。後で、その中の一人と話をしたら、何と彼女はブルガリアから湖北省武漢に来ている留学生だったのだ。ほかの西欧系はみんなロシア人だった。車と美女のセットを演出するのに、いろんな省から外国人の美人留学生を一日だけ呼びつけているのだ。たぶん高額のバイト料だろう。ブルガリア人の彼女は、屈託なく「中国の歴史を学びに来たんですが、先生の発音が聞き取れなくて~。困っています。」なんて愚痴を言っていた。


 さて、全体を短く言うと、どうしようもなくつまらなかった。期待したご馳走は、新車のショーや別荘の説明が終わるまでお預け、ようやく8時過ぎに食べられるようになったので、行ってみると、あるのはケーキが何種類かとスイカ、メロンの切ったのやドリンクだけ。陳さんがしきりに恐縮して「先生、こういう会だとは思っていませんでした。期待はずれでした。」とぼやく。
 午前中に、(中国のご馳走もちょっと食べ飽きたなあ)なんて思ったのもつかの間、おいしい菜を食べられなかった私は、冷蔵庫に何が残っていたかを眉根をしかめつつ考えていた。でも、ケーキの味はとてもおいしかったけどね。
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急に夏    2011年6月23日(木)  No.156

2011-06-24 00:40:25 | 中国事情

  三日ぐらい前までは、毎日雨ばかり降っていた。それが、突然35℃や36℃の真夏日だ。宿舎の中は外に比べてひんやりしている。しかし、閉め切っているのも黴が生えそうな気がして、つい窓を開けて換気する。すると熱風が吹きこんでくるのだ。ここ数日、昼過ぎには眠たくなって固いソファーで昼寝している。「昼寝」というより、「気が遠くなる」と言った方が正確だ。本を読んでいると、いつの間にか気を失っているのだ。ハッと目覚めても10分ぐらいしか経っていない。そこでまたウトウトして一時間や二時間が過ぎる。起きたら、汗でベッタリなので、水シャワーをする。ここ三日ばかりそうして過ごした。

 今日もそうして終わるかと思いきや、自分で自分を叱咤して急きょ、夕方6時前に外に出た。明後日、市内に行かねばならない。日本語教師の先輩たちが仕事を終えて日本に帰国するので、送別会を開くのだ。予約してくれたのが市内の八一広場の傍の店ということで、一本で行ける232番が通るバス停まで何分かかるか下見に行ったのだ。キャンパスの南門まで5分強。キャンパス内と言っても、職員のアパートも学生の寮も林立しているので、キャンパスを歩く人たちの年齢もバラバラ、おじいちゃん、おばあちゃん、若夫婦、一人っ子といった集団も散歩している。一人っ子は、大人4人に見守られ、当然のようにチヤホヤされている。(そんなにチヤホヤしていていいのか。しまいにわがまま放題になるぞ。)と心でつぶやき、その集団を追い越した。
 キャンパス南口を出て、「下露」(シャールー)のバス停に向かう。途中、ここ江西省に来て初めて、お母さんが激怒して幼子を怒鳴っているのを見た。しかも、同じ通りで2組も。やっぱり、暑さで気が立っているのだろうか。叱られていたのは2人ともイガグリ頭の男の子。口答えひとつせず、半泣きで我慢している。子供のそういう顔もなかなかいいものだ。「艱難汝を玉にす」という言葉もある。大人にチヤホヤされている子に冷ややかな視線を投げていた私としては、ビシバシ母さんの罵声を聞いて俄然楽しくなった。

 車道は車の往来が激しいが、歩道では大人の男の人たちが将棋盤を囲んで、遊んでいる。多くの男性が上半身裸。しかもその全てが小太りで、腹部の肉がズボンからはみ出している。太っているから暑いのだろうか。そしてどんなきれいな店でも、その前の歩道はゴミだらけ。せめて自分の店の前だけでも箒で掃けば、どんなに清潔になるだろう。ゴミを平気で散らかすのは見て楽しくない。一年近くたっても、これは慣れない。

 下露と思っていたところは、下露より一つ先のバス停だった。行き過ぎて引き返し、歩いていると、この暑いのにどうしてそんなに着込んでいるのか、妙な帽子と長袖の服をまとい、足だけは靴も履かず裸足の背の高い男の人が前を歩いていた。すれ違う人たちはしげしげと見て通る。そんなことにお構いなしで、どことなく案山子っぽい雰囲気のその人は、ゆったり私の前を進んでいく。ふと止まって何かチェックしていると思ったらゴミ箱だ。ゴミ箱の中に何があるというのだろう。食べ物が入っていたとしてもこの暑さでは、腐っているのが多いのに、そんなの食べておなかを壊すんじゃ…と思う。ついこの間、夜中に激しい下痢をしてトイレとベッドを往復したことを思い出した。

