毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「北京レポート」     2011年10月30日(日) No.214

2011-10-30 08:56:37 | 中国事情
 昨夕、女子学生二人が遊びに来た。一人は、今年日本語学科を卒業して財経大学大学院国際貿易コースに推薦入学した李えいさん、もう1人はこれまた奇跡の復活で推薦入学が決まった4年生の楼さんだ。

 同じ外国語学部(中国では「外国語学院」と言う)でも、英語学科の学生の場合、大学院の英語コースを選択して、それに推薦されると学費は無料だ。しかし、この財大大学院には日本語コースがないので、日本語学科の学生が(当然他学部や他コースに)推薦されても、学費は2年間で24000元という、途方もない金額を払わなければならない。
ただ、試験をパスできるという特典があるだけだ。「だけ」と言っても大きい特典だが。

 二人とも、ラッキーなことに8000元(大学の老師の給料2ヶ月分ぐらい)の奨学金を得ることができたそうだ。楼さんは、後の16000元の学費をどうやって捻出するか、頭が痛いと愚痴っていた。行けども行けども、問題はお金だ。

 そんな二人に将来行きたいのはどこか聞くと、楼さんは「日本!」と言う。彼女は江戸川コナンの世界の人なので、「江戸」に行きたいんだそうだ。卒論テーマも江戸時代の何かにするという。
 他方、1歳年上の李えいさんが行きたいのは、深センでも上海でもなく、やはり北京だそうだ。歴史と文化が息づく落ち着いた都市だと言う。私は十数年前に、内モンゴルに行くため一晩北京のナントカ飯店に泊まっただけで、覚えているのは、朝の出勤時、広い車道がほとんど自転車で埋め尽くされていた光景だ。道路が競輪選手たちに占拠されたようなその様子は圧巻だった。今は当然自動車が取って代わっているに違いない。

 多くの学生たちにとっての憧憬の地、北京で働き始めた4年生の甘しゅくさんがレポートを送ってきた。彼女もまた、北京に憧れて江西省を出て行った生粋の江西省っ子だ。


                         
         実習レポート 甘しゅく   2011/10/25

  知人のおかげで、私は仕事ができました。しかも首都の北京です。生まれてから一度もほかの省に行くことのなかった私は、本当にうれしかったです。初めて行くとき、一人で道もわからなくて、なんだか浮き草のようでした。北京に着いてから二週間後、やっと仕事場に入りました。

  毎日会社に行くのは45分くらいかかって、しかも人が多くて混んでいます。毎日朝9時から午後6時まで、昼食の時間は12時から13時までです。昼寝の時間がないので、午後は本当に疲れて潰れるようです。

 私の月給は2000元です。でも、物価は本当に高いです。昼食だけでも15元~20元かかります。南昌では一日でもこんなにかからないです。本当に大変です。みなさん、南昌にいる日々、大切にしたほうがいいですよ。
 会社は中关村にあります。(中关村って、クラスメートのみなさんは知っていると思いますが、先生は知っていますか?もし知らなかったら、えーと、皆さん多分先生に教えると思います。)

   国慶節のとき、北京の胡同を旅行に行きました。以前はただテレビで見たことがあるだけでしたが、実際に見ると大変心が打たれます。しかし、この古代からの住居様式がだんだん減っています。国家政府が何か政策を取らなければならないと思います。
 北京に来てから、雨が降ったことがない。とても乾燥して、でも長くいると、心が静かになるような気がする。
   まだ北京にいる時間が浅いので、具体的のことはまだ実感していません。後、また皆さんに紹介します。



 「『中关村』て何?」と学生に聞くと、「え~っと、秋葉原みたいな…」「シリコン=バレイのようなところです」ということで、IT関連の企業が集中しているところと解釈した。深センレポートにも似たような地域(=関内)があったような…。
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「財布を掏られた…」     2011年10月25日(火) No.213

2011-10-25 22:05:16 | 中国事情
 「南昌はどろぼうが多い」と学生達から聞き、実際に身近で被害に遭った人の話も聞いた。何となく(次は自分の番かも)と思っていたら、案の定、舌を巻く見事な手口にやられてしまった。

 先週土曜日、久しぶりに南昌市内の八一公園に行った。そこでは毎週土日に「日本語コーナー」という青空日本語教室が開催されている。無料で自由に日本語が学べるので、学生や会社員、元日本に留学していた主婦など、多彩な顔ぶれが集まってくる。今回は、日本に半年ほど留学したいという金持ちの小学生とそのお父さん(この夏休み、高級マンション売り出しイベントに連れて行ってくれた人)まで参加していた。

 ワイワイお喋りをして、12時に解散し、日本人のキタ先生・ムラオカ先生と昼ご飯を食べに行った。目的のレストランに着いて、ふとポシェットを見るとチャックが開いている。(変だな。公園で確かにチャックが閉まってあるのを確かめたのに)と中を見たら、あらまあ、なんと、あのヒサミさんがくれた手作りの皮財布が見あたらない。取られたんである。
 普段、ポシェットに比して巨大なその財布は、ポシェットから出す時、いつもチャックに引っかかって取り出しづらいったらないのに、掏った人は、肩からたすき掛けにポシェットをぶら下げている私にも、そのガタピシ引っかかり感を全く感じさせず、本当にいつのまにかスルリと引き抜いたのだ。神業だ。おそらく、たいへん訓練を重ねてきたとしか思えない。
 中には、私としては大金の500元を入れていた。和食レストランで割り勘で払う可能性を鑑み、持ち歩く最大の金額を入れたので、それも残念だったが、さらに恐ろしいことに銀行のカードもキッチリ入れこんでいたので、そちらの方が怖かった。幸い、オフィスのAlexに電話で頼んだらテキパキ対応してくれ、カードはすぐにストップしてもらえた。
 結局、「北海道」という高級和食レストラン代は全てキタ先生が、その後の贅沢なコーヒーショップの代金はムラオカ先生が出して下さって、私は1元も払っていない。ないので払えもしないのだった。

