さて、旅行も最終日となりました。
もちろん早朝から温泉へ。
朝風呂は、気持ちがいい。
ホテルの部屋から日の出です。
もう早朝で蒸しッと暑いです。
それでは、朝食へ。
ここはバイキング。
そのため、こんな感じになりました。
朝食前の血糖値は、目がテンでしたのに・・・。
これでは、食後血糖値がどうなっているのか。
そのおぞましいのは、想像がつきます。
それでは、ホテルを出発。
白水館さんお世話になりました。
そして、向かった先は知覧。
知覧特攻平和会館へ。
周辺にある戦闘機 隼。
こちらは、特攻隊員が出撃まで過ごす三角兵舎。
出撃までの数日間、兵士はどんな心境だったのか?
撃墜され、海底から引き揚げられたゼロ戦。
そして、平和会館へ。
ここには、たくさんの遺書 絶筆が展示されています。
まだ10代の方もいます。
ほとんどが20代で若すぎます。
それにしても、この時代の若者はなんてすごい心境なのか。
そして、この字、この文章。
もう超越しています。
死が目前に迫ってきているという状況において、潔すぎます。
ただ、心の奥底は「おかぁちゃーーーん」だったかもしれません。
それは、間もなく命が尽きるという状況下でも許されなかったのでしょう。
辛い時代です。
ここは、いつきても考えさせられることが多いです。
平和会館を出てから、富屋食堂へと向かいます。
特攻の母、鳥濱トメさんの食堂でした。
ここでの話「ホタル」は映画にもなっています。
有名な「ホタル」。
なんど読んでも悲しい話です。
また、朝鮮半島から金山少尉が朝鮮語で泣きながら歌うアリラン。
トメさん。
鳥濱 トメ 享年89歳
鳥濱トメは、富屋食堂の女将でした。
特攻隊員のお母さん替わりとなって話を聞いたり、
明日飛立つ若者に食べたいものを自分の私財を投じて、
食材を買い料理をしていました。
また、届かないはずの手紙(遺書)を彼らから直接預かり、
家族の元へ届けたりと、特攻隊員の最期にやりたいことを
叶えてあげました。鳥濱トメは「特攻の母」と呼ばれるよ
うになり、映画や舞台、ドラマや小説など、多くのメディ
アに取り上げられました。
①アリランの話です。
ぼくは朝鮮人です
光山文博少尉は京都薬学専門学校を卒業し、昭和18年、特別操縦見習士官を志願し、知覧で6ヶ月の速成教育を受けてパイロットとなった。日曜日毎に富屋にやってきたが、無口でどこか寂しい人柄だったので、トメはなるべく明るく接しようとした。
彼は最初から「ぼくは朝鮮人です」と言っていた。元の名を卓庚鉉と言い、幼い時に父母とともに日本に渡ってきたのだった。当時の日本人の中には朝鮮人に対する差別意識を持った者も多かったので、トメは光山をよけい大事にしてわが子同様に可愛がった。
半年のちに知覧を卒業して、各地の部隊を転々として、行く先々から「知覧の小母ちゃん、元気ですか」とはがきをよこした。その光山が昭和20年5月の初め、「小母ちゃーん」と呼びながら、富屋に戻ってきた。トメはすぐに事情を察した。その頃に知覧に戻ってくるのは、特攻隊員になった者だ。それから光山は毎日のように入り浸った。
光山の母親はその前年の暮れに亡くなっていたという。息子が日本でばかにされないようにと、必死で働いて学歴をつけさせたのであろう。また息子の方も特別操縦見習士官を志願したのは、立派な軍人姿を母親に見せてやりたかったのだろう。
今生の別れの歌アリラン
5月10日の夜、光山は「小母ちゃん、いよいよ明日出撃なんだ」とボソリと言った。
「長いあいだありがとう。小母ちゃんのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。でも、おれは朝鮮人なんだ。長いあいだ、ほんとうに親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」
「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」
トメはそっと目頭を押さえた。
「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」
「まあ、光山さん、あんたが歌うの」
孤独な光山が歌を歌う姿は一度も見たことがなかった。光山はあぐらをかき、涙を隠すためであろう、戦闘帽のひさしをぐいと下げて、びっくりするような大きな声で歌い出した。
アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていく
わたしを捨てて行くきみは
一里もいけず 足いたむ
トメも娘たちもこの歌を知っていたので、一緒に歌い出したが、途中で泣き出してしまった。光山少尉の今生の別れの歌だった。それは日本では隠さなければならなかった彼のアイデンティティを示す歌だった。明日は出撃し、敵艦に体当たりする。祖国を守るために。その祖国とは日本ではない。日本と運命をともにしていた朝鮮だ。
②ホタルの話
おれ、この蛍になって帰ってくるよ。
昭和20年6月6日、鹿児島県は薩摩半島の中程、知覧町にある富屋食堂でのことである。知覧で出撃を待つ特攻隊員たちはこの食堂に出入りし、なにくれと世話をやく女主人鳥浜トメを母親のように慕っていた。明日は死に行く少年たちのために出来ることと言ったら、母親代わりになって優しく甘えさせてやるしかない、そう思ったトメは私財をなげうって、特攻隊員たちに尽くしていた。
その前日、6月6日は宮川三郎軍曹の20歳の誕生日であった。トメは心づくしの料理を作って、誕生日を祝うと同時に、明日に控えた出撃のはなむけとした。途中、空襲警報が鳴って、みなで防空壕に入る。防空壕の中で、宮川は幽霊のまねをして、トメの娘礼子たちを怖がらせた。
防空壕を出ると、星のない暗い夜がそこにあった。街の灯りも灯火管制のために消されている。食堂の横には小川が流れ、藤棚とベンチがしつらえてある。漆黒の闇の中、小川の上を大きな源氏蛍が飛び交っていた。宮川の声がした。
「小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。そうだ、この蛍だ。おれ、この蛍になって帰ってくるよ」
「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。そうよ。宮川さん、蛍のように光輝いて帰ってくるのよ、と心の中で言った。宮川は懐中電灯で自分の腕時計を照らして言った。
「9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくることにするよ。店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」
「わかった。そうしておくよ」とトメが答えた。
「おれが帰ってきたら、みんなで『同期の桜』を歌ってくれよ。それじゃ、小母ちゃん。お元気で」
蛍帰る
ラジオが9時を告げて、ニュースが始まった。その時、わずかに開いた表戸の隙間から、1匹の大きな源氏蛍が光る尾を引きながら、すーと店に入ってきたのであった。娘たちはほとんど同時に気がついた。
「お母さーん、宮川さんよ。宮川さんが帰ってきたのよ」
娘たちの叫びに、奥から出てきたトメは娘たちの指さすほうを見た。暗い店の中央の天井。その梁にとまって明るく光を放っている蛍を見つけた時、トメは息が止まるかと思った。部屋の隅にいた兵士たちも集まって、蛍を見上げた。「歌おう」とだれかが言った。みな肩を組み、涙でくしゃくしゃになりながら、「同期の桜」を歌った。歌はトメの好きな第3連に進んだ。
富屋食堂 ホタル館も、いつ訪ねても考えさせられます。
さて、ぼちぼち空港へ。
指宿スカイラインからの桜島。
桜島SAから。
レンタカーを返却。
3日間で走った距離は、806.3キロ。
我ながら、よく走ったものです。
最後は、鹿児島ラーメン。
いろいろな思い出ができた3日間でした。
では、滋賀へ帰ります。
九州 旅行記 長々とご覧くださり感謝です。
コロナのことを気にしながらの旅でした。
早く、以前のように気楽に旅に出られるようになれば、いいのに。