 帰りは、いつもの全家百貨で夏用枕、ビニールテープ、フック、スイカ、油腐乳(豆腐よう激辛バージョン)を買って帰った。宿舎を出てからほぼ一時間の散歩だった。

 

 

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九寨溝ツアー   2011年6月21日(火)   No.155

2011-06-22 00:22:17 | 中国事情

 昨日は、O先生、陳さんと7月はじめの九寨溝ツアーの相談。もともと出不精な私がこういうことをするには訳がある。3年生の陳さんが将来日本人向けの旅行会社を設立する夢を持っており、それにむけて日本語力を高め、ガイド試験を受け、と一生懸命考えているので、その一助になれば・・・と企画したものだ。
 日本から誰か参加するのを期待したが、それぞれ忙しい生活を抱える人たちばかりで、反応は芳しくなかった。それに日本から南昌に来て、さらに四川省成都、そして九寨溝に行くとなると、各旅行会社のパッケージツアーに比べて、高額な出費となる。日本から九寨溝に行きたかったら、なんといってもパックツアーがお得だろう。
 
 私たちは、成都まで飛行機で行き、市内で一泊して翌朝長距離バスで10時間かけて九寨溝の入口に行く。その日はそれで終り。翌日、一日かけて九寨溝のエメラルドグリーンに輝く池など見ながら、散策する。その後、黄龍に行こうかと思ったが、チベット族の少数民族の村を訪ねてそこで泊まることができそうなので、そちらにシフトした。そうしてまた成都に戻り南昌に戻ってくるのだが、てきぱき移動してもナント!最低五日はかかるという。四川省は広い・・・。

 成都といえば、何といっても「三国志」の蜀の都で、劉備玄徳、諸葛亮孔明などの像が祀られた寺やらが一杯あるそうだ。その一つを写真で見たら諸葛孔明さんが、ピカピカでまん丸い大仏さんみたいだった。かなりイメージと違う。私の考える諸葛さんは、横山光輝の漫画に描かれたもので、金城武なんかが演じたら似合うかな、といった風の人だ。
 陳さんの話によると、「三国志」の劉備は立派な人のように描かれているけど、史実はそうでもないとのこと。陳さんは大変な読書家で、小さい頃から家の手伝い=牛の放牧をしながら、谷で一人読書に浸っていたそうだ。大学に入り、日本語に初めて触れて2年目には、資料室の日本語の小説などを読み始めたという。
 中国の子どもで「三国志」や「水滸伝」を読む子はまあまあいるが、老若男女に大人気の「紅楼夢」に比べると、読者層は狭まる。(さすが中国!)と思うのは、小学生でも「鋼鉄はいかに鍛えられたか」などを読むんだそうだ。学校の推薦図書に必ず入っているとのこと。私はそれが小説であることも知らなかったが、そのお話は、主人公のポールという人が、ソビエト委員かなにかで、共産主義活動に精魂傾け、失明してもなお共産主義国家建設を目指して邁進したというようなストーリーだそうだ。つい「そんな話、誰が読みたいかな。」と私が正直に言うと、楼さんが「私の最も好きな本です。」というので、楼さんのお金持ちっぽくてブランド志向の風情と革命家ポールのどこが重なるのか、不思議に思った。

 きっと、今回も楽しい旅になると思う。もう一人、陳さんの日本語の教え子の小学生(12歳)も参加するかもしれない。小学生というのは正確ではない。その子は、親の方針で全く学校に通っていないのだ。彼のお父さんは中国の公教育が大嫌いで、息子は家で家庭教師などに勉強を教えてもらっている。5歳から英語を習い、今は完璧にペラペラで、親を連れてシンガポールやら旅行したりしているそうだ。中国にもいろいろな家庭があるものだ。でも、その家はお金持ちなのでそういうことが自由にできるのだろう。その家には外国人がよく遊びに来て、いつもインターナショナルな雰囲気が漂っていると陳さんが教えてくれた。陳さん自身、この夏休みは、狭くて暑くて地獄のような寮を離れ、その家で涼しく食事つきで暮らすという。しかし、その子が加わったら、本当に年齢バラバラのおもしろい構成になる。ガイド役の陳さんは、かなり疲れるだろうが。

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自家発電のすすめ  2011年6月19日(日) No.154