 翌日、スリ被害の話を詳しく新平老師に話したところ、
「ぼくも何回か掏られたことがあります。」
と穏やかな口調。こういうときの新平老師の話し方は、実に人をホッとさせてくれる。その後で
「掏っている現場は、だれか周囲の人が見ているはずです。それでも、誰も注意しません。」
と続けた。(あれ、何か似ているな、佛山市の女の子事件と…)と感じた。

 今日、学校で
「中国では、スリが人の財布を掏っている現場を見ても、誰も注意しないの?」
と学生に聞いてみた。3人中3人が
「注意しません。スリはきっとナイフを持っているし、こちらに危害が及ぶかも知れないから。」
と言った。(中国のスリは攻撃的、というより、中国ではみんな、人が人に対してどんな攻撃をかけてくるか分からないと、いつも頭に入れて行動しているのだな)と思った。
 ただし、バスの中で席を譲るのは、状況が違う。席を譲るときは、立っている妊婦や年配者がナイフで襲いかかるはずがないという安心の元に、親切な行いができるのだ。
 例の、親切にも転んだ老婆を助けて「お前が転ばしたんだ」と罪をなすりつけられ、しかも有罪になったような事件は、他にもいくらでもあるそうだ。

 それでも、私は納得できない。2歳の女の子が「お前が轢いたんやろ!」とか言うはずないのに。怖じ気づくにもほどがあるだろう。
 中国人の心の中で、理不尽にも消されていったあまりにも多くの正義の人々は、生きるためには振り向いてはならない恐怖の闇として存在しているのだろうか。筋を通して殺されていった人たちは、今の、この中国の人々の状態を見てどう思うだろう…。

 そんなこと思っても、私は部外者だ。帰ろうと思えばいつでも帰れる、スリにナイフで刺される可能性が少なくともここより低い国へ。そして、日本は日本で「我関せず」ピープルは五万といるのだ。

 
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「学食事情」   2011年10月23日(日) No.212

2011-10-23 23:34:59 | 中国事情
 21日の文は「金盾」に盾突いたわけではなかったようだ。まだ自分のブログに来られる。嬉しいな。

日曜日の今日は、朝からずっと作文チェックとプリントの○つけだった。途中洗濯物を干したのが、せめてもの気分転換。で、3年生の作文の中に「食堂の環境問題」というのがあって、それを読むと(何だって~~!今まで知らずにそんなもの食べていたのかあああああ!)と髪をかきむしりたくなった。これを読めば当地の学生ならびに職員がどのような条件下に置かれているか、その一端が分かってもらえると思う(自分でも知らんかったくせにちょっとエラそう)。



 「食堂の環境問題」  竜義○
 
 われわれは毎日食堂で食事するので、料理された物の安全などの問題は非常に気になる。
そこで食堂の環境と食物の安全問題について調べようと思った。調査方法としては現在の校内食堂の環境について嫌なものの項目を掲示板に掲げておき、昼食が終わった学生に選択してもらった。内容と結果は下の通りである。

 ①食べ物の中に虫や髪やタバコの吸い殻などが入っていること。
 ②野菜を充分洗っていなかったり、ややもすると腐った葉っぱが入っていること。
 ③壊れた皿をすぐに換えず、いつまでも使うこと。
 ④ご飯の皿と箸の消毒が不充分、また、時々は全く消毒されていないこと。
 ⑤テーブルの上が油で汚れていること。
 ⑥食事中、放送している音楽が聞くにたえず、食欲が全然湧かないこと。

各問いには、「ちょっと我慢できない」「かなり嫌だ」「非常に怒っている」という三つの選択肢がある。種種の問題を、嫌がられる程度によってランク付けし、最も嫌なものを第1位とする。調査の結果は以下の通りだった。

 第1位:①食べ物の中に虫や髪やタバコの吸い殻がはいっていること。
 第2位:②野菜を充分洗っていなかったり、ややもすると腐った葉っぱが入っていること。
 第3位:④ご飯の皿の消毒が不十分、また時々は全く消毒されていないこと。
 第4位:⑤テーブルの上が油で汚れていること。
 第5位:③壊れた皿をすぐに換えず、いつまでも使うこと。
 第6位:⑥食事中、放送している音楽が聞くに堪えず、食欲が湧かないこと。

 この結果をみると、学生たちが料理の安全について深刻に悩んでいるのがよくわかる。うちのキャンパスの食堂の食物衛生管理は想像以上にひどい。食堂の管理人はこれらの問題を重視しなければならない。また、速やかな、そして有効な措置を取るべきだ。学校の食堂で、食べ物の中に虫やタバコの吸い殻が入っているという情況は、想像できないほど劣悪である。学生の身の安全と健康のために、学校の管理層はこんな問題に対して真剣に取り締まってほしい。
 


 本当に、この竜さんの言うとおり。今まで一年以上、こんな食堂で平気で食べてきた自分は、どうなっていたんだろう。料理にタバコの吸い殻が入っていたことはまだないが、タマネギの殻とかは時々、テーブルの上のヌルヌルは毎度のことで、自分のところだけティッシュでゴシゴシ擦ってやり過ごしてきた。(日本とは違う、日本とは違うんだから)(ここは中国、中国のみんなが平気なのに文句ゆうたらアカン)と思ったことは確かだ。しかし、学生がこれだけ文句言うんだから、誰に遠慮する必要があろうか。今度から文句言いまくろうっと。でも、聞いてくれる大学当局の人ってどこにいるものやら…。
ホントにどこの当局でも、一般市民の声なんか一つも聞く耳ないんだから。学生が、「言っても無駄です。」と言うのも分かるわ~。
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「佛山市の女の子事件」     2011年10月21日(金)  No.211

