毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「広西チワン族の伝統粽(ちまき)」 2013年2月28日(木)  No.576

2013-02-28 18:20:43 | 中国事情
放課後3年生の潘梅ひょうさんが、
ドーンと大きい粽(ちまき)のお土産を資料室に持ってきてくれた。
彼女は、羅浩さんたちとともに中国人の日本語作文コンクールに入賞し、
(もちろん昨日の書評の本に彼女の作文も掲載されている)
賞品としてiPodをもらった。
故郷で一族の女性たちが総出で粽作りをする様子を、
そのiPodに記録したのも見せてくれた。
ちょうどそこにいた3年のクラスメート達は、
聞こえてくるチワン族語が全く理解できないという。
べトナム語に近いらしいのは地図で見ると非常にナットク。
正にお隣さんだ。

潘さんはベトナムの隣にある故郷から、
お母さんに持たされた15個以上の巨大粽とともに
(と書いたが、後で本人から訂正があり、
お母さんは15個持っていけと言ったが、
重すぎるので実際は6個だけ持ってきたとのこと)
汽車で南昌の大学に戻ってきた。
寮の皆の歓声が聞こえるようだ。
男子寮にもちゃんと分けて、クラスメート全員が
同じ中国といっても遠い地方の味を楽しんだ。
江西財経大学には3万人もの学生達がいるが、
日本語学科は小さい小さい学科なので、
和気あいあいとした雰囲気が濃い。

私も今晩のディナーは当然これだ。
ワクワクして宿舎に戻り、
早速いただきました~(*´∀`*)


かなり大きいのが分かってもらえるだろうか。皿は直径20cm。
これは潘さん自身が結んだもので、形が悪いと謙遜していた。
そんなことないですけど、あ、ちょっと、出べそみたいなのが。


普通、中華ちまきと言えば、三角形のものが日本では馴染み深い。
この形はお正月のとき用で、端午節には三角形のものを作るとのこと。
持ち運びできるように、手提げ風になっている。
この草も、笹も、山から採取してきて、にておくそうだ。


さあて、食べよっかな、ったって、
これではちょっと・・・。


剥くとこのように収拾がつかない。


別の器に綺麗に盛って、バッチリ。
もち米の中には、たっぷりの黒ごま・緑豆・椎茸、
そして真ん中にドドーンと豚肉のかたまり。
もう、どうしようもなく( ゜v^ ) オイチイ~
日本の皆さん、ごめんなすって
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「書評『中国人がいつも大声で喋るのはなんでなのか』」2013年2月27日(水)No.575

2013-02-27 19:53:48 | その他情報


今日、日本僑報社から送られてきたお知らせメールに
作文集『中国人がいつも・・・』の書評案内があった。
(ちょっとね~)と思うところ(「東京大教授」と「先生」の並列とか)
もあるけどそのままの形で転載。
書評中、「通信事情が悪い中国では大声で喋らないと電話が通じない、
という珍説も飛び出す。」とあるが、それを書いたのは我が大学の学生羅浩君である。


日本僑報電子週刊 第1070号★
(2013年2月24日付の読売新聞より)
――東京大教授須藤靖先生が書いた『中国人がいつも大声で喋るのはなんでなのか?』書評

相互理解に様々な視点
…評・須藤 靖(宇宙物理学者・東京大教授)

それそれ、そうだよネ。
そんな声の合唱が聞こえてくるような秀逸かつ直球のタイトル。
この宇宙がダークエネルギーに支配されているのはなぜか、
大阪人にバキューンと撃つマネをすると必ず胸を押さえて倒れてくれるのはなぜか、
などと同レベルの深く根源的な問いかけだ。
チマチマした印税稼ぎのために軽薄な説を押し付ける
似非社会学者による使い捨て新書の類いか?という疑念も湧きそうだ
(残念ながら現代社会にその手の書籍が蔓延しているのも事実)。
しかし本書はそれらとは一線を画す、日本語を学ぶ中国人学生を対象とした
「第8回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集」なのだ。

大声で主張するのは自信と誠実さを示す美徳だと評価され
学校教育で繰り返し奨励されているという意外な事実。
発音が複雑な中国語は大声で明瞭に喋ることは不可欠。
はたまた、通信事情が悪い中国では大声で喋らないと電話が通じない、
という珍説も飛び出す。
公共の場所において大声で喋るのは、他人を思いやらない無神経さの表れ。
日本人が抱きがちなそんな悪印象が、視点をずらすだけでずいぶん変化する。
大皿に盛られた料理を大勢で囲み、
にぎやかに喋りながら楽しむ食事。
知り合いを見つけるや、はるか遠くからでも大声で会話を始める農村部の人々の結びつき。
想像してみると確かにうらやましい文化ではないか。
いかにも文集という素朴な雰囲気の装丁の中、日中両国を愛する中国人学生61名が、文化の違いと相互理解・歩み寄りについて、
様々な視点から真摯に、かつ生の声で語りかけてくれるのが心地良い。
酔っぱらった時の声がうるさいと、家内にいつも大声で叱責される私。
しかし故郷の高知県での酒席は到底太刀打ちできない喧しさ。
でも単なる聞き役に回る私ですら飛び交う大声は不快どころか楽しさの象徴だ。
高知県人は深いところで一衣帯水の中国と文化を共有しているらしい。
中国移住を真剣に検討すべきだろうか。

『中国人がいつも大声で喋るのはなんでなのか?』 段躍中編 日本僑報社 2000円
◇だん・やくちゅう=1958年、中国・湖南省生まれ。91年に来日し、新潟大大学院修了。日本僑報社編集長。

さらにこの書評を評したサイトまで紹介されていた。
【書評ウォッチ】中国人が観光地でも大声で喋るのはなぜ? 
知ると納得するその理由とはhttp://www.j-cast.com/mono/2013/02/26166954.html

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「中国若者たちの生の声」 2013年2月26日(火) No.574