2011-06-19 12:00:27 | 中国事情
 南昌は今日も雨。気温28℃湿度90%。欧米圏の人たちは雨降りでも傘をささない人が多いという印象がある。
やはり今朝、雨がジャンジャン降っている中、傘も差さずにスーツケースを引きずったタンクトップ姿の白人女性が向かいのC棟に入っていくのを見た。間もなく同じ棟から、アイダホ出身のアメリカ人教師リャンがいつもの布製ハットを被っただけの格好で出てきた。
 なぜ隣人の様子をそのように逐一チェックしているのか疑問に思うかもかもしれないが、チェックしているわけではない。パソコンが置いてある書斎の窓から、C棟は真ん前に見えるし、わが部屋は一階なので、窓のそばの通路を通る人は、カーテンを閉めない限り嫌でも目に入ってくるのだ。これをキーボードで打っている今も、我が二階のメルダッドさんが蛍光灯みたいな長い棒を持って通り過ぎて行くのが視界に入った。

 雨が平気なのは欧米系だけではない。地元南昌の雀たちも、少々の雨にはへこたれず、餌を求めて飛び回っている。しかし、今日はいつも鳥とシェアしている食パンがない。昨夜、私がミミも端も全部食べてしまったからだ。雨が止んだら、また全家百貨に買い物に行かなきゃ・・・。三階に引っ越したらどうやってパンくずをあげたらいいんだろう。三階ベランダから下に振り撒いたら、下の階の人たちは嫌がるだろうな。ま、引っ越してから考えよう。

 毎日どうしても原発関係の記事に目が行く。
今朝まず見たのは、海江田経済産業相(ウミエダ?カイエダ?)が原発再稼働を関係各道府県に要請したが、各知事は猛反発しているというもの。「安全性が確認された」というが、その根拠が明確でなく時期尚早であるといった批判だと理解した。各知事の反発は当然だと思う。私は最近神経が弱ってきているのか、海江田さんの「原発の安全性が確認された」という言葉だけで、もうグサグサ心臓に負担がかかる。厚顔無恥な発言を聞くたびに、私のデリケートな心はサンドペーパーで擦られるのだ。さらに、(最終的に安全が確認される日なんか来るわけないのに、「時期尚早」という意味も誤魔化しだ)と感じる。
 厚顔無知といえば、石原伸晃「反原発は集団ヒステリー」発言は、さすがにお父さんの教育がこの子を育てたのかと納得するものの、人を人とも認知できない石原親子をはじめとする「見くだしピープル」を、ありがたく押戴く日本の軽信層が情けなくてたまらない。

 一方で、今、戦後の時代を検証する視点が多く非常に興味深いし、これからのビジョンを描くために肝心なことだと思う。今朝、短い記事だが福島県石川町の元学校の校長だった有賀究さん(80歳)の話が目に留まった。
 有賀さんは第二次世界大戦末期、中学生だったが、1945年4月、地元福島でクラスメートとともにウラン鉱採掘の作業に駆り出された。それは原子爆弾を開発する目的で第8陸軍技術研究所が民間の理化学研究所に委託したものだそうだ。当時の現役軍人の「これで爆弾を作ればニューヨークもぶっ飛ぶ。」という言葉を今でもはっきり覚えているという。採掘されたウラン鉱は非常に微量で爆弾づくりは諦めたそうだが、その数か月後に、アメリカの原子爆弾が広島と長崎の町を廃墟にした。
「『絶対勝てる』と言われ続けたあの戦争と、『絶対安全』と言われ続けた原子力発電が重なる。」
と言うこの人生の先輩の言葉を、後輩の我々はもう少し、心に深く受け止めることはできないものか。
「原発なしにどうやって都市生活が回っていくんだ。」
「反原発を唱える者たちは非国民だ。」
といった、深く考えない、目先の利益にとらわれた、軽々しい発想をもうそろそろ止められないものだろうか。

 「反原発とか脱原発を言う者は、電気使うな!」
という人たちに、そして(電力といえば原子力しかない)と思い込んでいる人たちに、一つ例を挙げたい。私の父がしたことだ。
 父は1917年北海道の地の果てに生まれた。学歴は尋常小学校卒だ。畑仕事が忙しくてたぶん4年生ぐらいまでしか学校に行っていない。彼の両親はともに本州からの流れ者の中でも、チャラチャラした人たちで、子供ばかりたくさんできたが、食べるものもないのに、呑気に博打をしたり、お歯黒をしたりして遊んでいたと父が後年語っていた。そのような状態なので、親に頼れない子供たちは、小作地でジャガイモを作ったりして飢えを凌いでいたそうだ。成長した父は、戦争で兵隊に駆り出され、中国山東省渭県ボウシ(当時の地名)というところに約4年いた。
 1946年、敗戦後引揚者として北海道に戻り、斜里郡小清水町字水上513に開拓民として入った。「大草原の小さな家」みたいなものといえば想像し易いだろうか。結婚した母とともに山を開き、家を作り、そして電気も自分で発電した。家の側を流れる小さい川から水を引いて、ミニ水力発電所を作ったのだ。
 雨が多い日は、家中煌々と明るく、日照り続きで川の水量が減ると、裸電球が心細げにショボショボ暗くなっていたのを覚えている。しかし、家の暮らしはその電気でたいへん潤った気がする。近所の開拓民の人で同じことをしていた人はいなかったので、
「ここの家は、まるで都会のようだね。」
と言われ、(『都会』って何のことだろう。電気が明るいということかなあ)と、まだ小学校に上がっていなかった私は、幼心に想像したものだった。

