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日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「基地反対派の暴力に耐える機動隊」👈まさに白を黒という超悪意ある嘘(その1)No.1796

2016-11-15 18:33:53 | がんばろう沖縄

最近、沖縄県辺野古の新基地建設や、高江のヘリパッド建設に反対する

沖縄県民をはじめとする全国からの意思を同じくする人々に対して、

こともあろうに、「機動隊が何もしないのをいいことに、やりたい放題しているテロリスト」

とまで言い出すネトウヨ業界の人々がいます。

また、「道路に座り込んで不法占拠する人は処罰されて当たり前」と、

何故、人々が座り込みを続けているのかを一顧だにせず、したり顔している人には、

何のために頭に脳みそがついているのか問いたいです。

沖縄の歴史を知ればそんな愚かなことが言えるわけがないのに……。

 

1872年に始まった「琉球処分」以降、

沖縄県民はずっと日本政府から差別されてきたばかりではなく、

先の戦争では本土に敵軍を攻め込ませないための盾にされ、

米軍に捕虜となって凌辱されるより死ねと言われて、

可愛いわが子まで手にかけて殺すという、

言葉にするだけで気絶するくらいの悲惨な経験をしなければなりませんでした。


戦後は上陸してきた米軍がそのまま居座って、

住民の土地を銃剣とブルドーザーで奪い取り、

本土が1951年、サンフランシスコ平和条約で独立を復権しても、

沖縄では司法・立法・行政権の全てをアメリカが握ってきました。

基地拡張のための強制収容、アメリカ軍人による犯罪も一切公平に裁かない米軍政に

どれほど沖縄県民の怒りが募ったか、もし、自分がそんな目に遭ったらと考えたら

分かると思います。

下は多くのレイプ事件のうちの一つです。

『敗戦後10年を経過した1955(昭和30)年9月3日、沖縄本島中部にある旧石川市(同市はもともと2000人ほどの静かな農村であったが、敗戦後は収容所ができ、3万人以上にもなっていた。2005年4月1日、2市2町が合併して「うるま市」になった)、市内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちゃんが、その日の夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となった。沖縄の夏は午後8時まで明るく、当時の沖縄の住宅は台所を別にすると、1間か2間しかなく、それゆえ、日が暮れるまで子どもたちは表で遊んでいることが多かった。

由美子ちゃんは、翌日死体で発見された犯人は、由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てたのである。由美子ちゃんは、唇をかみしめて、右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた。

驚くなかれ、由美子ちゃん事件の起きた1週間後に再び、9才の女の子が米兵によってレイプされた(第2の由美子ちゃん事件)

また、悲惨な「宮森小学校ジェット戦闘機墜落事故」も同じ石川市で、しかも、由美子ちゃん事件と同年に起きた米軍による事故です。

『1955年6月30日午前10時30分、同市宮森小学校にジェット戦闘機が墜落するという大惨事(宮森小学校ジェット戦闘機墜落事故)が発生した。

 事故による死者は17人、重軽傷者121、建造物全焼(民家17棟、公民館1棟、3教室)、半焼(民家8棟、2教室)に達したが、当時の教師は、「すべて、アッという間の出来事であった。ガソリンをかぶった子どもたちが、全身火だるまになって水道の蛇口のいたるところで水をかぶりながら、先生たすけて、 お父さん、お母さん、戦争だ、戦争だと泣きわめきながら、1200人余の子どもたちは校庭を駆けめぐり助けを求めていた」と証言している。また、「黒煙が石川市上空をおおい街中が焼けるのではないかと市民は半狂乱におちいった。軍民全消防、警察が出動して約2時間後に火災をくい止めた。米軍は事故の完全補償 する旨発表したが、その解決は、立法院石川事件対策特別委員会や琉球政府の努力にもかかわらず難航、結局、賠償問題の完全解決には事故後3年近くもかかり、児童に対する賠償額は、死亡者が約4500ドル、重傷者が最低2300ドルから最高5900ドルが支払われた」にすぎなかった(『石川市制施行50周年記念・市勢要覧』)。』

http://tamutamu2011.kuronowish.com/yumikotyannjikenn.htm

 

