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毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「Imagine all the people living life in peace」 2012年12月31日(月)No.551

2012-12-31 20:53:39 | 日記


「想像して
 今日のために生きている全ての人々を。

 想像して
 平和に暮らしている全ての人々を。」

40年も前にJOHN LENNONが全ての人の心に訴えたこのメッセージが、
こんなに切実に共感できるというのは、
世界が連帯し得ていないからで、
それどこころか
かなり反目し合っているからで、
私の周りには
中国と戦争したい日本人も、
日本と戦争したい中国人も、
誰ひとりいないのにもかかわらず、
今年4月、あの愚かな政治家が
国を遊び道具にして引っ掻き回したことが引き金となって、
折しも今年は日中国交正常化40周年を迎えたというのに、
40年の間、丁寧に、少しずつ積み上げてきた互恵関係が
ガラガラと音を立てて崩れてしまったせいである。

このブログでは、
日本ではあまり紹介されない中国の大学生たちの生の声を時々紹介してきた。
尖閣諸島(釣魚島)で揺れた9月、10月、
私の教え子である日本語学科の学生たちに
「この間の事態についてどう感じているか」書いてもらった。
今年最後のブログにはその文を載せたい。
どうか、中国の人たちがどんな思いで日々暮らしているのか、
想像して欲しい。
どんなにみんな平和に暮らしたいと願っているか、
感じ取って欲しい。
そして、日本からこちらにメッセージを送ってもらえないだろうか。
日本人がどんな思いで日々暮らしているか、
どんなに平和が大切だと思っているかについて。

―――――この文は10月中旬に書いたものです―――――
○そうそうさん
 実は私も残念な気持ちを持っています。
釣魚島はいったい誰のものなのか分かりません。
もちろん自分の利益のために
「釣魚島はずっと中国のものだ」というのは当然です。
この島の具体的な歴史は分からないけど、この問題は歴史的問題です。
20世紀の問題であり、解決していません。
 私は平和を愛しています。
だから戦争なんか嫌です。
でも、中国国内の状況を見て、実に恥ずかしいと思います。
どうして我が国民はそんなに落ち着かないの?
どうしてそんなに馬鹿なことをするの?
そんなに低い素質なんて見たくないよ。
在中国の日本人に「ごめんなさい」と言いたいです。

○思めいさん
 この間、中日関係がこんなに悪くても、
私の親友は東京の大学に留学に出発しました。
これは中国国民が、依然として日本国民を信じていることを示しています。
国民同士は相互理解と信頼を深め合って行くべきです。
 本当にこの事件が早く終わってほしいです。
もし私たちまで中日友好のために頑張るのを止めたら、
こんな情勢が続いたが最後、最悪の場合は戦争になりかねません。
そんなことになったら、両方とも損するに違いありません。
自分のためにも、私たちは中日の架け橋を作り続けましょう。

○翀しんさん
 この頃、中日関係の悪化によって、
多くの日本語学科の学生たちは肩身が狭いと感じ、
今後の就職も心配になって、
そうしたら、日本語を勉強し続ける意欲もなくなってしまいました。
しかし、このように消極的な態度では何も変わらないでしょう。
この時こそ、中日友好のために私たちができることは、
一体何かをよく考えるべきではないでしょうか。
 日本語学科の学生としての私は、まず、
日本語のレベルを高めなければならないと思います。
それから日本社会、日本文化、そして、中日友好の歴史などを理解して、
周りの人に紹介します。
日本語学科の私たちまで日本人に敵意を抱くとしたら、
中日両国の関係はどうなるでしょうか。
そう考えると、私たちも中日友好に重要な役目を担っています。
実は、一般の考えと違って、
日本語学科の学生は肩身が広いのです。
せめて私はそうだと思います。
大方は私が日本語を勉強しているのを聞くと、
「本当ですか。羨ましい。私も学びたい」
と言ってくれます。ある男性は、
「電話番号を教えてくれますか。
時間があるなら日本語を教えて」
と言うに至っています。
ちょっと不思議だと思うでしょう。
 こう考えてみると、私たちにできることがいろいろあります。
日本語を活かして、自分の知っている日本や日本人を多くの中国人に紹介します。
これまでも、そして、これからも
日本人は中国人の変わらない親友でしょう。


教室が暗いムードで、声も出なかった9月末。
そのとき、学生たちは必死で日本語を学ぶ意味を考えていた。
学生達の作文からは、私を励ます気持ちもヒシヒシと伝わってくる。
2年前に知り合い、ともに過ごした月日が、私たちを結びつけてきた。
その信頼関係をもとでに、
私たちはさらなる信頼の輪を広げたいと思う。








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「南昌のバスの中にも時代の波が」 2012念12月30日(日)No.550

2012-12-30 20:32:48 | 中国事情
一週間ほど前から近隣の大学は冬休みに入っている。
知り合いの日本人教師たちは
1学期が終わるやいなや脱兎のごとく日本に帰っていった。
ああ、それなのにこの大学ときたら、
いったいどこまで人を働かすのか。
国慶節の振り替えだとかいって、
昨日、29日の土曜日まで授業をやらせるのだ。

折しも朝から雨が降り、途中からみぞれに変わった。
私は靴の中が濡れるのを心配しながら学校へ行った。
スクールバスは早朝7時半と昼の12時、そして夕方5時にしかない。
授業は10時20分からなので、市バスで行った。
市バスに乗ったとき、ここ2年ちょっとの間で明らかに変化していると気づいたことがある。
2年前は、私が立っていると学生やあまり若くない人までもが、
席を譲ろうとほぼ必ず声をかけてくれた。
声をかけずに、服をツンツンと引っ張って、座れと合図する人もいた。
最近は、見事に誰も席を譲ってくれない。
私だけではなく、誰にも譲らないのだ(別に座りたくて言っているんじゃないけどさ)。
ここに来たばかりの頃は、その親切さが新鮮で、
中国人は心が温かいなあとしみじみ思ったものだ。
時代の移り変わりとともに、と言ってもたった2年ちょっとしか経っていないのに、
これはこれはの激変ムードだ。
80年代生まれの学生たちが、
「90年代生まれにはついて行けません。断絶があります。」
と言ったことがあるが、その80年代は大方もう卒業してしまった。
現在学生の主流を占めるのは、90年代生まれだ。
皇帝と女王様たちだ。

中国の学校では社会的マナーやボランティア精神については、ほとんど教えず、
ひたすら勉強させ、いい成績を目指させるという。
では、今までどうしてバスの譲り合いなどができていたのか。
かつて、雷峰という礼儀正しく忠義の心溢れる軍人がいて、
「雷峰的に行動しよう」というスローガンもあったそうだが、
やはり決定的なのは家庭でどう育ったかということだと思う。
80年代生まれの子たちは、多くが家の手伝いをして育ってきた。
牛の世話、ご飯の支度、弟や妹の面倒をみるなど、農村では当たり前だった。
今の大学生は、たとえ農村出身でも、お嬢様とおぼっちゃまが多数派を占める。

1年経てば時代が変化している。
経済事情も、生活のスタイルも刻一刻変わっているのだ。
座席を譲らない子が爆発的に増えているのはその一つの証左だ。
たとえ昔風な帽子と上着をまとい、足腰が弱っているのが丸分かりの
おじいさんがよろめきながら乗ってきてもガンとして譲らない。
まず自分の席を確保し、座ったらスマートフォンで何やらする。
周りを見ない人たち。
日本ではそれが普通かも知れないが、
中国では、何かガッカリする。
2年前の過剰なまでの譲り合いを経験しただけに。
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「日本から離れて今の日本を思う」 2012年12月29日(土)No.549