 回顧談ではない。父のした自家発電のことを言いたいのだ。繰り返すが、父は尋常小学校しか出ていない。水力発電は、その無学な父があれこれ本を読んだり、人から聞いたりしながら自分で設計し、近所の人の助けを借りて作業を進め、完成させたものだ。私は自然に包まれつつ、川遊びをしながら、夜になったら家がどれくらいの明るさになるかを川の水量で想像していたものだ。あの当時の暮らしが、それ以降の自分の人生をどれほど支えてくれたか。知恵の出し方、工夫の仕方、物事を観察する方法、e.t.c.・・・。現在、中国江西省で暮らしているが、あの幼少期の体験は、ここでの生活でも絶大な助けになっている。
 この夏休み、だれか、自分で発電する本を読んでやってみてください。「それ、難しそうでいや~。」という人は、何か別の方法を一つは考えてみて!

 自家発電は誰でもできる!
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気温34℃湿度84%     2011年6月18日(土) NO.153

2011-06-18 21:29:18 | 中国事情
 日本気象協会の「世界の天気」で南昌の天気を見た。
すぐ隣の武漢や長沙が26℃だというのに、なんで南昌だけ34℃なんだ!しかもジメジメジメジメしていて、昨日切って冷蔵庫に入れておいたスイカのてっ辺部分がちょっと腐りかけていた。口に入れてしまったので、そのまま飲み込んだが、食中毒になったりしないだろうな~。 ああ、皮膚が痒い。梅雨になって以来、急激にアトピーと汗疹が花盛りのお肌が憐れなり。日本から持ってきたアトピー用塗り薬がどんどん減ってきて、心細い。いざとなったら大学の診療所に行けばすぐに薬をくれるが、私は昔から医者が大嫌いだ(あ、病院に行くのが嫌いなのであって、お医者さんの人格を否定するものではないですから)。まして外国で医者に行くことなど絶対避けたい。昨年11月に歯茎が腫れ上がって顔が変形した時だけは例外だったが。

 そういうわけで、今はエアコンをつけ除湿している。朝から夕方まで我慢して、夜だけは贅沢させてもらっている。
実は私は今月末で、この部屋と別れ、ついに憧れの三階に引っ越せることになった。この一階に住んでいたイギリス人のニックとタイ人のお連れ合い、そして娘さんの三人家族は昨年夏、私が着任する少し前に三階に引っ越した。その後釜に私が入ったのだが、長年、人が住んでいなかったかのごとき印象を受けた。こう言っては失礼かもしれないが、本当に、泣くほど臭く、泣くほど汚かった。日本の友達から除菌スプレー、雑巾、洗剤等、お掃除グッズをてんこ盛り送ってもらったことは以前、EXCITEブログに書いた通りだ。
 それはニックさん家族が部屋を汚く使っていたからだけではない(その所為ももちろんあるが)。しかし、今日、冬物の服を段ボール箱に畳んで入れ、洋服ダンスの中を整理してみて、気が付いた。引っ越してきたときの匂いが復活している!よく見たら、タンスの扉の内側に白っぽいものが付着していた。ティッシュでふきとると、それは紛れもない黴だった・・・。
 しょっちゅう、扉を開けて換気に努めていてもこうなのだ。タンスの中にポイポイ入れてあった服やズボンも、引っ張り出すとジメーッとして黴臭い。もう、こうなったらエアコンに頼るしかない。

 しかし、ここで問題に出くわした。この宿舎の電気代はプリペイド方式で、単位は何だかわからないが、1当たり0.6元だ。私の部屋はもう180ぐらいしか残っていない。1日数時間エアコンをつけると、10ぐらい簡単に消費する。今月末まであと12日。使える電気量はぎりぎりだ。けち臭いことを言わずに電気代を払えばいいのだろうが、基本的にいつも500元をポンと払って電気が833ぐらい使えるようになる。数字が少なくなったらまた、500元払う。たった2週間足らずしか住まないのに、500元払ったりするのは嫌だ。かといって100元分電気を買うことなどできるのだろうか。月曜日、ミズ劉かミズ呉に筆談で聞いてみよう。

 それにしても、今度引っ越す三階の部屋は、またまたニックが使った後の部屋だ。彼ら財大を後にどこかへ移住するようだが、イギリスやタイには「飛ぶ鳥跡を濁さず」という諺はないのだろうか。再び、壮絶な掃除の日々が続くことが予想される。夏休み中で本当にヨカッタ。
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2年会話クラスの成績つけ   2011年6月17日(金) No.152

