1923年9月1日の関東大震災日に始まり、 その後続いた朝鮮人狩り、社会主義者狩りについて 学校で具体的にあったことを教わった方は いらっしゃるでしょうか。 残念でたまりませんが、私は一度も学びませんでした。 従って、教師になっても教えることができませんでした。 この詩の作者、壺井繁治さんは最後に次のように語っています。 無惨に殺ろされた朝鮮の仲間たちよ 君たち自身の口で 君たち自身が生身にうけた残虐を語れぬならば 君たちに代って語る者に語らせよう いまこそ 押しつけられた日本語の代りに 奪いかえした 親譲りの 純粋の朝鮮語で
そして、壺井さん自身も 殺されて、生身に受けた残虐を語れない「朝鮮の仲間たちに代わって」 と言うにはあまりにおこがましい日本人の立場なれど 見たこと、体験した具体的なことを 皆に伝える責任があると考えてこの詩を書いたのだと思います。 私は昨日フェイスブック友達の記事で この「散歩の変人」さんのブログの 壺井繁治さんの詩『十五円五十銭』に辿り着きました。 読んだ限りは私も、 一人でも多くの方に伝える責任の一端を背負うべきだと思います。 東京都の小池知事は、 「関東大震災で亡くなった人全てに哀悼の意を表しているので必要ない」 と、歴代知事が送っていた追悼式典への追悼文も3年連続行っていません。 震災という自然災害の被害者と虐殺被害者が同じなわけないでしょう。 小池知事はこの事件をどれほど深く調べたのでしょうか。 主義主張の前に客観的事実をきちんと学ぶことが 少なくとも日本の政治家にとって必須であるにもかかわらず、 何も学ばず、都合のいいところの切り取りか歪曲を そのまま全てだと信じる妄信宗教家みたいなのが 跋扈している日本。 馬鹿丸出しの国になるはずです。 |
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壺井繁治の『十五円五十銭』です。
十五円五十銭 https://sabasaba13.exblog.jp/28632864/ |
この夏休みは、中村文則やカズオ・イシグロをせっせと読んでいるうちに
もう中国に戻らなくてはならなくなり、
既に買ってあった目取真俊(めどるま・しゅん)『眼の奥の森』は
スーツケースに入れて中国まで運んできました。
目取真俊さんと辺見庸さんの対談集で辺見さんが、
「ホンドも自分ももう、腐れ果ててだめかも知れない。
しかし、目取真さんの作品の言葉には、一縷の希望がある」
といった内容のことを言っていたので、
急ぎ取り寄せたのが『眼の奥の森』でした(フェイスブック友達の推薦書でもあり)。
こちらは大阪と違い、昼間32℃まで気温が上がっても、
朝晩は20℃に下がる快適な気候で読書にはもってこいなのですが、
目取真俊さんのこの小説は胸が張り裂けそうになる辛さを伴い、
すいすいと気楽に読み進むわけにはいきませんでした。
それでも、やはり読まずにはいられない圧倒的な力に導かれて
2日間で読み終わりました。
帯の紹介文は以下のようなものです。
「米軍に占領された沖縄の小さな島で事件は起こった。
少年は独り、復讐に立ち上がる ―――
悲しみ、憎悪、羞恥、罪悪感……
戦争で刻まれた記憶が60年の時を超えて交錯する。」
この帯文を読んで(よし、この小説を読もう!)と思う人は
そんなに多くないかも知れません。
しかし、ふとこの本を手に取って1ページ目を開き、
いったん文を読み始めたら、もう最後まで読むしかない、
この『眼の奥の森』はそんな小説でした。
アメリカと日本の権力に暴力的に服従を強いられ、
煮え湯を飲まされつつ生きてきた沖縄の庶民の心の奥を、
こんなにも深く伝えてくれる小説と初めて出会えた気がします。
私は読後、自分が今まで目取真俊さんの作品を読んでこなかったことを
本当に悔しく思いました。
又吉直樹さんのような「吉本芸人」といったプラスワンがないと
いくら芥川賞作家でも、ホンドでは話題に取り上げられないのかと
一瞬、勘ぐったりもしましたが、
目取真俊さんが芥川賞以外にも、
川端康成文学賞、九州芸術祭文化賞、木山捷平文学賞、
琉球新報短編小説賞など数々の賞を受賞し、
その小説が映画にまでなっているのを知るに及んで、
(なんだ、自分が知らなかっただけだったんだ……)とガックリしました
↓下はちょうど私も参加していた8月9日朝(翁長さん急逝の翌朝)、
キャンプシュワブゲート前で、
カヌーチームの一員として話す目取真俊さんです。
彼は現在、最も執筆に油の乗るはずの五十代であるにもかかわらず、
連日カヌーでの基地建設工事の抗議行動に追われて、
エネルギーを使い果たし、
家に帰るとくたくたで作品を書くことができないと
何かで言ってらっしゃいました。
抗議行動参加者は、みんな自分の本来の仕事を犠牲にして、しかも、手弁当で、
現場に駆けつけている方々ばかりです。
目取真 俊さんのブログ
「海鳴りの島から」https://blog.goo.ne.jp/awamori777
水俣地域では、他人の苦しみを放っておけない人を
「悶(もだ)え神さま」と呼ぶという。
被害救済を訴える集会などで患者が掲げた「怨」の旗や
「水俣死民」のゼッケンは石牟礼さんが考えた。
自身がまさに「悶え神さま」だった。
(京都新聞「コラム凡語」2018年02月14日掲載)
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石牟礼道子さんの『苦界浄土 わが水俣病』は、
教科書で「四大公害病の一つ」などと言ってスルーしてしまいそうな心を
ぐいと真正面に向け、水俣病を深く考えさせる力を持つ作品でした。
実は、私は若い頃それほど多くの文学作品を読まない愚か者でした。
(著名な作家や有名作品は特に!)
しかし、石牟礼道子さんの文章はすっと心に入り、深く根付きました。
水俣病についての価値あるドキュメントであると同時に、
石牟礼さんの言葉が、
深い沈んだ場所に私を連れていってくれたのを覚えています。
反公害闘争の内実は、
福島原発事故、沖縄反基地闘争が突きつける課題とあまりに重なり、
遠く過ぎ去った歴史に埋没させることはできません。
私にとって大切な宝物の作家の一人、石牟礼道子さんの死を悼みます。
・・・・・・・・・
池澤夏樹さん個人編集の世界文学全集には日本の作家としてたった一人、
この石牟礼道子さんの作品が収録されています。
作家の石牟礼道子さん死去 90歳 「苦海浄土」
毎日新聞2018年2月10日
https://mainichi.jp/articles/20180210/k00/00m/040/225000c
人間の極限的惨苦を描破した「苦海浄土(くがいじょうど)」で水俣病を告発し、豊穣(ほうじょう)な前近代に取って代わった近代社会の矛盾を問い、自然と共生する人間のあり方を小説や詩歌の主題にすえた作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんが10日午前3時14分、パーキンソン病による急性増悪のため熊本市の介護施設で死去した。90歳。葬儀は近親者のみで営む。喪主は長男道生(みちお)さん。
三日前、ついに期末試験作成を終えてホッとしながら
「雨ニモマケズ」朗読をいくつも聞いていますと、
衝撃の朗読に出会いました。
(岩手の言葉って、ここまでの表現力を持つのか!)
