きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

朝の青い空をみつめ

2014-10-30 08:49:22 | 日記
残った葉っぱを

みながら

しみじみと


英語版chorus 6

に編曲された

38


throw your burden on jehovah

を聴くと


心に去来し

沁みてくるものがある。


この編曲の


静かな出足は


しみじみとしてときどき


ききたくなる




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47 コメント

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Unknown (新緑)
2014-10-30 12:31:33
bereshit007さんは
やはりjw時代のこと懐かしいっていう気持ちが強いのかな?

わたしはjwの賛美の歌、聴きたいという気持ち全くないです。


たった今、最後に残していた数カ国語のポケット版聖書、捨てることにしました。
将来、万が一聖書を読みたくなっても他の訳にすると思う。

アルバムの写真もだいぶ捨てました。
ちょっとずつ捨てて、最後は全部捨ててもいいかなーと思っています。

久しぶりに母親に会いました。
わたしの住所も知らず、電話もかけて来ませんが
意外と歓迎されました。
会衆の基金、数百万も協会に送金したそうです。
必要になった時は協会がお金を出してくれるから問題ないそうです。

協会のTV番組?の事も
今までもラジオや何やら最新のモノを使ってきた。終わりが近いからエホバが使うことに決めたのよ、なんて言うので
統治体が決めたんでしょ、と言いました。
終わりが近いんだから!と言う顔は
まさにバリバリ洗脳されてる表情でした。
どなたかがUPされてた
円天で被害にあった人の再現映像を思い出しました。

まぁ、自分も少し前まではやってた身ですが
母親ほど全てを委ねているっていうか
思考停止してなかったとは思うんだけど。
我が母親ながら情けないです。
この人は20代後半でバプテスマ受けてから一生このまま何も変わらず、気がつかず、後悔もせず行くんだろうと思いました。
自分と家族の人生台無しにしたと気がつかず。

ただわたしは優しくないので
いつか母親の絶望する姿を見てみたいという気持ちもあります。
その時なら本当に許したり優しく出来ると思う。

秋晴れの日に毒全開のコメントでした。

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不思議な自信 (くれよん)
2014-10-30 13:45:48
新緑さん



ここ数日、新緑さんのことや
身近な二世の子たちのことをずっと考えていました。

そして わたしの娘のこと。

先日、司会者がとうとうやってきました。
この人は、とにかくできないことがない人で、
ごはんすらまともに作れないわたしには
到底、達することのできない人です。

もう集会に行くとはないと伝え
アメリカでおこされた裁判のことなど
この組織が、世間一般と何も変わらない・・・
家族がこんなに苦しんで
引き裂かれて
それを大会で 良いこととして話されるのは聞きたくないといいました。

すると、引き留められることはありませんでしたが

「まるまるちゃんの 面倒をちゃんと見てね」

と言い残して帰っていきました。

ああ、わたしはこの人に23年たっても
褒められることはなかったんだなぁと

最初は落ち込んで
ほんで、だんだん腹が立ってきて
情けなくて 大泣きしました。

それで、なんというか
先日の新緑さんの気持ちがよくわかったような
何となく そう思いました。

そう、わたしもぼわんと消えたいなぁと。

集会がなくなるのも
大会が減るのも
終わりの日の後始末だと
思っているそうですが、
ここまで来ると
ホントに終わりの日を自分たちで作ってしまうんじゃないかと
善意のただのいい人たちだから
何も悪は行わないと信じていると
それは 怖いことのようにも思いました。

わたしの両親も厳しい人たちなので
あんまり変わらんかなぁと
思っていましたが、
この宗教をかたくなに信じている人たちとは
やっぱり違います。

ああ、やっぱりうまく言えないけれど、
新緑さんや 二世の人たちが
本当に報われてほしい。
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Unknown (スナフキン)
2014-10-30 14:44:11
新緑さん