2013-02-26 18:24:18 | 中国事情
これは昨年5月、「中国人の日本語作文コンクール」(日本僑報社主催)に
2年生・3年生のほぼ全員が応募したうちの一作品である。
入選した作品は『中国人がいつも大声で喋るのはなんでなのか?』
(日本僑報社;段躍中編)という本になり、日本国内の書店で買うことができるが、
落選した中にも紹介したい作品がいくつもある。
我がブログでは、まず、他で日の目を見ることもないであろう作品から紹介したい。
これを書いた李思銘さんは、半年後の中日関係が更に悪化した際、
「尖閣諸島の問題は政府間の問題、政治家の陰謀だ」
「こんなに関係が悪くても、日本国民を信じて留学に行く学生がいる。
中日両国民は互いに敵意を持たず、相互理解と信頼を深めて行くべきだ。」
と書いていた。


「日中両国民が親近感を高めるための、私ならではの提言」 李思銘

去年、南昌で交通ボランティアをしたとき、通行人のおじさんが
「どの大学で勉強しているの?」と聞いてきました。
「江西財経大学です」と答えると、
「いい大学だね。専門は何?」
「えっと、日本語です」
「はあ、日本語?なんで、そんな関係が悪い国の言葉を?将来の見通しはちょっと暗いね。」
「あ、あの・・・」説明しようとしたけど、結局無駄だと思ってやめました。
多くの中国人は日本語学科の学生が理解できません。
私は何回もこうした失望感を味わいました。
日中両国は、今年はもう国交正常化40年になりますが、
日中関係はずっと緊張関係が続いています。
誰でも周りの人々と仲間になって楽しく暮らしたいと望んでいるのに、
その希望はなかなか実現しないのが現実です。
一体、どうすれば日中両国の親近感を高めることができるでしょう。

私の家の隣は王さんの家です。
小さい頃、いつも
「お母さん、隣の王さんにまたいじめられたよ。王さんなんか大嫌い!」
エーンエーンと泣きながら、母に言い付けたものです。
でも、今、
「お母さん、今度の休みに王さんと一緒に帰るよ。」
こんな仲になっています。
実は、日中両国は私と王さんの二つの家庭のようではありませんか。
この二つの家庭の子供たちを仲良くさせる方法は何だと思いますか。
お互いの家族への好意度が上がるのは、特に親の力が大きいですよね。
子供の私達はよく両親の言うことを聞くので、
両国政府は両国が友好発展する方向に、はっきりと舵取りをするべきです。
親は相互交流、相互学習の機会を創って、
子供を一绪にイベントやボランティア活動に参加させ、
近所の子同士のように遊びに行かせるべきです。
触れ合う機会さえあれば、お互いに理解し合い、仲間になれます。
また、青年は国の柱であり、希望なので、特に青少年の交流を重視すべきです。
さらに、両国国民の日常生活、例えば、酒の文化、茶の文化、年間行事の文化などの
身近な民間交流なら気軽にできます。
小さい力でも、両国の文化を深く理解し、
民間レベルで国民の相互理解と信頼を深めていきたいものです。

近年、中国の四川大地震や東日本大震災など、両国とも酷い災害がありましたが、
ここで貴重な教訓があります。
相手の災難時に心から支援すれば、支援された国民は決して忘れません。
大変な時期にこそ、真の友情は育つと言えます。
両国民の親近感は、こうしたお互いのボランティア活動を通して、必ず高められると思います。

お互いの親近感が削がれる原因の一つは歴史問題です。
中国人の大部分は知っているのに対して、
多くの日本人は当時の歴史を学校で詳しく学んでいないので、認めたくないですね。
中国の小学五年生の女の子が日本政府へ出した手紙のことをご存知ですか。
内容は次のようでした。
『日中両国は隣国として、仲よく和し敬いあうべきです。
日本は中国に侵入したことがあるが、中国人は当時の侵略軍を恨んでいるにすぎない。
普通の日本人民は無辜の民だと信じています。』
実は、全て既に過ぎ去ったことなので、たいしたものではありません。
認めればいいだけですね。
それで、両国とも敏感な問題について落ち着いて冷静に検討した方がいいと思います。

メディアの役目も重要です。
メディアを通じて得た情報は私たちにとって大きな影響力を持ちます。
日中両国のメディアは、日中関係のために友好的で客観的な情報を提供しなければなりません。
私は日本語学科の学生として、
心から日中両国の友好関係が一層深まることを願っています。
だから、さらに日本語と日本文化を勉強します。
簡単ではありませんが、私達は一生、中日の架け橋を作り続けます。
千里の道も足下から。必ず日中両国民は友人になれると信じています。
                   
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「新聞記者の仕事 その2」 2013年2月25日(月)No.573

2013-02-25 17:59:44 | その他情報
No.570で書いた読売新聞大阪本社の石塚記者についての話の続き。
普通、新聞記者と聞いて私がイメージするのは、
取材し、記事を書いたらそれで終わりで、再び会うことはないだろうというものだ。

石塚さんは、どうもそういう記者ではないらしい。
識字教室にも何年(何十年?)もボランティアとして参加しつつ、
勉強が終わったら一緒に酒を飲み、
次の日は、プロテスタントの反体制グループの勉強会を再訪して、
日本の右傾化について議論し、
また翌日は、これも昔の取材がきっかけで参加している
労働問題の研究会に出て、記事の宣伝をしたりするといった日々なのだそうだ。
情報をもらって組み立てて記事を書き、それを持ってまた訪れる。
料亭の客に「一見さん」という一度だけの客があるが、
石塚記者は二度、三度・・・と足を運ぶ。
これは、書かれる者と書く者の関係としてちょっとスゴイ。

こんな記者ばかりだと、新聞も変わるのではなかろうか。
現実にはそんな人は例外的なのだろう。
しかし、石塚さんの背中を見て育つ若い記者もいるかも知れない。
そういえば黒田ジャーナルの黒田清大記者も、読売新聞社だったんだ。
渡辺恒雄側近の向こうを張って、社内に黒田グループを形成していたという。
黒田さん亡き後、彼の弟子?の矢野宏さんが
反戦平和新聞「うずみ火」を発行し続けている。
ひとの心を打つ魂は、脈々と引き継がれていくものだ。
石塚さんも、ひょっとして黒田さんを知っているのでは。

