毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「『英霊の尊い犠牲』の意味」 2013年8月30日(金) No.734

2013-08-30 22:09:34 | 歴史
この夏、最も印象に残った記事の一つに、
ある日本軍元兵士の告白を取材した8月15日朝日新聞デジタル(石橋英昭写真・記事)
「強盗、殺人…軍命でも私は実行犯」-罪語り、誓う不戦 兵の体験、次代に-
がある。


戦時中フィリピンで従軍し、
昨年92歳で亡くなった矢野正美さんは、
黙っていれば優しい好々爺として一生終われたものを、
戦争で自分が為した非道な行いを語った。
戦後、ずっと胸に仕舞い込んで誰にも話さなかった彼が、
意を決して話し始めた心境は、ただ想像するしかないが、
日本人というより、人間の先輩として私は、矢野さんを拝みたい。
「犠牲になった英霊」たちも、矢野さんのようにしたかったのではないか。
「自分たちは上官の命令に従っただけだと言っても、
自分たちのしたことは罪深い。
‘尊い犠牲’などと誤魔化されているが、酷いことを国によってさせられた
悲しい実行犯であり、その死によって真実を語る自由を奪われている存在なのだ」
という亡くなった兵士たちの絶望の声が聞こえる。
だからこそ、矢野さんは戦友の声を代表して、
どうしても言わなければならなかったのではないか。

(矢野さん、語ってくださって、本当にありがとうございます。
日本と日本人が犯した過ちを繰り返さないために、
矢野さんの遺志をどう受け継いだらいいか、今、私は考えています)


ここから掲載-----------

広い庭にやせこけた兵士が片ひざをついている。
台座に「不戦」の2文字。
この像を建てた主、矢野正美(まさみ)さん(愛媛県西条市)は
昨年2月、92歳で亡くなった。
戦場で犯した罪を語り、何度も「8月15日まで生きたい」と言い残した。
矢野さんが伝えたかったものとは何なのか。

 首都圏を中心に戦争体験者の証言記録に取り組んできた神(じん)直子さん(35)に、
矢野さんから突然連絡が来たのは、7年前の夏。
その朝、テレビで神さんの活動が紹介された。

 「ぜひ、愛媛に来てください」。
3カ月後、神さんの前で矢野さんは2日間、従軍したフィリピンであったことを語り続けた。

 ルソン島のある村で、ゲリラ潜伏を調べていた時。
教会から出て来た老女が怪しいと、上官が銃剣で突くよう命じた。
 「しょうがない。グスッと胸を突いたら血がばーっと出てね。
空(くう)をつかんで、その人は倒れました」。
別の村では、残っていた子連れの女性を襲った。
 「強盗、強姦(ごうかん)、殺人、放火。
軍命であっても、私は実行犯。罪の意識はある。
かといって(戦友の)慰霊には何回も行ったが、謝罪のすべを知りません」

 こんな恐ろしい告白もあった。
 敗走を続け、飢えに苦しんだ山中で、日本人の逃亡兵を仲間の兵が殺した。
その晩、仲間の飯ごうから、久しぶりに肉の臭いがした。
「奪い合うように食べました」。
次の日には自ら死体の所へ行き、足の肉をはぎ取った。

 1941年に陸軍に入隊した矢野さんは、
44年夏、旧満州からフィリピンに転じた。
米軍との激戦で日本軍約60万人中50万人が死に、
矢野さんの部隊の生き残りはわずか1割。
フィリピン人は100万人以上が犠牲になった。

 45年12月、25歳で復員。
家庭をもうけ、砂利運搬船を持ち、懸命に働いた。会社を興し、財をなした。

 ■狂気・むごさ、碑に
 戦後40年がたったころ、同郷の陶芸家・安倍安人(あんじん)さん(74)が、
矢野さんの戦中の日記を偶然読んだ。
収容所でトイレ紙にメモしたものを引き揚げ後、大学ノート6冊に清書していた。
「きれいごとじゃない、人間と人間のつぶし合いを、
矢野さんは克明に書いていた。驚きました」

 日記は安倍さんらの手で出版社に持ち込まれ、
「ルソン島敗残実記。」と題されて86年、世に出た。
矢野さんは何も言わず、子や孫に一冊ずつ渡した。

 長女のみゆきさん(66)にはショックだった。
目を背けたくなる父親の行為が描かれていた。
幼いころ聞かされたのは、フィリピン人や戦友とののどかな交情の話ばかりだった。

 妻の清美さん(86)は驚かなかった。
夫の腰には、敵に撃たれた銃弾のかけらが残っていた。
「いくつも傷を抱えているのは、わかっていました」

 本が出て数年後、矢野さんは近くに住む彫刻家の近藤哲夫さん(71)に、
兵士の銅像を依頼した。
「ただの慰霊碑じゃない。人間を異常にしてしまうほど、
戦争はむごいもんだと伝えたい」と口説いた。
91年3月、像は完成した。

 矢野さんは、神さんに語った。
「僕ができんかったことをあなたがやろうとしている。
自分ももう一度、話さなくちゃいかんと」
 戦場で起きたことを語れる人は、年々去ってゆく。
神さんは、他の元兵士の証言とともに矢野さんの映像を編集し、
若者むけの平和教育に使っている。
フィリピンの戦争被害者の前でも紹介された。

 矢野さんは最後の数年、たびたび人前で体験を語った。
戦争のことを考える若い人や団体に出会うと10万円、100万円といった金額を寄付して応援をした。
 体調を崩して入院したのは去年1月。
最期の日、「8月15日まで生きたい」と繰り返した。
極限状態のなかで死んでいった戦友を、毎年思う大切な日だった。

 残された庭の像は、「不戦之碑」と名付けられた。
兵士の肩に、蝉(せみ)しぐれがふりそそいでいる。(石橋英昭)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201308140587.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201308140587