2011-10-21 09:44:58 | 中国事情
 今日のタイトルや内容はリスクがある。しかし、他の言葉で言い表すことが難しいので、これでいい。もし、また金盾か何かによってこのブログが閉鎖されたら、また別のブログを開設するまでだ(とか言っても今回はNo.211まで続いた我がブログ…、ちょっともったいないな~)。


 先日宿舎に来てくれた範さんのお母さんは、文化大革命の当時、小学校~高校時代を過ごした。授業は午前中だけで、午後は労働する日々だったので、ろくに勉強していないとのこと。お父さんも同様だったが、文革後、一度は働いていたものの、どうしても大学に行きたくて、自力で受験勉強した末に進学したそうだ。現在、お父さんは河北省の高校の理科の先生、お母さんは公務員をしている。
 これは、私が範さんのお母さんと何とかコミュニケーションを取りたくて、「英語は話しますか。」と聞いたときに、範さんが説明してくれたことだ。
今、大学に在籍している学生の親は、多くがその世代である。中国の「暗黒時代」と呼ばれるあの時代は、中国の人々にとって、遠い昔のことではない。

 先日、学生と学食で昼食を取りながら、就活の話などペチャクチャ喋っていたときのこと。Aさんが、
「故郷の先輩の話なんですが、就職の書類に『自分は天○○事件と一切無関係です』と書いたそうです。でも、その先輩は、1989年の事件当時、まだ2歳だったんです。」
と言う。Aさんは続けて、
「私は良かったです。その事件の時はまだ生まれていませんでした。」
・・・。
そのとき、一緒に食べていたBさんは、キッとした顔で
「私も生まれていなかったけど、私は書類に書きます。『天○○事件とは無関係です』って。」
Bさんは、精一杯の皮肉を当局に示したいのだ。

 実は、AさんもBさんも「天○○事件」がどんな事件なのか、私に会うまで知らなかった。他の学生もほとんど知らない。ただ一人、「高校時代の先生が、授業中に教えてくれた」というラッキーな子がいただけだ。その高校の先生は本当にすごい人だなあ。
20年以上前のことなのに今もなお、かん口令が敷かれている。私は日本がすばらしい国だとは手放しで思わない。しかし、この国の言論の自由のなさ加減は、やはり日本の比ではない。一般の人々は自分を守るために、政治には無関心になる傾向が大である。
この自己保身の傾向が、10月13日の佛山市の事件に全く影を落としていないと言えるだろうか。


 広東省佛山市で、2歳の女の子が車に轢かれ、ピクピクしているのに、18人もの人が彼女を見殺しにして
立ち去った。そうこうしているうちにその女の子はまた別の車に轢かれ、病院に運ばれたときは脳死状態だった。
 「酷い国だな、中国は。」「やっぱり中国人はね~。」という日本のネットの書き込みを見て、(チクショ-!)と思う。鬼の首を取ったかのように、嬉しがる反中国の声には吐き気をもよおす。
 南昌に来て、中国人の心の温かさに包まれている私には、どうしてもこの事件は納得できないのだ。私は、はっきり言って、日本人の方が(関わり合いになりたくない)という冷たい態度が顕著だと思っている。
 いつも、バスで妊婦や年配者を見つけたら手を引っぱって「座れ、座れ。」と勧める中国の人たちなのだ。広東省は経済活動が活発で、治安もあまり良くないと言われるが、そんなことだけで説明できることだろうか。何がこの18人の心に去来したのか、知りたいと思う。

 昨日、3年クラスで学生達に聞いてみた。そのニュースを知らない子は数人いたが、ほとんどの子は知っていた。みんな、一様に悔しがっている。昨日の宿題は、この事件の背景を調べることにした。

 

 


 
 
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「大人の中国人来たる」  2011年10月18日(火) No.210

2011-10-18 15:24:57 | 中国事情
 国慶節(10月1日~9日)からこっち、我が宿舎には何組もの訪問があった。隣の東華理工大学のムラオカ先生と関学退職後、悠々自適の留学生活を送るキタさん二人は、唯一の日本人で、しかも大人だった。後は、各学年の学生たちが5,6人ずつ入れ替わり立ち替わり来るので、料理を作る分だけ普段の仕事より疲れた。といっても、常に「カレーライスとサラダ」のメニューは不動だ。何を作ろうか迷う余地はない。

 しかし、10月15日(土)、ついにこの宿舎に中国人の大人が遊びに来た(といっても、4年生範さんのお母さんだけどね)。
 この日は、元々、一年間いろいろ私のために尽力してくれたいつものメンバー楼さん、郭さん、劉さん、黄さん、範さん、5人全員の誕生パーティーと各種お祝い(作文コンクール黄斯れいさんの三位入賞・範夢しょうさんの佳作)をする予定だった。(そんな誕生パーティーがあるかい)と思うだろうが、もう4年生には余り時間がない。みんな大学院進学を希望しているが、試験は来年1月8日、もう100日を切った。のんびりしてはいられないのだ。

 このメンバーの中で、唯一進路が決まったのは、あのどんでん返しの大学院推薦劇から不死鳥のように甦った楼さんだ。彼女には、どこまでも幸運の神様が付いているようで、今年から日本語学科の推薦枠は、1人から2人になったそうだ。いったんは落選した彼女だが、「捨てる神あれば拾う神あり」とはこのことか。

 河北省で公務員をしている範さんのお母さんが、なぜここ南昌の娘の所に来たのか聞くと、範さんは例によってホームシックに陥ったのだ。きっかけは、国慶節に一生懸命勉強している範さんのところにお父さんが電話してきて、
「国慶節に帰ってこないのか?」
と聞いたそうだ。その言葉一つで範さんは心のバランスを崩し、勉強の気持ちがメチャクチャになってしまった。それを心配したお母さんが、国慶節が終わってから、遠路はるばる汽車に揺られ、18時間かけて娘を見に来たのである。範さんは一人っ子である。他の4人は(あっきれた!)という冷ややかな目線をさりげなく送るが、範さんはこたえない。