2012-12-29 22:52:19 | 日記
安倍政権がさっそく
「原発ゼロ見直し」
「希望を政策にしない」などと言い出した。
正確に言えば、
「一般国民の希望」を政策にしないということだろう。

彼は選挙で「日本を取り戻す!」と言っていたそうだ。
バブルの華やかなりし頃の「経済大国」日本を復活させるという意味なんだろう。
(コスト安上がりの原発を再稼働するしかない)と国民は納得するのだろうか。
日本壊滅に近い打撃を受けたあの東日本大震災と福島原発事故は、
まだたった1年半前のことなのだが。

日本人は何でもすぐ忘れてしまう。

アジアへの侵略戦争をしたって?それ、どこの国のこと?
そう言えば日本だったか。
でもそんな大昔のこと、いつまでしつこく言うわけ?
戦後日本は生まれ変わったんだから。
平和憲法もあるし~。
あ、あれはアメリカの占領軍が作ったものだから、
やっぱ、独立国としては改正するべきところは改正してもいいかもね。
原発事故、テレビで見てメチャ怖かったわ。
だけど、まさかもう一度あの規模の地震や津波はこないんじゃない?
少なくとも、私らが生きているうちには、ていうか、自分の住んでいる街には。

こういう見事な希望的観測と過去の忘れっぷりを「日本病」と言う人もいる。
この「日本病」の根っこにあるものは何だろう。
当事者意識のなさと、想像力の欠如と私は思う。

その根拠は武士道に遡ることも出来るかもしれない。
武士があれこれ、理屈をならべることは「小賢しい」と排された。
主人の家のために「死ね」と言われたら、
何も考えずにさっと死に支度ができなければ一人前の武士ではなかった。
そんな日本人性のようなものを先祖から受け継いでいるのだろうか。
我々の先祖のほとんどは、農民出身であっただろうに。
それとも、
一部の特権階級に虐げられる時代が長すぎて、
今でも、何も考えずに従う態度がクセになってしまっているのか。

今日の河北新報に報じられていた
“「今更危険と言われても」 東通・立地自治体、憤り隠せず”
を見て、そんなことをボンヤリ考えた。
「活断層がある」と原子力規制委員会の調査団に言われて、
怒っている東北電力の東通原発の地元の人たち。
安全だと言われて長年、原発事業に協力してきたという。
しかし、原子力規制委員会の専門家が下した判断を聞いて彼らが怒りを向けたのは、
安全神話で騙してきた電力会社や国家ではなく、
「危険だ」と判断した専門家たちに対してなのだ。
もう一度、ちゃんと調査してやっぱり安全だったと言ってもらいたい。
そのようなことを東通村の村長は言っていた。
これこそ主観的願望・希望ではないか。

安倍の「希望を政策にしない」発言の欺瞞。
アベさん。あなたは強い希望を政策化しようとしているじゃないですか。
原発推進派の期待を一身に受けて登場したあなたの背景には、
いろんなものが見え隠れしていますよ。
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「市民的権利が保証されているとは言えない学生たちの暮らし」2012年12月28日(金)No.548

2012-12-28 20:17:51 | 中国事情
「大学生活における身近な環境上の課題」をテーマにした学生たちのレポートを読んでいる。
寮、図書館、体育館、食堂、教室、周辺の交通事情など、学生の視点は多岐にわたっているが、
読んでいて、感じることがあった。
それは、中国の学生、と言っては大きく括り過ぎなので、
この大学の、と限定して、学生たちがかなり辛抱して暮らしているということだ。
日本の学生たちのキャンパスライフと比較してもらいたい。
例えば、
寮生活では、
・炊事場や冷蔵庫が全く、どこにもない。 
・電気が夜11時にはブチッと切られて真っ暗になる。
・暖房設備が全然ない。
・洗濯機、掃除機も当然ない。
・・・・・・ないものだらけ。
学生たちが困っているのは、11時に全室の電気が消されることだ。
まだ勉強したい学生も、真っ暗なので寝るしかない。
電気代は学生が全額負担しているにもかかわらず。
百歩譲って、消灯時間を認めるにしても、11時とは誰が決めたのだろう。
小学生じゃあるまいし、いくらなんでもちょっと早すぎる。
管理人が自分の都合で決めたとしか考えられない。

また、この大学には、3つのキャンパスをつなぐスクールバスが走っている。
しかし、バスの乗客はほとんどが職員だ。
学生たちも乗る権利があるにもかかわらず、
乗ることができない。
いったい何時に、どこにバスが来るのか、誰も教えてくれないので、
さっぱりわからないのだ。
スクールバスの存在自体を認識していない学生も多い。

もっとささやかな訴えもある。
食堂の料理は、コーナーごとに「2元~2.5元」など、価格が表示されている。
しかし、そのコーナーにある料理だからといって、
値段がそうだとは限らない。食堂の職員が適当に料理を置くからである。
学生のほとんどは一元のお金も節約したいから、
安いコーナーに並んで買う。
しかし、往々にして表示価格より高い金額を払わねばならない。
対抗策として、顔を赤らめながら、いちいち
「これはいくらですか」
とたずねることもあるが、昼食時は大勢の学生が詰めかけて、
大変忙しい。自分の質問で時間を取らせるのはどうか、と
ついつい引っ込んでしまう。
せめて、一つ一つの料理に価格のタグをつけてもらえないだろうか。
レポートの中にそんな文を見つけると、思わずホロリとなる。
なんて遠慮がちな要求だろう。

学生の自治組織もある。しかし、こういうことにはとても弱々しい。
共産党の会議などは熱心?に、しょっちゅうやっているのに、
いったい何を話し合っているのだろう。
生活上の要求をどこに、どのように訴えたらいいのかわからない学生がほとんどだ。
学生が時々、大きい上からの力に従うだけの存在、
に限りなく近いように見えることがある。
その大きい力の正体は何なんだろう。
日本でも、表出の仕方は異なるが、
似ている場面があるような気がする。


 
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「まるドメ(まるっきりドメスティック)とOKY(お前が来てやってみろ)」2012年12月27日(木)No.547 

2012-12-27 21:03:47 | 日記
タイトルの二つの言葉は今、企業の海外出張者のあいだで流行っているものだそうだ。
二つとも、私が尖閣「国有化」問題で地団駄踏んでいたときに聞いていれば、
石原や野田に照準を当てて思い切り投げつけてやれたのに。
日本国内の奥深く、安全圏で寿司など食べながら
言いたい放題、好き勝手なゴミ言語を吐きまくっている石原と、
それを持ち上げている人々全てに、今でもこの言葉を言ってやりたくてたまらない。

ビジネスオンラインの【日経ビジネス12月25日号】を一部拝借掲載。
ビジネスの世界でも権力者は、
本社で鈍い感受性に裏打ちされた、百害あって一利なしのゴウマン用語を
社員に向かって履き散らかしているのが分かる。
挙句に「我社にはグローバル人材が全くおらんな」
などと威張るのだ。

日経ビジネスhttp://business.nikkeibp.co.jp/nb/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
OKY(オーケーワイ=おまえが、来て、やってみろ)。
現地の事情を知らない日本の本社から、無理難題が来た時などに使います。駐在員が
集まる現地の飲食店では、「全く本社のやつらは、OKYだよな」が合言葉。この
表現そのものは昔から存在したようですが、中国の市場開拓などで苦労する企業
が増えたこともあり、駐在員の間で傷をなめあう言葉として定着したのでしょう。

日本企業がイメージする「グローバル人材」というのは、
つくづく都合がよい人材だと感じました。外国語が堪能なうえに、
日本の文化も理解している。本社の仕事の進め方や幹部の意向をくみつつ、
海外では現地の事情を考慮して、エネルギッシュに仕事をこなす。
世界中にそんな人材がどれほどいるでしょう。
もう1つ略語を使えば、本社が
まるドメ(まるっきりドメスティック)
のままでは、
グローバル人材を採ることも、活かすこともできないのです。

