きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

コリント第二4章8節から得られるヒント

2012-11-30 08:30:04 | 日記
最近ここを訪問する人が減ってきました。

喜んでいます。

興味本位や単にあらさがしをするだけという簡単な手段を選ぶ          

品のない人はここにいてほしくありません。

そのような人たちが、ここで情報だけハイエナのようにあさってゆく事は

本意ではありません。



本当に純粋なひとたちだけがここに残ってほしいと思います。



エホバの証人問題は批判と聖書の教理上の矛盾 組織のあらさがしだけでは解

決できないからです。

そのようなことをして、組織を断罪しただけでその気分になっている人たちと

私はかかわりをもちたくありません。

この問題は深めていかなければなりません。

ただ、組織構造上 支部委員や地域監督 巡回監督 会衆の長老は

今目の前にある手順を固守し、ルーティンをマニュアル通りにするだけで

精一杯してゆくだけでそれ以上でもそれ以下でもなくなっているのも

現状です。彼らは人ではなく業務に追われいるのが現状です。

この組織で傷ついた個人個人のひとを助けてゆく気持ちも意思も時間も手段も

ないのが現状です。

わたしもひとりで、自分で生活を立ててますのでそのような状況にありませ

ん。

そんな状況で思い起こす聖句がコリント第二4章8節

(あらゆる面で圧迫されながらも、動きがとれないほど締め付けられて

いるわけではありません。)

(WE ARE PRESSED IN EVERY WAY ,BUT NOT CRAMPED BEYOND MOVEMENT.)

NOT CRAMPED BEYOND MOVEMENT

動きのかなたにあるかのようにクランプされいない

人生において、どんな状況でも完璧な締め付けはない

という理解だ。

つまり動く個所があるという事だ。

それは、指一本かもしれない。

私は、その僅かでも動く場所があれば

それを信じて生きていたい。




最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2012-11-30 09:53:47
わたしも大好きな聖句です。

中国語では,「我们受压,却不致陷于绝境」

四面から圧力を受けても,
出口のない場所におかれるわけではない

そういえば,中国語聖書の翻訳に携わったヨセフ・シェレシェフスキーは,
全身が麻痺していく病気にかかり,
最後には,文字通り“指一本”でタイプライターを打ち翻訳を完成したと聞きます。

それぞれの人に最後に残された“指一本”があること,
コリントの聖句はほっとさせられます。
返信する
Unknown (考える葦)
2012-11-30 09:57:17
すみません。上の中国語が文字化けしてしまいました。

日本語漢字でもう一度打ちます。
「我們四面受圧,却不致陥於絶境」


返信する
Unknown (ビー)
2012-11-30 11:38:36
こんにちは。
私の研究司会者だった方も長老・調整者:主催監督を兼ねてやっておられて傍目にもとても忙しそうです。(・・・司会者だった、と過去形なのは、私が伝道者にり、あとは集会や個人で研究をしつつ学んでくださいということで今は一緒に研究はしていないからです。)
10月の頭に言葉を選びつつ、少し話をさせてもらいましたが、どんなに沢山悩んだとしても結局最終的に決めるのは自分です。

未だに糸口が見えずにグルグルしているような状態ですが、自分で納得できるまで悩みぬいてみようと思います。
返信する
ビーさんへ (bereshit007)
2012-11-30 18:00:13
悩みぬいてください。

自分の居場所と思えば強制収容所の中にでも

パラダイスがありました。

返信する
考える葦さんへ (bereshit007)
2012-11-30 18:07:04
一本指聖書の事をよく知っていましたね。

考える葦さんの一本指は何になります?
返信する
bereshit007さんへ (考える葦)
2012-11-30 22:37:48
そう言われると,すぐにぱっとは答えられないですね(~o~)

私の根本を探らされる問題です。

私がよくある以前の記憶が頭でぐるぐる回るときには,
そうですね・・・
「今」が一本指になるのでしょうか。
昔はああだったこうだった,
こうすれば,そうしなかったら,
またまた自分を卑下していっても,
どうであっても,
「今」自分はここにいる。

木漏れ日をまぶしく感じる自分,
屋根をたたく雨の音が聞こえる自分,
走りながら風圧を感じる自分がいる。

生きている。

折に触れて,哀歌3章22節から24節を思い出します。
朝を迎えられた自分,
先が見えなくても,
今はいる。

なんか抽象的ですが,今はそういう答えです。

皆さんはどうでしょうか?
返信する
Unknown (新緑)
2012-12-01 18:13:45
考える葦さんの答え いいなと思いました。
自分も考えてみましたが なかなかぱっとは思いつきませんね。

でも  考える葦さんよりの答えで
生きている犬は死んだライオンよりもましだからである。 伝道 9:4
自分の理想の状態じゃなく 人からみればぱっとしないとしても 生きてる。

命への敬意-他の人のと自分の-は年々深く感じるので、生きてるだけで素晴らしいと思います。
自然の一部のようにそれだけでも感謝や賛美にもなると思うので。

返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。