毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「一ヵ月半の苦闘後、ちょっとウルウル」No.2721

2019-12-12 22:15:53 | 教育

  ↑目撃者「夫の心が女になった~夫婦って何だろう~」より

昨日は学生たちがあるテーマについての意見文を提出する日でした。

そのテーマとは、ここ1ヵ月半「日本語視聴説」の授業で取り組んできた

《LGBTについて考える》というものです。

授業6週間目の先週は、

「LGBTについて小学生に教えるべきか否か」で討論しましたが、

その後、自分の意見を作文にまとめることを最後の課題として

長きに渡ったこのテーマの学習を終えました。

何しろ一ヵ月半前に初めてLGBTについてどう感じているか

クラスで聞いたときの3年生の反応が、

この大学に赴任して以来初めてと言っていいほど

そろいも揃って最もマイナスの回答ばかりだったので、

昨日、学習係がみんなの作文を集めて私のところに持ってきたとき

私はかなり不安で、読むのに決意を要しました。

しかし、一番上にあった作文を手にとって読み進むうちに、

思わず涙腺が緩みました。

一年前には何を書いているのか分からないレベルの日本語力だった子が、

ここまで書くようになったという感慨だけでなく、

一ヵ月半の私の精いっぱいの(且つ、押し付けにならないよう気をつけながらの)

人権についての訴えが

鋭敏で柔らかい学生の心に届いた気がしたのです。

こんな文章でした。

ーーー「LGBTの教育についての意見」 邵 紅

 小学校など初等教育でLGBTについての知識を教え、理解させるべきではないという意見がある。しかし、果たしてそうだろうか。

 小学生たちはローズさん(註)を通してLGBTについての知識と理解を深めた。自分が知ったことを他人に伝えれば偏見や差別を減らすことができる。そして、子ども自身がLGBTの場合、こうした授業によって不安や悩みを軽減することができる。だから私は、小学校など初等教育で正しい知識を教え、理解させるべきだと思っている。

 中国のLGBTの人数は膨大だが、中国伝統社会のタブーと、現行の法規定の曖昧さから、多くの国民はLGBTのことが理解できない。知っていても、多くの国民には誤解や差別がある。だから、我が国のLGBT者には社会的地位はなく、そのグループの人々は大きなストレスを受けている。

そして、この少数派のグループの生存状況は、中国では本当に厳しい。人々に理解されていないために、LGBT者は苦痛を感じ、生活や仕事に深刻な影響を与えている。彼ら・彼女らにとって「人はみな平等だ」という言葉の意味はどこにあるだろうか。

 「LGBTを理解し、尊重しよう。彼たちは普通の人と同じだ。」このような考えが多くの人に伝わるべきだ。小学生は民族の未来である。だから小学生こそ、LGBTについての知識を受けるべきだ。

 LGBTは中国で偏見を受け、多くの人が理解しかねている。私は先生のビデオを観ていなかったら、LGBTについて何も分からなかった。クラスのみんなもそうだろう。このような知識を広めないと、悪い結果になる例が色々ある。

 2015年12月30日、中国の広東省曁南大学で鬱病を患っていた10代の男性同性愛者が自殺した……。悲しいことに、LGBTの自殺は中国において唯一のケースではない。自殺、鬱病……、LGBTでは珍しくない問題だ。小学校の時に正しいLGBTについての教育を受けたら、自殺という、こんな悪い結果に至るだろうか。

 小学生は考えが未熟なので、LGBT学習は性別観念が混乱しかねないという意見がある。しかし、なぜ混乱して正しく理解できないかと言うと、それは誤った指導のためだ。授業で正しく指導すれば、子どもたちは正しい認識が深まるだけでなく、思想を成熟させることもできる。大人が計算がよく分かっているのは、小学生のときに勉強したからだ。小学生のときは頭がいいので、この段階は学ぶのに一番いい時期だ。小学生の段階を過ぎると人の計算能力は下がる。

 つまり、小学生の時期の鋭敏な知能は大人になったら強くなるとは限らない。それどころか逆に弱くなるのが一般的だ。どうしてこのような小学生がLGBTについて学ぶことができないか?では一体いつ学ぶべきなのだろうか。自分がLGBT自殺する直前か?あるいは、自分の心が鈍化し、ぼんやりする老年期にこのような知識を受けることが一番いいのか?

 以上のことから、小学生はこのような授業を受ける必要があると考える。だから、まず教師が小学生を正しく指導し、LGBTに対して正しい認識を持って理解するべきだ。そうすれば小学生たちは、自分のことだけではなく、LGBTの人が苦痛から解放されるのを助けて、みんなが自由な生活を送り、本当に平等を実現できるのではないだろうか

ーーーーーーーーー

註:「ローズさん」は人生の途中で女性としての自分に目覚め、自分は自分として生きようと決意して生活し始めた元男性、今女性の方です。動画、未だの方は是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=hVvUMNTyoyI Produce3

https://www.youtube.com/watch?v=EmhoX4CK7z0 目撃者「夫の心が女になった~夫婦ってなんだろう~」

 

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「教え子が高校の日本語の先生になった!」No.2450

2019-10-13 10:28:45 | 教育

今年6月に日本語学部を卒業した閻小玲さんからメールが来ました。

今学期から江蘇省の高校で日本語を教え始めたそうです。

教え子が日本語を活かす仕事に就いたと聞くと

なんか、心がほんわかします。


実は、中国で日本語やその他外国語を学ぶ学生は、

それまで完全に自文化中心主義の環境で育ってきた自分と向き合い、

そこからひと回り大きく成長するチャンスを得ます。

つまり今までの発想で全てを断罪するのではなく、

別の角度からより広く、深く、

掘り下げて考える視点が問われていることに気付くのです。

(気付かない子もいますけどね(笑))