 保護者が来るとあって、私は(いつものメニューじゃ、いくら何でも…)と思い、コロッケも作ることにした。みんな、手伝ってはくれるのだがお喋りもすごくて、私もつい自分の作業をほったらかしてお喋りの輪に突っ込み、ディナーは6時ぐらいになった。準備が3時前からだから、どれだけダラダラやっていたか分かってもらえるだろう。
 
 黄斯れいさんが、この前のとんでもなく辛い魚料理(あれはやっぱり四川省料理だった。ものすごい量の山椒と赤唐辛子が味の全てを決める…)を買ってきてくれて、食卓は豪華なレストランのようだった。
コロッケは、浙江省出身の楼さんにかなりうけた。浙江省の味と日本の関西の味は似たところがあるのかも知れない。範さんのお母さんも、初めてのカレーライスを「美味しい。」と全部食べてくれた。BGMにショパンをかけると範さんは、小さい声で
「母は、食事時音楽をかけるなんて初体験です。家ではいつもテレビを見ながら食べています。」
とつぶやいた。日本でもそういう家庭は多いけどね。

 江西省の辛い料理を一週間食べ続けた範さんのお母さんは胃を壊し、口の端に「熱の花」のようなものが出ていた。私はまだ出たことがない。おかしいな。
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え~、山本太郎が来る?!  2011年10月15日(土)No.209

2011-10-15 12:45:19 | イベント情報
 「草の根だより」のヤマザキさんが「さよなら原発関西のつどい」のチラシをわざわざ大阪から南昌に送って下さったので、日本の友人・知人の皆さんにこのブログ上でパスします。

 『山本太郎(交渉中)』の文字に(何やて!ああ、行きたい、行って確かめたい!)と胸騒ぐのは、私、ブルーはーとだけではないでしょう。
私はあの「夜を賭けて」で一気に好きになりましたね~。「ゲロッパ」のチャラチャラした大阪出身の兄ちゃんぶりもメチャ面白かったし。でも、何より「脱原発行動」で身近な仲間になりました。
みんな!明日はえる・大阪に行って、山本太郎にサインしてもらおう!(^O^)!

(ここにはスキャンするものとてなく、チラシを壁に貼りデジカメで撮影したんで、めちゃ見辛い映像ですが、我慢してね~)


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「南昌人はガラ悪い」と言うが・・・  2011年10月13日(木) No.208

2011-10-13 20:32:22 | 中国事情
 他の地域出身の大学生の間で、ここ、南昌はすこぶる評判が悪い。「ガラが悪い」「どろぼうが多い」「交通ルールを守らない」等々。

 そうかも知れない。他の地域を知らないので、そんなふうに言われたら、そうか、そうかと聞くのみである。でも、そんな南昌でホッコリするときもあるのである。

 最近スクールバスが来ないことが多いので、おのずと「ガラの悪い」ミニバス(むりやり10人乗せるバン)を利用する機会が増えた。
スクールバスの代わりに市バスに乗ろうと、停留所で待っていると、そのバス停に横付けして、ミニバス運転手が「楓林!麦路園!一快銭!!」と叫ぶのだ。楓林は蛟橋キャンパスから麦路園キャンパスに行く途中にあるやや小さめの財大キャンパスだ。初め、このかけ声が「オンリー! マイルーユン!」と聞こえ、(麦路園だけに行くと言っているのだな)と信じていた。しかし、なぜ「オンリー」と英語で言うのか?と不思議だった。半年ほど後になって、学生に聞くと
「オンリーじゃなくて、フォンリン(楓林)と言っているんです。」
と、あっさり謎が解けた。
 ミニバスの運転手たちは、みんながみんな、とても日に焼けている。麦路園キャンパスの門前では、夏になると全員がシャツを脱ぎ、上半身裸でゴロゴロしている。校内から学生が出て来ると、「楓林!蛟橋!」と、行き先のキャンパス名を大声で怒鳴る。若い女子学生の中には、その裸の男達の怒鳴り声を聞いただけで怖くなるという子もいる。
 先日、宿舎のある蛟橋キャンパス前の市バス停留所で520番のバスを待っていた。そこにミニバスが来て、何度か乗ったことのある見覚えのある運転手が顔を出し、「楓林!麦路園!一快銭!!」と叫んだ。
誰も乗らない。520番が来たらできるだけそちらに乗りたいのだ。とにかく、交通事故が何回もあったという悪評判がミニバスにはあるので。
 私は、早く行きたかった。そしてミニバスは麦路園キャンパスの門前にまで行ってくれるのも魅力だった。市バスはいつ来るかさっぱり分からない。なので、誰も乗っていないが、賭ける気分で先頭切ってミニバスに乗った。その後、どんどん学生が乗ってくるかと思いきや、ちっとも乗客は増えない。イライラしていたら、運転手が私に「来了!来了!」と言う。なんと、520番の市バスが来たのを教えてくれているのだ。
「謝謝!」と言って、車から飛び降り、市バスに乗り換えた。

 ほとんどの運転手さんは短髪で真っ黒に日焼けし、人をジロジロと睨むように見る。でも、中には私が「全家百貨に行きたい」と言うと、店の真ん前に車を止めてくれた人もいる。学生が特等席(助手席)に座っていたら、「老師と変われ!」と怒鳴って私を座らせてくれた親切な?人もいる。みんな、私が「日本人老師」だと知っているようだ。一人「ハロー、こにちは!」と日本語を操る人まで出て来て、私は
(ガラが悪いのは心悪いということじゃない)と確信するのだ。
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『がんばりません』      2011年10月11日(火) No.207