くれよんさんの言われることよくわかります。

消えてしまいたい それもわかる

そんな立ち位置から

えーと、
ベレーシートさんは JWが向いているのだろうなぁ

と、つくづく思います。

向いている人は続けていってもいいんじゃないかなぁ。

戻ることを考えてもいいんじゃないかと思います。


最近、世間一般の人たちとコミュニケーションする機会が増えてきたのですが、
普通の人たちも 真理がなにか なんて ほとんど考えてる人はいないです。

だから、JWをやってる人も教えられたことを信じ込んでいて
それが心地いいだけの人も多いわけです。
真理かどうかはここにいるような人たちが考えているよりも彼らにとっては重要ではない。

けっきょく、みんな一緒なんだと思います。

以前にベレーシートさんも真理かどうかなんてあまり興味がなくなってきた
と、言われておられましたよね。

ここで、人々のここの価値観が表れるのだと思います。

自分の場合はjwをやる上でその教えが正しいと思うかどうかは
いちばん重要な要素でした。
だから、そうではないと確信した今、辞めることにしたし、
もちろん、なんの未練もなく(家族や友達にはありますが)
今となってはもともと向いてなかったなぁ、とつくづく思います。

気づくのが遅すぎたことにはほんとうに悔やまれますが。
ほんとうに人生もったいないことをした。

ただ、その価値観をすべての人が持っているわけではない。
正しいかどうかより、信じるものがある、ということの方が大切な人もいるのです。

それに、日本という国は憲法で信教の自由が保障されていて
すべての人には何を信じるのか自分で決める権利があります。

だから、JWの教理を信じている人を無理矢理辞めさすことは
法律に違反するし、人道上やるべきことでもない。

だいたい、世の中の宗教すべてはすべて人々が信じている状態で
なにか現実的に証明されてきたものはなにひとつない。

よっぽどおかしな宗教も世の中にはごまんとある。

まぁ、そんな世の中なので、

家族に振り回されることは大変だし、できれば自分もjwにはつぶれてほしいけれど
たぶんつぶれることはないだろうし、わりきって生きていくしかないと思ってます。
返信する
Unknown (新緑)
2014-10-30 15:57:44
くれよんさん
スナフキンさん

ありがとうございます。
いろいろと思ってくださって。

向いてなかったっていう点ですが
わたしも子供の頃からすごく違和感感じていたん
ですよね。

母親と家で研究していて
集会は父親の反対で行っていなかったんですが

いつも言っていたのは
真理を聞く機会がなく死ぬと復活があって
とかその辺りのこと
よく未信者の家族、年配のご両親や配偶者亡くなって復活の希望があると
言っている方がいますが、それに比べて
子供の頃から大変な思いをしている二世は離れて戻らなかったら滅びるとか
あと、マザーテレサとか国境なき医師団的なものをわたしが評価すると
母親は焼け石に水で真の解決策は王国と言う。
三年生くらいの時ユニセフかなんかの女の子が餓死しかけているスライド見て、
お小遣いを募金したいと言ったら
そう言われました。
焼け石に水って言葉、その時覚えました。
わたしはjwについては印刷物配って資源の無駄と言ったんです。


そんなわたしが
なんではまったんですかね?
なんで父親と暮らさなかったんだろう。
わたしの兄弟みたいに。
母が独りでは可哀相と思ったのかな?
年頃で父親と暮らすのは嫌だったのもある。

今、一生懸命家族の為に働く男性達を見ていると
父親が、両親の世話も控えて我慢できなかったのは
わかるし反対するの当たり前なんですけど
せめて、わたしが高校生になるまで離婚しなかったらなー
と思います。
高校は自分はそこそこの進学校に行くつもりだったし
そうしたら絶対にjwにはならなかったと思う。
今、妻がjwで苦しんでいる方には
子供を救うことを第一に考えて欲しいです。


こんなこと書くとネットに有りがちな
痛い書き込みみたいだけど
世の中に出て働いていると
こんなわたしでも
すごくいいモノを持っている!と褒められたり
誠実な関心 笑 じゃないかもしれませんが
男性に声を掛けられることもあります。