だから、外国語を学ぶということはなかなかいいことなんだと

私は日頃から学生に力説するのです。

自分の頭が固いと自覚されている方、ぜひ、外国語を勉強してみてください。

できれば英語以外も。

新鮮な発見がたくさんあるはずですよ。


↓閻小玲さんの高校の生徒たち。運動会でパレードをしているところだそうです。

動画では閻さんに「先生、おはようございまーす」と日本語で挨拶していました。

中国の生徒も日本の子たちとおんなじですね。

でも、先生に対する態度はとても節度をわきまえたものです。

↓一生懸命、丁寧に書いていると分かる五十音の文字。

いくらスマホやパソコンしか使わなくなったと言っても、

自分で文字を書けることは基礎基本であり、同時にけっこう高度な技です。

教え子の中には、「漢字と可愛いひらがなが混ざって独特の日本文化を形成している」

と言った子もいます。

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「育鵬社の教科書は欠如が甚だしいので困る:先生の声」No.2428

2019-09-22 23:58:35 | 教育

↑週間金曜日 9/21(土) 育鵬社教科書への教員の声をまとめた報告書。「極めて使いづらい」「押しつけている」などの文言が並ぶ。

育鵬社の教科書が全国に拡散して使われ始めたとき、

元教師として(ああ、とんでもない時代が始まる)とガックリきました。

育鵬社は「新しい歴史教科書を作る会」(あの杉田水脈が理事の)が

もともとの出所です。

歴史教科書には、

縄文時代を「世界4大文明に匹敵する」と位置づけ

(日本は昔から大国だったのだ)と生徒の頭に刷り込む記述があり、

公民教科書には、

『日本の歴史には、天皇を精神的な支柱として国民が一致団結して、

国家的な危機を乗りこえた時期が何度もありました』とか、

『自分を犠牲に住民守った公務員』について掲載するなど

国家への自己犠牲やナショナリズムを煽る内容が記述されています。

また、やたらとアベ総理大臣の写真を多用しているので、

「アベ総理大臣ファンブック」と呼ぶ人もいるとのこと。

 

この教科書が21世紀に入り、

突然に採用され出したのには不正疑惑も多いのです。

例えば、大阪では育鵬社社員が採択権のある教育長6人に接触し、

事前に育鵬社の教科書を閲覧させていたことや、

教科書採用アンケートで不正を働いたこともバレています。

強い力を持つ政治グループが暗躍している感満載のこの教科書ですが、

学校で実際に授業をする教師たちは何を思って使っているのだろう、

もう、若い世代の教師たちは何も感じなくなっているんだろうか、と

疑心暗鬼の気持ちもありました。

しかし、プロの教師たちはきちんと判断していることが

下の記事で分かりました。

「先生たち、偉い!」と言いたいところですが、

喜んではいられません。

こんな教科書で教育を受ける子どもたちは

国家の望む国民像にどんどん近づくのが目に見えています。

実は、中国の教育もこれととても似ているんですよ。


 育鵬社の公民教科書に教育現場から批判の声

9/21(土) 6:10配信 週間金曜日

神奈川県横浜市や藤沢市などの教育委員会で採択され、7年間にわたって公立中学校で使われてきた育鵬社の教科書について、今年2月までに藤沢市の市民団体がアンケート調査を実施。現場の社会科教員の圧倒的多数(8割)が「使いにくい」と回答した。8月の教育関係の集会でレポートが報告された。

 育鵬社の公民について報告書には「立憲主義の理解に誤解を生じかねない内容」「国際協調と平和主義といった人類が到達した理念が軽んじられている」「全体的に押し付けがましい」「わが国という主語を用いているが、様々な国から生徒が集まっているので、全員にとって『わが国』とはしっくりこず違和感がある」など意見が並ぶ。

 そんな中で特に印象深かったのが「生徒は教科書はすべて正しいと思っているので、知らず知らず刷り込まれる」「生徒は教科書を読み込んで覚えようとしがち」「まじめな子どもたちほど教科書を学ぼうとするので不安」「教科書をそのまま教えるわけではないが、子どもたちはテスト前にこの教科書で勉強する」という声だった。

 自立した市民・主権者としての立ち位置をないがしろにし、国家主義の姿勢が色濃く投影されている育鵬社の公民教科書は歴史教科書よりも影響が大きい。もちろん皇国史観に貫かれた歴史教科書も懐古趣味的などと疑問視する声があり看過できない存在だが、同社の公民教科書には「人権・立憲主義・法の支配」への知見や認識が著しく欠如しているといった批判的な意見が多い。政権与党・国家に唯々諾々と従う子どもの育成に直結するのではとの不安もある。

 教員に問題意識と力量さえあれば、どんな教科書が採択されようと何とでもなる、工夫した授業はできるのではと思われがちだが、実際には子どもたちは教科書に左右され、影響される。学校現場の苦悩が改めて浮き彫りになった。

(池添徳明・ジャーナリスト、2019年9月6日号)

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「学童での激動の夏、餃子作りで締めとする」No.2929

2019-08-07 20:41:19 | 教育

今年の夏休みは、

日本に帰るなりとんでもない激務が待っていました。

知り合いの学童保育の手伝いを頼まれ、

どんなことになるかも深く考えずに

(週に2回ぐらいなら負担にならないだろう)と引き受けてしまったのが

その激務を招いた原因です。

まず、朝8時半から夕方6時半まで休憩時間無しのぶっ続け10時間労働は、

中国で毎日3、4時間しか働いていない私にとって

仕事と言うより、もはや過酷な修行・鍛錬の日々です。

しかし、それもあと一日を残すのみとなり、

今日は本当に深い安堵のため息をつきましたよ。


下は仕事も大詰めを迎えた一昨日の餃子作りでの一コマです。

子どもたちは料理が大好き。

普段、「片付けようね。」と言っても

知らん振りするか、「いや~!」とか言う

とんでもない態度の子も一人、二人ではないのですが、

この餃子作りでは、憎まれ口を利く子もなく、

実に熱心で真面目でした(笑)。

下は、お代わりを2回もして他の子の2倍食べ、

すっかり満足して微笑む1年生の男の子と、

静かにその子を抱いてあげている5年生。

5年生が毎日来てくれたらとても助かるのですが、

残念なことに私の当番日では、これでただの2回目です。

料理では和気藹々とした雰囲気でしたが、

その前に中国の大学生たちが作成した動画を見せるとき、

一人の子が、

「俺、中国なんかだいっきらい!