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝日デジタルの記事には下の写真も掲載されています。

・ 矢野さんが残した「不戦之碑」と妻の清美さん=愛媛県西条市、石橋英昭撮影

・矢野さんの証言を収めた映像=ブリッジ・フォー・ピース提供


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「友好と平和の灯を若者に託して」 2013年8月29日(木)No.733

2013-08-29 18:13:08 | 中日(日中)関係
サウナのような南昌で、去り逝く夏休みを振り返っている。
今夏の最大の出来事は、
何と言っても中国から劉思婷さんという若者を招待したことだ。
たった一人しか来てもらえない微力な自分だが、
どんな小さいことでも、一人ひとりできることを続けることが大事。
そして、こんなささやかな取り組みでも、
多くの友人知人、そして身内の協力なしには決して実現させることはできなかった。
庶民パワー全開の取り組みでもあったのである。
少し前に書いたものだが、
劉さん招待に関わって助けてくれた全ての皆さんに改めてお礼の言葉を掲載させていただく。


『劉思婷さんが、関空から広州の大学へと帰っていきました。
彼女は来日以前から、親日的というか、
物事をできるだけ公平に、多面的に見ようとこころがける若者ですが、
2週間弱の滞在中、一般の観光客とは違って、地元の人たちと直に交流したことで、
彼女自身の今までの日本並びに日本人観を見直し、
さらに補強深化できたことと思います。
決して社会的事象に無関心ではない彼女ですが、
今まで日本が中国にODA援助をしていたことも知らず、
今回、日本の若者たちと交流する中で初めて聞いて驚いたという事実が物語るように、
中国人民は、ある特定の分野の事柄について知る権利を持ちません。
国家がそれをコントロールしているからです。
(今の時代、インターネットで調べればいくらでも知ることができるじゃないか)
と不思議に思う日本人が多くいます。
私も中国に来たばかりの時はそう感じていました。
しかし、全く知らないということは、疑うことすらできないのです。
私たちも同様です。
疑う視点がないときに、調査しようとか検証しようとか思いつかないでしょう。
これが両国民の間に横たわる大きい困難の一つです。
しかし政府が変わるのを座して待つことは、
あまりに消極的に過ぎると考える両国民はたくさん居ます。
そして彼女ら・彼らは長年自分にできることを実行してきました。
それが現在、両国民が決定的に憎み合うのを阻止する力になっています。

劉思婷さんは、将来、中国でそうした力を発揮してくれる人です。
彼女は教師になる希望を持っています。
ものごとを冷静に、客観的に見る視点を中国の子どもたちに教えてくれると信じています。
彼女の子どもが、また日本に遊びに来る日がきっと来るでしょう。
寛大に優しく彼女に接してくれた日本の全ての皆さんに感謝します。』
  ーブルーはーと
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「『はだしのゲン』制限問題から見える日本」 2013年8月28日(水)No.732

2013-08-28 13:04:11 | 教育
今夏、日本では自宅でインターネットが使えず、
数日に一度、近所のマクドでやり手のビジネスパーソンのように
キーボードを打ちまくったりするのが、内心とてもはずかしく、
目立たない小型のタブレット型パソコンが欲しかったが、
ノート型が全然壊れていないというのに次々買うのは贅沢である。
ずっとキャリアウーマン風を装い、100円のアイスコーヒーで
2時間粘るという生活が続いた。
当然、YOU TUBEなんか楽しむ場合ではなかった。

一昨日(26日)、朝6時半に大阪の家を出て、昨日未明に南昌の宿舎にたどりついた。
最近いろいろ問題の多い東方航空が大幅遅延した所為だ。
というわけで、昨日は旅行疲れと部屋の掃除だけでグッタリし、
部屋にいながらにしてブログ更新できるというすばらしい環境を得たにもかかわらず、
ついに、そこにまで到達できなかった。

前置きはここまでにして、
前回「はだしのゲン」騒動のことで書き足りなかったことを
少し足しておきたい。

多くの人々も忸怩たるものがあるだろうが、
今回の松江市教委の対応には、
問題が起きたときの日本人の対応の仕方の悪い一典型が現れている。
彼らは問題を公開せず、臭いものに蓋式の事勿れ主義でやり過ごそうとした。
市教委事務局が教育委員会の会議にも付さず、
勝手に独断で各校に閲覧制限を指示したのがこれに当たる。
また、問題が世間に知れ渡り、批判の声が大勢を占めるやいなや、
また、以前に戻すという処置をした。
報道によれば、ただの一般的な「情報公開の原則」という理由で元に戻したようだ。
即ち、一つの情報として「はだしのゲン」を捉えているということだ。
ここで抜けているのは、「平和教育をどう推し進めるのか」という教育委員会の立脚点である。

そもそも、なぜ、松江市立小中学校の8割の学校図書館(室)に、
今までずっとこの「はだしのゲン」が置かれてきたのか。
初めて図書館に「ゲン」を置いた当時の市教委や現場の学校教師たちには、
積極的な反戦平和教育として位置づけるという意志があったはずだ。

市教委は、いくばくかの市民が「はだしのゲン」を置いていることに意義を唱えたからといって、
なぜ、慌てて閲覧制限などしたのか。
まるで今まで置いていたのが、間違ったことであるかのように。
異論はいつの時代にもある。
反戦平和教育の立場で、きちんと説明したらいいだけだったのだ。
自らの教育理念を抜きに、自己保身ばかり考えている市教委事務局の人たちの
顔を想像してみる。
教育界の先輩方がどんな思いで今まで「ゲン」を扱ってきたのか省みることもなく、
ましてやもう一度日本の近現代を検証することもない今の「教育」委員会の方々は、
一体子どもたちに何を教育できるのだろう。


