怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

脳動脈瘤と向き合う その⑧ 患者の身になってみて、おふくろの死の苦しみが少しわかった

2017年12月17日 | 健康・病気

【 おふくろの死の苦しみを自分のこととして 】

12月15日のカテーテル検査の夜、夜の9時ころ、体中の痛みがピークのころ、はっと気づかされたことがありました。

おふくろが死ぬ前の3カ月間の苦しみのことです。

自分も重い病気になって、患者として少し苦しむ身になってはじめて、おふくろの死の苦しみを自分のこととして気づかされたのです。

おふくろは90歳で亡くなった(親父は99歳で)のですが、亡くなる4か月ほど前、食事が喉を通らなくなり、山形のS病院に救急入院しました。

主に点滴だけの治療でしたが、ベッドの中で笑ったり話したりもできるようになり、「今日はぼけばっかり」と思うと、翌日は「普通に話したり笑ったり」の「半ぼけ状態」でした。

しかし、確実にやせ細っていき、骨と皮だけみたいになっていきました。

それでも、「父ちゃんと一緒で幸せだった」

「母ちゃん、おれも幸せだったぞ」と、

親父とおふくろが手を握り合ったりしていました。

ところが、そこへ病院から言われてきたことは

「このままだと、あと1週間もつかどうか、だ」と。

「胃ろうの手術をすれば、また元気になれる可能性が大きい」と。

家族会議を開いて議論しました。多くの意見は「胃ろうやむなし」でした。

私は慎重論でしたが、「胃ろうをすれば本人も家族も地獄だぞ」と一般的にしか言えませんでした。胃ろうについて、人間の死について、あまりにも無知でした。だから他の家族を説得するまではできませんでした。

今でも覚えています。

その時、親父は「母ちゃんとなら地獄まででも一緒に行く」と言いました。私はそれに反論できませんでした。

全体では、「胃ろうやむなし」になりました。

手術の前、兄貴(長男、私は次男)に電話をして最後に私が言えたことは、「おふくろに胃ろうのことをちゃんと話してよ。おふくろから手術の確認をとってよ」ということでした。後で兄貴に確かめたところ、おふくろ本人には手術のことまでは話さなかったようです。

おふくろは、若いころから、動物園などに行っても「出したゴミは持って帰る」という今なら環境派、自然派のような人でしたから、「胃ろうをしてまで生きなくていい」と言ったと思います。

胃ろうの手術後、「胃ろうは家でも介護できるから」とS病院を追い出されました。(今、思えば、病院側は追い出すために胃ろうの手術を半ば強要したのでしょう。)

家でも介護できず、おふくろは或る精神病院の痴呆など軽いほうの病棟に無理やりに入れてもらいました。

その時、診察した医師が大声で家族を呼びました。

「このレントゲン写真を見ろ! 肺が真っ白だぞ。」 「これではいつ死んでもおかしくない。よくこんな患者を出して寄こしたな、すぐ元のS病院に返せ!」と叫んだのです。

胃ろうの後処置が悪いために、胃から入れた栄養液が肺に逆流してしまったのだということでした。

私たち家族は必死になって頼みました。「今さらS病院に戻れない、何とか置いてください!」と。

その結果、おふくろには常時、酸素マスクがあてがわれ、体を半分ほど起こして肺への逆流をおさえることになったのです。

これから3カ月、おふくろは地獄の苦しみを味わったと思います。

お尻が爛れ、それでも半身を起こしておいたので、痛みがどんどん酷くなっていったのだと思います。

エレベーターで病室のある3階に上がるだけで、おふくろのうめき声が聞こえてきました。

それがどんどん酷くなり、〝うめき声”から〝わめき声”、〝わめき声”から〝おめき声”に変わっていったのです。

亡くなる直前には、体中に水分がまわってしまったのか、手とか足が水膨れになっていきました。

初めはぷくぷくと膨らみ、次には指までがポコンポコンに腫れあがり、亡くなる3日ほど前からはほんとうにグローブのような四角て硬い手になりました。

おふくろが亡くなったのは2011年4月15日ですから、3.11大地震の影響でガソリンが手にはいらない時でした。

お袋の病院に行って帰ってくるだけで、ようやく少し売ってもらったガソリンが無くなるような頃でした。

3日に1回くらい行ってた時、仕事の後、病院に行ったら、病室におふくろが1人眠っていました。

静かに・・・。

枕もとの心電図などを見たら、突然、グラフが少しずつ下がり始めました。

あれあれっと思ってる内にお医者さんが駆けつけてきて、

グラフがゼロを指しました。

「ご臨終です」とお医者さん、

 

【 おふくろの苦しみを、もっと何とか!! 】

自分にできたことで、自分がやらなかったこと。

一つは胃ろうの手術をしないことでした。

私が絶対に反対すれば、家族も医師に「胃ろうOK」の返事はできなかったでしょう。

おふくろの寿命は3カ月ほど短くなったかもしれませんが、しあわせな死を迎えられたことでしょう。

もう一つ、今回、自分が入院することで分かりました。

2度目の病院で、医師に「もう酸素マスクも、体を半身に起こしておくのもやめてください。」と頼めばよかったのです。親父や兄弟も、あのおふくろの苦しみを目の当りにしては了解するしかなかったでしょう。

医師が悪いのではない、患者と家族が主体性がないというか、勉強不足なんだ。医師にだけ頼っていたのでは良い治療は受けられないということが、今回、わかった。

医師と患者は立場が違うんだから、お互いに相手を理解する努力をし、よく話し合って、治療行為や健康回復の取り組みを進めるべきだと思います。

おふくろの時は、お医者さんに頼っりきりで、おふくろの苦しみを和らげるためには何をしたらいいか、考えもしなかった。

おふくろさんよ、ほんとうに悪かった。

酸素マスクの下で、俺たち息子や娘をどんなに不甲斐ないと思ったことか・・・。

最後には、俺たちのことを涙ながらに「人殺し!」と声なき声で叫んだかもしれない。

考えてみれば、俺は、苦しみもがくおふくろの目を真っすぐに見ていなかった! 見られなかった。

ほんとうにごめん、

このお返しは、生きてる間は社会やほかの人のために、お袋のところに行ったらお袋や親父のために、お返しするよ。

                                   ・・・・・ 合掌

コメント    この記事についてブログを書く
« 脳動脈瘤と向き合う その⑦ ... | トップ | 脳動脈瘤と向き合う その⑨ ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

健康・病気」カテゴリの最新記事