お父さんが言ってた。中国は卑怯だって。

日本一人に、中国は20人ぐらいで襲って戦争し掛けて来るって。」

とか言うじゃないですか。

(げっ、どうしてそういう嘘八百を子どもに吹き込むかな)と

心中、その「お父さん」にムカムカしましたが、

「ま、とにかく動画を見て、中国の人たちがどんな人たちか、

実際見てみましょう。

日本と戦争したがっているかどうか見れば分かります」

と、軽くいなして動画を見せました。

その動画は、学生たちが自己紹介した後、

大学キャンパス、街の様子、授業風景などが映し出され

最後は「世界に一つだけの花」を歌って、

「どうもありがとうございました」

とひらがな文字が出て終わるものです。

その後、「ありがとう・こんにちは・さようなら」

の中国語、

「謝謝(シエシエ)・你好(ニイハオ)・再見(ザイチェン)」

教えると、

最も早く覚えたのは「中国大嫌い!」と言った子でした

別の4年生の子が、

『世界に一つだけの花』って、そんなにも有名な歌だったのか!

と驚いていたのが可笑しかったです。

・・・・・・

とまあ、一事が万事この調子で、

毎日素っ頓狂なことが言われたり、行われたりしていましたが、

その中には、根深い問題も確実にあるのです。

(とりあえず、今日はここまでにしますけど)。


下は、たくさん作った餃子や残りの具で作ったハンバーグを

工作用ダンボールをくれた作業所の職員にプレゼントするため、

4年生の子が、一人で自主的にせっせと袋詰めしたもの。

いろいろあるにしても、こういうのを見ると

(やっぱり子どもって可愛いなあ)と思えますね。

 

 