賛否の声の圧倒的多数は「はだしのゲン」を子どもが自由に読めることを
求める意見だった。
ーーーーーーーーーーーーーー
市教委によると、今回の措置をめぐって22日までに市に寄せられた意見は電話722件、メール1614件、ファクス140件、郵便物60通に上った。賛成が約600件、反対が約1800件という。 (朝日デジタル2013年08月26日)ーーーーーーーーーー
この漫画には、描かれてから40年の歴史がある。
中沢啓治さん(昨年12月に死去。)の6歳の時の体験が元になった
自伝的な内容のこの作品は、650万部以上の売れ行き、20カ国での翻訳という実績がある。
これが閲覧制限反対につながっていることは確かだろう。
マイブログのNo.731にコメントを書いてくれた〈ちょこさん〉は、
私の小学校教師時代の教え子だ。
私自身は漫画「はだしのゲン」を授業で取り上げたことはなかったが、
図書館で自主的に読んだのだろう。
私は彼女の次の言葉を、大切な宝物として胸に収めておこうと思う。

子どもの頃はだしのゲンを初めて読んだ時の衝撃は
今でも思いだせる程です。
でも怖いと感じたからこそ「絶対に二度としてはいけないこと」ということが学べたんです。

子ども達に「見せない」「知らせない」ことで
いつかまた悲しい戦争が起きるのではと思ってしまいました。・・・〈ちょこ〉

(ゆっとくけど、私が書くように依頼したのではありませんヨ

「こどもの頃、そんな過激な描写に触れさせる必要はない」という意見がある。
その意見への反論も前ブログに書いたが、
あるとき私が直接聞いた、次のような保護者の声をあなたはどう思うだろう。
『うちでは動物は飼いません。
動物は死ぬでしょ。子どもに残酷な死を見せることは教育上良くないです。
だから、絶対犬も猫も飼わないんです。』(当時2年生の子のお母さん)

(死は残酷で、悲しいかも知れない。しかし、お母さんもお父さんも
実は動物で、いつ死ぬかわからない存在では?死は避けて通れない事実なのに・・・。
そして、死があるからこそ「生きる」ことも意味があるのだ。
死を迎えるまでの生が輝くのだ)
と今でも思う。

問題の解決方法は隠すことではない。
話し合うことの方が子供はその残酷さ、悲しさを受け止めて育つことができると思う。
子どもの顔を見ながら、その子が受け止められそうな言葉を、脳みそフル回転で、
一生懸命考えながらフォローするのが大人の仕事だ。
大人が語らずして、誰が子どもに教えるのか。
大人は子供への教育を放棄してはならない。
私の長年の教師人生から得た確信である。









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「『はだしのゲン』閲覧制限は平和教育の放棄である」2013年8月22日(木)No.731

2013-08-22 19:42:48 | 教育

 広島での被爆体験を描いた、漫画家の故中沢啓治さんの代表作「はだしのゲン」(全10巻)が、昨年12月から松江市内の市立小中学校の図書館で子どもたちが自由に見ることができない閉架の状態になっていることが分かった。市教育委員会が作品中の暴力描写が過激だとして、各校に閲覧の制限を求めた。
―朝日デジタル:2013/8/17 http://digital.asahi.com/articles/osk201308160095.html?ref=reca



市教委が判断した「過激な暴力描写」部分は下の4コマだ。

しかし、これらは中国では、小さい子どもでも知っている日本軍の蛮行のごく一部にすぎない。
だからこそ、中国の人々は大人から子供まで、今でも心で血の涙を流し続けているのだ。
肝心の加害者側の日本の子どもたちは一体いつ・どこでそれを学ぶのか。
こういう「過激な暴力」は「描写が過激だから」問題なのではなく、
「暴力行為そのもの」が問題なのである。

「発達段階に応じた教育を」と言う人たちがいるが、
その人たちは、いつなら歴史の事実を直視できる段階に日本人が発達するというのだろう。
人間の成長過程において、どんな辛い事実でも、どんな小さい子供でも、
せめてその一端を知らなければならない。

結局、「子どもに知らせるには配慮を要する」とは、
「日本人に知らせるのは配慮を要する」ということではないか。
つまり、「南京大虐殺」や「盧溝橋事件」同様、「はだしのゲン」に描かれた事もまた、
なかったこととして葬り去られてしまうのではないか。
そう思うのにも根拠があって、
「昨年8月、『ありもしない日本軍の蛮行が描かれており、子どもたちに間違った歴史認識を植え付ける』として、小中学校からの作品の撤去を求める陳情が市民から市議会にあった。」(同朝日デジタル) ということである。

こうして都合の悪いことは
「なかった、なかった!」と百万回叫んでなかったことにしようというのが、
今日の日本のある傾向の人々の仕業なのだ。
これこそが、世界の人々に対する蛮行でなくてなんであろうか。
日本の子どもたちは、あったことをあったこととして、ちゃんと受け止めることができる。
そして、これから二度とこうした蛮行をしないことを心に刻むことができる。
あったことを、あったこととしてきちんと教えさえすればいいのである。


コメント (5)
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「劉思婷さんと歩いた奈良」 2013年8月21日(水)No.730

2013-08-21 18:47:40 | 旅行
名所旧跡を外すと、残るは鹿、シカ、しか…。
奈良はみごとなまでに「鹿の街」だった。


東大寺に向かう参道で食べ物をくれそうな人にすり寄る鹿たち。
「ねえ~ん、ちょ~だ~い♡」と言っているらしい。


たまにシカ事故もあるようで、こんな看板を見た。







国際観光都市だけあって、4か国語で表記してある。だが、KICKを「たたく」とは?
「蹴る」では印象が強烈すぎるためだろうか。確かに絵を見た限り、悪気のない鹿が
太鼓を叩くように、ボコボコと子どもを叩いているように見える。
シカシ、めったにこうした攻撃はしないのだろう。
道行く人たちも鹿たちも、たいへんゆったりしたムードだった。