と新たな発見に心が震えました。
どうぞ、一度お聞きになってみてください。
ちなみに、我が父方の祖母は岩手県出身でした。
(私が生まれたときには既に他界していましたが)
現在もほとんど交流のないいとこ達が花巻市に住んでいます。
こんなに胸がドキドキするのは、
父母から聞いた覚えのある言葉が
随所にちりばめられているせいかもしれません。
【岩手】雨ニモマケズ【ZuZu弁朗読】
聞き比べ:
町村千絵https://www.youtube.com/watch?v=f1AQW8ayzDo
渡辺謙https://www.youtube.com/watch?v=hvFEffacY5g
宮澤りえhttps://www.youtube.com/watch?v=WZ0vSyS_AI4
長岡輝子https://www.youtube.com/watch?v=-VvmWOxM_i4
おまけ:大好きな竹中直人、宮澤賢治がはまり役です。
宮沢賢治の授業竹中直人 (1992; One day of Kenji Miyazawa) 1https://www.youtube.com/watch?v=mpESN1R-x0o
どうしてあの平和主義者の権化のような宮沢賢治が、
兵役につきたがってお父さんに懇願し、無理やり志願したのか、
不思議に思ったことはありませんか。
賢治の家は金貸し業を営み、たいへんお金持ちだったのですが、
賢治は貧乏な庶民の上前をはねるその仕事が恥ずかしくてたまらず、
彼が店の番をすると困っている人にタダでお金を貸して(つまり、あげて)、
親に叱られたりしたそうです。
子どもの頃より彼の心には原罪意識があり、
それが不運な人、不幸な人への捨て身の自己犠牲心に繫がったと言われます。
賢治が言った言葉、
「世界中全ての人々が幸せにならない限り、自分の幸せもない」
は100%心からのものでしょう。
賢治の兵役志願は、その捨て身の自己犠牲心に基づくものだと思えば、
ああそうなのかとナットクできます。
後に賢治は法華経を信仰して、
超国粋主義・国家主義教団の国柱会に入信し、
それは37年の生涯を終えるまで変わらなかったと言います。
全ての人が幸せになることを捨て身で願っていた賢治が、
大東亜戦争推進の国柱会にのめり込んだ結果、
満州事変を「皇化恩沢の拡大」として讃えることになりました。
「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように
早くこの世がなりますように、そのためならば、私の身体などは、
何べん引き裂かれてもかまいません。」(『からすの北斗七星』)
と祈りつつ。
もし、賢治が甲種合格となって戦争末期まで生き延びていたら、
特攻隊にでも何でも真っ先に志願したに相違ありません。
私は賢治の純粋で、同時に危うい自己犠牲精神を思うとき、
同時に百田尚樹も頭に思い浮かぶのです。
『永遠の0』は特攻隊員が死んで愛する者を守る話だったし、
『風の中のマリア』のミツバチも特攻隊でした。
女王蜂を守るためにこそ、自分の生命は存在しているのだと納得し、
最後の戦いに潔く飛んでいきます。
百田尚樹自身はどうか。
彼は自己犠牲の美を説き、体制を守る兵隊たれとアピールします。
自己犠牲を他人に強いるのです。
しかし、日頃の百田の言辞を見れば、
彼自身が特攻隊員になるとは決して言わないでしょう。
テロリストになるとか言っていますけどね(口だけです)。
百田には、アニメ世代の一傾向としての思考の底浅さを見る思いがします。
自己犠牲の精神はときに間違い、戦争という人殺しを肯定します。
他人も自分も同じ値打ちがあると思うことが大切ではないでしょうか。
『日本語ぽこりぽこり』(小学館・講談社エッセイ賞)、
『釣り上げては』(思潮社・中原中也賞)、
『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社・日本絵本賞)、
『亜米利加ニモ負ケズ』(日本経済新聞出版社)など、
文学ジャンルで魅力的な作品を次々と発表しているアーサー・ビナードさん。
堺市で講演会があったので、寒い夜、ちょっと遠いけど行ってきました。
下はビナードさんの講演前のパフォーマンスです。
府立泉陽高校出身、平均21歳の男声合唱グループ「コール・ドラフト」の面々ですが、
男声合唱と言えばグリークラブを想起します。
しかし、彼らはそこから伸び伸びとはみ出た合唱団でした。
このパフォーマンスの後に登場したアーサー・ビナードさん、
「さすが晶子の故郷、堺ですね。」と開口一番に与謝野晶子の話に入り、
「コール・ドラフト」が金子みすゞの作品「みんな違ってみんないい」も歌ったので、
「晶子とみすゞとアーサーと」とか、すぐに口から出てくる人でした。
私は、ビナードさんの飾らず、分かり易い語り口に、
すぐに、ずっと前からの親しい友達のような気持ちになりました。
アメリカ出身のビナードさんが日本に来たきっかけがまた面白いです。
彼はニューヨークのコルゲート大学で英米文学を専攻し卒業も近づいたとき、
日本語を学び始めました。
アルファベットが26文字であるのに対して、
日本語の漢字は日本人もいくつ在るのか分からない、多分一万字くらいだと言われ、
たいへん驚き、どんどん惹かれていったそうです。
なぜならばビナードさんは大の昆虫好きで、昆虫は数が多く、漢字も数が多かったからと。
1990年に来日して日本語学校で
ジャポニカノートに日本語を書き、むさぼるように勉強していた彼は、
日本人が「戦後40年」、「戦後45年」と戦後何年経ったかをキチンと言えることに気がつきました。
アメリカ人は言えません。
一体、いつの戦争の後なのかわからないほど、アメリカは戦争ばかりしているからです。
ビナードさんは1967年生まれですが、
彼は自分をベトナム戦争の戦中派だと言います。
今回の講演テーマは「言葉と政治、そして日本の未来」でした。
以下、私が面白く感じたところをメモから抜き書きしてみました。
(できるだけ正確な文言を心がけましたがもし違う箇所があったら御免なすって)。
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「表現者の大きな仕事に、
娯楽として笑ったり、楽しんだりできない、でも大切なことを伝えるということがある。
それに対して、メディア、マスコミはどうか。
ある人が「新聞は大事なことを伝えてくれない」と文句を言う。
でも、「新聞が大事なことを伝えてくれない」と文句を言うのは変じゃない?
なぜなら、新聞は「新しいこと」を伝えるから「新」聞なのであり、「大事」聞じゃないんだから。
新聞の伝えることは時間が経てば値打ちがなくなり、古新聞として捨てられる運命だが、
本当の文学表現、例えば、与謝野晶子の文学は百年経っても古くならない。
文学者の言葉は時間軸の幅が違う。百年経っても新鮮だ。
宮沢賢治もそうだ。
「駆け付け警護」の過ちを、賢治は『雨ニモマケズ』で今の私たちに教えてくれている。
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ(駆け付け看護)
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ(駆け付け収穫)
南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ(駆け付け見送り)
北ニケンカヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ(駆け付けない・距離を取る)
東・西・南へは「ガ」という助詞を付ける時間もないほど大急ぎで行くから、「駆け付け」だ。
しかし、北のケンカや訴訟(戦争)には、賢治は行かない。距離を取る。
大急ぎで駆け付けないのでケンカヤ訴訟「ガ」アレバ、と助詞もつく。
つまり、冷静に話し合いをするべきだと言っているのだ。
「駆け付け警護」という変な言葉は、英語にすると
「rush to guard」だが、そんなこと言うと変過ぎて、アメリカ人は笑ってしまう。
「rush to rescue」なら意味が通じる。
日本語では「駆け付け救出」だが、救出には戦闘行為が伴う可能性が当然ある。
「駆け付け警護」はウソの言葉でごまかしている。
僕らは政府の時間軸で物事を考えていると全てを失う。
いい例が東芝だ。東芝は潰れるだろう。
2006年、東芝はアメリカのならず者企業「Westing House」
(世界のどこも買わない、イスラエルさえも)を
ライバル社の2倍の価格6400億円で買収したが、
現在原発事業に絡む借金が6800億円もあるのだ。
小出裕章さんや広瀬隆さんなど、
ちょっと違う時間軸で物事を考えている人はいっぱいいる。
時間の幅を伸ばせば伸ばすほどいいものになる。
文学とはそういうものだ。
日本が劣化し、日本人が日本語を理解できなくならない限り、
日本の文学は百年経っても、その輝きを失うことはない。
―――――――――――――――――――――
ボブ・ディランの「FOREVER YOUNG」を「始まりの日」とした名訳本については
明日に続きます。
今週月曜日、生まれて初めて大江健三郎さんのお話を直(じか)に聞いた。
これは私としては生ボブ=ディランを見たのに匹敵する大事(おおごと)だった。
しかし、ボブ=ディランは中学生の頃から心であこがれ続けていた人だったが、
大江さんはそうでない。
岩波ブックレットの『取り返しのつかないものを取り返すために
――大震災と井上ひさし』
2011年刊行(大江健三郎・内橋克人・なだいなだ・小森陽一共著)
の講演記録が大江さんの文を最後まで読み通した初体験だった。
つまり、最近のことだ。
講演での大江さんの言葉は、かつて私が途中で投げ出した難解な小説とは違い、
和やかなユーモアに満ちた分かりやすいものだった。
それと前後して、中国の大学の日本語学科の「日本文学」で、大江さんの作品と再会した。
その「日本文学」の教科書(下)には、
遠藤周作、丸山健二、中上健二、深沢七郎、村上春樹、吉本ばなななどと並び、
大江健三郎さんの「人間の羊」が収録されていた。
これも、過去においてさんざん苦労して、結局、途中までしか読めなかった
「洪水はわが魂に及び」や「万延元年のフットボール」などに比べ、
ストレートに心に入ってきた。
その後は、日本に戻るたびに大江さんの本を1,2冊買って読んだ。
(大江さんの使う言葉は粘り強くて、しかも美しいな)と感じるようになった。
海外でしか反核スピーチをしない村上春樹氏とは違い、
大江さんは日本国内で核・原発問題に取り組む人々とともに歩み、経験を重ねている。
その一環として、11月24日「第4回・さようなら原発1000人集会」(いたみホール)での
基調講演があった。
しょっぱな、大江さんは
「先ほどお話された福島から大阪に避難されている若いお母さんのお話は、
静かさと穏やかさに満ち、聞き手の皆さんもまた熱情をもって
静かに耳を傾けていらっしゃる。
このような皆さんが、これから将来を作っていく人たちだと確信します。」
と言われた。年配の方特有の嗄れ声だった。私の母もそうだった。
「こんな歳まで生きるとは想像もしていませんでした。」
と続けた。
大江さんがこの世界にいることで、
どれだけみんな歯を食いしばって頑張ることができるか分からない。
そんな存在が大江健三郎さんだ。
大江さんは1935年、愛媛県の山間の村に生まれ、
戦争中に軍国主義初等教育を受けた。
当時の校長は小学生に向かって、
「早く大人になって国のために尽くしなさい」
「天皇陛下の御ために死ぬのです」
「死んだら靖国神社に祀られます」
と話していた。
戦争が終わり、四国の村にもアメリカ軍がジープでやってきた。
それまで旧制中学校は松山市まで行かなければなかったが、
それは経済的に無理だった。
しかし、戦争の終わりとともに村にも新制中学校ができた!
