毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

南昌日本語コーナー設立者:博堅(はくけん)さんのこと   2011/02/27(日) No.75

2011-02-27 20:48:39 | 中国事情
 昨日は南昌の八一公園内にある「日語角」即ち「日本語コーナー」に出かけたことを書いた。
今日は、その日本語コーナーを設立した博堅(はくけん)さんについて少し長くなるが触れておきたい。
以下は博堅さん自身が書いた文『父、福島高商外人教師・博棣華(はくていか)について』(大河内敏弘訳/研究誌「季刊中国」No.99)を読んで私が理解した事柄である。(『 』内は引用文)

 博堅さんは1933年、日本の福島県で生まれた。
1924年当時、辛亥革命最中の社会変革に身を投じていたお父さん(博棣華さん:1890年北京生まれ)は権力闘争から逃れるために、お母さん(安熙貞さん)と3人の子どもとともに、当時東京外国語大学の教師であった叔父の導きで日本に渡り、福島高商(現・福島大学経済学部)教授として1944年12月まで20年間教鞭をとっていた。同時に東北帝国大学の講師も務めた。

博堅さんの記憶には、故郷福島で幼き日に過ごした家の思い出がはっきり残っている。

『庭は深々として柔らかな草が萌え、四季折々の花々が絶えず咲き競っている。木々の枝には果物がたわわに実り、秋になると裏庭のイチジクの実がなる。母はそれをもいでは大きなお盆に盛り、私たちに与えた。兄弟姉妹はその甘い果物を味わったものだ。
池には小さな魚が泳ぎ、辺りをかすめ飛ぶ水鳥の姿が点々としている。
朝になると、飼っている秋田犬のラッキーがワンワンと吠えさかり、家中が目覚める。
(中略)夕方になって陽が西に傾く頃、私たちは“夕焼け、小焼け~”と歌いながら家に帰ったものだ。(中略)この上なく幸せな日々だった。』


 しかし、侵略戦争が始まるや日本社会は安泰に暮らす中国人一家をそのまま放置しなかった。

『(福島県)清水村の人々の顔にも笑顔は戻らず、終日「空襲警報」と「警戒警報」のサイレンばかりが鳴り渡っていた。1943年、学校では半日学習、半日勤労奉仕の制度が実施された。
ある日のこと、ガキ大将に率いられた同級生たちが、自転車の歯車を手に、「シナ人、チャンコロ!」とはやしながら私に襲いかかった。こめかみが割れ、血が噴き出し、制服の七つのボタンも引きちぎられた。反撃することは叶わず、涙が止まらなかった。
 家に帰ると、制服制帽の特高がいつも我が家に来ていた。そして「日満は一体であり、共存共栄しなければいけない」と説教する。そのたびに、父の両腕をとって、諸手を挙げて「万歳」を唱えろと強いる。
父はこの凶暴な振る舞いに逆らうことはできなかった。しかし、身体は特高のなすがままに従っていたが、心までは従うことはなかった。』


 1944年12月、戦争はいよいよ烈しさを増し、博堅さん一家を取り巻く状況は厳しさの極みに達した。福島大学の先生の説得で一家はなすすべもなく、中国に帰国する。博堅さんが11歳の時だった。

 ひとまず、既に帰国していた長兄の居る北京に落ち着き、博堅さんは城北小学校東城第二小学校という日本人学校に通う。その学校には日本人をはじめ、満州人や蒙古人、朝鮮人などが通っていた。
その後、1945年3月、一家は上海に向かう。
そこで、お父さん(博棣華さん)は鉄道管理局参事に任ぜられ、併せて華北交通大学学長も務めた。

 その年1945年8月、日本が降伏した。
降伏後日本軍岡村将軍は蒋介石の国民党と密約を結び、日本軍の一部を国民党軍の援軍にあたらせた。それと交換に他の日本軍は無罪放免を言い渡されて無事に日本に帰ることができた。その経緯は、映画「蟻の兵隊」でも詳しく語られている。
また、軍人たちがさっさと引き上げた後、取り残された満蒙開拓の民間人たちは「死の彷徨」とも言える半年以上にも及ぶ行程を彷徨い続けることになる。(映画「嗚呼満蒙開拓団」)現在、中国からの帰国者として大阪に住む西本澄さん(仮称)は、10歳でその彷徨の群れにいた。彼女はその時何人もの人が死んでいくのをすぐ傍で見続けた。機会があれば彼女の話も聞いて欲しい。

 ずる賢く利権をむさぼる者たちの陰で、どれほどたくさんの人間の生が簡単に踏み潰され、無意味に捨て去られたことだろう。辛くも生を確保できた者たちも、多くはその後死ぬまで憤怒と虚無感にまみれていた。
また、今を生きる多くの生存者の心と体には戦争の傷が癒えることなく残っている。これは、日本人も中国人も、朝鮮人も、どこの国の人も同じだ。歴史が心と身体に刻まれているのだ。我が親たちの世代のしたことだ。忘れることはできない。

 『1946年1月から7月にかけて、父・博棣華は、自分の職場の華北交通大学の教室や教職員宿舎を開放し、内蒙古から日本へ復員する日本人難民が故国へ帰る船を待つ間、食事と宿舎を提供した。
自らの危険を顧みず、人道主義の精神と日本での生活で庶民から受けた友好的な厚意に答えるために行ったことであった。
日本人難民は帰国に際して父の手を握り涙を浮かべて別れを告げた。こうして約600名が天津の溏沽港から故国へ向かった。
この行為で(中略)、1946年8月、父は逮捕され入獄した。当時私は13歳になったばかりだった。父の獄中生活の間、三姉・慧と私は、毎日監獄の父に食事を運んだ。監獄の花模様のガラス窓にかすかに映る父の後ろ姿については、語る言葉もない。』