セント君の傍にも鹿が寄り添う。


       
セント君に奈良に来た挨拶をする劉さん。よく見たら、
セント君の頭にも角(つの)が!セント君も鹿だったのか…。


鹿にとっては「わが町・奈良」。鹿が食べない様に、ゴミ箱も全くない。道路にポイ捨てなどもってのほかである。









鹿をカメラに収めようと「鹿、鹿、こっち見て~!」と
しきりに話しかける若者。


無視する鹿。


故郷江西省では黄牛が友達だった劉さん。鹿さんたちとも
自然に友達関係に。劉さんが京都より奈良が好きなのは、
鹿の存在もあるのかも知れない。


☆この日、一日中奈良を案内してくれたのは、この間まで江西省九江学院の日本語教師だった藤野妙子さんでした。藤野さん、謝謝!
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「『知らないことは無責任だ』と先輩に教えられた高校生」 2013年8月20日(火)No.729

2013-08-20 20:01:37 | 教育


山梨県立桂高校の放送部3年生カナモトさんは、一年前の9月の始業式の朝、
自分の学校の先輩がシリアという国で、銃で撃たれて亡くなったと教頭先生から聞かされた。
「僕の村は戦場だった」の著者であるその先輩は、
7年前に母校に来て、後輩たちに伝えたことがあった。
それは「知らないことは無責任だ」ということだった。

政府の発表では触れられることはないが、
実際は、どの戦場にも女性も、子どももお年寄りもいる。
最も不条理なことは、そうした力ない人達が戦争被害に遭っていることだ。
地べたを這って、最も過酷な戦場という現場で取材しつつ、
戦場カメラマン山本美香さんはその不条理とともに、
人間の強さを、生きる力をも同時に感じていたことだろう。

山本さんは決してへこたれず、絶望もしていなかった。
自分の役目は、戦火に晒される人たちに対して、
日本人も責任を持つのだと伝えることだといつも言っていたと聞く。
戦争は私たちの地べたと繋がっていることを若者たちに伝え、
社会の矛盾を解消していって欲しいと、
真っ直ぐに美しい目を日本の若者たちに向け、信頼を託したのだろう。
山本美香さんの写真のあの目が忘れられない。

現実に対して無関心であるということは、
現実に起きていることを容認していることである。
起きている問題の1つ1つを解決する責任が日本人にもあるのだと、
愚直に、真正面から、
そして目線はいつも聞く人と同じ高さで語っていた彼女を想う。

「さあ、あなたたちの出番です」
それが後輩たちに最後に言った言葉だったという。

一年前の今日、銃弾に散った優しい戦場ジャーナリスト、
山本美香さん。 
その生き方が後輩たちの胸に響いている。
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「歴史がなければ今もない」  2013年8月19日(月)No.728

2013-08-19 19:36:41 | 教育

この夏休みの名言その1。
「歴史がなければ今もない」

8月4日、劉思婷さんと日本の若者達が話したときに、
日本人の若者の中から、
A「戦争は過去の歴史。歴史は自分にとってリアルじゃない。自分は体験していないし」(20代女性)
とか、
B「日本軍が中国人を殺したのは申し訳なかったにしても、
なんで関羽は人をたくさん殺したのに中国では神様扱いされるわけ?
同じ歴史上の出来事やんか」(20代男性)
という意見が出た。
日本の若者達にとって、体験していない過去の歴史は「リアルじゃない」ので、
自分と関係ないと切り捨てたり、大昔も近代もいっしょくたにして
それぞれの戦争の経緯もお構いなしに
「みんな同じ歴史」と空虚かつ抽象的に括ったりする傾向があるようだ。

それに対して、その場にいた30代のやや年長のお兄さんがこう言った。
「体験していないからといって、過去の歴史が現実になかったというわけではない。
想像力があれば歴史を今の時代とリンクさせることができる。
そして、重要なのは歴史がなければ今もないということだ
まさにその通り。

「想像力」・・・今、これほど日本の一人ひとりに欲しいものはない。
どうしたら人は想像力を備えることができるのだろうか。
「妄想」と「想像」の違いは何に由来するのだろう。
私は教養がそこにあるか否かだと思う。
その場にいなくても、まるでいたかのように感じ、考えることができる力は、
あらゆる体験を積んだ仙人でもない限り、自分の体験だけを頼りにするわけにはいかない。
体験を補うものとして、調査、分析・推理、さらに熟考、判断する力が必要になる。
その力を会得するためには先人の思考・判断・知恵が凝縮された知識を学ぶことが不可欠なのである。
そういうわけで、やはり、今の日本人は勉強不足だと言わざるを得ない。

嫌々勉強させられてきた人間に教養が備わるかと言うと、
それでも、やらんより少しはマシだと私は思う。
今、「自分が好きなものを見つけよう」とかいう上滑りな言葉で、
大人たちは子どもをふやけさせている。
大人たちは自分で本当にその言葉を信じているのだろうか。
「私はゲーム好きだから、ゲームに集中します!」と子どもが言ったら、
「エライ!よく自分の好きなものを見つけたね」
と心からその子のために祝福できるのだろうか。
知識の基礎・基本が大切なのはいつの時代でも同じである。
それを使って、次代を創造していくのだから。
新しいものは古いものの中から生まれる。
アゲイン、「歴史がなければ今もない」
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劉思婷さんと歩いた京都」2013年8月18日(日) No.727

2013-08-18 19:36:08 | 旅行
「夏バテ」ではなく「夏休みバテ」とでも言おうか。
前半、飛ばし過ぎで、ここ数日薬を飲みながら過ごしている。
南昌に戻ったらちょっと一休みしよう(―_―)!!