大江健三郎さんにとって、人生で一番大きい変化は、
戦争が終わって日本国憲法ができ、その下に教育基本法ができたことだった。
大江さんは「自分はお調子者で、憲法13条で生きていくことにしました」
と言う。
第13条〔個人の尊重〕・・・ 全て国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。
勉強が好きだった大江少年は、お母さんに大学に行きたいと話した。
お母さんは、
「家にはそんな金はない。お前は森が好きなのだから村の営林署で働きなさい」
と言ったが、大江少年は
「お母さんが大学を諦めろと言うのは、憲法違反なんだ」
と頑張った。お母さんもそれを聞いて驚き、
「そりゃ大変だ、死刑になるかも知れない」
と、翌日村長さんのところへ飛んで行った。
何がどうなったのか、村長さんは夜、家に封筒を持ってやって来た。
その中には大学の三年分の学費が入っていた。
・・・・・・・・。
大江健三郎さんの人生で最も大きい変化は
日本に新憲法と教育基本法ができたことだ、ということは頷ける。
その大江さんにとって、人生第二の大きい変化は、
2011年3月の福島原発事故だと言う。
概要を書きとめると次のようなことだった。
「福島原発事故を忘れない。
忘れることができるようなことではない。
福島の事故を、私たちはまだ、償っていない。
人間社会にとって、『重要な』(インポータント)という意味よりもっと深い、
『本質的』(エッセンシャル)な意味でのモラルがないということは、
今、自分たちが生きている土地で、
これから将来の若い世代が生き延びることができないという状態だ。(註)
私たち日本国民は、福島の運命は自分たちの未来の姿だと認識していない。
今生きている場所のいくつかは、もう暮らすことができない。
それを子どもたちに渡すということは
本質的にモラルがない状態だ、ということだ。
・・・・・・・・・。
日本の国のしくみが根本的に変化したと受け止め、
日本人が、人間の新しい態度を決めたら、世界中の人々も共に行動するだろう。
これからの『新しい本質的なモラル』を決めたら…。」
註)「本質的にモラルがないということは~生き延びることができないという状態だ。」という表現はミラン=クンデラ氏(チェコ出身作家)が述べた言葉だとことわった上で引用された。
ノーベル物理学賞や文学賞が相次いて発表されている。
毎年文学賞の最有力候補に挙げられている村上春樹は、今年もだめだった。
私は村上春樹が大好きだとは言えないが、
「海辺のカフカ」「ノルウェイの森」「国境の南太陽の西」「1Q84」、
「カエルくん東京を救う」その他短編いくつか、
他にエッセイやスピーチ(「エルサレム賞」「カタルーニャ国際賞」など)を読んだ。
分かりやすい言葉での奇想天外な発想と表現によって
外国人や留学生にも人気があることは納得する。
また、「言葉の職人」と言っては本人が気を悪くするだろうが、
あまりにも見事な言葉による心理描写に心から賛辞を送りたい気持ちで私はそう言う。
毎日、決まった時間身体トレーニングを欠かさないという村上春樹は
(彼自身がどこかの文章に書いていた)、
研ぎ澄まされた言葉の表現トレーニングもその調子で長年鍛えてきたのだろう。
とんでもなく好きではないにしても、読んで何かを感じる作家だ。
しかし、それは小説に限ってのことだ。
彼のスピーチを読むと(あれ?これちょっと…)と思わざるを得ない。
エルサレム賞受賞式での「差別される卵の側に立つ」決意、
カタルーニャ国際賞受賞記念講演の「反核」スピーチ。
一見問題なく賛成できるようだか、
エルサレム賞の場合、
(どこにどう立っているの?村上さん。
あなたの具体的立ち位置が見えません)と私は思った。
また、カタルーニャ賞受賞時の講演に、次のような言葉を見つける。
『我々日本人は核に対する〈ノー〉を叫び続けるべきであった。
それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、
原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、
国家レベルで追求すべきだったのです。
たとえ世界中が
「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」
とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、
核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。
核を使わないエネルギーの開発を、
日本の戦後の歩みの中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、
我々の集合的責任の取り方となったはずです。
日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。
それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。
しかし、急速な経済発展の途上で〈効率〉という安易な基準に流され、
その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。』
(東京新聞2011年8月9日号;「文学者の核・フクシマ論」黒古一夫)
全文はネット検索で読んだり、聞いたりできるが、一例を下に。
http://blog.goo.ne.jp/aran1104/e/8755b1e5fc000b51a38406490eea188a
村上春樹が「我々」「日本人」と言うときの違和感たらない。
何/誰を対象にしているのか、急に言葉の遣い方が乱暴じゃないのか。
戦後、確かに反核運動は
「原子力の平和利用」を唱えるという立場の限界はあったが、
(それは「核」というものへの無知によるものだったのは衆知の通り)
それでも広島・長崎の被爆者の運動をはじめ、多くの日本人が、
反戦・反核を世界に向けて発信し続けてきたことは、
村上春樹先輩より年下の私でさえ、テレビなどで子どもの頃から知っていた。
反核運動を担ってきた人たちを無視しているとしか思えないこのスピーチは、
あまりに無神経で失礼ではないか。
それとも、個と世界との関係のみに腐心するあまり、
彼が現実に存在してきた日本社会の人々や事象については、
全く気が付かなかったのだろうか。
もし、村上春樹が遅まきながら「反核」の重要さに気が付いたのなら、
気付いてから後、彼は何をしたのだろうか。
そして、し続けているのだろうか。寡聞にして私は知らない。
「ヒロシマノート」以来の、文学者大江健三郎の決意と持続的行動を見るとき、
村上春樹の言葉の、あまりの薄っぺらさを思う。
ノーベル賞だって、本当は絶対的な価値を表現するものではなく、
オリンピック大会と同様、政治が大いに関与している。
村上春樹がノーベル文学賞を得ても得なくても、
あまり、て言うか全然、私は喜びも悲しみも湧かない。
むしろ、政治的な意味で、明日のノーベル平和賞の方に関心がある。
アイヌ語で「アイヌ」とは「人間」という意味だが、
〈アイヌコタンでアイヌという言葉はとても大切な言葉で、
行いのいいアイヌだけを「アイヌ」と言い、
病気でもないのに働きもしないで、ブラブラしているような者は
ウェンペ(悪い者)と言うのです〉
と、萱野茂さんは「アイヌ ネノアン アイヌ」の文中、語っている。
和人の松前藩が現在の北海道を侵略する前、