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「私たちは無力だ、と唇を噛む学生たちに」No.2915

2019-05-02 16:01:57 | 教育

まだまだキャンパスの随所で咲き誇る芥子の花。なぜ蕾はうつむいているのでしょう。

4月、菏澤学院日本語学部に激震が走りました。

4月11日木曜日のことです。

突然、2年生と1年生は合同で一つだけあてがわれている一階の教室を明け渡し、

一両日中に、オンボロコンピューター設備の三階教室に移動するよう

命じられたのです。

入学以来、一階の教室で大満足で暮らしていた学生たちです。

私物もたくさん置いてあります。


いつも子羊のように従順な中国の学生たちが、

大学に対して行動を起こしたのを、私は中国に来てはじめて見ました

行動と言っても、理由を説明して欲しいと、

2年の学習係Aさんが12日(金)の朝から外国語学院院長室前に行き、

何時間もそこで立ち尽くして院長が出勤するのを待っていただけですけど。

英語学部と日本語学部を統括した組織で日本で言えば外国語学部。

院長は日本的に言えば学部長。

あいにく一日中他市に出張だった院長は、夕方電話をかけたAさんに

「これは先生方みんなで決めたことだ。

説明は日本語学部主任のS先生から聞きなさい。」

とだけ早口で言って、忙しそうに切ってしまいました。

そこでS先生に連絡を取ろうとしましたが、全く応答がありません。

代わりに、英語学部の老師から電話があり、

はじめは猫なで声、途中から急に威圧的な声で

「英語学部の人数が増えたから、

英語学部の並びにあるお前たちの教室を使うのが合理的なのだ。

学生は自分の都合でわがまま言うな!」

と、それこそ英語学部の都合を高圧的にまくし立てられたそうです。

取り合えず、12日(金)・13日(土)の2日間かけて、

学生たちは引っ越さざるを得ませんでした。

そのことを聞いた私は、14日(日)にS主任にメールで、

「私は教室変更について、誰からも一切説明を受けていないし、

学生たちも戸惑っている。どういうことなのか説明して欲しい」

と送ったところ、

「もう、学生に説明して、学生たちは納得してくれた。

次週から3階の教室で授業をしてくれ」と返事がありました。

そこでAさんに確認したところ、

その時点で学生たちは何の説明も受けていなかったし、

納得もしていなかったのです。

平気でウソをつくS先生は、

日本で言えばアベ首相みたいな人だと私が本格的に怒り始めていると、

午後5時前Aさんから電話で

「30分前、S先生から連絡があり、

事情を説明するから2年生全員、7時に教室に来なさい。』

と言われた」と。

日曜日の夜7時に教室に来いと、

その2時間半前に連絡をしてくるその神経がすごいです。

2年生たちは当然、

「用事があるのに」、「日曜日は個人の自由時間じゃないか」

とブツブツ言って、行きたくない子が全員でしたから、

その旨をAさんがS主任に伝えたところ、S主任は

「学生のくせに勝手なことを言うな!必ず来なさい!」

と激怒したそうな。

これが菏澤学院外国語学院のやり方であり、

山東省の多くの伝統的な教育機関のやり方です。

(だから江西省の学生たちに比べて、ここの大学の学生たちは

はじめ教師からガッツリ距離を保っているのか……)と納得しました。


その夜S先生は一応冒頭に、

学生たちに苦労をかけたことを謝ったそうです。

しかし、「事情はもう知っているだろう」と言うので、

ある女子学生が「いいえ、知らないんですけど」

と返事をすると、またまた激怒し、

「その口の聞き方は何だ。ここは家じゃない。先生にため口きくな」

と怒鳴りつけ、持っていた本を机に何度も叩き付けて威嚇しました。

その後は、学生たちは黙ってS先生の演説を聞くだけで、

S先生は言うだけ言ったら勝ち誇ったように帰って行ったそうです。


それを聞いた私は、

翌日S先生と激論を交わしましたがここでは割愛します。

私がカンカンになって怒っているので

学生の方が私に慰めのメールをくれましたよ。

  ↓    ↓    ↓

「こんばんは、私○○です。 教室移動させられる事件について、

私たちは何も力がない弱い学生だと深く感じられました。

先生の怒りもよく知っています。

しかし、私たちは温かい心を持って生きてゆかなければなりません。

先生も、私たちと一緒に楽しく頑張って過ごしましょう。」

これをくれた学生はS先生に「いいえ、知らないんですけど」

と言って、メチャクチャ怒鳴られた子です。


もうひと月近く経ち、

学生たちも私も平常心に戻って勉強を続けています。

しかし、この事件は学生たちの心に深く残ることでしょう。

最近、たまたま2年生の授業で将来の仕事か何かの話になり、

私は学生たちにこう言いました。

十年後の中国は、皆さんが作ります。

ここにいる皆さんの中には、教師になっている人もいるでしょう。

どんな教師になるか、それは皆さんが自分でよくよく考えてください。

自分がされたからと言って、

学生を怒鳴りつけ、威嚇するような教師になっては、

中国は変わりません。

中国を変える力を持っているのはあなた方です。

新しい民主的ないい国を作っていってください。」


学生たちが深く頷いたのは言うまでもありません。


中国には年中赤茶色の葉の木がたくさんあります。8年も経つと見慣れてきました。

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「25年前小学生だった徹也君との再会」No.2837

2019-02-16 23:43:04 | 教育

 四半世紀前、私の教え子だった徹也君。

 こんな立派な大人になったてっちゃんと今日、再会できました。

 ダウン症の徹也君が大阪市の小学校1年生だったとき、

徹也君のクラスのみんな(1年生)は初め、

困ったり、考えたりしました。

どうしたら分かってもらえるか、

どうしたら一緒に楽しく過ごせるか、について。

ちょうどその頃の徹也君はやんちゃ盛りで、

教室の金魚の水槽に固形石鹸を入れてかき混ぜたり、

みんなが校庭の隅に植木鉢を並べ、毎日水を遣って

成長を楽しみにしていたチューリップの芽の先を

鋏で一本いっぽんチョキン、チョキンと切ったり、

中庭の池の傍に立つ友だちの背中をポンと押して

池にはめたり……。

その度に、クラスのみんなはカンカンになって怒り、

「てっちゃん、どうしてそんなことするの!」

と怖い顔をして徹也君を睨みます。

それにも拘らずクラスのみんな、徹也君が大好きでした。

徹也君が大声で

「わーん、ごめんなさい!!」

と涙を流しながら謝罪する態度があまりにも率直で見事なので、

みんな心から気の毒になり、

「いいよ。今度からしないでね。」

と水に流すのです。

数日後、また次のいたずらでカンカンになるのに(笑)。

てっちゃんは、楽しいときは心から楽しそうに笑うので

クラスのみんなにその楽しさが移っていきました。

歌が大好きなてっちゃんは、たくさん歌を知っているので、

みんなてっちゃんに歌を教えてもらいました。

てっちゃんがチューリップの芽を

チョキンチョキンと切ってしまったとき、

私が「チューリップさんが痛い、痛いって言っているよ!」

と叱ると、「ほんと?」と言って

チューリップに耳を近づけてジッと聴いていた姿は

今も忘れられません。


負けん気が強くて、喧嘩した相手の筆箱を窓から投げた徹也君。

遠足の前の晩は緊張してお腹を壊した徹也君。

徹也君が進級して私が担任でなくなったとき、

私の教えている教室に来て、ずっとここにいると言い張り、

座り込んだ徹也くん。

・・・・・・

どれだけたくさんのものを徹也君からもらったか、

言葉では到底言えず、

ただ想い出のほんのちょっぴりをここに書きとめるのみです。

命は育つもの。

命は守るもの。

今日は、大人になった徹也君のお気に入りの曲を教えてもらいました。

「以心伝心しよう」(上谷麻紀)

「瞳そらさないで」(DEEN)

「DAN DAN心惹かれてく」(FIELD OF VIEW)

このうち1曲だけでも中国の学生たちに紹介しようと思います。

 

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「中国から嬉しいメール」No.2835

2019-02-14 20:16:04 | 教育

沖縄から大阪に戻った日、

中国の2年生の張新禹さんからメールが届きました。

私が沖縄に行っている間に張さんは塾で日本語を教えるため

故郷の徳州市からバイト先の維坊市に移動したのでした。

(徳州市から維坊市まで列車だと5、6時間はかかるでしょう)

考えてもみましょう。

全く日本語が分からなかった子が

1年5ヶ月後に、もう塾の先生ですよ!