劉さんと行った京都・奈良観光の写真をちょっと紹介。
今日は京都編(観光名所じゃなくて、ふと目に留まったスナップをピックアップした)。
〈7月30日撮影〉


阪急四条河原町から祇園に向かう途中の家の前。
さすが京都!暑い日差しにふっと涼風がよぎった。



何故頭をつけないのか。



京都にしては信じられないくらい安くて、美味しくて、親切なハンバーガー屋さん。
清水坂を降り、東山通りを五条坂に向かう途中にある小さな小さな店(「ホップクローバー」だったかな)。
劉さんが中国から来たと言うと、手作りお土産をくれた。さらに飴ちゃんまで。



清水寺から少し下ったところにあるお墓。江戸時代からの墓がズラリ。
「○○兵衛」といった名前が刻まれている。



日本では珍しくも何ともないが、劉思婷さんは「わ~、カワイイ!」と。
信楽焼の狸(たぬき)。



清水寺近くでパーフェクトな舞妓さん二人。撮影会をしていた脇から一枚パチリ!



銀閣寺近くの店。竹久夢二、懐かし~!!!あがた森魚の
「お~なみだ ちょうだい~、あ~りが~とお~」のフレーズが頭に浮かんだ。



これぞ京都人の気概!銀閣寺から歩いて吉田神社の横を通って京都大学に行く途中、普通の家の前にぶら下がっていた。



キャンパスの中をさんざん歩いてようやく京大正門前に。途中、親切な京大職員さんたちに、何度も道を聞いた。
「あ、言い忘れたけど、時計台下の部屋は入って休憩できますよ」と引き返して来てまで教えてくれた人もいた。
皆、本当に本当に親切だった。



中国の大学で国家のやることに大学生がこのように異議申し立てするのは、
どこかやっているのだろうか(多分ないだろう)。これは立て看板(省略形は「立て看」)と言う。
原発再稼働反対の内容である。京都大学では去年行った時も立ててあった。



京大の門に張り付いていた蝉。蝉だけは町のどこにでもいる。クマゼミ?



大阪十三に戻ってきて、晩御飯に入った沖縄料理の店。
「美ら島(ちゅらしま)」ダイニング」と名前入りのチヂミ。



「わあ、すてき!」と喜ぶ劉思婷さん(実はヤラセ)。後ろは若くて男前のマスター。
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「山下飛子さん(帰国者2世)と十三で飲んだ」2013年8月13日(火)No.726

2013-08-13 19:29:32 | 中国帰国者

十三にはこういう酒場がなんぼでもある。
今回は沖縄酒場に入った。


私より1歳年上の山下さんは福建省生まれ。
1982年、先に帰国した1世の父の住む大阪に来た。
文化大革命の時、お父さんが日本人であること、お母さんが日本人の妻であり、
さらに刺繍工場の経営者であるために、攻撃対象とされ、両親とも一時、遠方の地に隠れた。

「その時、私は15歳か16歳。お金も全然ないのに、『お腹空いた~!』と泣く弟妹4人を
世話しなければならない。あの頃は人生最大のピンチやったわ」
何度も聞いた彼女の身の上話だ。
当時(1960年代後半)、日本ではビートルズやローリングストーンズ、
ジ=アニマルズなどのブリティッシュ・ロック、
アメリカのジョーン=バエズ、ピーター・ポール&メアリーといった反戦フォーク・ソングが世間を賑わし、
私もラジオの洋楽番組を聞いて、翌日学校で誰の何がヨカッタなど、
友達と歓談する呑気な日々を過ごしていたのだった。
同年代の山下さんの話をきくたびに
(ごめん。何にも知らないで呑気に過ごしていて…)と思う。


大いに飲みそうで、実はからっきしの山下さん。
山下さんのいた時代の福建省ではお酒を飲むのは男性ばかりだった。


山下さんは18歳のとき(1969年)結婚。
日本では恋愛結婚が普通の時代に突入していたが、中国福建省ではお見合いに決まっていて、
本人の気持ちは全く関係なかった。
18歳と言えば、私は高校3年生で、毎夕NHKテレビ「ひょっこりひょうたん島」を見てすぐ就寝、
夜中に起きて深夜放送を聞き、本を読んだり、妄想にふけりながら、
家族には「毎晩、受験勉強しているのである」と発表していた。
彼女の生活を想像するとき、同時に自分のその時を思い、落差を噛みしめる。

60年代後半から70年代の日本は、明らかに中国より物質的に豊かな生活をしていた。
それでも、1972年、日中国交正常化の話し合いで周恩来首相は、
日本の中国に対する戦後賠償をチャラにしてくれた。
もし、賠償金を請求していたら、そのお金で当時の中国はどれほど潤ったことだろう。
それなのに「いいよ、いいよ。日本人民も軍国主義の犠牲者だ」と寛大な態度で許してくれた。
日清戦争(甲午戦争 1894~95)で日本が中国に請求した賠償金は、
中国国家が支払える能力を遥か超えた額だった。
中国は他から借金してそれを日本に支払ったというのに。


1982年、両親の帰国から2年後に、山下さんも夫と子ども2人を連れて帰国。
言葉の不自由な夫は家で主夫をして、もっぱら彼女が外で働き、家計を支えてきた。
昨年60歳になったのを契機に、長年働いていた神戸の某ハム工場を辞めた。
しかし、65歳までは年金だけでの生活は不可能なので、
また近所の食堂で週4日パートをしているそうだ。

息子や身内以外とはあまり外で食事をしたり、飲みに行ったりする機会はない山下さん。
新しい職場の食堂で
「中国野菜なのに、なんで知らんの?」
「中華料理のメニューにあるやろ?」
とさんざん言われて、初めの一か月間はたいへん辛かったそうだ。
さらに、緊張しているときに「820円やから1020円でおつりちょうだい」などと言われ、
頭がカーッとなり、一度は「もう辞めます」と申し出たそうだ。
幸い、職場の先輩たちが特訓してくれたりして、今はだいぶ慣れてきたとのこと。
日本で生まれ育った者には当たり前とスル―できることの一つ一つが
帰国者である山下さんには、険しい山に登山するほどの作業であるのが、聞くほどに分かってくる。

