中国山東省に戻り、夜涼しいからぐっすり寝られるわ、と思ったのも束の間、風邪を引きました。
アレルギーも出て痒く、目を擦っていたら白目部分に水泡が……。
目に負担をかけないようにブログも書かず(笑)、極力安静にしていたいところですが、
今学期の授業準備もあり、USBメモリーや外付けハードディスクなどの資料を整理していたら、
「中国残留孤児」で帰国者一世の横山三郎さん(大阪府堺市在住)のインタビュー記事を見つけました。
友人の人民新聞編集長が、私の日本語の生徒でもあった横山さんを取材したものです。
2013年9月の記事ですが、日中関係の現状についての横山三郎さんの提言は
ある意味、残念ながら、今も変わらず正鵠を得ていると思います。
『(日中は)1972年に戻って、友好関係を築く原点に帰るべきです。相手を「敵」と思ってはいけません。平和を基礎にすることを最も訴えたいのです。……養父は、極貧の中で敵国の子である私を立派に育ててくれました。たとえ国が戦争をやろうとも、民衆は人間としての思いやりをもって助け合って生きてきた歴史があります。
中国は、大恩ある養父の国であり、私の故郷でもあります。日中友好なくして私たち中国残留孤児の心の平穏はありません。』(横山三郎さん:インタビューより)
中国残留孤児が語る領土対立の愚
極貧の中で育ててくれた養父の国=中国
国家が対立しても貧しき民は助けあう
横山三郎さん(大阪府堺市/69歳)インタビュー 人民新聞オンライン2013/9/5更新
「言論NPO」とチャイナ・デーリーが共同で行った世論調査によると、相手国に「良くない印象を持っている」と答えた人の割合は日本が前年比5・8ポイント増の90・1%、中国は同28・3ポイント増の92・8%に達し、2005年の調査開始以来、最悪となった。日本政府による尖閣諸島国有化(昨年9月)以降の関係悪化が影響しているのは明らかで、嫌悪感増大の背景にあるのが、領土問題をとおしたナショナリズムの扇動であることは疑いようがない。
こうした両国の対立感情を強く憂慮しているのが、日本に帰国した中国残留孤児の人々だ。日本の敗戦前後、両親の死亡や混乱のなかで中国人養父母に育てられた残留孤児たちは、養父母への感謝とともに日中関係の好転を心より望んでいる。
8月1日、そんな一人である横山三郎さんに、その半生と日中関係についてインタビューした。
横山三郎さんは、現在69才、堺市の公営住宅に住んでいる。1943年、奈良県吉野郡天川村で生まれた横山さんは、翌44年、両親と3人の兄弟とともに中国に移住した。ところが、父親はすぐに徴兵され、ソ連軍捕虜となりシベリアの収容所で死亡した。
母親も父親の後を追うように死亡。残された子どもたちは、地元中国人家庭に引き取られたが、体が弱かった横山さんを引き取る家庭はなく、置き去りにされたそうだ。このとき横山さんは3才。ひどい下痢と栄養失調で瀕死の状態にあったという。
その横山さんを助けたのが養父となる王希順さんだ。王さんは、若い頃中国東北地方を流浪していたほどの貧農。横山さんを抱き上げようとした時も、周囲からは「もうその子は助からない。敵国の子どもを助ける必要もない」と反対されたという。
それでも死にかけた子どもを不憫に思った王さんは、横山さんを拾い上げたものの医者に診せる金もない。民間医療を施し1日様子を見てみると虫の息が次第に強くなり、横山さんは一命を取り留めた。横山さんは毓福(ゆいふ)と名付けられ、王さんの実の子として育てられた。
横山三郎さん(堺市の自宅で)
編集部:養父はどんな人だったのでしょうか?
横山:私の記憶は、5才から始まります。それ以前のことは、生き別れになっていた兄からの手紙で初めて知りました。山東省にいた兄は、私が32才の時、突然手紙を寄こし、私の出生の秘密を知らせてくれました。
養父は、山東省北崗山村の生まれです。貧困のため一生独身で苦労の一生を終えた人です。若い頃は、中国東北地方を流浪するほど貧乏で、妻もいません。そんな貧しい養父が50才の時に、私を拾って育ててくれたのです。
私と養父は、吉林省長白山にある小さい山村でわずかの田畑を耕し、野菜を町に売り行って、たいへん貧しい生活を送っていました。父は私を抱いて畑に連れて行き、畦で遊ばせながら畑仕事をしていました。
家に女性がいなかったので、衣服は村の人の援助に頼りましたが、靴は手作りするのが難しくて、春から秋までずっと裸足で学校に行っていました。でも冬になると両足は凍傷になり、腫れがひどくて、痒みと痛みで本当に我慢ができませんでした。村の人が「可哀想な子どもだねえ」と言って古い靴をくれましたが、大きすぎるものや小さすぎるものばかり。その当時、私の一番の夢は、ぴったり合った靴を履くことでした。
私の最初の記憶は、5才になった年の大晦日です。養父が夕食の後に戸棚から小さい紙包みを取り出し、私に差し出しました。包みを開けてみると拳くらいの黄緑色の果物が現れました。父は、「これは梨だ。町で買ってきたのだ」と言いながら、凍った梨を茶碗に漬け柔らかくしてくれました。
噛んでみると薄い皮が破れて、白く甘い果肉が口の中に広がりました。父はオンドルに座ってキセルでたばこを吸いながら私の食べる様子を見、目を細くし、顔に皺を寄せていたのを覚えています。
父は、「忠厚謙和」の人でした。私の命の恩人であり、誠実にして謙虚、優しく勤勉な人でした。私は、その果物を思い出すと口の中に甘い汁が流れ、父の姿とともに蘇ってきます。
編:日本人であることでいじめられたりしなかったのでしょうか?