2011-10-11 18:59:19 | 日記
 佐野洋子の「がんばりません」を読んだ。
 
 タイトル通り、がんばらないで、寝る前に毎晩ベッドの上でだらだら読み、読み終えるのに一か月もかかった。
私の手元にあるのは新潮文庫のものだが、彼女はこの本を1985年に「本の雑誌社」から『佐野洋子の単行本』というタイトルで出している。残念なことに彼女は昨年72歳で亡くなったが、これを初めに出版したのは47歳頃だ。
「がんばらない、でもあきらめない。」と蒲田實さんが言い始めたのはいつごろだろう。

 1985年当時、私は大阪市内の小学校教員だった。同僚教師の中に私より数歳若い人で「がんばらなくてもいいのよ。」と、事あるごとに子どもに語りかける女性がいた。例えば、体育の100m走で、また、例えば、運動会のグループ競技「台風の目」とかで、次は自分の番だと勇み立っている子たちに言うのである。
(今、言うか~)と私は微妙な違和感を覚えていたのでよく覚えている。
運動会の開会式の雰囲気、行進などは子どものころから大嫌いな私だが、ゲームは好きだった。勝った、負けたで学校から家まで道々喧嘩しながら帰ったこともある。ゲームなのに、加熱しすぎてしまう傾向が私にもあったのだ。

 大人になって教員になり、子どもたちに「負けても全然恥ずかしくない、一生懸命やれば。」とは言った。心の中では(よくこんな安っぽい、歯の浮くようなこと言えるな~)と大いに恥ずかしかったが、負けるに決まっている子を救いたかった。しかし、「がんばらなくてもいい」とは言い辛かった。今も思う。当時の、私よりやや若い同僚は、言う相手と場面を間違えていたんじゃないか、と。

 佐野洋子さんは私の計算によると、1938年に中国の北京で生まれている(それだけですごい!)。戦争末期の中国大陸で成長し、日本人全てが貧しかった戦後の時期を生きて大人になった人だ。そういう人は、いくらでも「がんばりません」とふんぞり返る資格がある。生まれたときから頑張り続けてきたんだから。

 文中、粗末な家で正月を迎える佐野家の両親の意気込みや、どたどたと殺気立った暮れの大騒ぎなどの描写を読んで、(そういえばうちの両親もそうだったなあ)と、少し年代と場所は違うが、北海道の超山奥、引揚者の両親が自分たちで建てた家での正月を迎える慌ただしさを懐かしく思い出した。

 佐野洋子さんのお父さんの口の悪さは、私の母と似ている。
彼女のお父さんは、自分の子どもを「ヒョーロク玉」(兄)、「この引き出し野郎」(子供のころ受け口だった佐野さん)、「洗面器みてえな奴」(平たい顔の妹)と好き勝手、言いたい放題に呼んでいたそうだ。
 わが母は、子どもの私が目の前にあるものを探してウロウロしていると「このあきめくら!」、親の言ったことが理解できないと「この鶏頭!」と罵倒した。私が大人になって、「子どもの頃こうこう言われた」と言うと、母は面白くてたまらないようにくすくす笑うのだった。
 そうそう、私が娘を連れて実家に帰った時、娘ナオが車のドアに手を挟んで泣きかけたことがある。母は車の中でそれを見て、大慌てで「あっ!このバカあほ!」と叫んだ。それも、後でさんざん話題にしたが、そのたびに母は涙が出るほど笑っていた・・・。



 
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深センからのレポート    2011年10月7日(金)  No.206

2011-10-07 11:50:31 | 中国事情
 4年生の中には、もう8月から働いている学生もいる。8月末の新学期開始以来一度も授業に出て来ない。そりゃ大学にいないから無理だ。学校ではそれを認めているし、授業の単位も取りなさいと言う。
この矛盾を調整するために、私は自分のクラス「商務日語」を受講する学生のうち、就職した学生は「実習レポート」を提出することを課題にした。
 既に何通か届いているが、その中から、深圳(セン)で8月から就労している王えいえいさんのレポートの一部を紹介しよう。深センという都市の様子もちょっとだけ感じ取ることができるし、中国の会社の雰囲気も伝わってくる面白いレポートだ。資料なども添付されていて(ここでは割愛)、授業の役にも立つ。(えいえいさん、えらい!)こういうレポートが届くと、とても授業の励みになる。


         実習リポート          王えいえい

 競争の激しい所だと言われる深圳に私は初めて来ました。電車を降りる際、往来する人々の歩くスピードに気がつきました。なかなか早いですね。
 今働いている会社は委託加工の工場です。日々、電話の応対、メールの返信、伝票やインボイス、パッキングリスト等を取り扱っています。初めは分からないことだらけで、毎日、
「レジストとは何ですか、ガーバーデーターとはどういうデーターですか?」
といった問題で混乱していました。
 
 深圳は地域によって、物価が違っています。深圳は関内と関外とに区分されています。関内は主にハイテク産業や競争力を持つ会社の所在地で、関外は主に加工工場や、技術力が劣った会社の集合地です。だから、給料も物価も地域によって、違っています。
 今働いている会社は関外にあるので、物価はそんなに高くありません。詳しく言えば、わたしを例にとって見ましょう。朝の肉マン1.5元/二つ、野菜マン1元/二つという消費物価レベルです。、一般的には会社が給料の中から毎月の食費(200元あまり/月)を差し引いて銀行口座に送金します。さて、今私の給料は3200元/月で、週5日、8時間/日働きます。