しかし、私が
「たまにはみんなの前で、さんざん愚痴や文句を言いたくならない?」
と聞くと、彼女は言う。
「それしたら、自分のレベル下がるやん。これまで頑張って生きてきたことが、
全部、それで終わりになってしまう。絶対、それだけはしない。」
と。そういう言葉を聞くと、涙が噴出しそうになったが、
ぐっと堪えて十三駅前で笑って別れたのだった。
庶民って、死ぬまで頑張るんだよね。
為政者はそんな庶民の存在など全く見ていないくせに、口先だけ
「国民のみなさま」などとくそ丁寧に言う。
むかむかする。

夕方はそんなでもないが、夜になれば駅前が
人々でごった返す。十三はそんなところだ。

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「我が師匠スエミ姐さん一周忌」  2013年8月12日(月)No.725

2013-08-12 14:43:46 | 日記

7月27日は友人たちによるスエミ姐さん一周忌の会があったが、私は行けなかった。
何を聞き間違ってか、その日にどうしても外せない別の行事を入れてしまったのだ。

その日、ハナテン中古車センター傍のスエミ姐さんとお連れ合いイツオさんのマンションに、友人・知人たち40人近くが集合し、大いに喋り、飲んだという。
まるでスエミさんがそこにいるかのように。


一周忌記念品のストラップ

イツオさんの要望を受けて、友人葬幹事たちが
手作りしたもの。
「老眼で目え見えへんがな。たいへんやで」
と言いながら、約1か月かかって百個作ったそうだ。
「これ、材料費なんぼかかったと思う?すごいねんで」
と、どこまでも大阪の女性たち的講釈が続く。
ストラップに編み込まれた文字「窓女」は、
スエミ姐さんの俳号である(俳人でもあったのである)。
「ソウジョ→マドオンナ→マドンナ」ということで
「『窓女』はオランダやフランスで、
窓から道行く人に声をかける遊女の姿とかぶさるイメージ」
とは元気だったときの彼女の言葉だ。
逝くとき、彼女は戒名にも「窓」を選んだ(「釈明窓」という)。
窓を全開し、広い空に飛び立っていったスエミ姐さんを想う。



その一周忌の集まりを「美空ひばり並みやな」と誰かが評したという。
人々の集まり方はともかく、彼女そのものは美空ひばりではない。
彼女はむしろ「黒柳徹子」である。
(黒柳さん、ご健在であるあなたと美空さんを比べてスミマセン。
私はあなたのどこまでも飛ばす喋りが大好きです。
最近声がしゃがれていますね。元気でね。)

黒柳徹子より声音は高くないスエミ姐さんだが、
早口多弁の大阪言葉に時折お母さん譲りの江戸っ子言葉を混ぜる。
「橋下だかヘチマだか知らないけどね」の「ヘチマ」がその一つで、
私はすっかり気に入り、自分の語彙袋に大切に「ヘチマ」を仕舞い込んでいる。

彼女の口からは「まず、NO!」の真逆、「まず、YES!」が発せられる。
ひとが一番欲しい言葉(それは自分が言われてから、そう言って欲しかったことに気づくようなたぐいの言葉だ)を瞬時に言ってくれる人だった。
それは、生きることに困っている者にとって、天の助けだった。
そんな人が身近にいてくれれば、ひとの人生は確実に変わる。
スエミ姐さんを人生の師匠と仰ぐ所以である。

スエミ姐さんのお連れ合いの手作り梅干し

連れ合いのイツオさんには、どんな一年間だったろう。
8月9日、数人で訪れた際、イツオさんは去年より少し痩せていた。
しかし、イツオさんはスエミ姐さんと過ごしていたいつもの年のように、
今年も南紀まで梅を買いに走り、その梅をベランダ一面に干していた。
いつもの年のように、二年漬の梅干しを私たちにくださった。
スエミさんならこう言うところだ。
「自慢するんですけどね、この梅干は美味しいですよ。
いや、実は私じゃなくて、私の愛する夫、イツオが漬けたんですけどね。
もう名人やで。見て、この粒。このシワ。色もいいやろ~」
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「南昌の丁勇先生と大阪で再会」 2013年8月9日(金)No.724

2013-08-09 18:45:12 | 日記
劉思婷さんが帰った翌日の昨日、
南昌の丁勇先生と大阪で会った。
南昌市の江西師範大学の先生で、
南昌市八一公園日本語コーナーの代表だった丁勇先生は、
岡山商科大学との交流プログラムで、
4月はじめから岡山市に住んでいらっしゃる。
丁先生が南昌を去るに当たって、八一公園日本語コーナーグループは、
実に3回も(いや、それ以上かも)送別会を開き、門出を祝した。
(1、2年の別れぐらいでなんとたいそうな)と思うのは
中国南昌人の情の厚さを知らないからかも知れない。
私は3回目の案内をもらったときには、
「え~、また~?」
とかたいへん失礼なことを呟いてしまったのだった

ことほど左様に、南昌の日本語コーナーのメンバーはとても仲がいい。
なぜか。それは、官製でない、民間人が自前で作った(しかも中国で最初の)
自主的な日語角だからだと多くの人が言う。
その創始者である博堅先生は、この夏休み前、
「先生方はみんな、夏休みで帰省したり、用事で参加できなかったりするので、
南昌にいる限り、私が毎週行きます。それは私の責任と義務です」
とおっしゃった。80歳の博堅先生は、そういう方だ。
彼なくして南昌の日本語コーナーが、
ここまで自主的に発展してくることはなかったのは明らかである。

昨日、丁勇先生歓迎で急遽大阪近辺の南昌グループが梅田の某所に集合し、
再会を喜び合った。
話題が博堅先生のことに及び、
「世が世ならたいへん高貴(ナントカ八旗)で、
特に学問分野に優れたモンゴル人家系の方であらせられる」
と解説を受けたが、博先生は全くそうしたことをひけらかさない。
本当にエライ人は、自分をエライと言わないのである。
どこの国にも、肩書を持たない市井の偉人がいる。
周囲がその人の偉大さを分かろうが分かるまいが、
当人はそんなこともまた気にしないのだろう。
野に咲く一輪の花のように。
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「劉思婷さん離日」 2013年8月7日(水)No.723

2013-08-07 19:56:08 | 日記

12泊13日の劉思婷さんとの日々、
なかなか楽しかった。
彼女は、
「一日いちにちがとても充実した日々で、
出会った人たちはみんなすてきな人ばかりだった」
と言う言葉を残して、今日午後、中国広州へ帰って行った。
今回の劉さんの来日では本当にたくさんの人たちにお世話になった。
快くもてなしてくださった全ての人に非常感謝!!!