 

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「安倍政権発足をきっかけに『九条の会』に入る」 2012年12月26日(水)No.546

2012-12-26 20:26:53 | 日記
昨日、安倍政権がスタートした。
ここ一週間、ネットニュースで安倍晋三の発言を見ていたら、
「中国と戦略的互恵関係に戻す努力をする」
「竹島の日、政府記念式典を見送る」
「靖国神社に参拝しない」
と、立て続けに中国、韓国との関係改善する姿勢を強調している。
産経新聞等は、
「早くも公約違反!」「公約を守れ!」
などと無責任に騒いでいるが、
もし、自分が一国の代表者になったら同じことが言えるのだろうか。
心底無責任な発言だ。
しかし、私のこの感想は決して安倍晋三を擁護しているのではない。
もともと安倍晋三の選挙公約は、
破滅的なほど世界を見ていない日本中心主義の人々に向けた言葉だった。
欧米諸国からも「日本、ちょっと危ないね。右傾化し過ぎじゃない」
と心配されている今の日本の状況だが、
安倍はともかく、安倍の周りを固める人たちは、
その辺のことも少しは判断できるのかも知れない。
ここ一週間で、そんな感想を持った。
しかし、
それはそれ
憲法改「正」をいつ出してくるかは分からない。
油断大敵なやつなのだ。
そういう訳で、
今まであちこちで名前を聞くだけだった「憲法九条の会」に入ろうと、
つい先ほど決意した。
正直言って、長年どこにも属さず、ひとり気ままに生きてきた私が、
今さら「○○会」というのに参加するのは非常に億劫だ。
一人、楚々として清らかに暮らしたいのだ(ダハハ)。

しかし、たった一人でも、日本に住んでいなくてもできることは、
この際何でもやろうと思う。
ということで、ブログに九条の会のリンクを貼った。
久しぶりに、懐かしい、へんちくりんな日本語の第九条を読んだ。
今は亡き丸谷才一さんが、日本国憲法と大日本帝国憲法を比べ、
美事を連ねたり歯切れがよかったりして、しかし、伝達と論理とは忘れ果てている文章と、言葉の選び方はまずいし、繰り返しは多く、どうにも締まらないが、それでもとにかく言いたいことはちゃんと伝えている文章があって、二つのうちいづれかを選ばなければならないとすれば、私は黙って後者を取る。それは下手であってもとにかく文章なのだ。その悲しい典型が現行憲法であることはもはや念を押すまでもなかろう。」(文章読本)
と、現行憲法に優しい眼差しの言葉を書いている。

今いる中国の大学で、大学生たちにこの憲法第九条の、
「日本国民は、戦争と武力の行使は、永久にこれを放棄する」
という箇所を紹介すると、
あちこちから「おお~!」と声が出る。
憲法九条は感動を呼ぶ平和のアピールなのだ。

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「南昌の地味で寒いクリスマス☆*::*:☆」 2012年12月25 日(火)No.545

2012-12-25 19:39:24 | 中国事情
気温は7℃/1℃。北風ピープーの寒い一日だった。
昨日のクリスマスイヴは、午後から4年生の洪さん来訪。
しかし、パーティーではない。
来る1月5日、6日の大学院受験対策勉強だ。
昨年と違い、今年の4年生で大学院を受ける学生はたったの3人。
受験組が大勢だとムードが追い風になることがある。
今回受験する3人は、それぞれ一人で頑張るしかない。
それでも昨日来た洪さんは、見た目そんなにナーバスになっている様子はなかった。
4年前の大学受験の時はあまりのストレスで、
(なにしろここの受験地獄はものすごい)
受験日は6月なのに、
2月ぐらいから毎日涙が止まらなくなってしまった経験を持つ彼女は、
そこから自己コントロールを学んだと言う。
お母さんも
「受からなくてもいいんだよ」
と言っているそうだ。
(もう、大学まで行ったら十分だ)とお母さんも考えているのかも知れない。
彼女が進学か就職か長い間迷った末に進学を選んだのは、
(もっと日本語を学びたい)という理由だった。
彼女は本当に日本語で話すのが大好きだ。
いつかきっと、自力で日本に行くと決めている。
広い世界へのドアを開けるきっかけとなったのが、
彼女にとっては日本語であり、語学学習なのだ。
きっといつか大阪の街を彼女と一緒に歩く日が来ると私も確信している。

今週は1学期末のテストウィークだ。
29日の土曜日までテストがびっしり。
3年日本文学の解答用紙を抱え、
寒い北風に背中を押されるようにして蛟橋キャンパス前の横断歩道を渡ると、
屋台のお店屋さんたちが門前で寒そうに足踏みをしながら商売をしていた。
私は寒くなってから3日に一度はここで焼き芋を買う。
ごろんとしたのが一個2~3元。
日本の焼き芋と違って、一度茹でてから焼いてあるので、
中はホクホクというよりべチャっとしている。
でも香りが良くて、ついつい吸い寄せられて行くのだ。
焼き芋屋さんのおばちゃんは(初め見たときはおじちゃんかと思った。スイマセン)、
お金を払うときいつも、ちょっとおまけをしてくれて
「慢走(マンゾウ)」と言ってくれる。
日本語では「気を付けて行ってね」とか言う意味だが、
現実には門の中に入ったらすぐに外国人宿舎なので、
そんなに言ってもらわなくてもほぼ大丈夫なのだ。
しかし、もちろん彼女は直訳の意味で言っているのではない。
日本のお店屋さんと同じ、
「寒いですね~。気をつけてお帰りください。」
という言葉で、客と店屋さんの間に人格的交流ムードが一気に醸し出されるのだ。
あったかい焼き芋とあったかい言葉をもらって、宿舎に戻った。

クリスマスと言っても、南昌郊外では
財大スーパーの店員さんがクリスマス用の法被と帽子をまとっていたのと、
(これは普段とかけ離れ過ぎていて、ちょっと浮いていた)
「ジングルベル、ジングルベル、すずがなる~」
と日本語で歌って通り過ぎていった若い女の子たち(オオ!)、
そして「平安節」なので苹果(りんご)が一個ずつケース入りで売られる以外は、
全く平常通りだった。
ケーキもワインもない。
私はお酒をやめたし、ケーキは体に毒だから実にありがたい。
いつもと同じ、普通がいい。それこそ平安で。

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「財大の教室が一気に日本ムード~浴衣試着会~」2012年12月24日(月)No.544

2012-12-24 22:34:20 | 中国事情
いろいろあってなかなか載せられなかった浴衣試着会写真。
主な事情はこのパソコンの容量が極端に低下していて(60MBにまで下がったこともある)、
せっかく学生が送ってくれたスナップ写真が開けなかったことだ。
このパソコン、どうなっているのだろう?
日々クリーンアップとデフラグばかりやっているが、
それでも170MBとか・・・。(;´Д`)

かろうじて3年生の周さん&宋さんが送ってくれたのが保存できた。
「はい、着て!はい、脱いで!」
と慌ただしい時間の中で、
それでも学生たちは、キュートな笑顔と可笑しなポーズで楽しんでいた。
写真を見ていたら、
中国人か日本人か分からないだろう。
みんなとてもよく似合っている。
若者は何を着ても引き立つものだ。

   ②   ③

①ポーズがなんか(ノ∀`)・・・。
②お店の番頭さんとお嬢さんみたいな。
③いなせなお兄さん二人?イイエ、どちらか一人は女性です。


  ⑤   ⑥   ⑦

④⑤⑥⑦いずれが菖蒲かカキツバタ。美しいお姫様たちです。
(でもよく見たら、服の上から浴衣着ているのバレている?)
寒い12月の浴衣試着会だったが、
若者の熱気で教室は暑いほどだった。
この浴衣20人分は、JICA職員の岡田先生がJICAから借りてくれたものだ。
いつも勉強ばかりの学生たちにとって、ほんのひと時だったが楽しい会になったと思う。