 同年9月、博堅さんのお父さんは無罪釈放された。しかし、その時の過重な苦労が原因で病を得、精神的にも打撃を受けて痴呆になり、1949年11月に亡くなった。埋葬された北京郊外の墓は文化革命の時に壊され、遺骨は散逸して今は無い。
 お母さん(安熙貞さん)は1966年11月、文化革命中に江西省南昌市で逝去した。その遺骨は現在は日本の鎌倉に埋葬されている。

 博堅さんが南昌市に日本語コーナーを設立したわけが、少し分かった気がする。博堅さんは現在もご健在で、毎年1、2度は南昌を訪れるそうだ。
凛とした美しい精神を持つ人が、国を問わずいる。たくさんいる。 
 
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八一公園の日本語コーナー    2011/02/26(土) No.74

2011-02-26 17:37:56 | 中国事情
 南昌市内に八一公園という大きい公園がある。地元の人たちが太極拳をしたり、子どものお絵かきコーナーがあったり、飴細工屋さんが鳥や蝶の形の飴を鉄板で上手に作り、売っていたりする地域密着型のホッコリした公園だ。
そこに『日語角』(=日本語コーナー)という一角がある。長年続いている由緒ある日本語の青空教室だ。博堅さんという日本と深い関わりを持つ中国人が、30年も前に公的手続きを経て八一公園に場所を確保し、今まで何人ものエリート通訳者を育てた実績を持つという。もちろん無料だ。日本語が堪能な中国人や日本人ボランティアが教師役を務めている。

 今日、3人の2年生を連れて久しぶりにその日本語コーナーに出掛けた。
昨年秋に2度ほど2年生と共に行く約束をしていたが、そのたびに日本領事館から「反日デモ注意報」みたいなのが出て、出掛けるのを控えた経緯がある。
2年生も来週の土日から副専攻の授業が始まるので、土日の日本語コーナーに参加するのは今日が又とないチャンスだった。曇りだったが気温は20℃前後の暖かさ。まさにお出かけ日和だった。
私は自分の部屋が寒いので、ついいつもの癖で背中にカイロを二つも貼り、ダウンコートを着て出て行ったが、歩き始めてまもなく自分の判断ミスに気がついた。すぐにカイロを剥いだがちょっともったいなかったな~。

 今日初めて参加する3人はワクワクして朝から落ち着かなかったとのこと。9時に寮を出て私の所に来、一緒に30分ほどバスに乗って市内に行き、さらに15分歩いてようやく目的地にたどり着いた。その時既に11時前。2時間弱かかって行ったことになる。かなり不便なので毎週行こうと誘うのはちょっとためらわれる。
しかし、行っただけのことはあった。他の大学の学生や日本人の先生と話をする機会があまりない彼らは、とても張り切って話をしていた。私も久しぶりの参加で懐かしい人にも会え、ヨカッタ、ヨカッタ。

 12時に解散した後、3人と公園内を散策したり、飴細工を買って食べたり(学生におごってもらった)、近くのお寺を参拝したりと、ちょっぴり観光気分を味わった後、安い食堂でお昼ご飯を食べて帰ってきた。

 帰りのバスが、待っても待っても次々と満員で乗れず、結局タクシーで帰ることになった。降りるとき私が払おうとすると、もう学生が払ってしまっていて、いくら説得してもお金を受け取ろうとしなかったのが今日、唯一の後悔点だ。乗るときに払っておく訳にもいかんしなあ~。タイミングがなあ~。
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朝8:00からの授業はつらい・・・    2011年2月25日(金)  No.73

2011-02-25 19:03:54 | 中国事情
 「眠い、辛い、嫌だ」と学生たちが訴える一校時目(8:00)からの授業が、とうとう割り当てられた。一学期はラッキーなことに、私の受け持ちは全て三校時以降だったので、(来るべきものが来たか)とガックリした。できれば来て欲しくなかったなあ。

 (思えば今までは、温泉に浸かっているようなのんびりした時間割だった)と今日、しみじみ分かった。
今朝は7時半のスクールバスに乗るために、6時に起床した。いつもより1時間弱早い。
6時に起きるためには5時半ごろから何度も携帯で時刻を確認し、(あと10分、あと3分)と布団の中で粘る。6時になったのを確認して、スゴスゴとベッドを離れ、カーテンを開けたり、トイレに行ったり、と朝の用事をするのだが、一つ一つの動作が何かだらだらしていつまでも目が覚めない。

 7時半のスクールバスは、いつもの8時半のに負けない混み具合だった。運転手さんは初めて見る顔だ。
乗客も8時半の人々とは全く違う顔ぶれ。外国人教師宿舎で1、2度挨拶を交わしたことのあるアメリカのアイダホ出身とエジプト?出身の二人も同乗していた。みんなこんな朝早くから働いていたんだなあ。