で、21日夕刊に大阪大司教さんのインタビュー記事が見事に載った。
(何しろ読売だからね。値打ちあるよ(^O^))
「心のページ」という、宗教や生死にまつわる話題の欄だそうだが、
後から「あの記事はおかしい。もう新聞購読を止める。」と抗議の電話が一件あったそうな。
しかし、担当デスクが気骨のある人でうまく対処してくれたと。
チームワークだねえ(^-^)

せっかくだから以下全文掲載
日本におけるカトリックの歴史が意外な事実も含めて分かりやすく紹介されていて、
(そんなことがあったのか!)と私は認識を新たにした。
―――――――――――――――――

 ローマ法王(教皇)ベネディクト16世の突然の退位表明で注目を集めるカトリックは、世界で11億人を超える信徒を擁する巨大宗教。
ただ、日本では禁教時代が長く続いたこともあり、
解禁から140年たった今も、信徒は約44万人にとどまる。
日本のカトリックは何を目指すのか。
日本司教協議会(司教団)のトップでもある池長潤・大阪大司教(75)に聞いた。
(石塚直人)

 日本のキリスト教は1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが伝えた
のが始まり。以来多くの宣教師が来日して教会や学校を建てた。
1614年には、大名55人を含む65万人の信徒がいたという。
 しかし、豊臣政権末期から徳川時代にかけて弾圧が進み、信徒は表向き姿を消した。
幕末に鎖国令が解除された後、長崎・大浦天主堂で祈っていたフランス人神父を
十数人が訪れ、信徒であることを告白した「潜伏キリシタン発見」(1865年)
は西欧世界を驚かせた。

「キリスト教がローマの国教となった後、日本ほど殉教者が多かった国はありません。
長崎で最初に殉教した26人は聖人とされました」

 その日本で、禁教が正式に解かれた後も信徒があまり増えなかったのはなぜか。

 「日本人は葬式はお寺で、結婚式は教会で、と特定の宗教にこだわりません。
汎神論の思想が広くあり、宗教にご利益を求めがち。
仏教徒を装いながら250年以上も信仰を守り抜いた潜伏キリシタンは、
多くの日本人にとって自分たちとかけ離れた、違和感をもたらす存在だった
と思います」
 

作家の遠藤周作が述べた、「神」を巡る感性の違いもある。
罪を罰する「父なる神」を強調するのが西洋なら、日本人が求めるのは、
罪人も限りなく許す「母なる神」だという。

 「私自身、日本人の感性に合った宣教が必要と考え、東京・聖イグナチオ教会の
改築の際、天に向かうゴシック建築でなく、低い円筒型にしました。
訪れる人を温かく迎える神を表現したのです」。

阪神大震災後に建てた神戸中央教会の建築にも、同じ思いが込められている。
 そうした新しい動きを後押ししたのが、1962年に始まり、教会に現代化をもたら
した第二バチカン公会議だ。
以来、ラテン語だったミサが日本語となり、聖職者の権威に従うだけだった信徒の地位も向上した。
1974年には「正義と平和協議会」が発足し、司教団も平和や原発について活発に発言している。
ただ、保守的な一部信徒からの反発も根強い。

 「キリストは、弱者の苦しみに無関心な人を厳しく戒められました。信仰には、祈り
とともに、社会の悲惨や不正に向き合う行動が求められます」

 全国に約800あるカトリックの学校がエリート育成中心とみられがちな現状についても、

「神が喜ばれる人間を育てるのが基本」
とし、教職員向けのテキストを作って研修に力を入れている。
 
大阪大司教区(大阪、兵庫、和歌山)は、社会問題とのかかわりが
とくに深い。外国人労働者や野宿者、障害者、在日韓国・朝鮮人などの人権を守るグループが
いくつも組織され、プロテスタントとの共同も広がった。
 日本のカトリックは戦前から戦中にかけ、「天皇は神」とする国家体制を受け入れて
生き延びた。
80年代から自己批判の動きが強まり、95年に司教団が謝罪のメッセージを発表した。
 それだけに、「従軍慰安婦」見直しなどの動きには、危機感を隠さない。

昨夏、1937年に中国で日本軍のため殉教したシュラーベン司教の記念式典に
招待する手紙が、司教の母国オランダから寄せられると、
軍の蛮行を謝罪し故人をたたえる返書を送った。
手紙によると、司教は、女子修道院に逃げ込んだ中国人女性の中から200人を
慰安婦として差し出すよう求められたのを拒み、焼き殺されたという。

 
「たとえ不名誉なことでも事実は率直に認める。南京虐殺も従軍慰安婦も多くの体験
者、目撃者がおり、あったこと自体は否定できません。それを認めるのは自虐などで
はなく、人間としての資格にかかわる問題です。
他者の人格を徹底して大切にすることが、キリストの教えの核心にあるからです」


◎大編・大司教略歴

 いけなが じゅん 1937年神戸市生まれ。父は南蛮美術の収集家の孟(はじめ)
氏。六甲中・高校在学中に洗礼を受け、上智大文学部ラテン
哲学科、神学部を卒業して司祭に。イエズス会日本管
区長などを経て、97年から大阪大司教。2011年から日本カトリック司教協議会会長。


◎大編・大司教年表

 日本のカトリックの歴史
1549 ザビエルらが鹿児島に到着、宣教を始める
1582 天正遣欧少年使節が長崎を出発
     (85年にローマ法王教皇に謁見、90年帰国)
1587 豊臣秀吉が禁教令。最初は徹底しなかった
1597 長崎で26人が十字架にかけられ、殉教
1637 島原・天草の乱。キリシタンが反乱の主力
1857 鎖国令が解除され、宣教師も入国する
1865 潜伏キリシタンが名乗り出る
1867 長崎の信徒数千人に拷問・流罪。外国から非難
1873 キリスト教禁制を公式に廃止
1927 早坂久之助神父が日本人初の司教(長崎教区長)
1960 土井辰雄・東京大司教が日本人初の枢機卿に
1973 国内16教区長の全員が日本人となる
1995 司教団がメッセージ「平和への決意」を発表

◎大編・大司教クリップ

 第二バチカン公会議 ローマ法王ヨハネ23世が世界の司教ら2400人余を集め、
3年余にわたって開かれた。教会を現代に合わせて刷新すること、貧しく苦しんでいる
人々に
寄り添うこと、他宗教の中にも真理を認めて尊重することなどを打ち出した。

石塚 直人
読売新聞大阪本社
編集局プロジェクト編集室
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「こっそり発表:福島の小児甲状腺ガン罹患数」 2013年2月24日(日) No.572

2013-02-24 20:53:39 | 原発事故
2月13日、福島県「県民健康管理調査」検討委員会で以下の発表がなされたとのこと。
(ちょうど前日に、朝鮮民主主義人民共和国の核実験報道があり、その後もグアムの通り魔殺人、ロシアの隕石、中国の大気汚染といったニュースが大々的に報道され、福島の子どものガン検査の結果はひっそりと目立たぬところに押しやられてしまった。これは偶然だろうか?)