その地は「アイヌモシリ」と呼ばれ、アイヌ人たちの土地だった。
「アイヌ=人間」「モ=静か」「シリ=大地」、即ち「人間の静かな大地」だ。
アイヌの昔話には非常に多くの神々が出てくるが、
人間と神との関係は対等なのが話の内容から分かる。
昨日、少年がシロハリガネムシの神に助けを求めたとき、
「もし、(私を助けないせいで)死んだら、私の屍から出る悪臭は、
霧となって神であるあなたを悩ませるであろう」
と、ほとんど脅迫めいた言葉を発している。
神様も溜まったもんじゃないので、助けに来たが、
その神様の風貌についても、
「そんなに強そうではない若い男」と描写しているのも面白い。
それにしても、ヨモギはすごい。
この地上に一番先に生えた草だとは!(双子葉類で、という意味かな?(^O^))
あの独特の香りを嗅ぐと悪霊が逃げていくというのも納得だ。
頭がスッキリするんだよね、あの香りは。
ヨモギ餅にしても美味しいし~
さあ、あの後少年はどうなったのでしょう。
「二つ頭のクマ」完結編の始まりはじまり。
気がつくと、太陽は西に傾いていました。
姉たちが心配しているだろうと思った私は、何事もなかったような顔をして、
姉たちのところへ大急ぎで戻りました。
姉たちは、
「全く心配をかける弟だ。一体どこへ行っていたの?」
と、私を叱りつけながら、ウバユリを背負って家に帰ってきました。
家でも父や兄たちが、私が家を抜け出し、山へ行ったことを心配しており、
私を連れて行った姉たちが、うんと叱られてしまいました。
父の言うことには、一番末っ子に生まれた私は、神から授かった子なので、
めったに外に出してはいけない子だったということです。
その上、姉たちと私が、人食いグマのいる山の近くに行ったことで、
なお心配していたのでした。
その晩、私は今日の出来事を父たちに一言も話さず寝てしまいました。
ところが次の朝、まだ夜も明けないうちに父や兄たちは、起きてくると、
「昨日の出来事をなぜ黙っていたのだ。
私たちはそれをシロハリガネムシの神様から夢で知らされた」
と言って、太い木の火箸で、私の尻っぺたをぶちました。
「昨日聞かせてくれたら、すぐに神様たちにお礼を言うことができたのに」
と言いながら、父たちはさっそく酒を醸し、イナウを削り始めました。
酒とイナウができると、それをハンノキの神、ヤチダモの神、
シロハリガネムシの神に捧げて、丁寧にお礼を言ったのです。
神は、私が何も知らないうちに、私をして恐ろしいクマに言い掛かりをつけさせ、
私が神々に助けを求めるように仕向けたのです。
こうして神々は、私を使って、見事にクマを退治しました。
その後、私は美しいお嫁さんをもらい、
たくさんの子供に恵まれて、楽しく暮らしていますと、
一人のアイヌが語りました。
文:萱野茂「アイヌ ネノアン アイヌ」(月刊「たくさんのふしぎ」No55福音館書店)
以前書いたことがあるが、私は子供の頃からヨモギがヒジョーに好きである。
江西省のこの風習を聞いてたいへん嬉しく感じたのは言うまでもない。
しかし、ヨモギについての話は
我が故郷北海道にもある。
ヨモギは国境を超えて、人々にとっての特別な草なのだな。
(下の写真は、宿舎の外にちょっとだけ生えていたヨモギと、ヒメジョオン)
―大好きなヨモギが出てくるアイヌの昔話―
(アイヌの人々のウウエペケレ(昔話)より)
「二つ頭のクマ」
父がいて母がいて、大きい姉がいて小さい姉がいて、大きい兄がいて小さい兄がいて、
私は一番小さい男の子でした。
私が山を走り回ることができるぐらいの少年になったころ、
人間6代目ごとに出てくると言われている人喰いグマが、遠くのコタンに出て、
コタンの人たちを攫(さら)っていくという話を、父や兄たちがしていました。
そのクマの姿を見た人はいないので、どんな姿のクマなのか、誰もわからない
ということです。私はいつかそのクマの出るところへ行ってみたいと思いましたが、
誰も連れて行ってくれる人がありません。
そんなある日、姉たちがウバユリを掘りに山へ行くという話を聞きました。
私は誰にも気づかれないように、強い弓と毒を塗った矢を入れた矢筒を、
山へ向かう道の脇に隠しておきました。それから、姉たちが家を出ると、こっそり
ついて行って、途中隠しておいた弓と矢筒を背負うと、姉たちに追いつきました。
姉たちは私を一人で返すわけにもいかず、一緒に連れて行ってくれました。
しばらく行くと、ウバユリが葉と葉を重ねるように生えているところに着きました。
姉たちは私に「ここにいるんだよ」と言うと、そこに袋を置いてウバユリを掘り始めました。
私は弓を持ち、矢筒を背負うと、山へ向かって走り出しました。
姉たちの姿も見えない、声も聞こえないところまで来ると、広い湿地がありました。
何やらゴチャゴチャと歩いた跡があります。よく見るとクマの足跡です。
そこで、ゆっくりと用心深く進んで行くと、湿地の中ほどにハンノキとヤチダモの木が
2本並んでいました。2本の木は、まるで腕を組み、肩を寄せ合っているように見えました。
立ち姿の美しい、見るからに神様らしい木でした。
私はその木の下で丁寧にオンカミ(礼拝)をしながら、
「私は今から恐ろしい人食いグマを退治に行くのです。
立ち木の神様、どうぞ私を守ってください」
と言いました。すると、私の言葉が分かったように、2本の立ち木は枝を震わせました。
なお進んで行くと、湿地のはずれに白いものがうず高く積まれているのが見えました。
近づいて見ると、人間の骨の山でした。古い骨は風雨に晒されて真っ白になり、
新しい骨にはまだ赤い血がついていました。
ここが人食いグマの住処に違いありません。これほどたくさんの人を殺すとは許せない。
退治してやる。そう心に誓いながら近づいていくと、
穴があり、中で何かが動く気配がしました。
私はサッと穴の口の上へ行くと、ドシンドシンと足を踏み鳴らし、大声で怒鳴りました。
「さあ、出て来い、化け物め!どんなわけがあってこんなにたくさんの人を殺したのだ。
たくさんいる神々も、知っていながら放っておいたとすれば許さないぞ!」
すると、穴の中から歯ぎしりの音に混じって、ゴザを編む時に使う小石を袋に詰めて
大地に叩きつけたような、ものすごい足音が聞こえてきました。
「さあ、出て来い!」とさらに怒鳴ると、
その声に弾かれたようにクマが飛び出してきました。
なんと、それは今までに見たこともないクマでした。
前と後ろに頭があって、それぞれの頭の額には、アット゜シ(註)を織る時に使う
ヘラのような角が生えている化け物グマです。
化け物グマは、まっすぐ私の方へ向かってきました。私は弓につがえていた矢を1本、
ビシッと放ちました。矢はクマの身体に当たったのに跳ね返ってしまいました。
矢の跳ね返り具合を見ると、普通ではありません。
よく年寄グマがすると言われていることですが、
身体に松脂を塗り、土の上を転がって、また松脂を塗る。
そして、今度は落ち葉の上に寝ると、クマの毛が松脂と土と落ち葉で固まり、
鎧のようになって、矢が通らなくなるのです。
こういうクマを倒すには、ただ1ヶ所、足の付け根を狙うしかありません。
そこには松脂が付いていないので矢が刺さるものだと
父や兄が話していたのを聞いたことがありました。
一の矢でしくじった私は、逃げながら追ってきたクマを目がけて、さらに1本、2本と
矢を放ちましたが、やはり跳ね返されてしまいました。
今にも跳びつかれそうになったちょうどその時、向こうの方に、
さっきのハンノキが見えました。私は自分より先に言葉を走らせ、助けを求めておいて、
最後の力を振り絞って、ハンノキに向かって走りました。
