わたしは生きている限り
社会と世の中の事象とかかわってる。
なんのために日本の田舎に転がってきたやら
幸いわたしの取り巻く小さな社会は
わたしの発言で変えて行ける
ある場合はお金が動き
ある場合は人が動き
ある場合は人生がよくなったり
悪くなったりしている。
ひとは自分の関わることにそんなに責任をとらない。
起きた問題を他人のせいにしたり
自分のせいに感じたりして生きている
人から褒められもせず
社会を違う角度から覗く
あともう少しでわたしは動けなくなる人生が待っている
わたしが動けなくなるまでわたしはわたしで
わたしはわたしで生きていたい。
わたしを愛してくれたひとで生きていたい。
そう思えば楽になる。
楽になる。
やがてわたしはわたしの母みたく
窓を眺めてるだけの時間が来るだろう。
そのときわたしを裏切ったひとや
わたしをおとしめたひと
わたしからはなれていったひとをみな忘れて生きてるだろう。
わたしはそのとき
結局人生はお腹を空かせたから食べていた
その繰り返しだったとことに気がつくだろう。
わたしのことをいちばん気遣っていたのは
結局わたしだったと
だったらこのうちなるわたしわ
もっと大切にしないと。
詩篇51編6節にあるとおりだ。
自分のインナーパーソン
うちなるほんとうのパーソンに
神が真に喜びを見出すよう
そしてインナーモウストの深いところに
知恵をもたらすように。
外面で犯した違反を神はみていない。
このインナーパーソン
あるいはインナーモウスト セルフ
マイセルフでもだめだ。
マイ インナーモウスト セルフ なのだ。
この マイ インナーモウスト セルフを見極め
そこにほんものの知恵をとどませるのだ。
感情に影響しないほんものの知恵を
ある作用でひとはどう作用するかその根本原理を洞察する。