横山:小学校の頃、友達から「小日本」(シャオリーベン)とからかわれたことはありました。しかし、父に聞いても(私が日本人であることを)強く否定しましたので、私は全く気づきませんでした。子どものことなので悪口を言ってからかうことはよくあることです。しかし、村の人は知っていたようです。
1999年、日本に帰国することにした私は、教師時代の同僚である法さんに暇乞いに行きました。みんなで思い出話に話を咲かせたものでした。そんな昔話の最後に、法さんは、「私は、あなたが日本人であることを知っていましたよ」と告げたのです。
私は驚きました。6才年上の法さんは、私が兄のように慕った友人であり同僚です。私に仕事のことを教え、仕事の合間にはいろいろな話をし、趣味として音楽や劇なども一緒に勉強していた仲です。
私自身が知らなかった出生の秘密を法さんが知ったのは、次のようなことでした。「1970年の正月、吉林省から帰ってきた親戚があなたの養父の友達で、その親戚からあなたが日本人の子どもであることを聞いた。でも当時は文化大革命の最中だったので、あなたにも誰にも言わず黙っていたんだよ」。
文化大革命は、前例のない災禍です。たくさんの無辜の人々が冤罪で被害を受けました。私の出身が暴露されれば、きっと「日本の奸臣、特務」として扱われたことでしょう。仕事をクビになるのは当然として、命があったかどうかもわかりません。
また、法さんが私を日本人だとして検挙させれば、功績が認められ、役職昇進もできたはずです。でも法さんは、この事実を心の奥深いところに隠して、秘密を守り通したのです。法さんもまた、私の命に関わった恩義ある友達です。
編:中国では、教師だったそうですね。
横山:吉林省にいては、いずれ私の出生の秘密が明らかになると思った父は、1951年、8才になった私を連れて故郷である山東省北崗山村に戻りました。新たな生活といっても、58年から大躍進運動で飢饉が発生するほどで、極貧のなか小学校を卒業しました。
1959年、16才になった私は、地元の小学校補助教師に採用されました。同僚5人の中に、先の話で紹介した法兆吉さんがいます。
60年から「3年困難時期」が始まりました。生産隊からの食料配給はわずかで、みんな芋の蔓や楡の葉などを干して粉末にし、中に少しだけトウモロコシの粉や大豆の粉を入れて食事を作りました。
大人たちは、生産に従事してるので、小学校でも集団採集活動が巻き起こりました。子どもたちをつれて山に入り、山菜などを集めるのです。授業が終わる午後3時頃、私と生徒たちは、道具と袋をもって山の麓に歩いていきます。子どもたちは、汗と埃で真っ黒になりながら、袋一杯の山菜を集めました。
畑での労働が終わって帰ってきた大人たちは、その様子を見て喜び、「新しい先生は、役に立つね」と言ったそうです。私はとても誇らしい気持ちでした。
同僚5人の中で私は、一番若く、教師資格もありません。そのコンプレックスもあり、同僚たちに追いつくことを決意しました。
1960年の初め、県教育局は教師の水準を高めるために、函授師範学校(一種の通信大学)を興しました。県内の農村に「教学点」という学舎を設立。週に1日ずつ教師が交代で通い、講義を受けるのです。
私の受講日は日曜日でした。村から8㎞離れた教学点まで片道1時間半かけて歩いていき、午前8時から午後4時まで受講しました。2年半かかって初級師範学校試験に合格し、すぐに中級に進みました。
1963年、20才になった私は、養父の決めたとおり結婚することになりました。その準備のため1日だけ、師範の授業を休んだことがあります。当時の農村は、電話もなく、欠席の連絡もできませんでした。
すると次の土曜日、家で昼食をとっていると突然入り口をノックする人がいました。開けると雨の中青い傘をさした師範学校の先生が立っていたのでした。
先生を応接間に通してお茶を注ぐと一気に飲み干して、欠席の理由を尋ねました。私が事情を説明すると先生は、「結婚はもちろん大事です。しかし勉強は同じくらい重要です。若い時に勉強しなければ一生悔いが残ります。結婚の準備は朝と夕方など他の時間にやってください。日曜日は、必ず教学点に来るように」と、強い口調で言いました。
師範の先生は、都市部から歩いて教学点に来て講義をされています。この日は、雨にもかかわらず講義を休んだ私のために村まで足を延ばして来てくれたのでした。
私は、先生の特別の苦心を知っていたので、何の弁解もできませんでした。これ以降、私は、1度も休むことなく受講し、2年半後の中級師範試験には、優秀な成績で合格し卒業しました。これでようやく高校卒業資格を取得し、国の教師として採用され、中学校の教師となりました。
それから後は、師範学校に進みたかったのですが、文化大革命が起きてしまいました。一時、函授院校は、全て閉鎖されました。
1972年、社会が安定して、私は、やっと師範専門大学に入学します。ようやく大学に入る夢が実現したのです。
編:日本人であることがわかった経緯と、帰国に至る経緯は?