 うちの会社PCB基板(printed circuit board)を生産します。
 来たばかりの時、製品の代表コードやら、生産プロセスやら、各生産設備の名前や作用、様々な証票の取り扱いなどが全然分からなくて大変だったんです。それに知っている人が一人もいませんでした。そのうえ、日本語のできる人も私しかいないので、お客様から納品催促された時や文句を言われた時、本当に泣くほどさびしくてしょうがなかったです。
 今はもうだいぶここの生活や人間関係などに慣れて、毎日楽しく過ごしています。来たばかりの時、同僚もマネージャーも私を「王栄栄」と呼びましたが、私は(あなたたちが私を‘栄栄’と呼ぶように頑張るぞ!)と決心しました。まあ、今の状態といえば、私達営業部の女の子一人は、私を「お婆さん」と呼ぶようになり(黄斯麗もうこう呼ぶよ)、もう一人の女の子からは「肉肉ちゃん」と呼ばれてしまった。経理さんにもやっと栄栄と呼ばれるようになりました。あだ名をつけられても、心の底から嬉しかったです。

 うちの会社のお客様も大変有名ですよ。シャープと三菱もその中にあります。日本からの注文も多い。でも、弊社では、ある言葉が流行っています。
「日本からの注文は“圣旨”です。」
先生は分かるでしょうね。彼らは日本からの注文や委託などを中国の古代の皇帝の命令と比喩していますよ。これも側面から、日本人の謹厳さを表していますね。
 
 この二か月間の社会生活を通じて、仕事に対する責任感の大切さや、各部門の協力の重要さをしだいに心得てきました。日本人の、仕事やものごとに対する真面目さや計画性もしみじみ感じています。日本のお客様がサンプル製造を委託するとき、必ずサンプルの出荷日や数量を確認し、時間を厳守しなければなりません。二か月や三か月後の注文予定も確定内示で連絡してもらえます。

 先生に一つ情報を伝えたいです。私のいる地区では、多くの会社は補助金を与えます。
日本語一級に合格すれば500元/月、英語の6級に合格すれば、500元/月の補助金がもらえます。だから、みんなの未来も明るいですよ。  


[注釈]えいえいさんは、全然太っていない。「肉肉ちゃん」は、彼女の顔が丸顔で、いつもニコニコしているのでついたあだ名かと思う。彼女は大学に二浪で入った。他の同学年の子よりちょっとだけ年上なので「お婆さん」と呼ばれるのだろうか。中国の表現は強烈だなあ。
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冬支度     2011年10月6日(木) No.205

2011-10-06 14:16:35 | 中国事情


 南昌は季節の移り変わりが極端だと誰もが言う。
確かに、タンクトップ一枚に半ズボンで「あぢ~!」と部屋の中をウロウロしていたのが9月17日、今から20日前のことだ。昨日から私は裏が起毛になった冬の靴下を穿いている。
近所のスーパー「全家百貨」でも、急に電気毛布や冬の部屋履きなどが前面に並びだした。ああ、暑すぎず寒くもない秋は、来たと思ったらもう去っていくのね~。とにかく「中国の4大火鍋(武漢・重慶・南京・南昌)」と言う人もいる南昌の暑い夏は、もう来年まで来ない。その代わりに、取って代わるのが涙が出るほど底冷えのする冬だ。一難去ってまた一難…。

 といっても、国慶節休み6日目の今日は薄曇りで、外はホワ~ッと暖かい。最高気温24℃と天気予報には書いてある。部屋は外より数度低い。
 この季節の楽しみは、何と言っても果物だ。柿、葡萄、梨、林檎、そして、私の好きな柑橘類が次から次へと種類を変えながら、果物コーナーを賑わしている。
 大きくて黄緑っぽい色をした文旦(ザボン)は中秋節には欠かせない果物だ。中国の人々は、家族と一緒に庭の木の下で満月を眺めながら、月餅と文旦をいただくのだそうだ。これは、昨日宿舎に文旦とバナナと葡萄を持って遊びに来た3年生達のうち、江西省贛州出身の竜さんが、にこにこ顔で語ってくれたものだ。そのシーンを思い出すだけでも楽しいといった風情で。
 しかし、ここでも「中国では」と括ってはいけなかった。一緒に来た内モンゴル自治区包頭(パオトウ)出身の李君が、
「あ、でもそれは南の地方の習慣ですよ。私の故郷では文旦という果物は採れませんから。」
と釘を刺した。彼の故郷の主な果物は、林檎、梨、すもも(李子)などだそうだ。その顔ぶれは我が故郷北海道と酷似している。

 昔、高校の修学旅行で初めて北海道から本州に渡り、列車の窓から外を眺めて、晩秋の日本海、瓦屋根の家々、その庭の木にくっついた柿を発見し、
「おお~!本物の瓦屋根、本物の柿の木!」
と興奮したものだった。

 それから40年以上経った。人は年を経るに従い、身体は押し並べて変化するが、考えや嗜好の変化の度合いは人に依ってずいぶん違うものだ。私は嗜好などいろいろ変わった方だ。もし若い頃にアーロン=ネヴィル(Aaron Neville)のネチャーっとした声を聞いたら、きっと(ウヘッ!)とか感じたことだろう。今はあの『ネチャー』が気持ち良いくらいで、ここ南昌にもCDを1枚持ってきた。
豊田雄三もO.K.ね。修学旅行のとき、烏丸二条辺りの京都新聞会館で中川五郎とジョイントコンサートをしていたのを見に行ったが、(何だ、このねっとりした声?!)と17歳の私は鳥肌で拒絶してしまった。今じゃ、余裕で許容範囲なんだけどね。
しかし、武田鉄矢だけはどうしてもダメだ。声と言うより話す内容がどうしてもフィットしない。あの武田鉄矢がNHKのTV番組に出演したとき、横で眠ってしまった高田渡を見て、「こうなっちゃあ、おしまいだね。」と言った。あのシーンは絶対忘れることができない。