 バスはかつて乗ったことのあるものだった。何故分かったかというと、運転手席後方の窓が開きっぱなしで、強風がビュンビュン入って来る。この窓は以前から壊れていて閉まらないのだ。
だから最も風にさらされる席は空くことが多い。(ラッキー!この席空いている)と座ってから事態が分かるということだ。今日の私もそうだった…。
いつになったらこの窓を直すのだろう。他にも、座ろうとすると後ろにひっくり返るという怖いシートのバスもあるし、天井の開閉用小窓が取れていて常に青空状態、雨が降ったらその辺のシートが水浸しになるというのもある。ボロなのばっかし。しかし、お客は文句一つ言わない。
以前、一回だけ信じられないくらい新しくて豪華なフワフワクッション座席のバスに乗れたことがある。あれは何だったんだろう。何でもいいからもう一度ぐらい乗りたいものだ。

 一時間目は3年生の「ビジネス作文」。新進気鋭のはずの3年生も、やはり一時間目は目が半開きで欠伸ばかりしている子が何人もいる。中には7時半に起きて、ちゃんと普通に席に着いているという子もいて感心した。ここぞと「日本の大学は9時前からの授業はまずない。」と言って羨ましがらせた。
中国の学生たちは日本の大学生の授業時間の少なさを羨望の目で見る。夜(と言わず昼からでも)、アルバイトできるということも。彼らは、自分の家族が無いお金を工面してくれていることを十分すぎるほど知っているので、できることなら毎日でもバイトしたいと言う。
しかし授業で一杯いっぱいの彼らができることは、ひたすら勉強することだけだ。
彼らは合い言葉のように、
「とにかく今は頑張るしかありません。」と言う。

 私も、この「眠い、辛い、嫌だ」の一校時からの授業を、あと15回はとにかく頑張るしかない。
 
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今日のビジネス日本語は「身だしなみ」  2011/02/24(木) No.72

2011-02-24 14:25:37 | 中国事情
 2学期初めての3年生の授業。今学期から3年生は「ビジネス日本語」と「ビジネス作文」のクラスを受け持つ。「日本文学」の教科書は上・下2冊もあるのに、上の半分も終わっていない。もったいないこと。
自分の興味からしても、「加工貿易」だの「ファーム=オファー」だのより、よっぽど日本文学の方が楽しい。しかし、この学校は「財経大学」という名前がついているので、ビジネス関係の科目が売りなのだそうだ。

 文句を言う余地はない。早速、今日から「ビジネス日本語」の授業に入った。教科書の各課の初めに『コラム』があって、日本社会のマナーを紹介している。今日のコラムは「第一印象が大切」というものだった。
 
 『普段はジーンズに長髪を染めている学生も、就職活動や面接では、髪を黒く染め、男性は紺や灰色のスーツにネクタイ、女性もスーツを着用することが一般的であり、コートを着たまま椅子に座ったり、足を組んだりしてはいけない。』と書いてある。
 常識がイマイチ分かっていない私は(よく知っているなあ、この本)と思い、表紙をみると、出版社名は「南京師範大学出版社」、編者は羅萃萃、阿部誠。この教科書のように、日本語学科の教科書は著者・編者に日本人・中国人が名を連ねているのがほとんどだ。
例外は「みんなの日本語」(スリーエーネットワーク編←日本の会社)。これは多くの国の翻訳本があり、世界中で使われているそうだ。確かに使いやすくて良い本だと思う。

 本文に戻るが、「コートを着たまま椅子に座ってはいけない」とあるのは、とても中国的な注意だと思う。何しろ、授業中はもちろんのこと、宿舎に遊びに来ても、台所で料理を作っていても、みんなひたすら着ている。何故ならば寒いからだ。
日本で家を訪問したり、建物に入ったりしたときコートを脱ぐのは、
①暖房設備が整っている 
②もともと暖かい土地だから
という理由だろう。
露西亜の人々はどうかしら?暖炉が部屋全体を暖めて、みんなセーターだけでゆったりしているのかな?
同じ中国でも東北地方(黒竜江省・吉林省・遼寧省)などではスチームで部屋全体を暖めているので家の中は本当に暖かい、と帰国者の方々から聞いている。
ということは、冬の中国で一番建物の中が寒いのは揚子江以南の亜熱帯地方かも…。

 更に私は身だしなみに付け足して、男性の『鼻毛』は「ズ~ッタイ、ダメだから~!」と念を押してあげた。なぜか分からないが、男子学生の中に鼻毛が気になる子が、ちょこちょこ見られるからだ。女子学生たちは激しく拒絶反応を示すのに、何故中国の男の子たちはそれほど気にしないのだろう。「ガールフレンドが遠のいていく。」とも教えてあげたので、今度から男子学生同士で注意しあってくれたら幸いである。

 
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Yahoo!JAPAN回復    2011年2月23日(水)  No.71

2011-02-23 21:23:41 | 中国事情
 いつインターネットに繋げなくなるか、いつも心配しながら毎日パソコンを起動する。
今日は快調な方だった。ダウンロードがかなり遅いのは、このネットワークを共有している人たちがたくさん使っているからなのだろう。
油断できないのはそれ以外の力が働いて「INTERNET EXPLORERではこのサイトは接続できません」と表示されることだ。
今日は「ジャ○○○革命」を検索してみた。ここ江西省では規制されていない。写真もいろいろ見ることができた。
それにしても、こんなことばかり気にして暮らすのは本当に精神に負担がかかる。クサクサしっぱなしだ。口数も減るってもんだ。
ずっとここで暮らしている人たちはたいへんだなあ・・・。
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二学期が始まった      2011年2月22日(火)  No.70