彼女が最も印象に残ったことの一つに
尼崎園田の地域夏祭りがある。
出店の売り子体験をして、
子どもたちと接することができたのが
とても楽しかったそうだ。
よく似合う浴衣姿のせいばかりでなく、
優しい物腰、自然な日本語の彼女が中国から来たばかりとは、
子どもたちのみならず子連れの親たちも、全く気付いていなかっただろう。






金魚すくいも生まれて初めて体験(3匹ゲット!ただものではない)

見事なキッズダンスも鑑賞
(子どもたちの全身が生き生きしているのがとてもヨカッタ!)


盆踊りは見るだけで満足
(やぐら太鼓を打つ中学生?の女の子がカッコ良かった)


ボール投げ的当て出店のNPO法人「まいどイン尼崎」の
みいちさん・さかもとなおさん(てかマイドウター)と記念撮影
(みいちさん、Tシャツの汗がお腹の上で止まっているのはなぜ?)
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「今さらながら『一衣帯水』の日中両国」 2013年8月6日(火)No.722

2013-08-06 15:20:09 | 中日(日中)関係
広島に原爆が落とされた時から68年経った。
記念式典5万人が参加。


朝寝坊して8時半過ぎ、慌ててテレビをつけた。NHKを含めどのチャンネルも式典中継をしていなかった。劉思婷さんに見せてあげようと思ったのに。
NHKラジオをつけた。式典会場から被爆者の女性にインタビューしていた(ふう~)。
「リベンジでなく、平和こそが最も大切です。核兵器による被害者も、福島原発の核事故の被害者も同じです。核は廃絶すべきです。」
という言葉に心から賛同。
式典では、なんと安倍総理も「核兵器廃絶」と公言したそうだ。
あれ?常日頃の態度と違う。しかし、ちゃんと公言したのだから責任持って、その言葉を守ってもらいたい。今年4月24日、スイスなど80か国が賛同して核兵器の非人道性を訴える共同声明が発表されたが、
被爆国日本は強い要請を受けたにも関わらずそれに署名しなかった。
まず、その言っていることとやっていることの矛盾を正すべきである。

劉思婷さんと京都、奈良を巡って思ったのは、
つくづく日本と中国は昔むかしから平和的に交流を続けてきたことだ。
例えば、唐招提寺の蓮。
鑑真和上縁の寺では、今も中国から伝わった様々な蓮が手厚く栽培保存されていた。

孫文が革命資金をカンパしてくれた日本人に感謝して送った蓮の種から育った蓮。


西湖原産の蓮


中国古代の蓮


中日友誼蓮


中日友好♡蓮の精
平和がだいじ。戦争アカン。
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「劉思婷、日本の若者と大いに語る」 2013年8月5日(月) No.721

2013-08-05 13:54:21 | 中日(日中)関係
劉さん後半のスケジュールも大詰めを迎えている。
8月1日から最終日7日までの日程はざっとこんな感じで過ぎつつある。

8/1 〈午前・午後〉NPO法人「まいどイン尼崎」(障がい者の自立支援団体)作業所見学体験 
〈夜〉「まいどイン」メンバーの「劉思婷さん歓迎:流しそうめん・たこ焼き交流会」、民家1泊

8/2 〈午前・午後〉川西能勢郊外の森宅訪問交流 財大生後輩黄君と再会 

8/3 〈午前〉研究資料収集保存
 〈午後・夜〉尼崎園田のお祭り出店手伝い体験

8/4 〈午前〉研究資料保存 
〈午後〉尼崎若者との交流 
〈夜〉十三地域帰国者の友女子会参加

8/5 〈午前〉研究資料保存 
〈午後〉尼崎FMラジオ出演 
〈夜〉回転寿司

8/6 〈昼間〉自由 
〈夜〉十三の享子宅で歓談交流 

8/7 〈午後〉関空から広州へ帰国

いずれの日も、私や周囲の友人・知人・身内が、彼女に対して精一杯のもてなしとして
計画・実行してくれた(くれる)ものばかり。
非常に盛りだくさんだが、思婷さんも
「毎日、本当におもしろいです!」
と、積極的だ。

昨日の午後、地元尼崎~神戸在中の20代、30代の若者たちが、
山田さんの家に集まり、山田さんの手料理をいただきながら、
尖閣問題から食の安全まで、あれこれ聞きあい、話し合った。
集まったのは、
「やばい」(註)野菜作りを目指す人、
障害者の自立を支援するNPO法人スタッフ、
車のディーラー転じて今は農場で働く人、
塾の営業スタッフ、
半分ミュージシャン、
弁護士など、バラエティに富む顔ぶれで、
共通しているのは自分の考えを臆せず、正直に、
言葉で表現しようとする若者達だというところか。

「中国の人は謝らないって本当?」
「農薬について中国の生産者、消費者はそれぞれどんな意識をもっているの?」
「三国志で誰が一番好き?」
など、日本側?からの質問があり、そして、劉さんも
「日本の若者はどうしてそんなにボランティアが多いの?
中国とはずいぶん違うけど」
といったように、始めは両者の質疑応答風な流れだったが、
そのうち、
話題が「尖閣問題」「日中戦争」「戦争の謝罪」「ODA」などになると、
日本・中国に関係なく、話が白熱した。