 今日は学生が来ない。とてもゆったりとした気分で、気になっていた人にメールを書いたり、冬用毛布を干したりして過ごすことにした。こんなにのんびりした日は、一年中でもそんなに多くない気がする。

 

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4年生の会話       2011年10月4日(火)  No.204

2011-10-04 23:34:46 | 中国事情
 10月1日に花火付きケーキを持ってきてくれた4年生達の話は、いろいろ興味深いものがあった。

 まず、プリプリ怒っていたのが楼さん。
大学院推薦入学を勝ち取るため、春の江西省の「江鈴杯スピーチコンテスト」に臨み、見事最優秀賞の栄冠に輝いて、すっかり安心していた彼女に、突然、寝耳に水のライバルが出現したのだ。日本語学科で他に推薦審査に名乗りを上げていた学生は今まで誰もいなかったのに、締め切りギリギリで申し込みが一人出て来た。
その子は、かなり用意周到で、密かに一年生、二年生の時に成績が悪かったクラスを再度受け直し、高得点を得て、一年から現在までの平均点を90点以上に整えていた。楼さんは平均点ではその学生に及ばない。ただ楼さんは、2回校内の優秀活動家に送られる賞を得ている。スピーチコンテストでの成績もポイントに加わっていたので、勝負は互角かと思われたが、面接でそのライバルは、
「日本語学科クラスで成績が最も優秀なのは誰ですか。」
と聞かれ、
「私です。」
と平然と答えたと言う。
「最も優秀なのは範さんです。彼女は2番です。」
と、楼さんは我が宿舎でブーブー怒っているが、その面接現場では口を挟めなかったそうだ。
(それもそうね。面接官の前で喧嘩しちゃ、あんまりイメージ良くないわ)

そして、結果、楼さんは落ちて、その嘘つき学生が合格した。楼さんは悔しくて夜も眠れず、落ち込んで風邪までひいた。しかし、楼さんは自ら「B型ですから~。」と自負するように、落ち込みが長続きしない。我が家に来たときには、かなり回復基調で、さんざんライバルへの文句が言えるくらいになっていた。
それにしても、そのライバルは日頃から何かとせこい子だ。現在、私の授業も
「上海の日本語学校に助手として実習に行きますから、しばらく欠席します。」
と言っておきながら、ずっと寮に居るという。何人もが証言しているので確かだろう。こういうセコ技学生が、大学院進学の推薦を受けて合格するのは、とても嫌な気持ちだ。成績が良いと言っても、受け直して修正した成績だ。そこまでするのだったら、楼さんがずっと前から、クラス全員に自分の推薦進学希望を述べているのだから、自分も何らかの形で楼さんの耳に「私もそれを希望している」旨を伝えておくのがフェアなやり方だと思う。なんともはや、爽やかじゃない感じ。

 この日、私が作ったのはお馴染みのカレーライスと、スパゲティという取り合わせだった。江西省であまり見かけない料理を紹介するのも、学生を宿舎に招く理由の一つだ。
私はわざわざ大阪のコーヨー鮮度館で買ったデュラム小麦のスパゲティ麺を持参し、ケチャップは全家百貨で買って、スパゲティ・ナポリタンをご馳走した。
「…甘い。」
これが一口食べた感想。(何でやねん。塩もこんだけ入れてんのに)と私は不満だったが、黄さんが
「先生、辣豆腐、冷蔵庫にありますか。」
と言って、運んできた。そしてスパゲティと混ぜて食べている。他の子達も次々と真似をして、
「あ!辣豆腐と混ぜたら美味しいわ!」
などと言っている。ケチャップの味が甘すぎると感じているのだ。
私がベトナムのうどんを食べたときと似たような違和感があるのだろう。しかし、私的には上手にできたナポリタンだったのに…。
 食べながら、あれこれペチャクチャ喋っていて、範さんが楼さんと郭さんに、
「二人が恋愛関係を確立したのはいつだったですか。」
などと聞いている。
「つまり、付き合いだしたのはいつか、と聞いているんですね。」
と私が通訳して二人はようやく、そんなに難しい質問を浴びせられた訳ではないと安心した。

 食後、サンヨーのラジカセで音楽を聞いてリラックスした。
おおたか静流にショパン、バッド=パウエル、フジ子=ヘミング、CANNED=HEATとまさにバラバラ。
ところで、今、黄さんと範さんが一番好きだという曲は、浅川マキの「夜が明けたら」なんである。これは完全に私による洗脳なんである。去年、私が赴任したばかりのころ、彼女たちの愛唱歌は「おじいさんの古時計」だった。彼女たちはちょっと大人になったのである。

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国慶節      2011年10月2日(日) No.203

2011-10-02 11:14:27 | 中国事情
 
関西で「さよなら原発1000人集会」が行われる今日10月2日は、中国では国慶節(日本風に言えば『建国記念日』)2日目。
 いつものように連日、人々は昼も夜もかんしゃく玉、花火で祝っている。夜、余りにも炸裂音が大きくて、宿舎の窓から外を見ると、向かいの宿舎でも、アメリカアイダホ出身のリャンだかレックだかが窓を開けて外を注視していた。ああ、せめて夜10時以降は喧しい音を立てないという決まりができないかなあ。
 
 昨日は朝から4年生の範さん、黄さん、楼さん、郭さんがケーキを持って一日遅れの誕生祝いに来てくれた。宿舎の建物は、国際交流與合作処オフィスのビル一階にある管理人室前を通り過ぎ、中庭に出たところにある。管理人が宿舎に行く人物をチェックしているのだが、4人のうち、範さんと黄さんは貼ってあるポスターに気を取られ、管理人のミズ劉に挨拶しなかったそうだ。
 2人は、ただちにミズ劉の炸裂する叱咤―『お前達はよその家に行って挨拶もしないのか。もう4年生だというのに、社会に出てそんな失礼な態度じゃ通用しないよ。しっかりしなさい!本当になさけない子たちだ。バーバーバー…』―のシャワーを浴びて、自分たちの無礼を恥じながらやってきた。大人の注意が若者の心にまっすぐ届く社会って健康でいいなあ。