日米安保条約によりアメリカが日本を守ってくれる基地は必要だという人もいますが、

アメリカは沖縄基地は「太平洋のキー・ストーン(要石)」と呼び、

ベトナム戦争では核兵器を搭載したといわれる戦闘機が日々沖縄から飛び立っていました。

要するに、沖縄の米軍基地は日本の国を守るのではなく、アジアや中東への

戦略的基地であったのです。

つまり、アメリカのつごうで、沖縄は好き勝手に使われていたのです。

そんな中で、戦後一貫して阿波根昌鴻さんたち沖縄の反戦地主たちが、

非暴力直接行動で自分たちの土地を取り戻し、

豊かな生産地づくりを目指すたゆまぬ戦いを続けてきたことや、

1965年、那覇で8万人もの人々が結集して「祖国復帰を目指す集会」を開いたことなど、

日本国の全員が知らなければならない事でしょう。

「祖国」って、日本のことですよ。

日本政府が犠牲の山羊としてアメリカに差し出した沖縄なのに、

その酷い仕打ちをした日本に復帰して平和で安全な生活を営みたいという

願いで頑張ってきた人たちに、私たちはどんな顔ができるでしょうか。

私は、ただうなだれるしかありません。

 

沖縄県民の悲願と言われた1972年の沖縄の本土復帰によって、

人々は「これでようやく米軍基地が返還され、

日本国憲法の諸権利を沖縄県民も享受できる」と喜びました。

しかし、現実にはそうなりませんでした。

当時子どもだった人の話を聞くと、

「復帰したら沖縄は本土並みになって、米軍基地もなくなると思っていた大人たちは、

ものすごくがっかりして、何年も元気をなくしていたよ。」

とのことです。

1995年、12歳の少女がまた、犠牲になりました。

 『95(平成7)年9月4日午後8時、沖縄県に駐留する米・海兵隊(アメリカ海軍の独立部隊で、上陸作戦・空挺降下などを任務とする部隊。陸・海・空軍続く、第4軍〈侵略部隊〉ともいわれている)の兵士3人(マーカス・ギル、ロドリコ・ハープ、ケンドリック・リディット。いずれも20~22歳で黒人)が基地内で借りたレンタカーでドライブ中、沖縄本島北部国頭(くにがみ)郡の商店街で買い物をしていた12歳の女子小学生を車に押しん込んで拉致、車中において粘着テープで顔を覆い手足を縛ってしたうえ集団強姦し、全治2週間の傷を追わせるといった、悪質この上ない計画的な逮捕監禁(刑法220条・強姦致傷刑法第177条刑法第181条事件が発生した(主犯格である2人が姦淫〈かんいん=男女が不倫な肉体関係を結ぶこと〉をとげ、他の1人が幼いことに気付き姦淫を断念した。なお、主犯格の被告人の1人は自らの暴行と姦淫行為を法廷において否定した)

だが、アメリカ政府と日本政府との間で締結された日米地位協では、日本側が起訴しなければ、アメリカ側は容疑者の身柄を引き渡す必要はないと定められていたため、沖縄県警は犯人を逮捕できなかった。まさに日本人にとって屈辱的な不平等条約である。』http://tamutamu2011.kuronowish.com/heiwanasimawokaesite.htm#jikenn

そして、今年、2016年4月28日、うるま市に住む20歳の女性が、

午後8時ごろウオーキングに出かけて、米軍軍属の男(32歳)に

棒で殴る、首を絞める、刃物で刺す等の暴行を受け殺害されました。

 

これらは、氷山の一角です。

基地反対派の人々を「基地外」と呼ぶ、魂の劣化したヒトには、

自分や、家族のだれか、または、自分が大切に思う人が、

由美子ちゃん、または他の犠牲者だったら、と想像してもらいたいのです。

想像力まですり減って無くなっているから無理…かも知れませんね。

実際に自分がそういう体験を強要されたら、ようやく分かるのかも知れません。

残念ですが。

 

普天間基地 http://tamutamu2011.kuronowish.com/heiwanasimawokaesite.htm#jikenn


 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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Unknown (太田たすく)
2017-05-16 14:05:52
お花畑ですね
基地反対派は法に触れる方法でしか、活動できないんですね
平和の為なら何でもありって、過激派とおなじテロリストと同じじゃないですか
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