そういうとき、嬉しいというより、
うーん
jwの諸々で培ったんだとも思わないし
なんていうのかな
やっぱり、もっと普通の生活していたら
普通の幸せがあったんじゃないかと思って
しまいます。
やっぱりわたしの場合は自分がjwする前から
の家庭の影響などからjwは益より害が断然多いです。

世の中には
自身の病気や親の介護に早くから
巻き込まれて
好きなように生きらなかった人はごまんといます。
ただ、それがカルトに関わって、
親が始めて、自分も一生懸命やっちゃって
っていうのが
かなりトホホな気分です。
で、自分を悪と見ている親の世話をしないといけない。


一つ言えるのは
どんな犠牲を払っても辞めて良かったです。
わたしは。




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そうそう (新緑)
2014-10-30 17:43:23
その手の人って自信満々なんですよね。
jwのピュアな信仰持っている人全てが
そうではないんですけど。
なかには、神様と親しくしている喜びや人に対する慈愛みたいなものが滲み出ている人もいました。

不思議な自信に満ち溢れていて
なんだかんだ言って上から目線な人、
監督の妻とかに多かったかな。
疲れますよね。

くれよんさんのお子さん
娘さんなんですね。
なんだかそれを知れて嬉しかったです。



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捨てられなくても捨てていい (くれよん)
2014-10-30 18:27:02
わかります(涙

離婚のときに
お母さんを捨てられなかったこと

わたしの両親も
5年別居して
離婚しかけました。

悲しかったです。
毎日毎日。
今日は 父がちゃんと帰ってくるかなぁって
思っていたら
幽体離脱したことあります(笑

主人と喧嘩しても
あの思いだけは娘にさせないでいようと
頑張りました。

今は年を取って喧嘩しながら
二人で暮らしていますけど、
でも、離婚しないでくれてよかったなぁって
心から思います。

だって、どっちについて行っても
どちらかを悲しませてしまいます。

子供にそんな思いさせてはだめですよね。

ずっと前に
テレビで見たんですけど
脳こうそくのお母さんの介護を
ずっとしてた娘さんが
おとうさんの退職を機に外国にお嫁さんになって
行ってしまうんです。

年老いた両親を残して。
へぇーって
なんか
こう
うまく言えん
スカッとしたものがありました。

もう、新緑さんが
自分のことだけ考えて
幸せになっていいと思います。

ブルームーンさんも
新緑さんも
美人なんだろうなぁ

返信する
Unknown (孤独)
2014-10-30 23:11:15
くれよんさん
司会者の姉妹なんなんですか!
ちゃんとってなんですか?!
わたしだったら、その場で
「は?みてますけど!」
ってキレてます。
くぅ~!
2人目の司会者は、分厚い手紙を毎週
ポストに、そっと入れておいてくれる気遣いが出来る
人だった。
わたしが離れたのを何度かの訪問で悟るとスッと身を
引いてくれた。と思ってるんだけど...。
一人目の司会者が、移動していなくてよかった。
もっといらぬ苦痛を感じたと思う。
ぷんぷん。
返信する
コーラス38 (孤独)
2014-10-30 23:21:08
私もjwの音楽全く聞きたくなかった。
今初めて聞きました。
ターンタ ターンターン...
ターンタ ターンターン...
ピアノの音
胸をえぐられるような
悲しい音でした。
返信する
コーラス38 歌詞 (bluemoon)
2014-10-31 21:27:39

神よ 

聞きたまえ 我の祈りを

安き与えませ 顧み賜い

すべての重荷を エホバにゆだねよ

さらばなれ助け 支え賜わん


我 鳩のごとく 翼ありなば

悪しき者らより 飛び去るものを

すべての重荷を エホバにゆだねよ

さらばなれ助け 支え賜わん


エホバを呼ばわん 仇の真中で

平和とあがない 備え賜わん

すべての重荷を エホバにゆだねよ

さらばなれ助け 支え賜わん



もちろん 旧版の歌詞
今の歌詞は知らないし
歌う気にもなれない
返信する
年をとる、ということは (bluemoon)
2014-10-31 21:29:40

興奮と 歓喜

恍惚と 闘い

忌々しさや 不安


荒々しい危機的な若き時代を経て

やがてそれを

静かに回想する時を迎える



ものみの塔も

乗っ取られて久しいですが

いつだったかなぁ 消されたベレさんの記事の中に

ロシアの、仲間兄弟たちのために

身の危険も顧みず

秘密裏に雑誌を運んでいた兄弟の写真があった
(いつものように うろ覚えで間違ってるかも)