[発表内容]
「2011年度、当時18歳以下の38000人に甲状腺検査を行った。
二次検査で細胞検査が必要とされた対象者の中で10人にガンの疑いがあるとされ、
このうち3人が甲状腺ガンと 判明した。
3人は既に手術済み。」


38000人中3人がガンになり、手術をした(あと7人もガンの疑いがある)。
この数値は一般と比べてどうかというと、
日本臨床検査薬協会などのHPでは、
小児甲状腺ガンの発症率は一般に、100万人あたり1〜3人とされている。
県民健康管理調査は3万8千人の検査で10人に疑い、3人確定。
過去の常識からすると非常に高い割合だ。

しかし、これは3・11以前に罹患したもので、
原発事故とは関係ない=「通常のがんである」と委員会の鈴木教授は言う。
通常値から考えて桁外れに多い罹患数であるにもかかわらず、
通常のがんであるとするのは、どう見ても国民騙しの言い逃れとしか思えない。

あとの7人はいつ検査の結果が出るのだろう。
(もう結果は分かっているのに隠しているのでは?)という疑念が湧く。
いつまで真実を隠し、ウソを平気な顔をして言い続けるのだろう。
こういう行いを「万死に値する」という。
鈴木教授を始め、原子力ムラの人たちには子どもがいないのだろうか。
自分の子が同じ立場になっても、この説明をするのだろうか。
なんの権力をも持たない福島の子どもたちは問う。
「わたしたちは大人になれないの?
他の人達と同じように、人生を過ごすことは許されないの?」

私たち大人は全員、自分が具体的に何ができるかを考え、
それを実行しなければならない。
「私たちを助けて!」と子ども達が訴えているのだ。
自分にできることを探そう。
どんな小さいことでも、必ず実際にそれを行動に移そう。
そして、ずっと続けよう。

昨年2月21日Bookasahi.com掲載の「福島のこどもたちからの手紙」から

「僕はしょう来サッカー日本だい表になりたいです。
でも今の福島では、いっぱい練習できません。
いつになったらほうしゃのうは、なくなりますか。
僕は大人になれますか? 
早く外であそびたいです。
かぞくがはなれてくらすのもいやです。
友だちとはなれるのもいやです。
どうか僕たちをたすけてください」



「はやく ほうしゃのうがないところに いきたいです」


「山の木 川の魚 海の魚 私の夢 かえしてください」


「ほうしゃのう なくしてください」


「かんりょう(官僚)のみなさんへ
①私たち福島の子どもたちは 原発事故いらい(以来) ずーっと外遊びをしていません。
  はやくじょせん(除染)を してください。
②原発事故でひなん(避難)する人は 学校の友達・家などをうばわれました。
  せきにん(責任)をとってください。
 
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「卒業生たちの恋愛」 2013年2月23日(土) No.571

2013-02-23 20:13:27 | 中国事情
先日は劉思ていさんが、広東省広州市の大学院に戻る途中で立ち寄り、
今日は北京外交学院の黄斯麗さんが、
ボーイフレンド(「恋人」と彼女は言う)とともに来てくれ、
さらにもう一人の卒業生ウシュクイさんもやって来た。
さあて、いよいよ、脳みそが教師モードに切り替えられてきたぞ。
やはり目の前に学生がいないことには、ピリッとしない。
そして彼女たちの話は、いつ聞いても興味深い。

今回の黄斯麗さんの休暇は、
降って湧いた見合い話でかなりドラマチックだったようだ。
中国の婚活状況の一端を垣間見た思いがして、非常に面白かった。
彼女は約1年半付き合っている「恋人」がいるのだが、
今年の春節、彼女が江西省萍郷の故郷に帰ったとき、
村人のひとりが見合い話を持ってきた。
彼女が「私には恋人がいます。」
と言うのもお構いなく、何度もやってきて、
しまいに相手方の両親と本人まで来たという。
その相手の家はとんでもない大金持ちで、
今は北京に住んでいるが、元々故郷は萍郷近辺だったので、
お嫁さんは何が何でも地元の子をもらいたいらしい。
仲人役の村人はたいへん熱心にその金持ちの子息との結婚を勧める。
というのも、その縁談がまとまったら
仲人役にも相当のお礼金が支払われるのだそうだ。
つまり、仲人はビジネスなのだ。

一般的に中国の女性たちは結婚に対してドライだと言われている。
「車を持っていない人とは結婚しない。」
「持ち家がない人とは結婚しない。」
「カッコよくない人とは結婚しない。」
という言葉が常識のように語られる。
ある女子学生は、
「自分は良くても、親が納得できませんから無理なんです。」
と、親のせいにする。
結婚もビジネスっぽい。
一体、若き女性たちは相手に恋焦がれるという心理になることはないのだろうか。
これを聞くと、黄さんは
「そういうことはありませんね。相手は私に恋焦がれているようですけど。」
と、いたって冷静。
ウシュクイさんも「恋人」がいるが、
全然ドキドキワクワクは感じないという。
それでほんとに「恋人」だと言えるのだろうか。
さらに電話で会話に参加した北京の範夢しょうさんは、
「彼は大連に行きたいし、私は北京のそばがいいです。
お互いに満足できませんから、彼とは無理ですね。」
と、無理を押してでも付き合う気は毛頭ない。
この人たち、ホンモノの恋愛をしたことがないんじゃないか。