2011-02-22 17:28:39 | 中国事情
 今日から二学期の授業が始まった。
実は大学の授業は昨日の月曜日から始まっているが、私の担当する科目は今学期、火曜日、木曜日、金曜日にしかないのである。めちゃ気楽なのであ~る。

 学期が始まるや、いつもの目覚まし放送も再スタートした。朝6:45になると、男性と女性の声が拡声器からこのキャンパス全体に鳴り響き、音声のBGMには非常に力強い中華人民共和国国歌(多分)が流れる。静かな朝は去りぬ。ハア~。

 今日の授業は3,4校時なので8:30にこの本部キャンパスから麦廬園キャンパスまでスクールバスに乗っていった。
(勝手知ったる生活がまた始まったんだ。一学期の初めは何も分からないのに、我ながらよく平気で暮らしていたものだわ。でも今回はかなり慣れてるし~)などと余裕でバスに乗ると、IDカード(支払いカードにもなっている)を入り口の機械にかざし忘れて通り過ぎてしまった。
数分後、ハッと気がつき、口をついて出た言葉は何故か「Sorry, I forgot that!」
8:30の運転手さんは優しい。黙ってニッコリしてくれた。
それにしても「対不起、我忘了。」ぐらい中国語で言いたい今日この頃だ。青木老師の中国語会話でとっくに習っていたのに~。

 今日は、私専用の控え室に提供してくれた麦廬園の資料室のカギも宿舎に忘れていき、しょうがないので図書館のロビーで授業の準備をした。(どこが「かなり慣れてるし~」やねん…。とほほ

  一年生の会話の授業は、今学期から教科書を換えてもらった。今度のは本当に勝手知ったる「みんなの日本語」だ。文法のおさえもしやすいし、練習量もかなりある。やりやすくてほっとした。
というわけで、さあ,今学期もがんばるぞ~!
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わ~い、南昌に春が来た~!!   2011年2月21日(月) No.69

2011-02-21 18:48:47 | 中国事情
 最高気温14℃-最低気温6℃。ああ、南昌にも春は来るんだなあ。
今日の散歩は、キャンパス内の中国銀行経由(2台のATMのうち1台が支払い機能停止なのを確認)して、「下露」というバス停まで暖かい日差しを楽しみながら歩いた。
歩いたと言ってもたった5分ほどのところだ。

 下露のバス停前には「中国人民解放軍空館」と看板のかかったバンとした建物があり、入り口は監視員が立っていた。この建物に限らず、多くの立派な建物の入り口には踏切の遮断機のようなものがあり、その横で守衛さんが出入りをチェックしている。
私の勤務先の大学もそうだし、学校関係はおそらくどこもそうだと思う。

 人民解放軍の建物の道路を隔てた向かい側には江西財経大学付属中学校がある。ちょうど、生徒たちが運動場にゾロゾロ出て来ているときだったので、柵の外からしばらく眺めていた。一番手前の列に並んでいる子たちはどう見ても小学校低学年に見える。

 そのうち音楽に合わせて始まったのは、やっぱり体操だった。日本のラジオ体操と似たり寄ったりだが、全く違うのは子どもたちや先生たちの服装だ。みんなてんこ盛りに着込んだまま、「イー、アール、サン、スー…」と身体を動かしている。(今日みたいに暖かい日でもこれかあ)と感心した。

 大阪では真冬でも、寒イボだらけの半袖体操服姿を子どもに強制していた。きっと今年もそのままやっているのだろう。登校時にマフラーはだめ、手袋もだめ、という大阪方式には、私は教員になってから辞めるまで馴染めなかった。何しろ故郷北海道では、「なぜ耳当てをして来なかったんだ!」と先生に怒られる土地柄。手袋をはめないなどもってのほかだった。
(このモコモコに着込んだ体操姿を見ると、大阪の先生たちは何と言うかな)と、ちょっと面白かった。
体操時間は5,6分で終わった。中学校のグラウンドに小学生と中学生が集合して体操をしているのだが、小学校にはグラウンドがないのだろうか。

 終わってさっさと教室に戻るかと思えば、大勢が校門のすぐ内側横に向かう。何があるのか知りたくなり、私も行ってみた。そこには小部屋があり、子どもたちが押し合いへし合い入っていく。門の外からガラス窓越しに見えたのは、パンや飲み物を選ぶ子どもたちの姿だった。おやつを買っているようだった。
何もかも日本の(=関西の)学校に比べて、のんびりしている。
「渡日の子の教育」とかが、大阪市で教育課題に上がっているが、この風土の違いも頭に入れたほうがいいんじゃないかな。大阪の学校って微に入り細に入り、決めてあげるんだよね。いらんお世話的なこともたくさんあると思う。

 午後から、楼さん(範さんが「楼さんと私とどちらの目が細いですか」と聞いたヒトです)、郭さん、2人の一年生が遊びに来た。楼さんはよく一年生の世話をしていると思ったら、大学が募集した月100元のアルバイト(一年生のためのアドバイザー)だそうだ。
 
 昨夜ぐらいから、Yahoo JAPAN!に繫がりにくい。こういうことがある度にハラハラする。インターネットは生活必需品なのだ。

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それでも、日本人は「戦争」を選んだ  2011年2月20日(日)  No.68

2011-02-20 21:20:48 | 中国事情
 「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子著:朝日出版社)を読んでいる。
すごい本だ。引き込まれる。加藤陽子さんのような学者に出会うと、「学者」という仕事が大切に思える。
日本人として、読んで辛い本でもある。しかし、それを越えてとてもおもしろい!