追ってくる化け物グマの吐く息で髪も乱れ、背中も熱くなったとき、
ようやく、ハンノキの下に着きました。
「神様、助けてください」と祈りながら下枝に跳びつくと、
足をくるっと枝に巻きつけ、さっと枝の上に立ちました。
追って来たクマは力余って走り過ぎましたが、すぐに引き返して来て木の上を見上げ、
額の角を振り立てて、ハンノキに突き掛かってきました。
1回、2回と、木に角をたてると、木は大きい板や小さい木切れになって飛び散りました。
柔らかいハンノキはたちまち細くなって、今にも倒れそうになりました。
私は隣のヤチダモの木の飛び移ろうとしましたが、ハンノキがグラグラ揺れるので、
なかなかできません。そのうち、ハンノキはメキッメキッと音をたて始めました。
このままでは、いずれ化け物グマの餌食になってしまうと思った私は、
絡まり合っている2本の木の細い枝を足場に、1歩1歩とヤチダモの木へ渡り始めました。
クマはなおも、角を振り立てて板や木切れを飛ばし続けています。
もうこれまでと、私は目をつぶってヤチダモの枝へと飛び移りました。
が、片足を枝から踏み外し、落ちそうになりました。
その足に化け物グマの吐く息がかかりましたが、私は何とか足を枝に絡ませ、
枝の上に立ち上がることができました。
その時、ハンノキがドサアッと倒れました。
化け物グマはいよいよ猛りたって、今度は、ヤチダモの木に向かって突進を始めました。
2度、3度と繰り返すたびに、硬いヤチダモの木も、
根元から割り板のような木切れが飛び散ります。
私は身体を枝にしっかりと巻きつけ、背中の矢筒から矢を抜き、
1本、2本と矢を放ったのですが、矢はクマに当たってもカチンと跳ね返るばかりです。
ヤチダモの根元もだんだん細くなってきました。
矢はとうとう残り1本になってしまいました。
この矢は、矢筒の魂とも、矢筒の守り神とも信じられている矢で、
どんな時でも、最後の最後まで、矢筒に残しておくものなのです。
私はこの最後の矢に全ての望みをかけて、弓につがえ、
まるで綱をつけて振り回されているように動き回るクマの、動きに合わせて、
矢の先を回し、狙いすまして、矢を放ちました。
神の助けもあったのでしょう。
矢は矢羽根も埋まるほど、クマの足の付け根にブスッと刺さりました。
クマは一瞬ひるんだように見えましたが、前より一層勢いを増して突進してきました。
これは、矢に付いた毒の効き目で一時だけ力が増したからです。
このままでは、毒が効いてクマが死ぬまでに、ヤチダモの木が持たない、と思ったとき、
まさか私がそんなこと言うとは思わなかったのに、私の口からこんな言葉が飛び出したのです。
「この湿地を守るために、天の国から降ろされたシロハリガネムシの神よ、
私を助けてください。もし、ここで私が死んだら、私の屍から出る悪臭は、
霧となって神であるあなたを悩ませることでしょう」
すると、白い小袖を重ね着した、あまり強そうにも見えない若い男が、
どこからともなく、ヨモギの槍を持って現れました。
この男が、襲いかかってくるクマを軽く2度か3度、その手にした槍で突くと、
不思議なことに、化け物グマの体は見る見るうちに溶けて、
白骨になって崩れ落ちてしまいました。
クマが溶けるのを見ると、若い男は、すうっと消えてしまいました。
この男こそ、シロハリガネムシの神様だったのです。
あれほど恐ろしい化け物グマを、ヨモギの槍1本で溶かしてしまった
シロハリガネムシの神様の強さに、私はすっかり驚いてしまいました。
それに、ヨモギの効き目にも驚きました。
ヨモギは、一番初めにこの地上に生えた草なので、ヨモギで作った刀や、
槍には、魔力があるとは聞いていたけれど、
これほどの力があるとは思ってもいませんでした。
(続く)
萱野茂 文「アイヌネノアンアイヌ」(月刊「たくさんのふしぎ」福音館書店)
(註)アット゜シ:アイヌの伝統的織物。「ト゜」は日本語にない文字だが、歯を噛み合わせ、舌を上の歯に押し当てて息を吐き出す発音を表す。
「劉連仁(りゅうりぇんれん)」を検索すると下のような文が出てくる。
2000年、87歳まで生きた実在の人物なのだ。
劉連仁が14年間辛酸を舐め、逃避行を続けた北海道は、
私の故郷だ。
私は網走の近くの開拓村で1952年に生まれ、そこで育った。
劉連仁の逃げたその径を、時を経ず子どもの私も歩いたかもしれない。
刘连仁
刘连仁是山东省高密市井沟镇草泊村人,1913年生。
1944年9月的一天上午,刘连仁在村子里被3个日本鬼子抓住,用绳子绑上,用枪押着,离开了故乡。
当时刘连仁的妻子已有7个月的身孕。
他做梦也想不到,这是日本军国主义设计的一条毒计,通过所谓的“移入华工方针”到中国四处抓人,到日本做奴隶。
・・・・・・・・・(中略)
2000年9月2日,刘连仁因癌复发医治无效去世,享年87岁。
http://baike.baidu.com/view/730026.htm
「りゅうりぇんれんの物語」今日は最後まで掲載。
彼の上にそれから十二年の歳月が流れていった
りゅうりぇんれんにとつての生活は
穴に入り 穴から出ることでしかなかった
深い雪に押しつぶされず 湧水に悩まされず
冬を過す眠りの穴を
幾冬かのにがい経験のはてに ようやく学び
穴は注意深く年ごとに移動した
ある秋のこと
栗ひろいにやってきた日本の女にばったり会った
女は鋭く一声叫び
折角の粟をまきちらし まきちらし
這うように逃げた
化けものに出会ったような逃げかただ
りゅうりぇんれんは小川に下りて澄んだ水を覗きこんだ
のび放題の乱れた髪
畑の小屋から失敬した女の着物を纏(まと)いつけ
妖怪めいて ゆらいでいる
これが自分の姿か?
趙玉蘭 おまえが惚れて嫁いできた
りゅうりぇんれんの姿がこれだ
自嘲といまいましさに火照(ほて)った顔を
秋の川のながれに浸し
虎のように乱暴に揺(ゆ)する
俺は潔癖なほど椅麗ずきで垢(あか)づくことは好まなかった
たとえ長い逃避行 人の暮しと縁がなくても
少しは身だしなみをしなくちゃな!
鎌(かま)のかけらを探し出し
りゅうりぇんれんはひっそりと髭を剃った
髪は長い弁髪にまとめ ブヨを払うことをも兼ねしめた
風がアカシヤの匂いを運んでくる
或る夏のこと
林を縫う小さなせせらぎに どっぷり躰を浸し
ああ謝々 おてんとさまよ
日本の山野を逃げて逃げて逃げ廻っている俺にも
こんな蓮(はす)の花のような美しい一日を
ぽっかり恵んで下されたんだね
木洩れ陽(こもれび)を仰ぎながら
水浴の飛沫をはねとばしているとき
不意に一人の子供が樹々のあいだから
ちょろりと零れた 栗鼠のように
「男のくせに なんしてお下(さ)げの髪?」
「ホ お前 いくつだ」
日本語と中国語は交叉せず いたずらに飛び交うばかり
えらくケロッとした餓鬼だな
開拓村の子供だろうか
俺の子供も生れていればこれ位のかわいい小孫
開拓村の小屋からいろんなものを盗んだが
俺は子供のものだけは取らなかった
やわらかい布団は目が眩(くら)むほど欲しかったが
赤ん坊の夜具だったからそいつばかりは
手をつけなかったぜ
言葉は通じないまま
幾つかの問いと答えは受けとられぬまま
古く親しい伯父 甥のように
二人は水をはねちらした
りゅうりぇんれんはやっと気づく
いけねえ 子供は禁物 子供の口からすべてはひろがる
俺としたことがなんたる不覚!
それにしても不思議な子供だ
すっぱだかのまま アッという間に木立に消えた
二匹の狼に会った
熊にも会った 兎や雉とも視線があった
かれらは少しも危害を加えず
彼もまた獣を殺すにしのびなかった
りゅうりぇんれんの胃は僧のように清らかになった
恐いのは人間だ!