本当に感動的です。

先生、ご無沙汰しております。

今日は日本語の先生をやりました。

本当に楽しかったです。


おととい、クラスメートの李蓮蓮さんから

維坊市でのある日本語の先生の仕事を

紹介してもらいました。

日本語の初心者向けの塾でした。

ちょうど昨日は父の仕事始めの日でした。

だから父と一緒に済南へ行きました。

そして、僕だけ列車で維坊市に到着しました。

いろいろな準備を経て、ついに今日、私の授業が始まりました。


教科書は『標準日本語』です。

最初の授業は、ただ五十音でした。

ひらがなとカタカナの書き方を一つ一つ生徒に紹介しました。

そして、発音も。

アクセントの部分は僕にとってはちょっと解説しにくいから、

録音にしたがって、生徒と一緒に読みました。


先生になると、本当に勉強しました。

まさに生徒は先生、僕は生徒のような……。

生徒のために、いろいろな準備をしなければなりません。

僕の自分のミスも気づきました。

例えば、うの発音とか、いろいろなひらがなの書き方とか。


生徒のあしたの授業の準備のために

この文章はチェックしませんでした。

いろいろなミスがあるはずです。とてもすみませんでした。


下は僕の授業するところです。

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「ストレスに耐えた一ヶ月」No.2714

2018-10-14 17:50:28 | 教育

↑今日、山東省聊城市駅前にひっそりと一輪咲いていた薔薇。


和歌山県・山東省共催「泰山杯」スピーチコンテストで、

日本語学部2年生の趙祖琛さんが一等賞をもらいました。

本当に感謝しても、し切れません。

なぜそんなにありがたいか、それには理由があります。


この一ヶ月半の練習期間に、

趙さんは夜、ろくに眠れなくなった時期がありました。

授業中にボーッとしているので(どうしたのかな?)と思い、

放課後の練習時に根掘り葉掘り聞いたところ、

「実は、スピーチコンテストのことが気になって毎晩眠れないんです。

高校一年から何かあるたびにそうなります。神経衰弱なので……。」

「こんな身体を持っている自分は死んだほうがましだ、

ともう一人の自分が毎晩囁きます。」

「N2試験の得点が177点ぐらいで喜んだけど、

この頭がもし正常だったら1年生でN1ぐらい合格できたはずです。」

とションボリ答えるのです。

私は、ストレスに押し潰されることの怖さを改めて実感しました。

確かに、趙さんのスピーチ原稿の中には

「高校時代、鬱病になった」とありましたが、

私は勝手に(それは過去のことでもう完治したもの)と

決め付けていたのです。

しかし、深い傷を負った心は何かの拍子にまた簡単に傷口が開くのだと、

今回、趙さんが教えてくれました。


「趙さんは中学校時代、どうしてそんなに一生懸命勉強したの?」

と聞くと、

「貧しい両親にせめて息子の成績がいいことを

誇りに思ってもらえるように……。」

と答えた趙さんは、

鬱病で不登校になった自分が情けなくて、

部屋の壁に頭を打ちつけるなど自傷行為も繰り返しました。

お母さんはそれまで外で働いていましたが、

趙さんの傍につきそうために仕事を止めました。

お母さんもお父さんも、

愛する一人息子のことをどんなに心配したことでしょう。

誰も悪くないのに、こんなことになってしまうなんて。


眠れない日々が続いた時、私は趙さんに

「そんなに苦しいなら辞退しようか?スピーチコンテストなんか

たいしたもんじゃないよ。何より命が一番大事だよ。」

と提案しました。

でも、趙さんが「せっかくここまで練習したので続けます。」

と健気に言うので、私たちは練習を続けて

本番を迎えることになったのです。

趙さんが眠れないと思うと、

ストレスが伝染して私も夜眠れなくなりました。

スピーチコンテストへの取り組みは、

スピーチ技術の向上も然ることながら、

一人の少年がストレスや得体の知れないプレッシャーと戦い、

それを克服する過程ともなりました。

それだけに、この賞は趙さんが体力・精神力の総力を挙げて

がんばったことへの最大のねぎらいであり、

新たな生気の注入になったと思うのです

(ああ、思えば去年の韋彤さんもそうだったなあ……)。

 

下は趙祖琛さんが即席スピーチ用に

あれこれテーマを考えて書いたうちの一つです。

ーーー忘れられない日本人の先生の教えーーー

「適度なストレスはいいけど、

ストレスに押し潰されるほど、がんばらなくてもいいんだよ。」

それは今回のスピーチコンテストの練習をしている途中、

日本人の先生が私に言った言葉です。

「がんばらなくてもいい」

・・・・・・私がそれまで考えたこともない言葉でした。


私は内気な性格で先生に積極的に近づけず、

高校ではいくら成績が良くても先生方の目には留まりませんでした。

(自分の存在を認めてもらいたい!)

でも、指名もされない私は、次第に、

自分は価値のない人間だと感じるようになってしまいました。

それも原因の一つで、私は鬱病になり、成績も下がりました。

心底疲れている私に先生方が言う言葉は、

「もっと頑張ろう!もっと頑張ろう!受験日までもう少ししかない!」

……それだけでした。


今回、スピーチを指導してくれた日本人の先生は、始めに

「私たちは二人で1つのチームです。一緒にがんばろうね。」

と言いました。

でも途中、ストレスでクタクタになった私に

先生が言った言葉は、

「命を削るまでがんばる必要はないよ。

もし本当に無理なら辞退してもいいんだよ。」

・・・・・・実は、その時私は諦めたかったんですが、

私を理解してくれた先生に応えるためにも、

続けることを選びました。


これはコンテストだけではなく、人生についても言えます。

勝ったり、負けたり、笑ったり、泣いたりすることこそ人生です。

一生笑い続ける人などいません。

自分がすべきことを(ああ、精いっぱいやれた!)と思えたら、

それでもう十分です。

「ストレスに押し潰されるな!

泣いたり、笑ったりしながら、人生を楽しもう!」

日本人の先生の教えです。

 ↑今日、故郷聊城市を離れて、菏澤に戻る趙祖琛さん。何を思っているのでしょう。







 

 

 

 

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「3年生が仕切った花見会」No.2226

2018-04-02 20:58:10 | 教育

    

はいはい、今年も作りました。

日本語学科お花見会定番の巻き寿司です。

先週から気温がぐんぐん上がって慌てたものの、

何とかお花も持ちこたえてくれていました。

(ちなみに今日は30℃ー14℃)

この大学に来て3回目の春、従って3回目のお花見です。

今回は、当日の準備も進行も全て3年生にお任せして、

私は巻き寿司作りに専念できました。

この大学に来て、初めてのことです。

もちろん、会の日程・準備・内容等は

事前に何人かと打ち合わせをしておきましたけどね。

 

中国の学校は小中高とも自主活動の教育をしていないので、

学生たちは、自分たちで

イベントを企画立案実行した経験が皆無なのだそうです。

(私が聞いた限りですけどね)

中国に来た当初、

ひたすら教師の指示命令を待つだけ、

言われたことしかしない学生たちの姿を見て、

(これでも大学生か!なんで自分らでチャッチャとやらんねん)

と愕然としたものです。

これは江西省の前任校も山東省のこの大学も同じでした。

余計なことをして自分の不利益になるのを避けるためです。

小さい時、良かれと思ってしたことを

厳しく叱られた経験がある子も何人もいました。

「中学、高校と成長するにしたがって、

私は、少しずつ、少しずつ、大切なものを失いました。」

と作文に書いた子もいます。

 

翻って、日本の教育はどうでしょうか。

確かに自主活動は学校教育のカリキュラムに含まれています。

しかし、それをやっていいと先生は言いましたか!」

などと、子どもを威嚇し、

指示待ち人間へと追いやる教師はいないでしょうか。

しかも自分のことを「私」ではなく、「先生」とか言う教師も

昔はいましたが、最近は大丈夫でしょうか。

 

学校のみならず、家庭教育における親たち(大人たち)も同様です。

子どもたちを自主独立の気概に溢れた人間に育てるのは

大人の大切な役目です。

人間としての躾けをする際、

基準をきちんと示すことは当然必要ですが、

身動き取れないほどギチギチの箱に閉じ込めて、

同じ型、形の人間ばかりを形成するのは、

中国でも、日本でも、どこの国でも

子どもに対する犯罪的行為だと私は思います。

 

↑今回が最後のお花見会になる3年生たち。

来年の今頃は皆どうなっていることやら・・・・・・。

この笑顔が永遠に続くことを願ってやみません。

 

 