 日中の近現代史上のあの事件、この戦争を当時の日本の為政者や普通の人がどうとらえていたのか、加藤さんが当時の当事者の手紙や書物などの資料を克明にたどり、実証すればするほど、日本人の一人としてトホホ感が溢れる。が、実証を通して史実を確認し、嘘じゃない歴史を語る爽やかさがこの本にはある。嘘じゃない歴史こそ、未来につなげるために必要なものだ。

この本は、中学生・高校生からなる「歴史クラブ」の生徒たちに講義する形をとって展開している。
彼女が生徒たちに投げかける質問の、なんと核心をついていること!そしてまた、受講している子どもたちがそれに対して食い下がるのなんの!!丁々発止とはこのことなり。(ああ、私もこの授業に参加したかったわい!)

 本のしょっぱなから「アメリカにとっての9・11と、日本にとっての日中戦争の類似性」という提示。それは見事な視点としか言いようがない。

 加藤さんは、2003年にアメリカがイラクに対して「問答無用、成敗してくれる」と強権露わに侵略していった、あの記憶に新しいイラク戦争と、1937年、廬溝橋事件を突破口にまたたく間に全面戦争に突入したときの日本の態度が同じだという。

 どういうことかというと、当時の首相(「ものすごく家柄の良い近衛文麿」と文中にあり、ちょっと面白かった)は、「国民政府を相手とせず」と、戦争の相手国なのに眼中に入れないでどうするみたいな発言をしていたとのこと。
その意味は、「今事変は戦争にあらずして、報償なり。報償のための軍事行動は国際慣例の認めるところ」なのだそうだ。
しかし、加藤陽子さんは、「報償というのはもっともっと軽い意味であり、当時の国際慣例で容認されるのは、例えば相手国が条約を守らないといった場合に容認される対抗的な実力行使とは、相手国の貨物や船舶を抑留する、留めてしまって困らせるといったもの」だとし、「1937年8月から本格化した日中戦争が報償の概念で認められる範囲の実力行使であったはずがない」と指摘する。

 アメリカの大国主義に対して、(何故お前が1番えらいと思うんや!)と腹立たしい気持ちがあるが、それと同じことを日本が、中国や当時の朝鮮に対して何度も何度も行っている。
その事実を詳細に知れば、いくら過去の歴史であると言っても、ちょっと頭がクラクラする。
少し深呼吸して、整理しなければ…。
なにしろ明後日から、中国の大学生相手に授業をする身なのだ。ス~、ハア~~。

 まだ最後まで読んでいないが、高校生も読める軽いタッチのこの重い本、「買って良かった本」今年前半No.1かも。
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3年生3人娘来たる    2011年2月19日(土) No.67

2011-02-19 19:33:04 | 中国事情

 黄さん、範さん、劉さんの3人が宿舎に来た。
1ヶ月で3人とも少し顔が丸みを帯び、愛らしさに拍車がかかっていた。
そして驚いたことに、切れ長な一重まぶただった範さんの目がくっきりはっきりの二重まぶたに変化していた!

 思えば彼女は昨年12月ごろ、真剣な口調で、
「先生、正直に言ってください。私と楼さんとどちらの目が細いですか。」
と聞くので、私は正直に「どっちも同じぐらい細い。」と答えていたのだった。

 (まさかその時のことが原因では…)とさりげなさを装いつつ聞くと、
「実は大学に入る前に母から勧められていたんですが、私は大学で勉強するうちに二重になるから、と先延ばししていたんです。でも、一重のまま3年生になってしまいました。」
と訳の分からないことを言う。

 以前、授業で芥川龍之介の「鼻」の主人公禅智内供に手紙を書いたとき、圧倒的に多くの子は「親からもらった顔に誇りを持つべき」だの「美の基準は時代により変化するものだ。絶対的じゃないので気にするな」だの書いていた。一人、劉さんだけが「内供さん、私が連れて行くから病院で手術を受けましょう。現代は医学が発達しているから、心配要らない」と書いていたのだ。

 望まれる答え方をしようという態度(日本で言う「優等生的態度」)も感じたものの、それ以上に中国の人々の価値観を垣間見た気になっていたが、案外そうでないのかも知れない。

 「古代に優勢を誇ったアジアの価値観は、19世紀からこっち値打ちが下がった。西洋の時代なのだ。」と誰かが言っていたが、この切れ長一重まぶたからパチクリ二重まぶたへの移行はそれを表しているのだろうか。確かに、西洋系のパチクリ二重の人が、わざわざ手術してアジア系一重まぶたになった話は聞かない。
でもちょっと古いけど韓国映画「風の丘を越えて~西便制~」で主演していた彼女や、田中裕子さんなどを挙げるまでもなく、一重まぶたで(美しいな)と思う人はたくさんいるのに…、と感じるのは少数派なのだろうか。
私は狐目の妖しい雰囲気が好きだ。あ、狸目も可愛いけどね。とても。

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ほっ、 あったかい日    2011年2月18日(金) No.66

2011-02-18 19:40:55 | 中国事情
 天気のことばかり気になる。
とにかく寒いのが嫌だから~。今日は曇りのち晴れ!
気温が10℃にもなった。これくらい暖かいともう気持ちも伸び伸びして、洗濯、散歩、買い物と何でもやったるで~、というふうに人生が明るくなる。