見るともなしに山の上から里の推移を眺めて暮した
山に入って二年あまり
畑で働いていたのは 女 女 女ばかり
それから少しずつ男もまじった
畑の小屋に置かれるものも豊かになってゆくようだった
米とマッチを見つけたときの喜びは
ガキの頃の正月気分
鉄瓶(てつびん)もろとも攫(さら)ってきて
山のなかで細い細い炊煙をあげた
煮たものを食べるのは何年ぶりだったろう
じゃがいもは茹でられてこの世のものともおもえぬうまさ
それから更に何年かたち
皮の外套を手に入れた
ビニールの布も手に入れた
だが一年ごとに躰の方は弱ってゆく
十年たつと月日は数えられなくなり
家族の顔もおぼろになった
妻もおそらく他家へ嫁いだことだろう
たとえ生きていてくれても……
どの年だったか
この土地もひどい旱魃(かんばつ)に見舞われて
作物という作物は首を垂れ
田畑に立って顔を覆う農夫の姿が望まれた
遠く 遠く
りゅうりぇんれんはいい気味だとは思わなかった
日本の農民も苦しいのだ
俺も生れながらの百姓だが
節(ふし)くれだって衰えたこの手に
鍬(くわ)を握れる日がくるだろうか
黒く湿った土の上に ばらばらと
腰をひねって種を蒔く
そんな日が何時かはまたやってくるのだろうか
長い冬眠があけ
春 穴から出るときは
二日も練習すれば歩くことができたものだ
年とともに 歩くための日は
多く多く費やされ
二ケ月もかけなければ歩けないほどに
足腰は痛めつけられていった
それはだんだんひどくなり
秋までかかって ようやく歩けるようになった頃
北海道の早い冬はもう
粉雪をちらちら舞わせ
また穴の中へと りゆうりぇんれんを追いたてた
獣のように生き
記憶と思考の世界からは絶縁された
獣のように生き
日本が海のなかの島であることも知らなかった
だが りゅうりぇんれん
あなたにはみずからを生かしめる智慧があった
惨憺(さんたん)たる月日を縫い
あなたの国の河のように悠々と流れた
一つの生命
その智慧もからだも
しかし限度にきたようにみえた
厳しい或る冬の朝のこと
あなたはとうとう発見された
札幌に近い当別(とうべつ)の山で
日本人の猟師によって
凍傷にまみれた六尺ゆたかな見事な男
一尺半のお下げ髪の 言葉の通じない変な男
絶望的な表情を惨(にじ)ませて
「イダイ イダイ」を連発する男
痛い それは
りゅうりぇんれんの覚えていた たった一ツの日本語だった
「中国人らしい」
スキーを穿いた警官は俄(にわか)に遠慮がちになった
りゅうりぇんれんは訝(あや)しむ
何故ぶん殴らないのだろう
何故昔のように引きずっていかないのだろう
麓の雑貨屋で赤い林檎と煙草をくれた
火にもあたらせてくれる「不明白(ぷーみんばい)」「不明白」
ワガラナイヨなにもかも
背広を着て中国語をしやべる男が
沢山まわりを取りまいた
背広を着た同朋なんて!
りゅうりぇんれんは認めない
祖国が勝ったことをも認めない
困りぬいた華僑のひとりが言った
「旅館の者を呼んであなたの食べたいものを
注文してごらんなさい
日本人はもう中国人をいじめることは
絶対にできないのだ」
りゅうりぇんれんは熱いうどんを注文した
頬の赤い女中がうやうやしく捧げもってきた
りゅうりぇんれんの固い心が
そのとき初めてやっとほぐれた
ひどい痛めつけられかただ
同朋のひとびとはまぶたを熱くし
湯気のなかの素朴な男を眺めやった
八路軍が天下を取って
俺たちにも住みいい国が出来たらしいこと
少しずつ 少しずつ 呑込んでゆく頃
りゆうりえんれんにはスパイの嫌疑がかかっていた
いつ来たのか
どこで働いていたのか
北海道の山々をどのように辿ったか
すべては朦朧と 答を出せなかったりゅうりぇんれん
札幌市役所は言った
「道庁の指示がないと何も手をつけるわけにはいかない」
北海道庁は言った
「政府の指示がなければ何も手をつけるわけにはいかない」
札幌警察署は言った
「我々には予算がない 政府の処置すべき問題だ」
政府は この国の代表は
「不法入国者」「不法残留者」としてかたづけようとした
心ある日本人と中国人の手によって
りゅうりぇんれんの記録調査はすみやかに行われた
拉致使役された中国人の数は十万人
それらの名簿を辿り早く彼の身分を証すことだ
スパイの嫌疑すらかけられている彼のために
厖大な資料から針を見つけ出すような
日に夜をつぐ仕事が始まった
「行方不明」
「内地残留」
「事故死亡」
たった一言でかたづけられている
中国名の列 列 列
不屈な生命力をもって生き抜いた
りゅうりぇんれんの名が或る日
くつきりと炙(あぶり)出しのように浮かんできた
「劉連仁 山東(しゃんとん)省 諸城(ちゅうちょん)県第七区紫(ちゃい)溝(こう)の人
昭和十九年九月 北海道明治鉱業会社
昭和鉱業所で労働に従事
昭和二十年無断退去 現在なお内地残留」
昭和三十三年三月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた
罪もない 兵士でもない 百姓を
こんなひどい目にあわせた
「華人労務者移入方針」
かつてこの案を練った商工大臣が
今は総理大臣となっている不思議な首都へ
ぬらりくらりとした政府
言いぬけばかりを考える官僚のくらげども
そして贖罪と友好の意識に燃えた
名もないひとびと
際(きわ)だつ層の渦まきのなかで
りゅうりぇんれんは悟っていった
おいらが何の役にもたたないうちに
中国はすばらしい変貌を遂げていた
おいらが今 日本で見聞きし怒るものは
かつての祖国にも在ったもの
おいらの国では歴史のなかに畳みこまれてしまったものが
この国じゃ
これから闘われるものとして
渦まいているんだな
東京で受けた一番すばらしい贈物
それは妻の趙玉蘭と息子とが
生きているという知らせ
しかも妻は東洋風に二夫にまみえず
りゆうりぇんれんだけを抱きしめて生きていてくれた
息子は十四
何時の日か父に会うことのあるようにと
尋児(しゆんある)と名づけられていた
尋児 尋児
りゅうりぇんれんは誰よりも息子に会いたかった
三十三年四月
白山丸は一路故国に向かって進んだ
かつて家畜のように船倉に積まれてきた海を
帰りは特別二等船室の客となって
波を踏んで帰る
飛ぶように
波を踏んで帰る
なつかしい故郷の山河がみえてくる
蓬来(ふおんらい) 若かりし日油しぼりをして働いたところ
塘(たん)活(くー)
長い長い旅路の終り
十四年の終着の港
ひしめく出迎えのひとびとに囲まれ
三人目に握手した中年の女
それが妻の趙玉蘭
りゅうりぇんれんは気付かずに前へ進む
別れた時 二十三歳の若妻は三十七歳になっていた
りゅうりぇんれんは気付かずに前へ進む
「おとっつあん!」
抱きついた美少年 それこそは尋児
髪の毛もつやつやと涼しげな男の子
読むことも 書くことも
みずからの意志を述べることも
衆よりすぐれ 村一番のインテリに育っていた
三人は荷馬車に乗って
ふるさとの草泊村に帰った
ふるさとは桃の花ざかり
村びとは銅鑼や太鼓ならしてお祭のよう
連仁兄いが帰ったぞう
行きあうひとの ひとり ひとり
その名を思いおこし 抱きあいながら家に入った
窓には新しい窓紙
オンドルには新しい敷物
土間で新しい農具は光り
壁に梅蘭芳の絵とともに
中国産南瓜のように親しみ深い
毛沢東の写真が笑って迎えた
りゅうりぇんれんは畑に飛び出し
ふるさとの黒い土を一すくい舌の先で嘗めてみた
麦は一尺にものびて
茫々とどこまでもひろがっている
その夜
劉連仁と趙玉蘭は
夜を徹して語りあった
一家の消長
苦難の歳月
再会のよろこびを