2011-06-16 23:25:52 | 中国事情
パソコンとの悪戦苦闘が続いている。
Fujitsuノートパソコンは壊れたまま。
中国製lenovoのデスクトップは、何とかインターネットに繋げたものの、昨日はブログを書き始めたら切断され、メールもチェックしているうちに切断され・・・、インターネット接続状態が10分ぐらいしか続かないのだ。結局ブログは昨日、二回書いて二回とも霧散した。
そういうわけで今日の午後、やはりまた、郭さんに来てもらった。
別の入口からネットに繋ぐ方法を教えられ、今ようやく落ち着いて書き込んでいる。何時間でもネットにつながっていることの幸せなこと!
 もう、郭さんなしにはここでは生きていけない。ノートパソコンも見てもらったが、パソコン本体とモニターをつなぐ線が一部破断しているので、修理すれば200元ぐらいかかるとのこと。200元は修理費としては安いものだが、この際、一度日本に持って帰って見てもらおうと思う。お金を払うなら日本の業者に払いたい。少しでも日本が活性化するように。

 さて、先週で授業もテストも、さらに江鈴杯スピーチコンテストも一時に終わってしまったので、残る仕事はとりあえず成績つけぐらいなものだ。昨日は終日、ノートパソコンの具合が回復しないか、あれこれ無駄な試みをして膨大な時間を費やしながら、2年生会話クラスの成績をつけた。成績は平常点+会話テストの得点だ。
 会話テストは、先週最後の授業のとき、私と学生がマンツーマンで対話をしたものだ。それをテープに録音して家(宿舎)に持って帰ってじっくりチェックする。日本から録音専用のSONYのレコーダーを持参した。それを片手にかざしつつ対話をするので、学生の一人が「先生、それ、怖いです。」と言う。

 家で改めて聞いてみると、2年生クラスは発音・アクセントが不正確で聞きづらい子のオンパレードだ。こんなんじゃ、1年生のほうが上手かも知れないと思える子がたくさんいる。対話相手を務めた私が、四苦八苦しているのがテープを聞いて再確認できた。

(例えば①)
私 :「一番印象に残っている本はなんですか。」
学生:「あの、コロン…です。」
私 :「すみません。何ですか。」
学生:「コロンム…です。中国で有名な本です。」
私 :「え?コロンブス?」
(ほかの学生が遠くから援護)「先生、たぶん『紅楼夢』だと思います。」
私 :「ああ、『紅楼夢』かあ!」チャンチャン。

(例えば②)
学生:「私が最近見た映画は、英語で『******』です。」
私 :(それ英語?と思いつつ)「えっと、もう一度言ってください。」
学生:「あ~、英語はもういいです。中国語で『シャオシャンクダ ****』です。」
私 :「どんな映画ですか。」
学生:「主人公は牢獄に19年います。毎日簡単なナイフで少しずつ壁に穴を開けて、最後は逃げます。」
私 :「分かった~!『ショーシャンクの空に』だ!」

 なんだかナゾナゾ大会をやっているようで、テープを聞きながら、思わず吹き出した。しかし、実力的には笑っている場合ではない。深刻な事態だ。大体彼らは、休憩時間には大声で中国語会話だ。もしくは好き勝手に音楽を聴いている。それに引き替え1年生は、休み時間でもトイレから帰ってくると、テキストを音読したり、丸暗記したり、せっせと勉強している。一年間の差が急速に縮まっている今日この頃。9月にはもう抜かされているだろうな~。この人たちも9月には3年生なんだなあ。シミジミ・・・。


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パソコンが壊れた!   2011年6月15日(水)  No.151

2011-06-15 20:28:46 | 中国事情
 昨年8月に日本から持参したFUJITU-BIBLO ウィンドウズVISTAが今朝から変だ。 電源を入れるとウイーンとモーター音がして左から二番目の電池ランプがオレンジ色に点滅する。モニター画面は暗いまま。接続は問題ない。ということはパソコン本体の電池か何かが消耗したということか。そうだとすると、部品が南昌にあるとは思えないので、この夏休みには重たいのに大阪まで持って帰らねばならない。
 中国に来てからというもの、いつもパソコンにはびくびくさせられ通しだ。これが無いと仕事もプライベートライフも成り立たない。エアコンを29℃に設定するとか、洗濯機は一週間に一回だけとか、電気をつけっぱなしにしないとか、節電はいくらでもできるが、日本にいるのと違って、何でもパソコンに頼らざるを得ない生活だ。
近日中に、また「パソコンの神様」郭さんに来てもらい、診断を仰ごう。ああ、何とかなればいいなあ。。。