 今日は、学生たちもキャリーバッグを引きずって続々と戻ってきた。郊外の街が一気に活気づいた感がある。学生たちの顔を見ると、なんか呑気で可愛い子達ばかり。「お帰り~!待ってたよ~。」などと言いたくなる。自分も3日前に戻ったばかりなのに。

 夕方5時半過ぎに宿舎を出て、昨日に続き、本部キャンパスの北部を探索した。広いのでまだ全体が把握できないが、どうも大きな池が二つあるようだ。昨日の池とどう見ても同じには見えないので、そういう結論に達した。

 メチャクチャに歩いていくと、見覚えがある並木道に出た。地下の野菜市場に行く道だ。
久しぶりに階段を降りると、今日は出入り口付近でいつも居眠りしながら砂糖か何か白い粉を売っているお姉さんはいなかった。
もう薄暗くなっていて、ときどき足下が野菜くずでズルッと滑る。裸電球で明るく照らされている並びの店で、
みずみずしく立派な大根1本
   超長茄子を1本
   生姜を1つ
反対側の薄暗い方の端っこで売っているお姉さんから
   白菜中サイズ1個、
   超新鮮キュウリ2本買った。
全部合わせて11元だった。そんなに安くはない気がする。
 いつも行く「全家百貨」の野菜はここの市場に比べ、鮮度が低く、大根などは少ししなびている。その代わり重くないので安い。

 帰り道、(これからは野菜中心の食事を心掛けよう。この市場はちょっと遠いけど、1週間に1度は来よう。みんな農家の人たちばかりだ。どうせ買うなら農家の人に少しでも儲けてもらおう)と思った。
私の両親も農民だ。我が母も私が小学生のときは、痩せて鎖骨が浮き出ていた。そのころ家族で撮った写真があるが、私は情けない子だったので、父も母も貧相だなあと思っていた。南昌に来て、農家の女性を見かけるとその写真の母がいつも重なる。
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散歩と買い物    2011/02/17(木) No.65

2011-02-17 15:16:12 | 中国事情
 今朝まで雨が残り、午前中は底冷えのする天気だったが、昼過ぎになると地面が少しずつ乾いてきたので、一昨日以来初めて外に出た。さすがに日本から来たときのような膨れあがった格好は恥ずかしかったので、ズボンもダウンコートも1着ずつにした。
腰と背中にカイロを貼り付けて出発。

 今日は宿舎のあるキャンパスの北部を30分ほど歩いた。一昨日は学生の姿が全く見られなかったが、今日はボチボチ荷物を持って学生たちが寮に戻ってきている。早くもカップルで散策する姿を少なくとも20組は見かけた。来週にはもうこの辺りは学生だらけになる。屋台や食堂などの店は、まだ正月気分が抜けないのと、開けても客がいないのとで、まだ多くは閉めている。ときおり、店の前でペンキをぬったり、修理したりする姿も見られた。とてものどかだ。

 北部の半分くらいを廻って正門付近に戻り、キャンパス内の中国銀行ATMでお金を引き出した(1/15にあったクリスマスツリーはさすがに消えていた)。
もう800元以上の金額を一度に引き出すような無謀なことはせず、地道に800元を引き出す操作を数回繰り返した。
 
 以前初めてこのATM機を使ったときは、英語の音声がやけに大きく感じられて、思わず辺りを見渡すと、やっぱり遠くから職員がじっとこちらを見ていた。その時、後ろに並ぶ人が来たので、そこそこに操作を止めると、なんと並んだ人から「Thank you.」と言われたんだった。中国に来てこうした場面でそんな言葉を言われたのは初めてなので、(おお!)と思った。

 「中国人同士ならそんな時、絶対に『謝謝』なんて言いませんよ。中国人は外国人に優しいんです。」と我が日本語学科の学生が言う。
確かにそう思う。いつも行くスーパー「全家百貨」のレジ係の若いお嬢さんも、私には買った品物を袋に入れるのをよく手伝ってくれる。みんなに同じことはしていない。
ま、私が愛想良くニッコリ微笑んだりするお返しかも知れないけど。
(て言うか、ただモタモタしていて次の作業の邪魔だからかも…
時々、えらそうな態度のおっちゃん客がいて、顎で指図したり、大声で高飛車に言う(少なくともそう聞こえる)のにも、泣きもせず堂々と渡り合っている。鍛えられている娘さんたちだ。

 今日、客がほとんどいない店内で小さくて美味しい江西省特産のミカンを選んでいると、女性店員たちが強い口調+大きな声で言い合いを始めた。他にわずかいた客が、苦笑いしている。その言い合いは、私が10分ほど店であれこれ選んでいる間、断続的に続き、レジで54.2元支払ったちょうどその時、爆発的大声になった。
ああ、中国語が分かったら喧嘩の内容が分かるのに~~。

[写真の解説]
(上から順に)
①1/2: 2年生が来て火鍋や炒め物を作ってご馳走してくれた。台所でもコートは着っぱなし。もちろん食べるときも。

②③2/16:書斎に何でも持ち込む。②のCDラジカセはサンヨー製品。机の前に掛けたのはチサトさんにもらった「パレスチナ子どものキャンペーン」カレンダー。

④ヒトデ型暖手器。火花を散らせて以来、差し込みがかなり難しくなった。しかしまだ使っている。

⑤昨年の12/31:大晦日の夜、外国人教師宿舎の真ん前で2時間ほど花火が打ち上げられた。火の粉が落ちてきて枯れ草を燃やし、管理人さんが慌てて消していた…。信じられないぐらい喧しかった。しかし、一昨日戻ってから毎日、いまだに爆竹と花火の音がバラバラバラバラ聞こえている。中国の人たちはこれが好きなんだなあ。