少しも損なわれてはいなかった山東訛で。
*
一ツの運命と一ツの運命とが
ばったり出会う
その意味も知らず
その深さをも知らずに
逃亡中の大男と 開拓村のちび
風が花の種子を遠くに飛ばすように
虫が花粉にまみれた足で飛びまわるように
一ツの運命と 一ツの運命とが交錯する
本人さえもそれと気づかずに
ひとつの村と もうひとつの遠くの村とが
ぱったり出会う
その意味も知らずに
その深さをも知らずに
満足な会話すら交せずに
もどかしさをただ酸漿(ほおずき)のように鳴らして
一ツの村の魂ともう一ツの村の魂とが
ばったり出会う
名もない川べりで
時がたち
月日が流れ
一人の男はふるさとの村へ
遂に帰ることができた
十三回の春と
十三回の夏と
十四回の秋と
十四回の冬に耐えて
青春を穴にもぐつて すっかり使い果したのちに
時がたち
月日が流れ
一人のちびは大きくなった
楡の木よりも逞しい若者に
若者はふと思う
幼い日の あの交されざりし対話
あの隙間
いましっかりと 自分の言葉で埋めてみたいと。
(附記)
資料は欧陽文彬著・三好一訳『穴にかくれて十四年』(新読書社刊)に
よっています。
日本・満州・中国を中心とする対等な国家連合を実現させるものだった。」
という主張をしている人がいる。
こういうのを恐るべき厚顔無恥、恥知らずというのだ。
「1945年8月、広島・長崎に原爆が投下され、それによって日本が降伏した」
と学校の歴史で学んだマレーシアの少年は、
心から(原爆が投下されて本当によかった)と思ったという。
旧日本軍は、中国、朝鮮のみならず、マレーシアの人々にも、
今もなお憎まれている事実を私たち日本人は痛みを持って知らなければならない。
もう、そろそろ、アジアの国々で日本軍がやったことを正視し、
ごまかしたり美化するのをやめて、正しく決着をつけたい。
日本近現代史をきちんと勉強して、事実を受け止め、
日本人として清々しく生きたいものだ。
もし、自分が時代と空間を変えて中国に生まれていたら、
りゅうりぇんれんか、新妻の張玉蘭だったかも知れない。
自分に都合のいいことばかりが真実だと思いたいがそうもいかない。
「りゅうりぇんれんの物語③」茨木のり子
空気にかぐわしさがまじり
やがて
花も樹々もいっせいにひらく北海道の夏
逃げるのなら今だ! 雪もきれいに消えている
りゅうりぇんれんは誰にも計画を話さなかった
青島で全員暴動を起す計画も洩(も)れてしまった
炭坑へ来てからも何度も洩れた
煉瓦(れんが)をしっかり抱きしめて
夜明けの合図(あいず)を待っていたこともあったのに……
りゅうりぇんれんは一人で逃げた
どこから
便所の汲取口(くみとりぐち)から
汚物にまみれて這(は)い出した
このときほど日本を烈しく憎んだことがあったろうか
小川でからだを洗っていると
闇のなかで水音と 中国語の声がする
やはりその日逃げ出した四人の男たちだった
五人は奇遇を喜びあった
西北へ歩こう 西北へ!
忌(い)まわしい炭坑の視界から見えなくなるところまで
今夜のうちに
一日の労働で疲れた躰を鞭うって
五人は急いだ
山また山 峰また峰
野ニラをつまみ 山白菜をたべ 毒茸にのたうち
けものと野鳥の声に脅(おび)え
猟師もこない奥深くへと移動した
何ケ月目かに里に下りた 飢えのあまりに
二人は見つけられ 引きたてられていった
羽幌(はぼろ)という町の近くで
らんらんと輝く太陽のした
戦さは数日前に終っていることも知らないで
三人は山へ向かって逃げた
脅えきった野兎のように
山の上から見下ろした畑は一面の白い花
じゃがいもの白い花
りゅうりぇんれんは知らなかった じゃがいものこと
茎をたべた 葉をたべた
喰えたもんじゃない だが待てよ
こんなまずいものを営々とこんなに沢山作るわけがない
そろそろと土を探ると
幾つもの瘤(こぶ)がつらなっている
土を払って齧る うまさが口一杯にひろがった
じゃがいもは彼らの主食になった
昼は眠り 夜は畑を這う日が続く
「おい 聞えたかい? いまのは汽笛だ!
いいぞ! 鉄道に沿っていけば朝鮮までゆける」
なぜ気づかなかったのだろう
海に沿って北にのびる鉄道線を
三人は胸はずませて辿(たど)っていった
夜の海辺を昆布(こんぶ)を拾いながら 齧りながら
何日もかかって 辿りついたところは
鉄道の終点
それはなんと寂しい風景だったろう
鉄道の終点 荒涼たる海がひろがっているばかりだ
稚内(わっかない)という字も読めなかった
ひとに聞くこともできなかった
大粒の星を仰ぎみて 三人は悟った
日本はどうやら島であるらしい
故郷からは更に遠のいたのも確からしい
三人の男たちは
黙々と冬眠の準備を始めた
短い夏と秋は終っていた ふぶきはじめた空
熊の親戚みてえなつらしてこの冬はやりすごそう
捨てられたスコップを探してきて
穴を掘りぬき掘りぬいてゆく
昆布と馬鈴薯と数の子を貯(たくわ)えられるだけ貯えて
三つの躰を閉じこめた 雪穴のなかに
三人の男たちはふるさとを語る
不幸なふるさとを語ってやまない
石臼(いしうす)の高梁(コーリャン)の粉は誰が挽(ひ)いたろう
あの朝の庭にあつた石臼の粉は
母はこしらえたろうか ことしも粟餅を
俺は目に浮ぶ なつめの林
まぼろしの菜林
或る日 日本軍が煙をたててやってきて
伐り倒してしまった二千五百本
いまは切株だけさ 李家荘の
じいさんたちが手塩にかけて三十年
毎年街に売りに出た一二〇トンの棗の実
俺は見た
理由もなく押切器で殺された男の胴体
生き埋めにされる前 一本の煙草をうまそうに吸った
一人の男の横顔 まだ若く蒼かった……
俺は見た 女の首
犯されるのを拒んだ女の首は
切り落とされて背部から生えていた
ひきずり出された胎児もいた
趙玉蘭おまえにもしものことがあったなら
いやな予感 重なりあう映像をふり払い ふり払い
りゅうりぇんれんは膝をかかえた
長い膝をかかえてうつらうつら
三人の男は冬を耐えた 半年あまりの冬を
眩しい太陽を恐れ 痺(しび)れきった足をさすり
歩く稽古を始めたとき
ふたたび六月の空 六月の風あまく
三人は網走(あばしり)の近くまでを歩き
雄阿寒(おあかん) 雌阿寒(めあかん)の山々を越えた
出たところはまたしても海!
釧路(くしろ)に近い海だった
三人は呆(あき)れて立つ
日本が島なのはほんとうに本当らしい
それなら海を試す以外にどんな方法がある
風が西北へ西北へと吹く夜
三人は一般の小船を盗んだ
船は飛ぶように進んだが なんということだろう
吹き寄せられたのは同じ浜ベ
漕ぎ出した波打際(なみうちぎわ)に着いていた
櫓(ろ)は流れ 積んだ干物は腐っていた
漁師に手真似(てまね)で頼んでみよう
魚取りの親爺(おやじ)よ 俺たちはひどい目にあっている
送ってくれるわけにはいかないか
朝鮮まででいい 同じ下積みの仲間じゃないか
助けてくれろ 恩にきる
無謀なパントマイムは失敗に終った
老漁夫は無言だったが間もなく返事は返ってきた
大がかりな山狩りとなって
追われ追われて二人の仲間は掴まった
たった一人になってしまった りゅうりぇんれん
りゅうりぇんれんは烈しく泣いた
二人は殺されたに違いない すべての道は閉ざされた
「待ってくれ おれも行く!」
腰の荒縄(あらなわ)を木にかけて 全身の重みを輪にかけた
痛かったのは腰だ!
六尺の躰を支えきれず ひよわな縄は脆(もろ)くも切れた
ぶったまげて きょとんとして
それからめちゃくちゃに下痢をして
数の子が形のまんま現れた
「ばかやろう!」そのつもりなら生きてやる
生きて 生きて 生きのびてみせらあな!