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「日本僑報社主催作文コンクール授賞式に江西財大生2名が出席」 2012年12月23日(日)No.543

2012-12-23 21:16:59 | 中国事情
12月14日(金)、北京の日本大使館で行われたコンクール入賞者授賞式に、
我が江西財経大学日本語学科から2名の入賞者が参加しました。
4年生の羅浩さんと3年生の藩梅萍さんです(二人は堂々の二位受賞)。
二人とも北京に行くのは初めて。
日本大使館だけでなく、どこの国の大使館に入るのも初めて。
私以外の日本人と話をするのもほぼ初めて。
初めてづくしの体験でした。
作文指導教官ということで私も招待されたのですが、
16時間の汽車の長旅で、寒い北京に行くのは非常に辛く、
かと言って、学生二人が汽車で行くのに私だけ飛行機で飛んでいくなど、とんでもない。
それに大学では「アニメ吹き替え大会」があって、その審査もしなければなりませんでした。
というわけで残念ながら私はパスでした。
(主催者の段躍中さんにお会いしたかったんだけど~)

この「第8回中国人の日本語作文コンクール」は
今年の初めに日中友好40周年記念行事として、全中国の日本語を学ぶ学生を対象に募集されたものです。
そのときには、まさかここまで両国関係が険悪になるなんて、
学生も教師も夢にも思いませんでした。
40周年記念のさまざまな行事が相次いで中止される中で実施されたこのコンクールの意味は決して小さくはありません。
学生たち、日本語教師たちには、今年唯一の光でした。
日本僑報社から作文集も出版されました。



日本の皆さん、ぜひお読みになってください。
我が校の学生3人の作品が載っています。
って、それだけじゃなくて、知らなかった中国の若者の姿が浮かんでくるはずです。
反日デモばかり取り上げないで、
こういう作文こそメディアは積極的に日本の人々に紹介してもらいたいものです。

これは北京の日本大使館での授賞式の写真。
羅さん、藩さんは3番目の列の真ん中にバッチリ!藩さんの前は作家の石川好さんです。
最前列の左手前が段躍中さん。


       ―この写真はチャイナネットのサイトからお借りしました。
 

日本僑報社と段躍中さんについては下のサイトでじっくり見てください。
ちょっとだけ書きますと、段さんは毛沢東と同じ湖南省出身で、
湖南省は江西省の西隣、さらに内陸の農業中心省です。
それだけでも親しみがわいてきます。
中心都市長沙は「中国の四大火鍋」の一つ。夏の暑さは南昌に負けていないらしいです。
話がずれたところで、今日はここまで~。

日語作文大賽月報 http://duan.jp/jp/ 編集発行:段躍中(sakubun@duan.jp)

日中作文コンクール受賞作品集シリーズ(全14冊)のご案内
http://duan.jp/item/kk.html

朝日新聞 中国人の日本語作文コンクール、最優秀賞に李欣晨さん
http://www.asahi.com/culture/update/1214/TKY201212140535.html

TBS[報道記事]
http://news.tbs.co.jp/20121214/newseye/tbs_newseye5207933.html

新華社ネット[報道記事]
http://jp.xinhuanet.com/2012-12/16/c_132043682.htm
その二http://jp.xinhuanet.com/2012-12/13/c_132038776.htm

人民日報ネット[報道記事]
http://j.people.com.cn/94473/8059932.html

チャイナネット[報道記事]
http://japanese.china.org.cn/life/txt/2012-12/17/content_27437344.htm


CRI[報道記事]
http://japanese.cri.cn/881/2012/12/15/201s202266.htm


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「りゅうりぇんれんの物語④」 2012年12月22日(土)No.542

2012-12-22 19:00:36 | 文学
中国のインターネットのポータルサイト「百度」で
「劉連仁(りゅうりぇんれん)」を検索すると下のような文が出てくる。
2000年、87歳まで生きた実在の人物なのだ。
劉連仁が14年間辛酸を舐め、逃避行を続けた北海道は、
私の故郷だ。
私は網走の近くの開拓村で1952年に生まれ、そこで育った。
劉連仁の逃げたその径を、時を経ず子どもの私も歩いたかもしれない。

 刘连仁
刘连仁是山东省高密市井沟镇草泊村人,1913年生。
1944年9月的一天上午,刘连仁在村子里被3个日本鬼子抓住,用绳子绑上,用枪押着,离开了故乡。
当时刘连仁的妻子已有7个月的身孕。
他做梦也想不到,这是日本军国主义设计的一条毒计,通过所谓的“移入华工方针”到中国四处抓人,到日本做奴隶。
・・・・・・・・・(中略) 
2000年9月2日,刘连仁因癌复发医治无效去世,享年87岁。

http://baike.baidu.com/view/730026.htm



「りゅうりぇんれんの物語」今日は最後まで掲載。

彼の上にそれから十二年の歳月が流れていった
りゅうりぇんれんにとつての生活は
穴に入り 穴から出ることでしかなかった
深い雪に押しつぶされず 湧水に悩まされず
冬を過す眠りの穴を
幾冬かのにがい経験のはてに ようやく学び
穴は注意深く年ごとに移動した
ある秋のこと
栗ひろいにやってきた日本の女にばったり会った
女は鋭く一声叫び

折角の粟をまきちらし まきちらし
這うように逃げた
化けものに出会ったような逃げかただ
りゅうりぇんれんは小川に下りて澄んだ水を覗きこんだ
のび放題の乱れた髪
畑の小屋から失敬した女の着物を纏(まと)いつけ
妖怪めいて ゆらいでいる
これが自分の姿か?
趙玉蘭 おまえが惚れて嫁いできた
りゅうりぇんれんの姿がこれだ
自嘲といまいましさに火照(ほて)った顔を
秋の川のながれに浸し
虎のように乱暴に揺(ゆ)する
俺は潔癖なほど椅麗ずきで垢(あか)づくことは好まなかった
たとえ長い逃避行 人の暮しと縁がなくても
少しは身だしなみをしなくちゃな!
鎌(かま)のかけらを探し出し
りゅうりぇんれんはひっそりと髭を剃った
髪は長い弁髪にまとめ ブヨを払うことをも兼ねしめた

風がアカシヤの匂いを運んでくる
或る夏のこと
林を縫う小さなせせらぎに どっぷり躰を浸し
ああ謝々  おてんとさまよ
日本の山野を逃げて逃げて逃げ廻っている俺にも
こんな蓮(はす)の花のような美しい一日を
ぽっかり恵んで下されたんだね
木洩れ陽(こもれび)を仰ぎながら
水浴の飛沫をはねとばしているとき
不意に一人の子供が樹々のあいだから
ちょろりと零れた 栗鼠のように
「男のくせに なんしてお下(さ)げの髪?」
「ホ  お前 いくつだ」
日本語と中国語は交叉せず いたずらに飛び交うばかり
えらくケロッとした餓鬼だな
開拓村の子供だろうか
俺の子供も生れていればこれ位のかわいい小孫
開拓村の小屋からいろんなものを盗んだが
俺は子供のものだけは取らなかった
やわらかい布団は目が眩(くら)むほど欲しかったが
赤ん坊の夜具だったからそいつばかりは
手をつけなかったぜ
言葉は通じないまま
幾つかの問いと答えは受けとられぬまま
古く親しい伯父 甥のように
二人は水をはねちらした
りゅうりぇんれんはやっと気づく
いけねえ 子供は禁物 子供の口からすべてはひろがる
俺としたことがなんたる不覚!
それにしても不思議な子供だ
すっぱだかのまま アッという間に木立に消えた