 
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冬期間この部屋で暮らす      2011年2月16日(水) No.64

2011-02-16 14:18:37 | 中国事情
  朝起きたら外は雨だった。南昌は雨の日が多い。「冬の雨は特に冷たくて寒くて嫌だ。」とここで暮らす全ての人が言う。激しく同感する。今日の体感気温は2℃くらい。

 それでも、バスルーム、洗面所、書斎、廊下、寝室、リビング、台所を2回ずつモップがけしたら身体がホカホカ暖まった。床がきれいになるのは清々しくて嬉しい気持ち。
モップをかけながら、BEGIN2枚→THE BLUE HEARTS2枚→PAUL SIMON→OTIS REDDINGと大音響でかけまくった。ときおりウッと涙が出そうな曲に出会っても、ひたすら掃除を続けた。

 昨日、開けてベックリ異臭を放った冷蔵庫。 
今日は、全部中身を出してきれいに拭き、臭いもほとんど消えた。異臭の原因というのは、ホンのちょっと残っていた牛乳と、1つだけ残った卵を冷蔵庫内に放置して日本に帰ってしまったのが、1ヶ月で確実に腐敗していたのである。
自分でも何を考えてわざわざ腐ったら臭いに決まっているこの2つを置いて帰ったのか分からない。きっと帰省に気を取られて冷蔵庫の中のことなんか忘れきっていたのだろう。
それにしても南昌は寒いくせにこういうこと(腐敗)はきっちりしてるなあと感心する。冷凍しておけば良かったか。いやいや、それでは組織が壊れて解凍したとき美味しくないだろう。

 大きな空間移動をする度にこういう無駄が出るのだ。
引っ越しも同様で、人生で10回以上引っ越している私はできるだけ無駄を少なくするために、普段からあまり物を買わないようにしている。従って生活ぶりはかなり質素というか貧乏くさい。もともと育った家が貧乏だから自分としては自然体だ。

  掃除をしながら、1番小さい部屋を集中的に暖めてそこで暮らすようにすれば電気代も節約できるし、ホッコリ感も得られるのでは?と思いついた。
台所以外で1番小さいのはパソコンのある書斎だ。リビングにあるソファーテーブルを運び、ドアをぎりぎりで通過させた。
そのテーブルに電気湯沸かしやお茶セットを置き、紅茶を入れると、そこはもう一気に一部屋の下宿部屋に早変わり。(写真)
 今日から春が来るまで、主にこの部屋で暮らすことにした。台所で料理を作り、ささっとここに運んで、ここで食べる。本もここで読み、宿題もここでチェックする。CDラジカセも、もちろんパソコンもある。
パソコンの横でコーヒーを淹れ、LIGHTNING HOPKINSを聞きながらブログを書く。
なんて便利でハッピイな空間!
寝る以外はこの部屋を離れないぞ~!

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ああ、寒いし汚い我が宿舎・・・  2011年2月15日(火) No.63

2011-02-15 20:42:42 | 中国事情
 1ヶ月ぶりで南昌の宿舎に戻った。昨日のブログは、たばこ臭いけどセーター着ていて暑いくらいの十三のネットカフェで、喉が渇くからドリンクバーの紅茶やジュースを飲みながら打った。
 
 今は宿舎の5畳くらいの広さの書斎で、ズボン・靴下それぞれ2枚重ね履き、セーターやらヒートテックやら起毛シャツやらてんこ盛りに着て、さらに上からダウンコートをはおって打っている。もちろんエアコンもつけているし、扇風機型電気ストーブも足下に向けてある。しかし寒い。高村光太郎の詩の中に、しんとして冷え切った夜中に砥石で刃を研ぐというのがあったが、我が部屋の冷たく澄んだ空気がそれを思い出させた。

この環境の違いがおもしろい。おもしろいけど、明日は早朝から掃除だ。カーテンを閉め切っていったのに土だらけ。パソコンをしっかり箱詰めして封印しておいて良かった。取りあえず今日はくたびれたのでパソコンの机だけを拭いてお終いにする。

 大雑把で気楽なところが多い中国での生活だが、建物の建て方だけは何とかならんものかなあ。
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明日は南昌   2011年2月14日 No.62

2011-02-14 17:36:30 | 中国事情
 ああ、あっという間の冬休みだったなあ。ほぼ毎日飲み会やらお出かけの日々…。体重がまた一段と増した。この調子で太り続けていくと、数年後は確実に、お相撲さんの服を着ているような肉が身についているはずだ。
非常に危機感を覚える。
南昌に戻ったら、次の朝から歩くぞ~!!(あ、でもキャンパスの中だけね。それだけでも十分な運動量ですから。)

 今日は大阪最後の日なので、何をしようかなあと考え、梅田のタワーレコードに行った。その前にヨドバシカメラの5階に行ってみたが、CDには全然力を入れていないことが分かった。
みんなネットやらで好きな曲をいくらでも聞けるからかなあ。それならむしろレアなあれこれをそろえてほしいものなのに、ネットで中国の学生がいくらでも聞ける浜崎あゆみだの幸田ナニガシだのはやたらある。店作りのセンスがないと思う。