 

 

 

 

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「ドラえもん―日本語―平和」No.1835

2016-12-26 21:35:06 | 教育

 班長のとう・らんさんは高校の時から東野圭吾の『白夜行』を読んでいました。

(いや、中国語で(;^_^A)

彼女は一年の時から、授業などで私が「平和が一番大事」と言うと、

強い力のある目を一層輝かせて、深く頷いていた子です。

12月初めの日本語能力試験直前にボーイフレンドができて特訓をサボり、

私は(なんで試験後まで待てないねん!)とぷりぷり怒ったのですが、

恋する心は止められないですね( ´艸`)

 

 「私と日本語」――とう・らん――

 

「何かしようと思ったら、そのことだけに夢中にならなくちゃだめだ。」

これは『ドラえもん』の中の、有名なセリフです。

『ドラえもん』のアニメを通じて私は初めて日本語に触れました。

その時は小学生で、ただ、(なんだ、面白い言葉だなあ)と思っていました。


正式に、そして本格的に、日本語に接触したのは中学生のときでした。

中国では、アニメがとても人気があります。

多くの人はアニメを通じて日本に興味を持ち始めます。私もそうでした。

中学時代、さまざまなアニメを見たり、日本の歌を聞いたりして、

どんどん日本に対する好奇心が膨らみました。

(この国をもっと知りたい!

こんな素敵な漫画やアニメを作っている国はいったいどんな様子なのかな)。

このような気持ちを持っていた私が、大学に入る時日本語学科を選んだのは、

今思えば、必然だったかも知れません。

 

中国と日本はとても近い隣同士の国なので、

両国の文化はお互いに相手の影響を受けやすいです。

例えば、たくさんの日本語の単語が中国から伝わったのは周知の事実です。

しかし、それだけではありません。

多くの中国語の単語、例えば、「経済」とか「社会」とかは、日本から渡って来たのです。

これは私が、日本語を勉強して初めて知ったことです。

これを知った時は本当にびっくりしました。

(もともと中国と日本の関係はこんなに密接なんだな)と改めて思いました。


しかし、私の周りでは、親戚の人たち、特に年配の人たちは

初めて私が日本語を勉強することを聞いた時、快く思いませんでした。

「どうして日本語なんか選んだの。」と、苦々しい表情を顔に浮かべたものです。

戦争が原因で、以前、中国と日本の関係はとても緊張していました。

中国人のみんながずっと日本人に敵対する気持ちを持っていました。

でも、今この状況はだんだん変わってきています。

みんなは、ますます平和の大切さを知るようになりました。


日本人の「ブルはーと」先生はよく私たちに平和のことを語っています。

そして私たちは、先生と一緒に平和への努力もたくさんしました。

日本の人たちに戦争反対の手紙を書くこととか、

平和の歌を歌うこととか、

全部が私たちの貴重な経験でした。

私は以前からずっと先生にとても感謝の気持ちを持っています。

先生と出会って、私も以前よりもっと日本語が好きになりました。

そして、「日本語をマスターするのは、平和のためにも大切だ。」

と意識しました。

相手の国の言葉が分かれば、気持ちも理解しやすいからです。


ドラえもんの教えに従って、夢中で日本語に取り組んできた一年半でしたが、

「日本語を勉強してよかったな。」

「自分が好きなことをしているのはいいことだな。」

「世界平和はいいことだな。」

これは日本語と出会って以来、私が感じているもっとも深い三つの考えです。

――――――――――――――――――――――――――――――

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「なぜ日本語を学ぶのか」No.1829

2016-12-22 01:20:35 | 教育

菏澤学院は山東省菏澤市にある唯一の大学で、総合大学だとのことです。

中国の多くの大学同様、外国語学部は英語学科と日本語学科だけですが、

英語学科が各学年数クラスあるのに対して、日本語学科は各学年一クラスだけ、

しかも、今年度は一年の学年はありません。

応募者が少なかったようです。

来年は必ず編成すると言うのですが、また応募者が少なかったらどうするんだろうと

私はちょっと心配しています。

山東省の大学は数多くあり、日本語学科も多く大学で設置されていますが、

それは明らかに産学共同路線上にあるものです。

中国では学生たちの多くが就職のことを考えて大学の専門を選ぶ傾向が顕著です。

親たちはもちろん、高校の教師たちの進学指導も、

どの専門に進めば就職しやすいかという観点で生徒にアドバイスをするそうです。

しかし、尖閣国有化に端を発した両国間の政治関係の悪化は

明らかに経済関係にも影を落とし、それは今でも払拭されてはいません。

さらに中国国内の経済成長は労働者の賃金をも押し上げています。

かつてのように超安価な労働力は求めても得られず、

日本企業はもっと低賃金で高利潤を得られる他の国にシフトする傾向があります。

日本語をちょっとでも話せたらすぐに就職先があるという時代は過ぎ去った現状で、

どうして学生たちは日本語を学んでいるのでしょう。

特に、菏澤市には日系企業など一つもありません。

市内にいる日本人はただ一人、私だけでしょう。

 

後に続く後輩もいない中、孤立する学生たちの心の内を聞きたくて、

今学期末の2年生日本語会話の試験は

「私と日本語」というテーマでスピーチをする課題を与えました。

原稿が出揃い、読んでみると、

学生たちがどんな気持ちで勉強していたか、また、しているかが書いてあり、

入学からともに一年半近く過ごしてきた私には胸に沁みるものがありました。

今日から何回かに渡ってその原稿を御紹介したいと思います。

―――「私と日本語」(りくけいびん)

皆さんはどうして日本語を専門に選んだのですか。理由は、やっぱり、アニメでしょうか。

私はちょっと違います。

 高校三年生の時、卒業後、どの道を選択したらいいか、迷っていました。その時、私は国語の先生の話を思い出しました。

「もし自分が何も学びたいことがなかったら、英語のようなメジャーなものじゃなく、マイナーな言語を学ぶと、仕事を探しやすいですよ。」

 この言葉で、私は大学で日本語を専門に選びました。しかし、いとこのお姉ちゃんは私に日本語を学ばせたくなかったようです。何度も私に「専攻を変えなさい。」と迫りました。たぶんお姉ちゃんは、日本語なんか専門に選んでも、卒業後就職できないんじゃないかと心配したのでしょう。でも私は日本語を勉強して、もっと多くの人に接触しようと思いました。日本語を勉強したら、日本に行けるかもしれないでしょう。それに、今は中日交流が増えて、仕事も探しやすいんじゃないでしょうか。