二匹の狼に会った
熊にも会った 兎や雉とも視線があった
かれらは少しも危害を加えず
彼もまた獣を殺すにしのびなかった
りゅうりぇんれんの胃は僧のように清らかになった
恐いのは人間だ!
見るともなしに山の上から里の推移を眺めて暮した
山に入って二年あまり
畑で働いていたのは 女 女 女ばかり
それから少しずつ男もまじった
畑の小屋に置かれるものも豊かになってゆくようだった
米とマッチを見つけたときの喜びは
ガキの頃の正月気分
鉄瓶(てつびん)もろとも攫(さら)ってきて
山のなかで細い細い炊煙をあげた
煮たものを食べるのは何年ぶりだったろう
じゃがいもは茹でられてこの世のものともおもえぬうまさ

それから更に何年かたち
皮の外套を手に入れた
ビニールの布も手に入れた
だが一年ごとに躰の方は弱ってゆく
十年たつと月日は数えられなくなり
家族の顔もおぼろになった
妻もおそらく他家へ嫁いだことだろう
たとえ生きていてくれても……
どの年だったか
この土地もひどい旱魃(かんばつ)に見舞われて
作物という作物は首を垂れ
田畑に立って顔を覆う農夫の姿が望まれた
遠く 遠く
りゅうりぇんれんはいい気味だとは思わなかった
日本の農民も苦しいのだ
俺も生れながらの百姓だが
節(ふし)くれだって衰えたこの手に
鍬(くわ)を握れる日がくるだろうか
黒く湿った土の上に ばらばらと
腰をひねって種を蒔く
そんな日が何時かはまたやってくるのだろうか

長い冬眠があけ
春 穴から出るときは
二日も練習すれば歩くことができたものだ
年とともに 歩くための日は
多く多く費やされ
二ケ月もかけなければ歩けないほどに
足腰は痛めつけられていった
それはだんだんひどくなり
秋までかかって ようやく歩けるようになった頃
北海道の早い冬はもう
粉雪をちらちら舞わせ
また穴の中へと りゆうりぇんれんを追いたてた
獣のように生き
記憶と思考の世界からは絶縁された
獣のように生き
日本が海のなかの島であることも知らなかった
だが りゅうりぇんれん
あなたにはみずからを生かしめる智慧があった

惨憺(さんたん)たる月日を縫い
あなたの国の河のように悠々と流れた
一つの生命
その智慧もからだも
しかし限度にきたようにみえた
厳しい或る冬の朝のこと
あなたはとうとう発見された
札幌に近い当別(とうべつ)の山で
日本人の猟師によって
凍傷にまみれた六尺ゆたかな見事な男
一尺半のお下げ髪の 言葉の通じない変な男
絶望的な表情を惨(にじ)ませて
「イダイ イダイ」を連発する男
痛い それは
りゅうりぇんれんの覚えていた たった一ツの日本語だった

「中国人らしい」
スキーを穿いた警官は俄(にわか)に遠慮がちになった
りゅうりぇんれんは訝(あや)しむ
何故ぶん殴らないのだろう
何故昔のように引きずっていかないのだろう
麓の雑貨屋で赤い林檎と煙草をくれた
火にもあたらせてくれる「不明白(ぷーみんばい)」「不明白」
ワガラナイヨなにもかも
背広を着て中国語をしやべる男が
沢山まわりを取りまいた
背広を着た同朋なんて!
りゅうりぇんれんは認めない
祖国が勝ったことをも認めない
困りぬいた華僑のひとりが言った
「旅館の者を呼んであなたの食べたいものを
 注文してごらんなさい
 日本人はもう中国人をいじめることは
 絶対にできないのだ」
りゅうりぇんれんは熱いうどんを注文した
頬の赤い女中がうやうやしく捧げもってきた
りゅうりぇんれんの固い心が
そのとき初めてやっとほぐれた
ひどい痛めつけられかただ
同朋のひとびとはまぶたを熱くし
湯気のなかの素朴な男を眺めやった

八路軍が天下を取って
俺たちにも住みいい国が出来たらしいこと
少しずつ 少しずつ 呑込んでゆく頃
りゆうりえんれんにはスパイの嫌疑がかかっていた
いつ来たのか
どこで働いていたのか
北海道の山々をどのように辿ったか
すべては朦朧と 答を出せなかったりゅうりぇんれん
札幌市役所は言った
「道庁の指示がないと何も手をつけるわけにはいかない」
北海道庁は言った
「政府の指示がなければ何も手をつけるわけにはいかない」
札幌警察署は言った
「我々には予算がない 政府の処置すべき問題だ」
政府は この国の代表は
「不法入国者」「不法残留者」としてかたづけようとした

心ある日本人と中国人の手によって
りゅうりぇんれんの記録調査はすみやかに行われた
拉致使役された中国人の数は十万人
それらの名簿を辿り早く彼の身分を証すことだ
スパイの嫌疑すらかけられている彼のために
厖大な資料から針を見つけ出すような
日に夜をつぐ仕事が始まった
「行方不明」
「内地残留」
「事故死亡」
たった一言でかたづけられている
中国名の列 列 列
不屈な生命力をもって生き抜いた
りゅうりぇんれんの名が或る日
くつきりと炙(あぶり)出しのように浮かんできた
 「劉連仁 山東(しゃんとん)省 諸城(ちゅうちょん)県第七区紫(ちゃい)溝(こう)の人
 昭和十九年九月 北海道明治鉱業会社
 昭和鉱業所で労働に従事
 昭和二十年無断退去 現在なお内地残留」

昭和三十三年三月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた
罪もない 兵士でもない 百姓を
こんなひどい目にあわせた
「華人労務者移入方針」
かつてこの案を練った商工大臣が
今は総理大臣となっている不思議な首都へ
ぬらりくらりとした政府
言いぬけばかりを考える官僚のくらげども
そして贖罪と友好の意識に燃えた
名もないひとびと
際(きわ)だつ層の渦まきのなかで
りゅうりぇんれんは悟っていった
おいらが何の役にもたたないうちに
中国はすばらしい変貌を遂げていた
おいらが今 日本で見聞きし怒るものは
かつての祖国にも在ったもの
おいらの国では歴史のなかに畳みこまれてしまったものが
この国じゃ
これから闘われるものとして
渦まいているんだな

東京で受けた一番すばらしい贈物
それは妻の趙玉蘭と息子とが
生きているという知らせ
しかも妻は東洋風に二夫にまみえず
りゆうりぇんれんだけを抱きしめて生きていてくれた
息子は十四
何時の日か父に会うことのあるようにと
尋児(しゆんある)と名づけられていた

尋児 尋児
りゅうりぇんれんは誰よりも息子に会いたかった
三十三年四月
白山丸は一路故国に向かって進んだ
かつて家畜のように船倉に積まれてきた海を
帰りは特別二等船室の客となって
波を踏んで帰る
飛ぶように
波を踏んで帰る
なつかしい故郷の山河がみえてくる
蓬来(ふおんらい) 若かりし日油しぼりをして働いたところ
塘(たん)活(くー)
長い長い旅路の終り
十四年の終着の港