さて、黄さんの見合いの話だが、
彼女はその大金持ちの息子との縁談を断った。
お父さんは未練がましかったが、お母さんは、
「斯麗の恋人はいい子だ。私はあの子が気に入っているよ。」
と、金持ちじゃないばかりか、
この間会社をやめて無職になってしまった彼を支持したという。
彼女が断った理由は、
「彼がいるのに、急に別の人に変えることはできない。」
という律儀なものだ。
ワクワクドキドキはしていなくても、
付き合ってきた一年半は、二人の信頼の実績なのだなあ。
断った黄斯麗さんに、
(エライ!それでなくちゃ!)と心で褒めちぎったブルーはーとであった。

今日、次々と学生たちがキャンパスに戻ってきた。
一気に活気づいてきた財大蛟橋キャンパス。
さあて、授業の準備しなきゃ。






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「新聞記者の仕事」 2013年2月22日(金)No.570

2013-02-22 22:07:04 | 中国帰国者
今日は端っから宣伝になるが、
この間2月11日に「帰国者の友」新年会をしたときのことが
新聞に載った。
読売新聞2月17日関西版である。
読みづらいのは、帰国者の友のメンバーがPDFで送ってくれたのを
そのままこのgooブログの画像フォルダに保存する術がなく(=わからなく)、
実にアナログ的手法で再現したからなんだす。ヽ(;▽;)ノ
で、でも、名前の「ぶるーはーとさん」が可愛いでしょ?



実は、今日一番書きたいのは、読売新聞に載ったということそのものではない。
読売新聞社と言えば、原発推進の中心をになっているメディアの一つだ。
私はつねづね、読売新聞の記事内容にはなんの期待もしていないというより、
(また変なこと書いてるんとちゃうんか?)と、無料のYOMIURI ONLINEを読むときでも
疑い深く、険しい表情になる方である。
産経と並んで絶対買いたくない新聞だ。

その読売新聞の記者(石塚さん;友人の知り合い)が取材に来て、記事を書いてくれた。
「帰国者の友」新年会の自己紹介で、石塚さんは、
率直に自社の(反動的な←これはブルーはーとの言葉)政治傾向に触れ、
それでも記者として出来る限りを尽すといった挨拶をされた。
『ムーミンパパ』と早速誰かが命名したが、ゆったりと、そして謙虚な人柄だった。
こう言う人も、あのひどい新聞社で記事を書いているのだ。
ただ、書いた記事が採用されるかどうかは、
デスクあるいはその上の判断にかかっている。
石塚さんの場合、ボツになった原稿と採用された原稿を天秤量りで測ったら
片一方にひっくり返ることは容易に想像がつく。

読売新聞2月21日夕刊に彼は、
カソリックの司教さんのインタビューを載せるということだった。
その司教さんはインタビューで、
南京大虐殺などの日本軍の非道な行いについて、
「やったことはやったときちんと反省するところからしか始まらない」
と発言されているそうだ。
その記事は、その言葉は、ちゃんと掲載されただろうか。

石塚さんのような記者が読売新聞社でずっと踏ん張っていることを、
私は切り捨ててきた。
そのことを申し訳なく思う。
これからも読売は買わない。
ただし、石塚さんが書いた記事が載るなら買ってもいいと思う。

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「『ビルマの竪琴』に泣く(;_;)」 2013年2月21日(木) No.569

2013-02-21 19:19:28 | 日記
あと4日で二学期の授業が始まる。
ああ、もっと休んでいたいなあ~~(´д`)
学期が始まったら、のんびり本を読む時間が減るのがヤなんだよね。

私は休み毎に、
日本から少しずつ本を運んで日本語学科資料室に寄贈しているのだが、
今回持ってきたものの中に竹山道雄「ビルマの竪琴」がある。
それはそれは昔、小学生の頃ダイジェスト版を読んだきりだったので、
寄贈する前にもう一度目を通しておこうと、手に取ったのが運の尽きと言うか、
途中から滂沱の涙で目が霞み、アワワ、こんなことになろうとは状態・・・。
年取ると涙もろくなると言うが、もちろん歳は否定しない。
しかし私は以前から、「ちびまる子」でも「ジャングル大帝」でも
いくらでも泣ける安モンの涙の持ち主である。

それでもおかしいな。なぜか子供の時、この本で泣いた覚えが全くないのだ。
かすかに脳にくっついている記憶では、当時「ビルマ」も「竪琴」も
北海道の山奥で育った私にはさっぱり分からず、
(ビルマはどこにあるのか。どんな国か。蛭という虫は近所にもいるのだろうか)
(竪琴とはどんな音がする楽器だろう。学校にあればいいのに)
といった、テーマとかけ離れた疑問・興味ばかり持っていた気がする。
やはり、ある程度の基礎知識がなければ物語の核心に近づくことはできないものだ。
あの当時の私は、人間だったのだろうか?未だサルだったのでは?
振り返ってみて、そうした疑問がわく。
そしてさらに、読んだのがダイジェスト版ときている。
感動のしようがなかったのだろう。

戦後、1948年に単行本が出版されて以降、
作者の竹山道雄(ドイツ文学者)が教鞭をとっていた東京大学の
新入生の志望動機として、
「『ビルマの竪琴』の作者、竹内道夫教授に直接教えを受けたい。」
というものがたくさんあったと解説(鳥越 信)にある。
「戦争への反省と平和への希求」をテーマにしたこの児童文学は、
竹内好(中国文学者)などから「戦争と平和」を全て「心の平安」に帰していると批判を受けたそうだ。
私は、竹内好さんに言いたいのだが、
一つの作品に全てを求めてはいけないのではないだろうか。
「いい作品だけど、○○が足りないよね~。」とか言いたくなる気持ち分かるけどさ。
いろんなスタンスで平和を守ることが必要だ。
平和を中核とした社会・政治システムは、ひとりひとりの心の平安を大切にすることと矛盾しない。

文中、(こ、これ、いつの時代の話?2013年に立派に通用するし~)と思った箇所がある。

『私はよく思います。―いま新聞や雑誌を読むと、驚くほかはない。多くの人が他人を罵り責めて威張っています。「あいつが悪かったのだ。それでこんなことになったのだ。」と言って傲慢にえらがって、まるで勝った国のようです。ところが、こういうことを言っている人の多くは、戦争中はその態度があまり立派ではありませんでした。それが今はそういうことを言って、それで人よりも贅沢な暮らしをしています。(後略)』(偕成社文庫版、P174)