彼の 瞳の奥には 真実の光があったよ

彼らと ともに

真実は あった



ヘッセは語る


「それよりもはるかにすばらしいのは

過ぎ去ってしまわぬこと、

存在したものが 消滅しないこと

それがひそかに生き続けること、

その ひそかな永遠性

それを 記憶によみがえらせることができること、

たえずくりかえし、

それを呼びもどす言葉の中に、

生きたまま埋められていることである」


「去ってしまった者たちは、

彼らがそれによって私たちに影響を与えた本質的なものをもって

私たち自身が生きている限り、

私たちとともに生きつづける

多くの場合、 私たちは生きている者とよりも、

死者とのほうがずっとよく話をしたり

相談したり助言を得たりすることができる。」



「老年は、 私たちの生涯のひとつの段階であり、
ほかのすべての段階とおなじように、
その特有の顔、特有の雰囲気と温度、
特有の喜びと苦悩をもつ。

私たち白髪の老人は、私たちよりも若いすべての仲間たちと同じように

私たち老人の存在に意義を与える使命をもつ。
ベッドに寝ていて、この世からの呼びかけが
もうほとんど届かない重病人や、瀕死の人も、
彼の使命をもち、重要なこと、必要なことを遂行しなければならない。

年をとっていることは、若いことと同じように
美しく神聖な使命である。

死ぬことを学ぶことと、
死ぬことは、あらゆるほかの働きと同様に価値の高い働きである

それがすべての生命の意義と神聖さに対する
畏怖を持って遂行されることが前提であるけれど。

老人であることや、
白髪になることや、死に近づくことをただ厭い、恐れる老人は

その人生段階の品位ある代表者ではない。
自分の職業と毎日の労働を嫌い、それから逃れようとする
若くたくましい人間が、若い世代の品位ある代表者でないのと同様に。

簡単に言えば、
老人としての自分の目的を果たし、
自分の使命に恥じない行為をするためには
老齢と、それに必然的に伴うすべてのものを受け入れなくてはならない。
それを肯定しなくてはならない。
この肯定なくしては、自然が私たちに要求するものに従うことなくしては
私たちの年代の価値と意義
(私たちが老いていようと若かろうと)
は 失われるのである。
そして私たちは人生を欺くことになる。

老齢が苦しみをもたらすこと、
そしてその終点に死があることは誰でも知っている。
私たちは年ごとにいけにえを捧げ、諦めなければならない。
私たちは自分たちの感覚と力に不審を抱くことを学ばなくてはならない
つい先ほどまでまだほんの短い散歩道であった道のりが、長く、難儀なものとなる。
そしてある日、私たちはその道のりをもう歩くことができなくなる。
私たちが一生のあいだずっと非常に好んで食べてきた食物を私たちは諦めなくてはならない。
肉体的な喜びや楽しみはしだいに稀になり
それを味わうにはますます高価な支払いが必要になる
それからすべての身体的欠陥と疾病、感覚の衰弱、
器官の疲弊、そして特にしばしば長い、不安な寄るに訪れる多くの苦痛
これらはすべて拒否できるものではない。
それは苦い現実である

けれども、
このような衰弱の過程に身を任せるのみで、
老齢にもそのよいところ、その長所、
その慰めの源と喜びがあることを見ないとすれば
みじめで悲しいことであろう
二人の老人が出会ったとき、ただただいまいましい痛風のことだけを
こわばった手足と、階段を上るときの呼吸困難だけを話題にすべきではない。
彼らは自分たちの苦痛と怒りだけを交換するのではなく
楽しい慰めになる体験や見聞を交換すべきであろう。
そういうことはたくさんあるのだから。