ひしめく出迎えのひとびとに囲まれ
三人目に握手した中年の女
それが妻の趙玉蘭
りゅうりぇんれんは気付かずに前へ進む
別れた時 二十三歳の若妻は三十七歳になっていた
りゅうりぇんれんは気付かずに前へ進む
「おとっつあん!」
抱きついた美少年 それこそは尋児
髪の毛もつやつやと涼しげな男の子
読むことも 書くことも
みずからの意志を述べることも
衆よりすぐれ 村一番のインテリに育っていた
三人は荷馬車に乗って
ふるさとの草泊村に帰った
ふるさとは桃の花ざかり
村びとは銅鑼や太鼓ならしてお祭のよう
連仁兄いが帰ったぞう
行きあうひとの ひとり ひとり
その名を思いおこし 抱きあいながら家に入った
窓には新しい窓紙
オンドルには新しい敷物
土間で新しい農具は光り
壁に梅蘭芳の絵とともに
中国産南瓜のように親しみ深い
毛沢東の写真が笑って迎えた
りゅうりぇんれんは畑に飛び出し
ふるさとの黒い土を一すくい舌の先で嘗めてみた
麦は一尺にものびて
茫々とどこまでもひろがっている
その夜
劉連仁と趙玉蘭は
夜を徹して語りあった
一家の消長
苦難の歳月
再会のよろこびを
少しも損なわれてはいなかった山東訛で。

    *
一ツの運命と一ツの運命とが
ばったり出会う
その意味も知らず
その深さをも知らずに
逃亡中の大男と 開拓村のちび

風が花の種子を遠くに飛ばすように
虫が花粉にまみれた足で飛びまわるように
一ツの運命と 一ツの運命とが交錯する
本人さえもそれと気づかずに

ひとつの村と もうひとつの遠くの村とが
ぱったり出会う
その意味も知らずに
その深さをも知らずに
満足な会話すら交せずに
もどかしさをただ酸漿(ほおずき)のように鳴らして
一ツの村の魂ともう一ツの村の魂とが
ばったり出会う
名もない川べりで

時がたち
月日が流れ
一人の男はふるさとの村へ
遂に帰ることができた
十三回の春と
十三回の夏と
十四回の秋と
十四回の冬に耐えて
青春を穴にもぐつて すっかり使い果したのちに

時がたち
月日が流れ
一人のちびは大きくなった
楡の木よりも逞しい若者に
若者はふと思う
幼い日の あの交されざりし対話
あの隙間
いましっかりと 自分の言葉で埋めてみたいと。


(附記)
資料は欧陽文彬著・三好一訳『穴にかくれて十四年』(新読書社刊)に
よっています。
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「大東亜共栄圏は対等な国家連合!?」りゅうりぇんれん③ 2012年12月21日(金)No.541

2012-12-21 21:09:30 | 文学
いまだに「『大東亜共栄圏』は欧米列強からアジアの植民地を独立させ、
日本・満州・中国を中心とする対等な国家連合を実現させるものだった。」
という主張をしている人がいる。
こういうのを恐るべき厚顔無恥、恥知らずというのだ。

「1945年8月、広島・長崎に原爆が投下され、それによって日本が降伏した」
と学校の歴史で学んだマレーシアの少年は、
心から(原爆が投下されて本当によかった)と思ったという。
旧日本軍は、中国、朝鮮のみならず、マレーシアの人々にも、
今もなお憎まれている事実を私たち日本人は痛みを持って知らなければならない。
もう、そろそろ、アジアの国々で日本軍がやったことを正視し、
ごまかしたり美化するのをやめて、正しく決着をつけたい。
日本近現代史をきちんと勉強して、事実を受け止め、
日本人として清々しく生きたいものだ。

もし、自分が時代と空間を変えて中国に生まれていたら、
りゅうりぇんれんか、新妻の張玉蘭だったかも知れない。
自分に都合のいいことばかりが真実だと思いたいがそうもいかない。


「りゅうりぇんれんの物語③」茨木のり子

空気にかぐわしさがまじり
やがて
花も樹々もいっせいにひらく北海道の夏
逃げるのなら今だ! 雪もきれいに消えている
りゅうりぇんれんは誰にも計画を話さなかった
青島で全員暴動を起す計画も洩(も)れてしまった
炭坑へ来てからも何度も洩れた
煉瓦(れんが)をしっかり抱きしめて
夜明けの合図(あいず)を待っていたこともあったのに……
りゅうりぇんれんは一人で逃げた
どこから
便所の汲取口(くみとりぐち)から
汚物にまみれて這(は)い出した
このときほど日本を烈しく憎んだことがあったろうか

小川でからだを洗っていると
闇のなかで水音と 中国語の声がする
やはりその日逃げ出した四人の男たちだった
五人は奇遇を喜びあった
西北へ歩こう 西北へ!
忌(い)まわしい炭坑の視界から見えなくなるところまで
今夜のうちに
一日の労働で疲れた躰を鞭うって
五人は急いだ

山また山 峰また峰
野ニラをつまみ 山白菜をたべ 毒茸にのたうち
けものと野鳥の声に脅(おび)え
猟師もこない奥深くへと移動した
何ケ月目かに里に下りた 飢えのあまりに
二人は見つけられ 引きたてられていった
羽幌(はぼろ)という町の近くで
らんらんと輝く太陽のした
戦さは数日前に終っていることも知らないで
三人は山へ向かって逃げた
脅えきった野兎のように
山の上から見下ろした畑は一面の白い花
じゃがいもの白い花
りゅうりぇんれんは知らなかった じゃがいものこと
茎をたべた 葉をたべた
喰えたもんじゃない だが待てよ
こんなまずいものを営々とこんなに沢山作るわけがない
そろそろと土を探ると
幾つもの瘤(こぶ)がつらなっている
土を払って齧る うまさが口一杯にひろがった
じゃがいもは彼らの主食になった
昼は眠り 夜は畑を這う日が続く

「おい 聞えたかい? いまのは汽笛だ!
 いいぞ! 鉄道に沿っていけば朝鮮までゆける」
なぜ気づかなかったのだろう
海に沿って北にのびる鉄道線を
三人は胸はずませて辿(たど)っていった
夜の海辺を昆布(こんぶ)を拾いながら 齧りながら
何日もかかって 辿りついたところは
鉄道の終点
それはなんと寂しい風景だったろう
鉄道の終点 荒涼たる海がひろがっているばかりだ
稚内(わっかない)という字も読めなかった
ひとに聞くこともできなかった
大粒の星を仰ぎみて 三人は悟った
日本はどうやら島であるらしい
故郷からは更に遠のいたのも確からしい

三人の男たちは
黙々と冬眠の準備を始めた
短い夏と秋は終っていた ふぶきはじめた空
熊の親戚みてえなつらしてこの冬はやりすごそう
捨てられたスコップを探してきて
穴を掘りぬき掘りぬいてゆく
昆布と馬鈴薯と数の子を貯(たくわ)えられるだけ貯えて
三つの躰を閉じこめた 雪穴のなかに
三人の男たちはふるさとを語る
不幸なふるさとを語ってやまない
石臼(いしうす)の高梁(コーリャン)の粉は誰が挽(ひ)いたろう
あの朝の庭にあつた石臼の粉は
母はこしらえたろうか ことしも粟餅を
俺は目に浮ぶ なつめの林
まぼろしの菜林
或る日 日本軍が煙をたててやってきて
伐り倒してしまった二千五百本
いまは切株だけさ 李家荘の
じいさんたちが手塩にかけて三十年
毎年街に売りに出た一二〇トンの棗の実
俺は見た
理由もなく押切器で殺された男の胴体
生き埋めにされる前 一本の煙草をうまそうに吸った
一人の男の横顔 まだ若く蒼かった……
俺は見た 女の首
犯されるのを拒んだ女の首は
切り落とされて背部から生えていた
ひきずり出された胎児もいた
趙玉蘭おまえにもしものことがあったなら
いやな予感 重なりあう映像をふり払い ふり払い
りゅうりぇんれんは膝をかかえた
長い膝をかかえてうつらうつら
三人の男は冬を耐えた 半年あまりの冬を