アのつく人、イのつく人、ハシのつく人など、なんぼでもこれに当てはまる人がいる。
この小説は1947年雑誌に連載され、翌年単行本として出版されたものだ。
戦後すぐと今はほとんど同じ状況なのか・・・。しばし呆然。
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「インターネットの声と実際は全然ちがう!」 2013年2月20日(水)No.568

2013-02-20 13:49:33 | 中国事情
売り言葉に買い言葉・・・。
インターネット上に飛び交う中国と日本の人々の悪口の言い合いを見ると、
本当に、ほんとうに、うんざりする。
悪口を言っている人は、それぞれ自国の奥深くで、
相手国の人々が生き生きと生活する姿を思い描く想像力と感性を持てず、
自分の国中心主義の発想にどっぷり浸かったまま、
無根拠・無思慮・無内容の言葉を言い散らかしている。
読んでいると、
「どっちも、いい加減に(#゜Д゜)ダマレ!!」
と怒鳴りつけたくなる。

しかし、パソコンが壊れてネット上の汚い言葉を見ない生活を2、3日続けると、
心がスーッと静まってくる。
中国の人々が誰の悪口を言うわけでもなく、
毎日一所懸命働き、勉強して暮らしているのが
自分の居場所ではっきりと見えるからだ。
みんな、ネットの言葉を鵜呑みにしないでね。
私が出会った中国の人たちはいい人ばかりです。(´∀`*)

国家が両国民の対立を煽っているこのときに、
それに乗せられないように、思慮深く自戒しよう。
今回の反日感情に火をつけた張本人の“ピンポンダッシュ石原”は、
どこ吹く風と、国会で演説をぶって愚かしい議員たちに崇められている。
しかし、戦争をも辞さずといった軍備拡張派の主張が通り、
もし、本当に戦争になったりしたら、
誰が損するって、特権を持たない私たち=庶民に決まっている。

1945年、中国を侵略して負けた日本軍は、
まず軍人が先にさっさと引き揚げてしまい、
後に放り出されたのは、民間人(満州開拓団など)ばかりだった。
今では車で数時間の吉林~瀋陽を半年間、死の彷徨をした人々の中に、
「帰国者の友」の西井澄さんがいた。
彼女は当時、9歳だった。
途中で生後4ヶ月の妹が栄養不足で死んだ。
毎日、毎日、人が死ぬのを見て9歳の彼女は、
(どうしてこんなことになったんだろう。
戦争があるからだ。戦争は怖い。
戦争は人を殺す。戦争は家族をバラバラにしてしまった)と心底思ったと言う。
現在、西井さんは76歳。
妹が生きていたら67歳だ。
日本の利益のみを追求した先の戦争で、
中国人、韓国・朝鮮人をはじめ多くのアジアの人々を虐殺し、
自国民の命をも使い捨てポイしたのは、
ほかならぬ大日本帝国だ。
その歴史の一つ一つは絶対に忘れてはならない。
でなけれな、西井さんたちの口で言い尽くせない辛酸、西井さんの妹の死は、
他の殺された人々の命同様、初めからなかったことにされてしまうのだ。
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「パソコン・クライシス去る」 2013年2月19日(火)No.567

2013-02-19 20:28:29 | 中国事情
この3日間パソコンにはできるだけ触らず、メールチェックだけして
ササッとシャットダウンしていた。
ちょっとでも長引くとすぐに容赦なく「0バイト」表示になるからである。
まるで虚弱体質の老人のように、起動するや枯れ果てるので、
当分、この弱い身体をいたわりつつやっていくしかない、と覚悟した。
2日前か、日本のオコジョさんから「外付けハードディスク」を教えていただき、
早速尼崎の娘に「買って、買って~」とメールでねだったが、
今日現在なんの返事もない。
この母親の危機を何とも思っていないヒトなのだ。

しかし!思わぬところで救世主が現れた。
広州の大学に戻る途中、立ち寄ってくれた劉思婷さんがあれこれ頑張ってくれて、
最後には、かつて「江西財大のパソコンの神様」と呼ばれ崇められていた郭さんに連絡し、
ついに直してもらったのだ。
簡単に「直してもらった」と書いたが、
郭さんは今、南昌にいない。浙江省の自宅にいるのである。
劉さんはその彼にQQを使ってこのパソコンのデータを送り、
それを浙江省の郭さんが一つ一つチェックするのが、
画面で確かめられた。
機械音痴の私は心から感嘆した。

と言うわけで容量は現在、13GBに回復した。
昨日まで「まだ13MBある!」と喜んでいたのに、
桁違いでピンとこないくらいだ。
しかし、早速デジカメから写真を取り込み、
ブログに反映させることができるようになった今、
ようやく、実感がジワジワと湧きつつある。
イヤ、ヨカッタ、ヨカッタ

劉思婷さんが故郷の村から野菜をたっくさん持ってきてくれた。
私が電話で「スーパーに野菜が全然なくて、干しシイタケをもどして食べている」
と愚痴を言ったら、劉さんのお母さん・お父さんが、
大袋に入ったシャンツアイ(香菜)、ハクサイ菜、ほうれん草を持たせてくれたのだ。


シャンツアイはサラダにしモリモリ食べた。
シャンツアイの命をもらっている気になるほど、新鮮で香り高く美味しかった。

下の写真は、ハクサイ菜とこれも劉さんのお母さんの手作り揚げ餅とを一緒に炊いたもの。
シマヤダシの素を使って和風味に仕上げた。
我ながらうまくできた。


ハクサイ菜(まだたくさんあるが、一度には炊けない)


揚げ餅。麺に入れてかっちん麺として、また蒸して甘辛味で、など食べ方は色々あるそうだ。


揚げ餅が大きくてなかなか芯まで柔らかくならない。


包丁で半分に切った。数も倍になって嬉しい気持ち。


新鮮なハクサイ菜はトロッとして本当に美味しかった~~。揚げ餅も最高!
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「『反日』より命がだいじ」 2013年2月16日(土)No.566