老人の生き方のこのような肯定的で美しい側面について
若い人々の生活には何の役割も演じないような力や忍耐や喜びの源泉を
私たち白髪の老人が知っていることについてあなたがた読者の注意を促そうと思うとき、
宗教や教会の慰めについて説くことは私には許されないことだ。
それは牧師の仕事である。

しかし私は老齢が私たちに贈ってくれるいくつかの贈り物の名を感謝をこめて挙げることができる。

それらの贈り物のうち私にとって最も価値あるものは、
長い人生をすごしたのちも覚えていて、
活力を失うにつれてそれ以前とはまったく異なった関心で見るようになったいろいろなものの姿である。

六十年、七十年来もうこの世にはいない人々の姿と
人々の顔が私たちの心に生きつづけ、
私たちのものとなり、私たちの相手をし、
生きた眼で私たちを見つめるのである。
いつの間にかなくなってしまった、
あるいはすっかり変わってしまった家や、庭や、町を、
私たちは昔のままに、
完全な姿で見る。

そして私たちが何十年も前に旅の途上で見たはるかな山々や海岸を、
私たちは鮮やかに、色彩豊かに私たちの記憶の絵本の中に再発見する。

見ること、観察すること、瞑想することが、
しだいに習慣となり、訓練となって、
気づかぬうちに観察者の気分と態度が私たちの行動全体に浸透してくる。

望みや夢想や欲望や情熱に駆り立てられて、
私たちは人間の大部分がそうであるように、
私たちの生涯の何年も何十年ものあいだ、
あせり、いらいらし、緊張し、期待に満ち、実現あるいは幻滅のたびごとに激しく興奮してきた。

そして
今日、私たち自身の絵本を注意深くめくりながら、
あの疾駆と狂奔から逃れて 「vita contemplativa」
すなわち、「静観の生活」に到達したことが、
どんなにすばらしく、価値あることであるかに驚嘆するのである。

ここ、この老人の庭には、
昔ならその世話をすることなど考えもしなかったたくさんの草花が咲いている
そこには忍耐の花というひとつの高貴な花が咲く
私たちはしだいに沈着になり、温和になる

そして介入と行動への欲望は少なくなればなるほど、
自然の生命や同胞の生命に関心をもって眺め入り、
耳を傾け、それらが私たちのかたわらを通り過ぎるとき
批判することなく、その多様性にいつも新たな驚きをもって、
時には同情と静かな憐れみの気持ちで、
時には笑いと明るい喜びをもって
ユーモアの心をもって眺める能力がますます大きくなってくるのである。

つい先頃、私の菜園に立って、焚き火をして、木の葉や枯れ枝をくべていた。
そのとき八十歳くらいの老婆がシロサンザシの生垣のそばを通りかかり、
立ち止まって私を見つめてた。 私は挨拶した
すると、彼女は笑って言った。
「焚き火をなさるなんて、ほんとにいいことですね。
私たちの年になると、そんなふうにだんだん地獄とも近づきにならなくてはなりませんね」。
これで会話の調子が決まった。
私たちはお互いにいろいろな苦痛や不自由を嘆きあったが、
終始冗談の口調であった。
それでもこのおしゃべりの終わりに、本当は私たちはそれほど年をとっているわけではなく、
私たちの村に百歳の女性がまだ生きているのだから
私たちは年寄りのうちにも入らないということを承認しあった。

若い人々が、その力と無知の優越性を持って私たちを笑いものにし、
私たちのぎこちない歩き方や、白髪や、筋だらけの首を滑稽だと思うなら
私たちは昔、同じように力と無知をもって老人をせせら笑ったことがあったことを思い出そう。
そして敗北感を味わうのではなく、
優越感をもって私たちが年をとってそのような年代を卒業し、
ちょっぴり賢くなり辛抱強くなったと考えよう。」



ヘルマン・ヘッセ

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