眩しい太陽を恐れ 痺(しび)れきった足をさすり
歩く稽古を始めたとき
ふたたび六月の空 六月の風あまく
三人は網走(あばしり)の近くまでを歩き
雄阿寒(おあかん) 雌阿寒(めあかん)の山々を越えた
出たところはまたしても海!
釧路(くしろ)に近い海だった
三人は呆(あき)れて立つ
日本が島なのはほんとうに本当らしい
それなら海を試す以外にどんな方法がある
風が西北へ西北へと吹く夜
三人は一般の小船を盗んだ
船は飛ぶように進んだが なんということだろう
吹き寄せられたのは同じ浜ベ
漕ぎ出した波打際(なみうちぎわ)に着いていた
櫓(ろ)は流れ 積んだ干物は腐っていた
漁師に手真似(てまね)で頼んでみよう
魚取りの親爺(おやじ)よ 俺たちはひどい目にあっている
送ってくれるわけにはいかないか
朝鮮まででいい 同じ下積みの仲間じゃないか
助けてくれろ 恩にきる
無謀なパントマイムは失敗に終った
老漁夫は無言だったが間もなく返事は返ってきた
大がかりな山狩りとなって
追われ追われて二人の仲間は掴まった
たった一人になってしまった りゅうりぇんれん

りゅうりぇんれんは烈しく泣いた
二人は殺されたに違いない すべての道は閉ざされた
「待ってくれ おれも行く!」
腰の荒縄(あらなわ)を木にかけて 全身の重みを輪にかけた
痛かったのは腰だ!
六尺の躰を支えきれず ひよわな縄は脆(もろ)くも切れた
ぶったまげて きょとんとして
それからめちゃくちゃに下痢をして
数の子が形のまんま現れた
「ばかやろう!」そのつもりなら生きてやる
生きて 生きて 生きのびてみせらあな!
その時だ しっかり肝っ玉ア据(す)わったのは
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「日本に強制連行された中国の農民~りゅうりぇんれんの物語②」 2012年12月20日(木)No.540

2012-12-20 18:56:58 | 文学
これは文学以前に歴史の事実だ。
1942年当時の東条英機内閣は産業界から人手不足軽減の要請を受け、
「華人労務者内地移入の件」を閣議決定した。
外務省報告書によると、集められた華人(=中国人)労務者の75%が農民で12歳の少年から78歳の老人まで及び、
日本全国の135事業所に38,935人(15歳~60歳位)が送られ、6,830人が死亡していることが記されている。
「中には半強制的に連れてこられた者もいた」と曖昧に責任逃れする表現に、私は怒りを覚える。
りゅうりぇんれん(劉連仁)もその「半強制的」に連れてこられた一人だ。
「半強制的」の「半」とは、「半分は強制的、残り半分は自分の意思」ということだ。
劉連仁は当時結婚した新妻が妊娠7ヶ月の状態だった。
(日本に行って働こうかな)などとただの1%だって思うわけがない。
第一、当時日本と中国は戦争状態なのだ。
中国人にとって、日本はのんびり出稼ぎに行くようなところでは決してなかった。
有名な「花岡事件」は劉連仁と同じ境遇の中国人たちが、
生きて祖国に帰るために起こした反乱とそれへの容赦ない弾圧事件である。

当時の東条内閣で商工大臣として、
この罪深い「華人労務者移入計画」を練ったのが岸信介。
今の自民党総裁安倍晋三の祖父だ。
・・・・・・・・・・

「りゅうりぇんれんの物語」を続けよう。

一行八百人の男たちは
青島の大港埠頭へと追いたてられていった
暗い暗い貨物船の底
りゅうりぇんれんは黒の綿入れを脱がされて
軍服を着せられた
銃剣つきの監視のもとで指紋をとられ
それは労工協会で働く契約を結んだということ
その裏は終身奴隷
そうして門司(もじ)に着いた時の身分は捕虜だった

六日の船旅
たった一ツの蒸パンも涙で食べられはしなかった
あの朝……
さつまいもをひょいとつまんで
道々喰いながら歩いて行ったが
もしもゆっくり家で朝めしを喰ってから
出かけたならば 悪魔をやりすごすことができたろうか
いや 妻が縫ってくれた黒の綿入れ
それにはまだ衿がついていなかった
俺はいやだと言ったんだ
あいつは寒いから着ていけと言う
あの他愛ない諍(いさか)いがもう少し長びいていたら
掴まらないで済んだろうか めいふぁーず
運の悪い男だ俺も……
舟底(ふなぞこ)の石炭の山によりかかり
八百人の男たち家畜のように玄海灘(げんかいなだ)を越えた

門司からは二百人の男たち 更に選ばれ
二日も汽車に乗せられた
それから更に四時間の船旅
着いたところはハコダテという町
ダテハコというのであったかな?
日本の町のひとびとも檻褸(らんる)をまきつけ
からだより大きな荷物を背負い
蟻のように首をのばした難民の群れ 群れ
りゅうりぇんれんらは更にひどい亡者(もうじゃ)だった
鉄道に働くひとびとは異様な群像を度々(たびたび)見た
そしてかれらに名をつけた「死の部隊」と
死の部隊は更に一日を北へ―
この世の終りのように陰気くさい
雨竜郡(うりゅうぐん)の炭坑へと追いたてられていった

飛行場が聞いてあきれる
十月末には雪が降り樹木が裂ける厳寒のなか
かれらは裸で入坑する
九人がかりで一日に五十車分を掘るノルマ
棒クイ 鉄棒 ツルハシ シャベル
殴られて殴られて 傷口に入った炭塵(たんじん)は
刺青(いれずみ)のように体を彩(いろど)り爛(ただ)れていった
(カレラニ親切心 或イハ愛撫ノ必要ナシ
 入浴ノ設備必要ナシ 宿舎ハ坐シテ頭上ニ
 二、三寸アレバ良シトス)
逃亡につぐ逃亡が始まった
雪の上の足跡を辿(たど)り 連れもどされての
烈しい仕置(しおき)
雪の上の足跡を辿り 連れもどされての
目を掩(おお)うリンチ
仲間が生きながら殴り殺されてゆくのを
じっと見ているしかない無能さに
りゅうりぇんれんは何度震えだしたことだろう

日本の管理者は言った
「日本は島国である 四面は海に囲まれておる
 逃げようったって逃げきれるものか!」
さっと拡げられた北海道の地図は
凧のような形をしていた
まわりは空か海かともかく青い色が犇(ひし)めいている
かれらは信じない
日本は大陸の地続きだ
朝鮮の先っぽにくっついている半島だ
いや そうでない そうでない
奉天 吉林 黒竜江の三省と地続きの国だ
西北へ 西北へと歩けば
故郷にいつかは必ず達する
おお おおらかな智識よ! 幸(さいわい)あれ!