 この4年生4人+劉思婷さん(今回彼女は故郷へ帰省)は、一年前の9月30日にもケーキを持ってきてくれた。彼女たちは、昨年私と会う前後の印象を初めて明かした。
「お会いする前、厳先生(中国人の老師)から田中先生の写真を見せられたときは、(厳しそうな先生だなあ)と思っていました。」
「電話で声を聞いたら、低い声でテキパキ言うので、とてもビクビクしました。」
なんだって~!そんなふうに思っていたなんて知らなかったわ。しかし、声の低さは認めるにしても、写真で『厳しそう』と思われる顔だなんて、意外もいいとこだ。自分では分からないが、人生に対する厳しい姿勢が自ずと表情に出ているのかも、だはは。

 学生の中でも、このメンバーは別格で、本当に気の置けない子たちだ。4人とも共産党員だが、マルクス主義者と言えるのは、黄さんぐらいなもので、後はどうしてこの人達が党員?みたいなバラバラ感がある。
だが4人とも、文化大革命については中国の歴史の中でも大失策だと認識している。他の多くの中国人もそうだろう。しかし、それを口に出す人は少数だ。宿舎の中だから彼女たちも伸び伸びしているが、授業中に同じ事は決して言えないだろう。
「文化大革命の後、中国の人々はいまだに自分の本当の考えを言えないでいます。恐怖が心に沁みついているんです。」
と、黄さんが言った。
さらに、まだまだ封建時代の遺物も社会にはびこっていること、地方の共産党役員の腐敗は、中央政府が一生懸命正そうとしても、なかなか浸透しないことを、中国の若者たちは憂う。権力を持つ馬鹿が、普通の生活者のことを何も考えずに、思いつきで勝手なことをしている、国民が自分の希望を訴えられる政府の窓口がない、国民のためのシステムはまだまだ中国では確立していない、e.t.c.…。
 言い出したら止まらないが、とにかく、自分ができることから社会を変えていこう、無理せず、逮捕されたり殺されたりしない範囲で、と約束した。
 少なくとも、今権力を握る馬鹿が去った後、次の馬鹿に自分はならない、と。

 
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「誕生日」    2011年10月1日(土) No.202

2011-10-01 01:20:33 | 中国事情
 南昌の天気は変わりやすい。2週間前までタンクトップで大汗かいていたのに、今は急降下した気温に翻弄されて、ユニクロのヒートテックを着ていてもあったかいんだか、寒いんだか…。
 そういうわけで、風邪を引いている。もう一週間以上になるが、やはり毎日仕事があると布団にもぐり込んでも居られず、薬を飲みながら(よっしゃ~!)と空元気出して出かけていた。

 今思えば、この夏休みに日本で風邪薬をたくさん買うべきだった。その時がうだるような暑さだったので、つい心の隅に油断が芽ばえ、パブロン顆粒状の大箱を一箱買っただけだったのだ。こちらに戻って薬箱をチェックしたら、まだたくさんあると思っていた葛根湯がほとんどない。いつ飲んでしまったのか忘れたが、そういえば、このブログにもさんざん南昌の寒さを愚痴っていたんだっけ。
 (今年の冬は風邪を引けないぞ)と思っていたのが、あっという間にこのていたらく。いざとなれば、学校の健康保険にも入っているので、2割負担で診察も受けられるし、もちろん薬ももらえるが、子どもの頃からの医者嫌いだ。極力、て言うか絶対風邪なんぞで医者には行きたくない。

 この一週間、授業は何とかこなしたものの、毎日宿舎にもどるとフラフラ。夕方7時か8時には寝ていた。
しかし、今日は午後の1年生の会話授業の後、日本語学科2年生クラスが夕食会に招いてくれるというので、どうしても行かなければならなかった。9月30日は私の誕生日だということを誰かから聞いて、企画してくれたのだ。みんな学生なのに、いっぱいお金を使っただろう。豪華な中華料理、超特大ケーキ、プレゼントの数々…。
 こういう絵に描いたような幸せシーンの中にいると、いつもそわそわしてどこかへ退去したくなる私だが、今日ばかりはそういうわけにはいかない。(中国に来たら、これが自然なんだ)と自分に言い聞かせて座っていたが、ひょっとして、日本でも自然?
 超巨大ケーキをバクバク食べる学生達の大食いさにも感嘆したが、そうこうするうちに、誰かが誰かの顔に生クリームを塗りつけ、それが次々伝播されて、場内騒然状態になった。これにはついて行けなかった。だが、中国ではこれは(特に若者たちの間では)よくあることで、誕生日の人の顔をみんなで攻撃するのが慣わしなんだそうだ。今日は私の代わりに、クラスのみんなに愛され親しまれている陳君が最初の犠牲者となってくれた。サンキュー!陳君。

 今日は特別だから、と7、8人の学生が麦廬園キャンパス前の評判悪いミニバスをチャーターしてくれ、またこれも私はお金を払えず、本部までみんなで送ってくれた。というか、本部で降りて、「じゃあ、ここで。」と私が言うと「先生の宿舎までお送りします。」と、本当に宿舎の入り口ドアの前までゾロゾロ送ってくれるではないか。
 この中国式のとことんのお持てなしを、去年ここに来て以来、何回受けたことだろう。自分と他人の境界線が曖昧になりそうなくらいの緊密感覚に頭がぼうっとなって、彼らに別れを告げ、3階の部屋に駆け上がった私は、とにかくベッドへ直行した。風邪と超あったかいもてなしにフラフラで…。 
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