2013-02-16 09:23:21 | 中国事情
ネットニュースによると、
中国都市部で日本製の空気清浄機が普段の2~3倍の勢いで売れているとのこと。
平均価格が6万円~7万円(4300元~5000元)前後の高性能のものに人気が集まっているそうだ。
中国庶民の感覚からすればこの値段は非常に高い。
私のここでの一ヶ月の給料は初年度が確か4800元だった。
大卒者の初任給は平均2500~3500元(江西省ではもっと低いらしい)である。
北京や上海など都市部の人々の危機感がこの価格を見ても伝わってくる。
「日本製品は嫌だ」と言っている場合ではないようだ。

実は、上海から飛行機で1時間20分も離れたこの南昌も、
少しは影響がある(と汚染分布図に書いてある)。
昨日の午後、買い物がてらキャンパス内を歩いてみたが、
確かに以前より空気が悪い感じ。
もともと大阪よりずっと汚れていたのに、更に悪化しているようだ。
にもかかわらず誰ひとりマスクを着用していない。
これが北京、上海との違いだ。
今朝も早朝5時から外で爆竹を鳴らしている(まだ春節気分)。
呑気だなあ・・・。

新兵老師の説明では、日本の正月同様、
三が日(今年は2月10日・11日・12日)はどこの店も休むが、もうそろそろ正月気分も抜け始めた頃だそうだ。
しかし、昨日15日午後の段階で私が確認した限り、
中国銀行はATMまで春節モードで作動せず、
財大購物広場(スーパー)も一階の小売店は全て休みで、
二階の食料品・日用品売り場だけしか開いていなかった。
いつも学生でごった返している売り場だが、いま、客はほとんどいない。
店員の人数も少ない。
私は野菜と果物を目指して行ったのだが、
しなびた柑橘類(みかん、文旦)、林檎やら干し柿やらしか並んでおらず、
諦めて牛乳と干し椎茸、乾麺を買い、宿舎に戻ってきた。
正月から買い物なんかする人は、ここにはいないのだ。
外の空気汚染状態にもかかわらず、ちょっと清々しい気持ちがした。
年がら年中、店がオープンしているのも
ガチャガチャしていて私は嫌だ。
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「ありえないパソコン」 2013年2月15日(金)No.565

2013-02-15 20:43:38 | 中国事情
昨夜はインターネットにスイスイ接続できることに感激した。
極楽的気分だった。
しかし、すべてがそんなにうまくいくわけはなかった。
冬休み前からこの宿舎のパソコンは毎日、
「もう容量がほとんどない」という警告を発していたが、
私にはさっぱり身に覚えがなかった。
切り詰めて切り詰めて、何でもすぐにインストールしないようにし、
トータル70MBぐらいしか使っていなかった。

今朝、起きてコーヒーを淹れ、
「うう、さぶ」とか言いながらパソコンを起動したらナントマア、
〈このパソコンの容量は0バイトしか残っていない〉
という表示が出るではないか。
こっちゃ、気い使って14.6GBもあるはずのうち、
たったの65.5MBしか使っていないのに、なんでやねん!
これは明らかにどこかオカシイ。
数ヶ月前に電気屋さんが来て、自動的にインターネット接続できる何かを入れてから
容量が少ない表示が出始めたのは確かだ。
それにしても、ほかの部屋のパソコンはうまくいっているのだろうか。
この部屋だけ配線が変だと言っていたが、それと何か関係があるのだろうか。

午前中は、当たらず触らずそっとしておき、
午後に調子を窺うと30MBぐらい復活していた。
これを機に、ドキュメントに保存していたあれこれをUSBメモリーに送り込み、
さあ、もう少し増えたかと、ワクワクして見たらまた0バイトに逆戻り!
こういう時には自然に大阪弁が出る。
「しまいに怒るで!!」とかね。
他の地方の人にとって、
大阪弁の語末の「~で(でえ)」は、聞きづらいと聞いたことがあるが、
こういう時には便利だ。
とにかく、何かを罵りたいんである。
私など、生まれが北海道なので生粋の大阪人から見れば、
まだまだである。
本物の大阪人はこういう時、なんというのだろう。
「しばいたろか、コオラ。」
とかでしょうか。

諦めて読書して後、もう一度起動してみたら、299MBという(;´Д`)スバラスィ数値が!
というわけで、慌ててブログを書いている。
こういう時に限って駄文だ。
心の準備してないし、しかたないわ。
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「ありえないほどスムーズに到着」 2013年2月14日(木)No.564

2013-02-14 22:32:43 | 中国事情
朝6時半に大阪の家を出て、夜7時40分には南昌の空港に着いた。
昨年2月の上海浦東空港での悲しいドタバタを思えば、
まさに奇跡のように滞りなく移動が完了した。

オフィスでいつも迎えの車を手配してくれているのだが、
今回は数日前からメールをしても全く応答なしなので、
念のため上海から新平老師に電話して確認してもらったところ、
やはりオフィスとは連絡が取れない、春節だからじゃないかとのこと。
そういう訳で新平老師が、急遽駆けつけてくださった。
(故郷の農村に帰っていたのに…)
また、人の世話になる生活のスタートだ。
まあ、仕方ないわ。

宿舎に戻ると、水道から水が出ない。
1月にここを出発したときは、水漏れ状態だった。
この部屋はいつもどこかが壊れている。
夜9時という遅い時刻(勤務時間帯を完璧オーバーしてる)、
ミズ劉の連れ合いが、スパナやペンチであれこれやること数十分、
見事に水を出してくれた。
またまた人のお世話に…。

水騒ぎが収まり、ホッとしたところで
広州で世話になった劉思婷さんが
「無事帰りましたか~?」
と電話をくれた。
いつ戻るか覚えていてくれたんだ。うれしいな。
彼女も江西省樟樹の故郷に戻り、
家族と春節を祝っているとのこと。

そんなこんなで南昌に戻ってきた。
部屋は相変わらず底冷えのする寒さだ。
これは日本の皆さんには想像できないかも知れない。
家の作り方が違う。
全く隙間なく建てられた日本の建築はスゴイ、と逆に感動する。
しかし、大阪でネット接続に苦労していたので、
パソコンでインターネットがスムーズにつながるのも感動的だ。((o(*゜▽゜*)o))
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「明日、中国へ発つ」 2013年2月13日(水) No.563