 丸ビルB1階のタワーレコードは、うれしくなる工夫がされていて行ってよかった。
(例:日本のロックの歴史~ハピイエンドはもちろんジャックス、サンハウスなど嬉し・懐かしのアルバムとともに、本も並んでいた)レコード屋さんの気概を感じる店だ。
沖縄ミュージックの巨匠BEGINを2枚、THE BLUE HEARTSのリマスター盤を2枚(同じCDを何回買ったかなあ)、そして学生へのお土産でタワーレコード特製消しゴム(「NO MUSIC, NO LIFE」 と書いてある)を買った。
 
 よし、準備は整った!ということにして明日の夕方は南昌からのアップだ~!部屋は寒いやろなあ…
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近畿中国帰国者支援交流センター  2011年2月13日 No.61

2011-02-13 20:41:28 | 中国事情
 2月11日(金)、あいにくの雪の降る中、「帰国者の友」の皆さんが一時帰国の私のために「お帰りなさい会」を催してくれた。
「帰国者の友」のことを書こうと思う。
しかしそのためには、まず「近畿中国帰国者支援交流センター(厚生労働省委託事業)」について触れなければならない。

「帰国者」とは中国からの帰国者だ。
正確に言うと、第2次世界大戦後、満州開拓団など民間の日本人が必死の思いで引揚げて来たが、家族とはぐれたり、家族が死んでしまったりして、中国に置き去りにされた日本人の子ども(中国残留日本人孤児)が中国の養父母に育てられ、大人になってから日中両国関係が回復したのに伴い、多くが父母の故国日本に帰国した。
残留孤児だった人を帰国者1世、その子どもたちは2世、孫世代を3世と呼ぶ。
 私は約6年前から5年間、大阪YWCA内にある近畿中国帰国者支援交流センターで日本語教師をしていた。
一般の日本語学校が若者中心であるのに比べ、帰国者センターの学習者は、1世、2世など年配や働き盛りの方々が多い。
休み時間、中国語で楽しそうに歓談する中に混ぜてもらって、よく世間話をした。もちろん私は全く中国語が話せないので、みんな日本語で一生懸命説明してくれる。半分くらいしか分からないことがほとんどだったが、私にとって未知の中国での生活などを教えてもらうのがとても楽しみだった。

 当時、帰国者センターの講師会で先輩講師から「政治の話はしないように。」と言われたことがある。彼女はおそらく親切に忠告してくれたのだが、今考えたら、とても変に思える。
私は中国の大学で全く同じことを中国人老師から言われている。不用意に政治的発言をすることは立場を不安定にし、最悪の場合は国外退去か逮捕拘留される可能性もあるからだ。それは「ノ○○○しょう」でブログが閉ざされたことにより、一気に実感した。
 しかし、日本の近畿中国帰国者支援交流センターでなぜ「政治の話はしないように」と言われなければならないのだろう。日本では言論の自由が憲法で保障されているので、逮捕されたりすることはないのに。
思えば小学校の教師をしていたときも、暗に「教育者は政治的中立を保つ=政治的発言はしない」と言う雰囲気が同僚の間に満ち満ちていた。
①「教育は中立であるべきだ」という言葉は一見正しいように聞こえる。
しかし、②「教育者は教室の弱者の側に立って学級経営をしなければならない」とも言う。
①と②は矛盾している。②の立場は「弱い立場に置かれた子どもの苦しみに気づき、寄り添い、差別を許さない教育をする」というものだ。①は「弱い子からも強い子からも等距離であるべきだ」といっているのだ。つまり、教師は教室で八方美人でいるか、何もかも曖昧にぼやかしていろ」と言っているも同然ではないだろうか。

 帰国者センターの先輩は、教育の中立を言いたかったのだろうか。私はそれ以前の問題で、彼女は教えることと政治との関連をあまり積極的に考えていなかったのではないかと思う。
なぜ中国残留孤児が存在するのか。なぜ彼らはすぐに日本に帰って来られなかったのか。なぜ帰国者問題がまだ解決しないのか。全部政治のせいだ。政治が間違ったためだ。日本が戦争に突っ走らなければ、まったく違う人生を歩んだだろう帰国者1世の、それでも凛として姿勢を正し、学び続ける姿は、いつも私たち日本語教師に「日本語をきちんと教えること」プラスαを問いかけているように思えた。

 休み時間、1世の人たちから中国の文化大革命の話を聞いたことが、私の中国行きを方向付けたと言っても過言ではない。
教師は、とりわけ日本語教師は、国際政治と歴史の知識を持ち、感覚を研ぎ澄ます必要がある、というのが私の実感だ。
広い意味で学習者の言語環境は、その学習者が育った家庭環境、社会環境と結びついているからだ。
近畿中国帰国者支援交流センターに通う学習者は、ほとんどの場合、信じられないような苦労の末に日本に帰国した経歴を持つ。
そうした彼女ら・彼らに寄り添うことなく日本語教育技術だけ堪能であればよし、と私は思わない。
帰国者に限らず、日本語を勉強する人たちのほとんどは、日本語教師を通して日本を感じる。日本語教師が、その人にとって初めて会話を交わす日本人であることも多い。
 5年間の近畿中国帰国者支援交流センターでの仕事はいろいろなことを教えてくれた。そこから自前のボランティア団体「帰国者の友」を作ることになったのである。(次号にだらだらと続く)

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