「私は戦争について謝らない。だって、自分がしたことじゃないから。国家と私は関係ない」
と言いつつ、
「尖閣諸島は日本国家のものと思う。日本はもっと主張すべきだ」
という人の意見に対して、だれかが、
「遺産に正と負があったとき、正の遺産だけもらって、
負の遺産は引き受けないと言うのは無責任だ」と反論し、
何人かがなるほど、と頷いた。

日本がたいへんな額のODA援助を中国にしていることについて、
ミュージシャンは、
「GDPが世界第二位の国に、第三位の日本が何でいつまでも援助しなければならないのか。
日本の生活困窮者対策にそのお金を使うべきだという意見の人は多い。」
と問題提起をした。
その後、議論は
「周恩来首相が日本から戦争賠償金を取らない、と言ったことを日本人は忘れてはならない。
あの時、中国だってそんなにお金もなくて人民が困窮していた中で、
中国は寛大な申し出をしてくれたのだ」
「だからそのお詫びの意味で日本は巨額のODA援助を続けていた」
「しかし、それは損害賠償ではない。それはそれ、これはこれ。
政府開発援助は経済後進国への援助だ。意味をすり替えてはいけない。」
「ODAによって利を得たのは結局多くの日系企業だった。
要するに援助と言う名の経済進出だったのだ」
とまあ、かなり突っ込んだ内容になった。
それを聞いていた劉さんは、
「実は日本からのODA援助について、今、初めて知りました。
とてもショックを受けています」
と。

中国の若者がいかに特定分野の情報を受けていないか、
3年前の中国人ノーベル平和賞受賞者のこと、
1989年天安門事件のこととも合わせて、
国民がある種の情報を知ることができないということは、
いったい何を意味するのか、
それによって何がもたらされるのか、
その場にいた若者たちは少し実感できたのではないか。

劉さんは、
「国家が情報をコントロールすることの必要性は理解できる。
私自身は詳しい情報を知りたいけれども。」
と、この日の話し合いの一番初めに述べた。
交流の後、彼女の心境に変化はあっただろうか。
あってほしいと思う。


(註)「やばい」とは、最近の若者言葉で、「すばらしい」という意味で使われることがあるという。
この日の「やばい」もそうだった。






コメント (2)
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「劉思婷、ただ今日本体験中!」 2013年8月1日(木) No.720

2013-08-01 13:45:22 | 日記
劉思婷さんが来日して6日、12泊13日滞在の前半が矢のように過ぎた。
ちなみにどういう日々だったか振り返ると、
初日、関空到着。大阪駅ビルからキタ近辺をザックリ鳥瞰し、阪急電車で淀川区の我が家へ。

2日目、中国帰国者の友パーティー参加して、
    同年代の帰国者3世の原田君たちと歓談。
    大学院の元ルームメイト李さん(阪南大留学中)と再会。

3日目、京都府京丹波市の瑠璃渓散策、温泉体験(李さんも一緒に)
    2年以上のメールフレンド山田さんの車で。
    瑠璃渓ではたくさんの親子連れが川遊びを楽しんでいた。
    京都市内から来たおじさんにアイスを奢ってもらう。
    おじさん曰く「日本と中国は仲良くせなアカン。」
    温泉体験は、最初、トホホ感溢れる風情だったが、
    さすが若者、すぐに慣れてマイナスイオンの空気浴でお昼寝を楽しんだ。 

 
4日目、大阪キタを李さんとショッピング。
    夜、茨木市で学習交流会に参加し、「中国の若者の現状」について大いに語る。
    都市と農村の格差、戸籍問題、教育システム、
    新左派経済学者のワンフェイ氏について中国の若者はどう感じているかなど、
    かなり多岐にわたる質問に中国の若者の一人として誠実に答えていた。

5日目、京都観光(祇園・八坂神社・清水寺・三十三間堂・銀閣寺・京都大学)
    「日本概況」の教科書に出てくる名前がそこここにあり、
    「ああ、来て良かった~!」と呟いた。

 
6日目、奈良観光(唐招提寺・薬師寺外側だけ・興福寺五重塔だけ・東大寺・奈良公園)
    我が友人藤野さんの案内で、唐招提寺を中心にゆったり奈良観光。
    京都との違いが印象的だったようだ。「私は奈良の方がいいです。」と。
    帰り道、大阪梅田のかっぱ横丁・古書の町に行ったが、
    8時ちょうどでしまってしまった。
    代わりに、どんぐりハウス(スタジオジブリのグッズ店)で、
    両者、目を輝かせてお土産物色。

そして、今日7日目は、兵庫県尼崎市のNPO法人「まいどイン尼崎」作業所で
    しょうがい者の自立のための作業体験、夜は交流食事会&民家にお泊り体験。

とまあ、明らかにハードスケジュールだ。
2日間、京都と奈良を歩きまわった疲れが出て、今朝は二人とも寝坊してしまった。
帰国までのあと一週間、さらに、いろいろな人との交流や、
暮らし体験のスケジュールが目白押し状態だ。
中国に帰ってから、ゆっくりと自分が体験したことを振り返り、
整理整頓してもらいたい。

ところで、ここ数日の間に聞こえてきた思婷さんの呟きに、
彼女の日本に対する印象が感じられる。
例えば…、
(京都や奈良の町を歩きながらシミジミと)
「自分が知識として大学の講義や本で学んだことが、今、
本当に目の前にあるんですねえ…。」


(道行く女性の、日焼けを完璧に避けるファッションを見て、ニマッと笑い)
「写真に撮りたいくらいですね。中国では怪しい人と思われます。
日本の女性は一人ひとり個性的な恰好をしていますね。」


(歩道上で接近する車に道を譲ろうと一瞬立ち止まりながら)
「車が来たら、すぐハッとして歩行者の自分が引き下がろうと思ってしまいます。
日本では歩行者優先なのに。」


(町のポスター・広告を眺めて)
「どこでも安倍首相のポスターばかりですね。」
(その後、日本共産党の志位委員長のも見つけて、非常に意外そうだった)
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