2013-02-13 15:10:51 | 日記
昨年の冬休みより9日間も長く日本に居られて、よかった。
今日のようなゆとりの一日がある。

朝、郵便局から先週に続き2つ目の荷物を発送。
6.2㎏でSAL便5200円、航空便5750円なので通常一週間で着く航空便にした。
これまで荷物は全て船便で送っていたが、
6~7週間かけ、ボロボロになって到着するだけでなく、
郵便局まで取りに行かなければならないのが実に大変なのだ。
大学に寄付する書物が多く、常に12㎏~15㎏なので一箱だけでも重い。
それを常に3~4箱送っていたので、一人では運べない。
新平老師が手伝ってくれたり、オフィスにたまたま居た学生とゴミ用リヤカーで運んだり、
はたまたドライバーの陳さん、管理人のミズ劉、ミズ吴、オフィスのアレックス(中国人)…などなど。
言えばキリがないほど、いつも誰かの助けを借りていた。

今回は本をかなり減らしたので、重量が軽くなった。
早く着くし、自分だけで運べるのが嬉しい。
中国では何でも一人でできることは少ないが、
我が信条は「自分でできることは自分でする」なので、
どっちかと言うと、頼み下手。
頼むたびにストレスが溜まる。
これを言うと中国人の学生たちは
「老師は学生に何でも頼みます。中国ではそれが当然です。気にしなくてもいいです。」
と言ってくれるんだけどね。

昼近く、淀川図書館から借りていた本3冊を返しに、
徒歩で20分の十三に出かけた。
一月末に、自転車を神津神社横に停めて用事をし、
数時間後に戻ると市が持って行ってしまっていた。
5000円の中古自転車なのに引き取るのに2500円払えと言う。
収監されている場所も行ったこともない遠いところだ。
もう、そんな元気ないわ。

淀川図書館からの帰り、すぐ傍の淀川に足を延ばした。
十三大橋の下に降りると、
何十羽ものカモの親子連れが潜ったり泳いだりして遊んでいた。
水辺の砂地にはしじみ貝の殻がたくさんある。
淀川は以前より明らかにきれいになっているのが分かる。
新淀川大橋の方に歩いていくと、
ジョギングしている若者2人、散歩しているおじいさん1人とすれ違った。
淀川と言えば大阪市の主な川No.1なのに、
平日の真昼間に河原をブラブラする人なんかいないんだな。
冷たい風も澄んでいて、本当に気持ちがよかったが。

マンションに戻る途中、野中南公園脇に白梅が咲いていて、
一人、年配の女性がそれを見上げていた。
私もつい真似して見上げると、なんと!黄緑色の可愛い小鳥が数羽、
梅の枝をチョンチョン移動している。
「あれ、鶯ですね。」
と聞くと女性は
「そう言われたらそうやな。小さいから雀やないな。」
と。彼女は鳥ではなく、梅花に昔の娘時代を懐かしんでいたのだそうな。
目がうすいので、もう鳥の色は判別できないとのこと。
でも、「エエもん見たね」と互いに言って別れた。

明日は早朝5時起きだ。
ラッキーなことに今日のワイヤレスネットワーク接続は家で可能な気配。
マクドの100円コーヒー&「ここ私の席だっせ」と言う我がままバアさんたちともしばらくお別れだ~!
(どうぞこの文がUPできますように…。)








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「帰国者の友人達と春節を祝う」 2013年2月12日(月) No.562

2013-02-12 15:36:54 | 日記
昨日2月11日、大阪市淀川区の一角「ロマネハウス」で、ささやかな新年の会をした。
中国帰国者一世から三世までの十数人と、地元メンバー10人、
さらに今回は人民新聞社の山田さん、読売新聞大阪本社の石塚さんという
報道陣(!)まで遊びに来てくれた。
記事になるかどうかはちょっと分からないけど~。(*^_^*)

改めて振り返って見ると、
この「帰国者の友」は既に5年半も活動を続けている。
「八つあん・クマさん」のノリで、
「助け合いと言っても大上段に構えず、できること・楽しいことをやろう」
を合言葉にしてきたことが今まで続いた理由の一つかも知れない。
そうは言っても、「八つあん・クマさん」にも家庭の事情がある。
経済的にも楽じゃないわ、
身内が次々に介護が必要になるわ、
といった中で集まりに参加するだけでも大変なメンバーが多い。
こんなささやかな会を運営するにも、
やはり一人ひとりの社会的意識が必要なのをしみじみ感じる。
(苦労してようやく日本に帰ってきたのだから、
安心して楽しく暮らせるように手伝うのが地元民の務めだ)
という地元メンバーの想いと、
(日本社会に溶け込んで、地元の皆とともに、心豊かに生きていきたい)
という帰国者メンバーの切実な願いが結ばれてこそ、
ここまで来ることができた。
そして何よりも、
生身の人間同士が直に声を交わし、共感し合う経験の積み重ねが、
ときに文化や習慣の違いに戸惑ったり、歯がゆく思ったりしても、
さらに、近年の両国の政治摩擦に胸をふさがれながらも、
何とかやってこれた最大の理由だと思う。
私たちはもう、気心が知れた友人同士になっている。

昨日はそれぞれの近況と新年の抱負を述べ合った。
(人生に苦労がなくなることはないのだろうか)と呆然としそうなくらい、
自身や身内の病気、息子の失業、身内の介護・看取りなど、
近況報告ではたくさんの悲しみ、苦労が語られた。
それでも、この会でのみんなは明るい。
庶民は涙を拭き、不幸を冗談にして笑い飛ばしながら
生きていくしかないのだ。

帰りには帰国者の何人もから、
「先生、今度は尖閣問題の時よりもっと大変かも知れないから、気をつけて。」
「何かあったらすぐ日本に帰って来てね。」
という言葉をもらった。
『レーザー照射』報道のことを言っているのだ。
苦労してきた人たちの感じ方は、的を得ている。
中国への出発まであと2日に迫った。
気を引き締めつつも、中国の人々を信頼して行ってこよう。

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