だから、自分の選択を堅持しました。

 大学に入って初めて日本語を勉強した時には、(な~んだ、日本語はこんなに簡単なのか)と思いました。五十音図とか、単語とか、会話とか、それほど難しくないと思ったんです。でも、学習が進むにつれて、簡単と思っていた日本語は、少しずつ難しくなってきました。文型が多くなって、とても全部は覚えられません。

 (日本語は難しいなあ。ちゃんと覚えられない。私はいったい何のために、どうして、日本語を学んでいるの?) よく自問自答したものです。

 ルームメートの楊さんと孟さんは英語専攻の学生です。同じ外国語学院の学生なのに、彼女たちは宿題がほとんどありません。授業も少ないです。毎晩寮でビデオを見ています。

ある晩、私が宿題をしている時、彼女たちの高笑いが聞こえてきました。 (やっぱりお姉ちゃんが正しかったんだろうか……)。

ずっともやもやして悩んでいました。

実は、このもやもやは初めてのことではありません。高校の時、数学や物理、生物などの科目がとても難しくて、私は中退を考えたことがあります。その時、やっぱりお姉ちゃんに相談したら、お姉ちゃんは、

「だめだ、中退はやめなさい。今の社会では、高校卒業でも仕事は探しにくいんだよ。まして高校中退のあなたを誰が雇ってくれるっていうの?…」

 その話を聞いた後、私は気を取り直して頑張りました。すると、成績もじわじわとよくなってきたんです。

 去年、日本語で挫けそうになったとき、私はその時のことを思い出しました。(あの態度を今も堅持すれば、全てがよくなるんじゃないだろうか……)。私は日本語を学び続けることにしました。難しいとは言っても、まじめに頑張れば、きっと、マスターできるはずです。

 今、日本語を学び始めて一年半が過ぎました。その中で、私はいろいろなアニメを見ました。今、私はそのアニメで見たすばらしい景色、特に桜を見に日本へ行きたいんです。

 将来、私は中日ガイドになりたいという希望を持っています。中国人に日本を案内し、また日本人に中国を案内する……、つまり、両国の人びとが、相手の国を理解するためのお手伝いです。皆さん、これは、かなりすてきな仕事じゃありませんか?

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「学生の作文に吹いたり、唸ったり……」No.1808

2016-11-30 18:02:03 | 教育

昔から間違いの答えなど見ると、つい笑ってしまうのですが、

決してバカにしているのでなく、想像するとおかしくてたまらないのです。

皆さんはそういうことありませんかね。

「間違いを笑うな」という言葉は、「間違った人を馬鹿にするな」だと理解して、

間違い文を見つけるとやっぱり思い切り笑ってしまっています。

今、2年生の作文教科書には語彙を増やすために、

副詞や擬声語・擬態語などがどんどん出てきています。

昨日、次のような短文作りをしました。

青字部分は教科書に書かれてあり、

下線部に適当な語を入れて文を完成させる問題です。

 

1:今年はずっと仕事が忙しくて、気がついたらあっという間に       

もちろん、下線部に下のように普通の言葉を書いた学生たちもいるのです。

○年末になりました。     

○もう忘年会の時期になってしまいました。

○一年が経ってしまいました。 

○時間が経ってしまいました。

しかし、まだ発展途上の2年生のこと、

文の前半を色々考えた挙句、こうなってしまう人たちが確実に存在するのです。

○今年はずっと仕事が忙しくて、

 気がついたらあっという間に病気になってしまいました。          

 気がついたらあっという間に仕事が終わりました。

 気がついたらあっという間にちょっと休憩しよう。

 気がついたらあっという間に頑張ってください。

思わず、「何でやねーん!」と関西弁がでてしまいます。😂


2:同級生に嫌味を言われても、とっさに       

正解例

○「バカと言うのがバカだ」などと言い返さず、冷静になった方がいいです。

○反駁しません。 

○反論したほうがいい。

○悪口を返さないでください。

言い返した方がいいのかどうか、意見が分かれるところですが、

私はどちらも良しとしました。

しかし、なかなか良しとは言い難いものもあるのです。


同級生に嫌味を言われても、とっさに仲直りしました。        

同級生に嫌味を言われても、とっさに振り返って走っていきます。

同級生に嫌味を言われても、とっさに腹を立てました。        

同級生に嫌味を言われても、とっさに喧嘩になりました。        

同級生に嫌味を言われても、とっさに気分が悪くなります。        

再び、「何でやねーん!」😂😂

学生が真面目に書いている姿を想像すると

よけいに笑いがこみ上げてくるんですね~。

しかし、「とっさに仲直りする」神業や、「とっさに喧嘩になる」短気さも

捨てがたいですよね。

半年後、今より上達していることを祈って( ^ω^)・・・。

 

 

*今日もまた、研究室からです。今までで最悪のネット断絶状況で、

研究室のwifiを使っても、VPN(有料)に繫がらず。

10月に、「中国政府がさらにインターネットの規制を厳しくする」 と報道されていたのは

これかなと思わざるを得ません。

もう、フェイスブックもツイッターも日本に帰るまで見られないかも……。

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「水俣病患者の反公害闘争を授業で紹介」No.1807

2016-11-29 18:32:53 | 教育

「日本人もやるときゃやりますよ。」

自分がしたわけでもないのに、今日、私は思い切り誇りを持って

学生たちにこう言いました。

水俣病患者とその家族、支援者たちの50年に及ぶ闘いのことです。

 