(続く)
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「茨木のり子『りゅうりぇんれんの物語』①」 2012年12月19日(水) No.539

2012-12-19 19:42:49 | 文学
中国で日本語教師生活も三年目、(もう、そろそろやらなければ)と私は思った。
茨木のり子の散文詩「りゅうりぇんれんの物語」を授業で取り上げようというのだ。
日本の友人から託された思いがある。
しかし、それをするには、どうしても学生たちとの信頼関係が前提となる。

今学期、日本文学では、テキストの北京大学出版社発行「日本現代文学選読」に載っている
芥川龍之介「鼻」、志賀直哉「城之崎にて」、横光利一「蠅」を精読した。
それ以外に、自分独自の選択で、
詩や物語の冒頭部分の朗読・暗誦なども試みた。
「祇園精舎」、「君死にたもう事なかれ」、「椰子の実」、「雨ニモ負ケズ」・・・。
その最後に、「りゅうりぇんれんの物語」の朗読をしようと学期始めに考えた。
(もう3年目の節目じゃないか。きちんと伝えるべきことは伝えないと)
と自分の重い腰を非難する心の声が聞こえる。

しかし、読む度に心が固まってしまう。
(授業では無理だ)そう感じた。
学生達との信頼関係はあると信じている。
しかし、きっと、彼女ら・彼らはりゅうりぇんれんの身の上を追体験して心で血を流すだろう。
そう思う。
それだけではない。
事実をもとに書かれたこの詩を読むたびに、自分が日本人であることが痛いのだ。

このブログへの訪問者は圧倒的に日本人が多い(はずだ)。
私はむしろ、まず日本人にこの話を読んでもらいたいと思う。
数回に分けて、茨木のり子さんの了解も得ないまま掲載させていただく。
(もう亡くなっているので著作権がどうなのかちょっとわからない)



「りゅうりぇんれんの物語」 茨木のり子(いばらぎ のりこ)

劉連仁 中国のひと
くやみごとがあって
知りあいの家に赴くところを
日本軍に攫(さら)われた
山東省の草泊という村で
昭和十九年 九月 或る朝のこと

りゅうりぇんれんが攫われた
六尺もある偉丈夫(いじょうふ)が攫われた
鍬を持たせたらこのあたり一番の百姓が
為すすべもなく攫われた
山東省の男どもは苛酷に使っても持ちがいい
このあたり一帯が
「華人労務者移入方針」のための
日本軍の狩場(かりば)であることなどはつゆ知らずに

手あたりしだい ばったでも掴(つか)まえるように
道々とらえ 数珠(じゅず)につなぎ
高密県に着く頃は八十人を越していた
顔みしりの百姓が何人もいて
手に縄をかけられたまま
沈んだ顔を寄せ合っている
「飛行場を作るために連れて行くっていうが」
「一、二ケ月すれば帰すっていうが」
「青島だとさ」
「青島?」
「信じられない」
「信じられるものか」
不信の声は波紋のようにひろがり
連れて行かれたまま帰ってこなかった人間の噂が
ようやく繁(しげ)くなった虫の声にまぎれ
ひそひそと語られる

りゅうりぇんれんは胸が痛い
結婚したての若い妻 初々(ういうい)しい前髪の妻は
七ケ月の身重だ
趙玉蘭 お前に知らせる方法はないか
たとえ一月 二月でも 俺が居なかったら
家の畑はどうなるんだ
母とまだ幼い五人の兄弟は
麦を蒔(ま)き残した一反二畝(いったんにほ)の畑の仕末(しまつ)は

通る村 通る町
戸をとざし 門をしめ 死に絶えたよう
いくつもの村 いくつもの町 猫の仔一匹見当らぬ
戸の隙間から覗き見 慄えている者たち
俺の顔を見覚えていたら伝えてくれろ
罠にかかって連れて行かれたと
妻の趙玉蘭に 趙玉蘭に

賄賂(わいろ)を持って請け出しにくる女がいる
趙玉蘭はこない
見張りの傀儡軍(かいらいぐん)に幾ばくかを握らせて
息子を請け出してゆく老婆がいる
趙玉蘭はまだこない
追いついてはみたものの 請け出す金の工面(くめん)がつかず
遠ざかる夫を凝視し続ける妻もいた
血のいろをして沈む陽
石像のように立ちつくす女の視野のなかを
八百人の男たちは消えた

(続く)
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「南昌の冷たい風に楠木が震えて・・・{{(>_<)}}」 2012年12月18日(火)No.538

2012-12-18 21:20:04 | 中国事情
刺すような風が吹く寒い一日だった。
最高気温7℃/最低気温2℃
明日の朝は0℃まで下がるらしい。
いよいよ本格的な南昌の冬が到来した。

麦盧キャンパスの風に震える街路樹はクスノキがほとんどだが、
冬を迎える時期にいつも幹の根元から1mほど上まで、グルリと白いペンキみたいなものを塗布する。
新平老師からそれが防虫のための石灰であると教わったが、
見慣れるまで1年かかった。
初めて見たときは(みっともなくて、木がかわいそう~)てな気持ちがしたものだ。
それから2年を経た今、私の中で白ペンキは季節の風物詩となりつつある。
異文化理解のポイントは「慣れる」ことだな。

自分の住み慣れたところの習慣やマナーが、
全世界共通であるはずがないし、
あるべきだと考えるのは自文化中心主義、つまり、井戸の中の蛙。

外の世界に出て暮らすと、そんなことが頭じゃなくて肌で自然に分かる。
日本の若者も中国の若者も、一度は自国を出て他の社会で暮らすといいのにな。
飛行機でひとっ飛び、国際交流、異文化交流はとても簡単にできるようになっているんだから。

政府が尖閣/釣魚島で角を付き合わせていようが、そんなことは無視だ、無視。
草の根交流は決して絶やしてはいけない。
中国の民も日本の民も、
戦争反対・平和が一番大切だと(ほぼ)みんな思っている。
その事実を両国民が肌で感じる交流が必要だ。
今夏、我が大学の学生黃くんを日本に招いたのもその小さな試みだったが、
あと、どんなことができるだろう。
みんな~、智慧を貸してくれ~!!
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「これが日本だ~ワタシの国~だ~。ε=(・д・`*)ハァ…」 2012年12月17日(月) No.537

2012-12-16 12:15:38 | 日記
昨日から何回ため息をついたろう。ε=(・д・`*)ハァ…
多くの日本人の選択した結果が、アベか・・・。

私の友人に、自民党や維新の会、みんなの党に投票した人は誰もいない(はずだ)。
おそらく彼女ら、彼らも暗い気持ちでこの結果を見ていたことだろう。

今朝、フミちゃんから、
「もはやわが娘たちがスウェーデン人と結婚して、自分も娘夫婦とスウェーデンで暮らす以外に生きる道はない。」
とメールが来た。
しかし、彼女の二人の娘は結婚どころか、未だスウェーデン人の知り合いが一人もいない厳しい現実である。
当分は橋下の大阪暮らしだね。

私も(日本脱出してどこが一番住みやすいかなあ)と考えてみた。
中国・・・庶民はおおらかで、気楽で、こんなに付き合いやすい国民もいないほどだ。      
     しかし、政府がね~。
アメリカ・・・いつ銃で撃たれるか分からんからね~。オバマが再選されたとは言ってもね~。
ベトナム・タイ・マレーシア・・・良さそうだけど台風が来るからね~。暑すぎてダラダラ暮らしそうだし~。
などと考えていると、それだけで面倒くさくなってくる。
もともと、旅行好きでもない。
炬燵に潜って本を読んだり、DVD見たりするのが性に合っている。

それならいっそ、社会との関係を断絶するというのはどうだ。
一週間に数回、隣人とも遭わないように夜半に近所のスーパーで買い物をし、ササッと部屋に引き篭る。
ベランダにミニ菜園を作って自給自足の生活をすると支出も少ないだろう。
無農薬だし健康にもいい。
ああ、夢が膨らむ・・・わけないでしょ。ε=(・д・`*)ハァ…

しかし、この結果で反原発のうねりが収束するわけでもない。
福島原発の建屋にはまだ人が入れない状態だ。
さらに、尖閣・竹島問題について安倍内閣がどう国際外交を切り盛りしていくか、
世界は非常な関心を持って見つめている。
政府がとんでもないことをしないように、国民の批判力がますます問われるだろう。

まだまだ日本人はやめられない。

中国では今回の選挙結果をどう受け止めているだろう。
政治に関しては非常に口が重い学生達だが、ぜひ感想を聞いてみたい。
て言うか、このブログを読んでいる人たちの感想も聞きたいです。
コメントしてね~。
コメント (4)
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