 さて、この文を読んでいる皆さんは、(はて、この人どうやってこのブログを書いたのかしら?)と疑問に思われるだろう。
実は、私の部屋には備え付けのデスクトップもあるのであ~る。最初から置いてあったものは相当古く、昨年12月、突然lenovo(多分中国のメーカー)が国際交流処にドバッと寄付してくれたので、そのとき交換した。しかし、普段は使い慣れたわがノートパソコンで十分なので、このlenovoは今まで放ってあったのだ。
 ノートパソコンが使えなくなった今となっては、いよいよこのデスクトップをインターネットに繋いだり、言語を日本語にしたりせなアカン。こういう事態になると、いつも不思議なことに誰かが助けに現れる。
 今日は、範さん、黄さん、劉さんの「資料室三人娘」が、二学期の日本語学科授業をすべて終え、我が宿舎に遊びに来る日だった。黄さんと劉さんは、小学校二年生のときから、ご飯の支度を始めたベテラン。一人範さんは、一人っ子で周りは大人ばかりという環境のため、ご飯の支度をするチャンスは無く、祖母が庭で飼っていた鶏のフン集めをするのが仕事だったそうだ。そのフンはもちろん野菜などの肥料にする。そういうわけで、二人が中国料理を作ってくれている間、私は範さんの助けを借りて、郭さんなしでも何とかしようと試みた。パソコンに通じていなさ加減は似たり寄ったりだったが、頼りない二人は、それでもわりとスイスイインターネット接続にこぎつけた。この部屋のインターネット接続環境は、①江西財形大学のネットワーク傘下にあり、②ブロードバンド接続だ。コントロールパネルで日本語言語も加えた。

 と言うわけで、ブログは何とか書ける。問題はメールだ。何故か、yahooメールをチェックできない。WINDOWSのホットメール(@live.jp)は、チェックできるが、メールをこちらから送ろうとしたら、長時間待たされ、挙句に(BUSY)とかの文字が出る。今からまたトライするが、こういうことに費やす時間が本当に嫌だ。日本でこんな苦労は一度もしたことが無い、ということはやっぱり便利なんだなあ。日本の暮らしは。

 劉さん、黄さんの二人組のメニューは、長いもの炒め物、ニンニクの芽と豚肉の炒め物、苦瓜と卵の炒め物、ヘチマの炒め物、大根と骨付き肉のスープというラインナップだ。スープ以外は、全部炒め物...。
食事中、BGMにビギンの「島んちゅぬ宝」をかけたら、劉さんが「中国の歌に似ている。」という。「ヘチマの炒め物」「苦瓜の炒め物」と言い、この間から食べ続けている「激辛豆腐よう」と言い、沖縄と共通していることがたくさんある。15世紀以降、中国と日本両方に属国とされていた琉球の人々が、中国との交流の中で得たものなんだろうか。あるいはその逆かも。
 彼女たちは、25日まで第二選考のテストが残っているが、その後十日間ほど休日があるので数日から一週間家に帰る。そして七月から、また副専攻の授業が始まる。とにかく勉強に全てを傾注している彼女たちだが、それでも青春真っ只中、クラスの男子学生が押し並べて子供っぽいことを嘆き、
「大学院に入ったら、絶対すぐにボーイフレンドを見つけてやる!」
と息巻きながら帰っていった。
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スピーチコンテストを振り返って   2011年6月14日(火) No.150

2011-06-14 07:38:41 | 中国事情
 昨日は久しぶりに、翌日までに仕上げるべき課題が何もない夜を迎えた。何ヶ月ぶりかなあ。いつもはCDをかけてもただ聞いているだけだが、昨夜は一緒になって歌ったりした。余裕がなせる業である。
こういう日々が当分続く。嬉しいな。

 昼に資料室に行くと、3年生のいつものメンバーが来ていた。みんな一昨日のスピーチコンテストのことを知りたくてたまらない様子。みんなその日は副専攻の大切なテストの日だったので、行きたくても行けなかったのだ。昨年コンテストに参加した範さんはその時の経験を悔しそうに話していた。彼女は終わりから2番目にさせられたが、スピーチの順番が遅いと採点基準が厳しくて不利になるとか。そんなことあるかな?
 やっぱりクラスメートの楼さんの最優秀賞はかなり衝撃的だったようだ。何しろ財大日本語学科始まって以来の快挙だ。財大は江西省でトップの大学と言っても、日本語学科は学内では、人数も少なく、肩身の狭い思いをしている。入学時、他学部を希望してレベル的に無理な子が、日本語学科に振り分けられたりすることもあるのだ。外国語学部は英語学科と日本学科だけだが、日本語学科に対する予算配分はとても少なくて、卒業生を担当された日本人の先生を卒業式にお招きしたくても、その経費が出ないから招待もできないと、新平老師が愚痴を言っていたことがある。
 日曜の夜、その新平老師が興奮気味にお祝いの電話をかけてくれ、私まで褒めちぎられて恥ずかしかった。指導者賞とかももらえるそうだ。そんなものもらっても何になるのかちょっと分からないが、給料が上がることは決してない。範さんは、
「財経大日本語学科の最盛期を迎えました。ここ当分続くでしょう。」
と予言めいたことまで言う。しかし、冷静に考えれば、このようなコンテストに入賞したかったら、そのコンテストの傾向を分析し、準備を怠りなくしさえすれば受賞の可能性が高いという感触を今回得た。それでもやはり、今回最優秀賞をゲットした最後の決め手は、その子が持つパワーだ。