横山:1975年、32才の時に、実兄からの手紙で私が日本人であることが判明しました。その手紙には、私たち4人の兄妹が残留孤児になった経緯や、私が養父に拾われた経緯などが書かれていました。
その手紙を見せると、父は全てを打ち明けたのでした。とてもショックでしたが、苦労して育ててくれた養父への深い感謝の念を感じました。また、日本から中国に渡った私たち家族の悲惨な末路を思うと、痛いほどの悲しみを感じました。
こんな養父を置いて、帰国することなどできません。養父が生きている間は、中国で生活することに決めました。
1985年、養父が89才の天寿を全うしました。私は、教師の仕事に誇りとやりがいを感じていたので、中国に留まるつもりでしたが、1987年、訪日して親戚を探しました。京都で叔父や叔母と会い、お互いを確認し合いました。厚生労働省は、私を残留孤児として認定。いつでも帰国できる状態となりました。
編:帰国を決めた理由は?
横山:兄の息子が、日本への帰国を相談するために吉林省からやってきたことがきっかけです。1991年、吉林省にいた兄が病死したのですが、いまわの際に私を枕元に呼び「自分は祖国に帰れないが、私に代わって家族全員を連れて日本に帰ってくれ」との遺言を託したのです。
私は、仕事があるし、子どもたちの進学もあり、すぐには帰りませんでしたが、1999年、甥がはるばる訪ねてきて「先に帰国して、私たちを呼び寄せて欲しい」と訴えました。
私は、退職を決め、日本政府に帰国申請をすると、すぐに許可の返書が届きました。その年の12月に私と妻と娘など5人が日本に帰国し、翌年、甥たちも帰ってきました。兄の十年来の遺願が実現されました。
編:帰国に際して不安はありませんでしたか?
横山:中国での日本人のイメージは、戦争時代の兵士です。しかし一方で、先進文明が発達し、美しい四季のある国土のイメージもありました。帰国者は、4カ月間帰国者センターで受け入れられ、その後も様々な支援が準備されていましたので、すぐに不安は解消しました。
編:昨年以降、日中関係が緊迫しています。どう感じていますか?
横山:釣魚島(尖閣諸島)をめぐる日中対立は、得られるものより、損失の方がはるかに大きいものです。尖閣諸島問題は、歴史認識の問題でもあるので、1972年の日中国交回復の時も、1975年日中平和友好条約締結の際も、政治家の知恵である「棚上げ論」によって、対立を回避し、経済関係を発展させてきたのです。
中国には「来之不易」という言葉があります。これまでの日中関係は、様々な困難を一つ一つ克服し積み上げてきたもので、決してあだな辛苦で手に入れたものではないのです。この実績を、無に帰していいのでしょうか?
石原都知事をはじめとする右翼政治家は、表面上は、「日本の国益」などと叫んでいますが、実際は、自分たちの政治的利益しか考えてません。彼らのスローガンと政治手法は、民衆をだまし、惑わすためのものです。
特に若者や中年男性が扇動されているように見えます。これを続けるととても危険です。戦争が始まれば多くの人が傷つき死にます。その時に気づいても遅いのです。
編:どうすべきでしょうか?
横山:1972年に戻って、友好関係を築くという原点に帰るべきです。相手を「敵」と思ってはいけません。平和を基礎にすることを最も訴えたいのです。
私は、2006年3月、故郷(山東省)の小学校を訪問し、「和平万歳」の碑とパソコン25台を寄贈しました。碑文には、養父への深い感謝と平和友好への思いを綴りました。
養父は、極貧の中で敵国の子である私を立派に育ててくれました。たとえ国が戦争をやろうとも、民衆は人間としての思いやりをもって助け合って生きてきた歴史があります。
中国は、大恩ある養父の国であり、私の故郷でもあります。日中友好なくして私たち中国残留孤児の心の平穏はありません。