高度経済成長期には全国規模で様々な公害が発生しましたが、

その一つ、熊本県水俣市の水俣病について写真と文で紹介しました。

今の中国社会も公害問題で苦しんでいます。

日本の経験を学ぶことで、

学生たちに中国の人々の被害を最小に抑える方策を考えてほしかったのです。

写真は以前ネットで探して保存しておいたもので、

申し訳ないのですが出所を記録していませんでした。

私自身、感動を持ってスクリーンに写し続けた何枚もの写真を、

学生たちも固唾を飲んで見ていました。

熊本大学医学部の学生たちのハンストには驚きの声が上がりました。

自分たちにそんなことができるとは想像もしていないからでしょう。

お金をチッソの社長に突き付けて、

「お金じゃない、健康な体を返せ」と要求する女性の映像に、

何人もの学生が頷いていました。


それにしても、日本ではこうして先輩たちが直接行動を辞さず、

法律が制定されていなかったら、制定するように政府に働きかけ、

裁判にも訴え、公害を垂れ流す元凶の会社にも押しかけて、

実力行使で頑張ってきたからこそ、

公害対策基本法(1967年)、現在の環境基本法(1993年)が制定され、

2009年には、未認定患者を救済する

水俣病被害者救済特別措置法」が成立したのです。


そして、今、沖縄の辺野古・高江でがんばる人たちも同じことをしています。

なぜ一部の人々は、

沖縄の主張を、政府と一緒になって足蹴にしようとするのでしょう。

基地も公害なのです。

 

 

 ↑補償額提示に反対する水俣病患者家族の代表らが、遺影を抱いてチッソ本社前に座り込んだ=1970.5.14撮影

 

↑指が曲がったまま自由がきかない水俣病患者の手 =水俣市で1970年5月撮影

 

 

↑厚生省前で座り込み、水俣病患者の写真を掲げて企業責任を追及する「水俣病を告発する会」のメンバーら。中央が「苦海浄土」の著者・石牟礼道子さん=1970年5月25日撮影

 

↑教授陣に対して「水俣病患者放置の責任をとれ」とハンストする熊本大医学部生

=熊本市で1971年12月2日

↑患者たちの自主交渉要求を拒絶していたチッソ側は、本社内への通路を閉ざした=1972年撮影

↑スウェーデンで開かれた「第1回国連人間環境会議」。政府代表だけにまかせておけないとストックホルム市内で水俣病の被害を訴える患者の浜元二徳さん(左から3人目)と坂本しのぶちゃん(同4人目)1972年6月6日、毎日新聞特派員団撮影

「他人には預けられない」と16年間、胎児性水俣病患者の上村智子さんを自宅で介護する母親の良子さん=水俣市1972年10月4日

↑水俣病訴訟最終弁論を迎え、熊本地裁前に立ち並んだ「怨」の旗=熊本市で1972年10月11日撮影

↑市立リハビリテーションセンターでリハビリに取り組む胎児性・小児性水俣病患者ら=水俣市1973年3月20日撮影

↑預金通帳と現金を島田賢一・チッソ社長(手前)の前に積み上げ、

「もとの体に返せ」と詰め寄る患者たち

東京都千代田区のチッソ本社で1973年4月13日撮影

↑胎児性水俣病患者の上村智子さんを抱き上げながら、

父の好男さんから苦しみを聞く三木武夫環境庁長官

=水俣市の坂本さん宅で1973年年5月9日撮影

 

水俣病の公式確認から40年軌跡をたどる「水俣・東京展」が東京品川駅前の特設会場で開かれた。水俣病患者500人の「遺影」が並ぶ会場1996年9月28日撮影

 

 

水俣病関西訴訟判決で最高裁判所が行政責任を認め原告(奥)に頭を下げる小池百合子環境相ら2004年10月15日、環境省で佐々木順一撮影

50年前の写真とともに、記念撮影に臨む水俣病被害者たち

=水俣市のエコパーク水俣親水緑地で2010年5月1日、和田大典撮影

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「道で未知との遭遇」No.1790

2016-11-06 23:54:57 | 教育

野菜を買っての帰り道、地面で何かがカサコソ動くので、見てみると……。

 

何でしょうねえ。このビミョーな色合いの模様は初めて見たものです。

翅の先も、不幸な事態に遭って千切れたのか、最初からこういう形なのか……。

足なんかちょっと、ゴキブリ的ですよね。

私が見ているので落ち着かないのか、

大急ぎで安心できるところへ避難しようとしているかのようにせっせと移動し、

道路の隅のポールに登り始めたのです。

 

カメラを通して目と目が合ったっていうか。

その後、あまりじろじろ見るのも失礼なので、

ちょっと離れて気配を隠すと(忍者かい!)、

虫はポールから降りて、さらに当てのない道行を続けていきました。

(あんなに頼りない感じで、良く今まで生きていられたなあ)と、

心配しながら私も宿舎に帰りました。

今も生きているといいな。人生?はきびしいけど。

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「日本語愛好者協会というクラブ活動」No.1788

2016-11-03 21:07:56 | 教育

菏澤学院には「日本語愛好者協会」というクラブがあり、

日本語学科の学生は全員強制的に会員になっています。

しかし、熱心なメンバーの多くは英語学科の学生だというから不思議です。

3週間前の話ですが、全学上げての新入生勧誘活動があり、

日本語愛好者協会では、日本語学科2人、英語学科2人のメンバーが

浴衣姿で宣伝・勧誘に当たりました。

くじ引きで当たったテント設営場所が超端っこのため、

見に来てくれる人も賑やかな通りの半分ほどでしたが、

それでも60人ぐらい登録者がいたそうです。

江西財経大学勤務時には尖閣問題とそれに端を発した全国規模のデモがあり、

緊迫した雰囲気を感じた時期もあるのですが、

今、この大学ではそうしたムードは皆無です。

私が日本人だと知ると、

「日本人老師ですか。日本語愛好者協会に入ったら日本語を教えてくれますか。」

と質問されたり、全く関係ない学部の学生が、

日本語で延々と歌を歌って聞かせてくれたり

(半分以上は何と言っているか聞き取れなかったですが)、

「私は小さいころからウルトラマンと仮面ライダーが好きでした」

とニコニコと語る学生がいたりで、

今まで、いつもどこかに(私は日本人だし、ここは中国だ)と

ピンと張ったものを抱えていた私の心の緊張感を溶かすかのごとく、

超の~んびりムードが漂っていました。

帯結びが苦手な私はいつも適当に髪飾りでごまかしたりしています。

そんなこととはつゆ知らぬモデル学生の陳さんです。

 

下は科学技術クラブのパフォーマンス。マネキンの顔がキュートですね。

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