 楼さんは、はっきり言ってクラスのトップレベルの日本語力を持つ子ではない。しかし、彼女には独自の輝きがある。裏表のない堂々とした態度、型破りなおもしろがり精神、そして、ガリ勉ではないがいざやると決めてからの集中力と実行力だ。ついでだが、彼女の血液型はB型、私と同じだ。我々は似た者同士でチームとして心を一つにし易かった。
 彼女は第二部の即席スピーチが最も難関であることを熟知していた。というのは、急にテーマを与えられても即答できる実力がないことは、彼女自身とてもよく分かっていたからだ。第一部の自前のスピーチ練習と同時に、即席スピーチの題目予想をし、その予想した題目について作文を書き、それもスピーチ練習した。なので、全部で15種類ぐらいのスピーチを暗唱して練習したことになる。
 その全てについて、作文添削から発音等の表現練習に付き合っている私の方が、途中で嫌になるくらいだった。しかし、幸いなことに彼女には、9才のときから「名探偵コナン」を見続けて鍛えた耳があった。 文法は弱いが、発音・アクセント矯正はかなりスイスイ入った。「わだし→わたし」「おもています→おもっています」「お肉も切手→お肉も切って」からスタートした彼女は、約一ヶ月で、スピーチ内容についての発音はかなりクリアになった。(少なくとも審査員の一人の九州出身の方が話す日本語より共通語に近かった。 )

 楼さんにはおもしろいエピソードがある。彼女の前歯は小学生の時、クラスのいたずらっ子の所為で根が折れて義歯になった。その義歯が黒ずんでいたので、今回のスピーチコンテストの前に白い歯に変えようと、3月初めから歯医者に通っていたが、なかなか進展せず、仮の歯をつけてやり過ごしていた。それがぐらぐらしてくしゃみでスポンと取れたりするようになった。彼女はその仮の歯をしょっちゅう外しては、私にニッと笑って見せたり、ボーイフレンドの郭さんに、その抜けた顔を記念撮影させたりしている。
 中国の女の子は、おそらく日本の子同様、ボーイフレンドには最高の姿を見せようとするのが普通だ。彼女の行動は周囲の女の子からはとても奇異なものに映っている。英語学科のショウさんは「日本語学科の女の子は奇人変人揃いだ。」とまで言う。楼さんは気にしない。

 受賞が決まったとき、彼女はステージから観客席に両手を広げてポーズをとった。それも他の選手は誰もしなかったことだ。賞品を江鈴五十鈴自動車株式会社副社長の永田さんから渡されたときには、ハグをして、永田さんを大いに喜ばせた。いちいち恥ずかしがっていたら、最優秀賞は得られないという見本か。
 資料室の優等生たちにその話をすると、あきれ顔だったが。

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江鈴杯スピーチコンテスト   2011年6月12日(日) No.149

2011-06-12 19:30:35 | 中国事情
 今日6月12日、江西省の大学・専門学校で日本語を学ぶ全学生を対象に「江鈴杯スピーチコンテスト」が開催された。3年生の楼さんと私にとってはついに迎えた日と言える。何しろ、我々は五月の初めからこっち、かなりの時間をこのスピ・コンのために割いてきたのだ。彼女の進学に影響を与えるとあっては、私も気合いを入れて取り組まざるを得なかった。

 昨日の昼過ぎ、「助さん・角さん」ならぬ、楼さん・郭さんが、例によって連れだって宿舎にやって来た。まるで海外旅行にでも行くように、ショッキングピンク色のキャリーバッグを引きずっている。郭さんはそれをここまで運ぶためだけに来たと言って、すぐ麦廬園に引き返した。我々は即席スピーチについての予想テーマを分析した後、タクシーで江西師範大学に向かった。さあ、やるしかない!