その時だ しっかり肝っ玉ア据(す)わったのは
1942年当時の東条英機内閣は産業界から人手不足軽減の要請を受け、
「華人労務者内地移入の件」を閣議決定した。
外務省報告書によると、集められた華人(=中国人)労務者の75%が農民で12歳の少年から78歳の老人まで及び、
日本全国の135事業所に38,935人(15歳~60歳位)が送られ、6,830人が死亡していることが記されている。
「中には半強制的に連れてこられた者もいた」と曖昧に責任逃れする表現に、私は怒りを覚える。
りゅうりぇんれん(劉連仁)もその「半強制的」に連れてこられた一人だ。
「半強制的」の「半」とは、「半分は強制的、残り半分は自分の意思」ということだ。
劉連仁は当時結婚した新妻が妊娠7ヶ月の状態だった。
(日本に行って働こうかな)などとただの1%だって思うわけがない。
第一、当時日本と中国は戦争状態なのだ。
中国人にとって、日本はのんびり出稼ぎに行くようなところでは決してなかった。
有名な「花岡事件」は劉連仁と同じ境遇の中国人たちが、
生きて祖国に帰るために起こした反乱とそれへの容赦ない弾圧事件である。
当時の東条内閣で商工大臣として、
この罪深い「華人労務者移入計画」を練ったのが岸信介。
今の自民党総裁安倍晋三の祖父だ。
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「りゅうりぇんれんの物語」を続けよう。
一行八百人の男たちは
青島の大港埠頭へと追いたてられていった
暗い暗い貨物船の底
りゅうりぇんれんは黒の綿入れを脱がされて
軍服を着せられた
銃剣つきの監視のもとで指紋をとられ
それは労工協会で働く契約を結んだということ
その裏は終身奴隷
そうして門司(もじ)に着いた時の身分は捕虜だった
六日の船旅
たった一ツの蒸パンも涙で食べられはしなかった
あの朝……
さつまいもをひょいとつまんで
道々喰いながら歩いて行ったが
もしもゆっくり家で朝めしを喰ってから
出かけたならば 悪魔をやりすごすことができたろうか
いや 妻が縫ってくれた黒の綿入れ
それにはまだ衿がついていなかった
俺はいやだと言ったんだ
あいつは寒いから着ていけと言う
あの他愛ない諍(いさか)いがもう少し長びいていたら
掴まらないで済んだろうか めいふぁーず
運の悪い男だ俺も……
舟底(ふなぞこ)の石炭の山によりかかり
八百人の男たち家畜のように玄海灘(げんかいなだ)を越えた
門司からは二百人の男たち 更に選ばれ
二日も汽車に乗せられた
それから更に四時間の船旅
着いたところはハコダテという町
ダテハコというのであったかな?
日本の町のひとびとも檻褸(らんる)をまきつけ
からだより大きな荷物を背負い
蟻のように首をのばした難民の群れ 群れ
りゅうりぇんれんらは更にひどい亡者(もうじゃ)だった
鉄道に働くひとびとは異様な群像を度々(たびたび)見た
そしてかれらに名をつけた「死の部隊」と
死の部隊は更に一日を北へ―
この世の終りのように陰気くさい
雨竜郡(うりゅうぐん)の炭坑へと追いたてられていった
飛行場が聞いてあきれる
十月末には雪が降り樹木が裂ける厳寒のなか
かれらは裸で入坑する
九人がかりで一日に五十車分を掘るノルマ
棒クイ 鉄棒 ツルハシ シャベル
殴られて殴られて 傷口に入った炭塵(たんじん)は
刺青(いれずみ)のように体を彩(いろど)り爛(ただ)れていった
(カレラニ親切心 或イハ愛撫ノ必要ナシ
入浴ノ設備必要ナシ 宿舎ハ坐シテ頭上ニ
二、三寸アレバ良シトス)
逃亡につぐ逃亡が始まった
雪の上の足跡を辿(たど)り 連れもどされての
烈しい仕置(しおき)
雪の上の足跡を辿り 連れもどされての
目を掩(おお)うリンチ
仲間が生きながら殴り殺されてゆくのを
じっと見ているしかない無能さに
りゅうりぇんれんは何度震えだしたことだろう
日本の管理者は言った
「日本は島国である 四面は海に囲まれておる
逃げようったって逃げきれるものか!」
さっと拡げられた北海道の地図は
凧のような形をしていた
まわりは空か海かともかく青い色が犇(ひし)めいている
かれらは信じない
日本は大陸の地続きだ
朝鮮の先っぽにくっついている半島だ
いや そうでない そうでない
奉天 吉林 黒竜江の三省と地続きの国だ
西北へ 西北へと歩けば
故郷にいつかは必ず達する
おお おおらかな智識よ! 幸(さいわい)あれ!
(続く)
茨木のり子の散文詩「りゅうりぇんれんの物語」を授業で取り上げようというのだ。
日本の友人から託された思いがある。
しかし、それをするには、どうしても学生たちとの信頼関係が前提となる。
今学期、日本文学では、テキストの北京大学出版社発行「日本現代文学選読」に載っている
芥川龍之介「鼻」、志賀直哉「城之崎にて」、横光利一「蠅」を精読した。
それ以外に、自分独自の選択で、
詩や物語の冒頭部分の朗読・暗誦なども試みた。
「祇園精舎」、「君死にたもう事なかれ」、「椰子の実」、「雨ニモ負ケズ」・・・。
その最後に、「りゅうりぇんれんの物語」の朗読をしようと学期始めに考えた。
(もう3年目の節目じゃないか。きちんと伝えるべきことは伝えないと)
と自分の重い腰を非難する心の声が聞こえる。
しかし、読む度に心が固まってしまう。
(授業では無理だ)そう感じた。
学生達との信頼関係はあると信じている。
しかし、きっと、彼女ら・彼らはりゅうりぇんれんの身の上を追体験して心で血を流すだろう。
そう思う。
それだけではない。
事実をもとに書かれたこの詩を読むたびに、自分が日本人であることが痛いのだ。
このブログへの訪問者は圧倒的に日本人が多い(はずだ)。
私はむしろ、まず日本人にこの話を読んでもらいたいと思う。
数回に分けて、茨木のり子さんの了解も得ないまま掲載させていただく。
(もう亡くなっているので著作権がどうなのかちょっとわからない)
「りゅうりぇんれんの物語」 茨木のり子(いばらぎ のりこ)
劉連仁 中国のひと
くやみごとがあって
知りあいの家に赴くところを
日本軍に攫(さら)われた
山東省の草泊という村で
昭和十九年 九月 或る朝のこと
りゅうりぇんれんが攫われた
六尺もある偉丈夫(いじょうふ)が攫われた
鍬を持たせたらこのあたり一番の百姓が
為すすべもなく攫われた
山東省の男どもは苛酷に使っても持ちがいい
このあたり一帯が
「華人労務者移入方針」のための
日本軍の狩場(かりば)であることなどはつゆ知らずに
手あたりしだい ばったでも掴(つか)まえるように
道々とらえ 数珠(じゅず)につなぎ
高密県に着く頃は八十人を越していた
顔みしりの百姓が何人もいて
手に縄をかけられたまま
沈んだ顔を寄せ合っている
「飛行場を作るために連れて行くっていうが」
「一、二ケ月すれば帰すっていうが」
「青島だとさ」
「青島?」
「信じられない」
「信じられるものか」
不信の声は波紋のようにひろがり
連れて行かれたまま帰ってこなかった人間の噂が
ようやく繁(しげ)くなった虫の声にまぎれ
ひそひそと語られる
りゅうりぇんれんは胸が痛い
結婚したての若い妻 初々(ういうい)しい前髪の妻は
七ケ月の身重だ
趙玉蘭 お前に知らせる方法はないか
たとえ一月 二月でも 俺が居なかったら
家の畑はどうなるんだ
母とまだ幼い五人の兄弟は
麦を蒔(ま)き残した一反二畝(いったんにほ)の畑の仕末(しまつ)は
通る村 通る町
戸をとざし 門をしめ 死に絶えたよう
いくつもの村 いくつもの町 猫の仔一匹見当らぬ
戸の隙間から覗き見 慄えている者たち
俺の顔を見覚えていたら伝えてくれろ
罠にかかって連れて行かれたと
妻の趙玉蘭に 趙玉蘭に
賄賂(わいろ)を持って請け出しにくる女がいる
趙玉蘭はこない
見張りの傀儡軍(かいらいぐん)に幾ばくかを握らせて
息子を請け出してゆく老婆がいる
趙玉蘭はまだこない
追いついてはみたものの 請け出す金の工面(くめん)がつかず
遠ざかる夫を凝視し続ける妻もいた
血のいろをして沈む陽
石像のように立ちつくす女の視野のなかを
八百人の男たちは消えた
(続く)