 タクシーで45分ほど行ったところの江西師範大学は、とても静かで豪華な宿泊施設「白鹿会館」を備え、広くて緑豊かな落ち着いた雰囲気のキャンパスだった。いつも財大は広いと思っていたが、上には上があるものだ。この大学の広々感覚は日本で言うと、北海道大学っぽい感じかな。学生はこの広いキャンパス内を、自転車も使わず、みんな歩いて移動している。体に良い生活だ。空気も明らかに南昌北部の郊外より澄んでいる。

 第六回目を迎えるこの江鈴杯スピーチコンテストの主催は、江西省対外友好協会だかで、江西師範大学外国語学部は共催、応援者として、江鈴五十鈴自動車株式会社、江西江鈴輸出入株式会社、華東師範大学出版社、NILSという顔ぶれだ。江西省の日本語スピーチコンテストとしては、最も権威があるらしい。今回は省下22校の各校から一人選ばれた選手たちが参加してきた。みんな、学校を代表する実力者揃いだ。遠くの大学から参加する選手は、引率の先生(ほとんど日本人の教師)とともに白鹿会館に宿泊する。楼さんと私もそうだ。
 私は(昌北郊外から反対側の郊外まではるばるタクシーでやって来た)と思っていたのだが、続々と到着した日本人教師達は、「朝、贛州を8時に出て、6時間かかって南昌駅に着きました。」「私は井岡山から鈍行で4時間。」「景徳鎮から3時間。」「撫州から3時間。」「九江から3時間。」と、みんなすごい所からやって来たのだった。

 これら教師達の何人かは、コンテストの審査員たちだ。その中に何故か、何のキャリアもないこの私まで交じってしまった。多分、新平老師、朱老師が推薦か何かしたのだと思う。楼さんにとって、私が審査員席に座っていれば少しでも心強いのでは?と思って引き受けたが、審査はもちろん公平にしなければならない。

 しかし、そんなことを心掛けなくても、審査の得点計算は、(さすが中国!よく考えているなあ)と唸りたくなるものだった。審査員が故意に点を高くしたり低くしたりして、利益誘導するのを防ぐために、最高点と最低点をカットし、残りの合計の平均を得点とするのである。ずるいことをする審査員が当然いることを念頭に置いて決められた制度だ。これは今回のみならず、中国では一般的な計算方法だそうだ。理にかなった制度だと思う。

 結果を言うと、楼さんは見事最優秀賞を得た。 本当に嬉しいことだ。他の参加者もみんな、一生懸命努力してきているのだ。その中から選ばれたのだから、値打ちがある。与えられたスピーチのテーマは「中日友好のために自分にできること」だった。彼女は日本料理を家族に作ってあげることで、日本に悪感情を持っていた妹や義兄の心を変えることができた経験をスピーチした。彼女の体験から出たわかりやすい内容と、本番に強い堂々たる態度が全審査員に認められたのだろう。
 さらに、即席スピーチは、我々がシミュレーションを重ねてきたものに、ちょっと近いかな?というお題をくじで引いた。「震災・地震・洪水・天災・人災について思うこと」だ。シミュレーション「東日本大震災」で練習していたことを活かして、かなり自然に言えた。ラッキーだった。
最優秀賞の商品はシャープの電子辞書だった。彼女は迷わず、ボーイフレンドの郭さんにそれをプレゼントした。郭さんはずっと電子辞書が欲しかったのだが、彼女が郭さんのお金をたくさん使い込んだために買えなくなったという経過があったのだそうだ。楼さん自身は既に立派な電子辞書を持っている。アクセントも聞こえるので、私は時々指摘される…。
 夕方、6時半から副専攻の科目の試験がある二人に便乗して帰った。見た目、全然タクシーじゃないのを嗅覚鋭い楼さんが見つけたのだ。郭さんは、携帯インターネットでタクシー会社の電話番号を探し、師範大キャンパスの途中まで来てもらっていたのだが、「あの~、スミマセン。もういいです~。」と言って断った。こういう時の郭さんは、本当に申し訳なさそうに言う。また反対側の郊外に向けて走るタクシーの中で、賞品の品定めをしたりして帰った。

 そうそう、午後はスピーチコンテストの第二部として、「才芸コンテスト」というのもあった。これは面白かった。坂本冬美の「また君に恋してる」(どこの大学か忘れたが信じられないほど上手に歌う子だった)、爆笑コメディー「白雪姫」(贛南)、とんでもなくカッコイイダンス「イチゴわたあめ」(景徳鎮)、茶道実演(岡田先生の青年職業学院)、落語「皿屋敷」(ムラオカ先生の東華理工大学)、そして我が財大一年生の「南中ソーラン節」(これは、一月、私が老骨に鞭打って教えて上げたものを、彼らが自分たちで改良した作品)など、楽しかった~。財大一年生の「ソーラン節」も何と一等賞(最優秀賞の次の賞)を受賞した。いやはや、今日は嬉しい財大ラッキーDAYだ。疲れたけどね~。
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