井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

作品の解釈は作曲者の死後始まる?か①

2017-10-07 15:46:00 | 音楽

團伊玖磨のオペラ「夕鶴」に出演していた男声歌手3人の話を聞く機会があった。一人は大ベテラン(運づ)、二人は比較的若手(与ひょう、惣ど)。

稽古の時に、コレペティトール(コーチを兼ねたピアノ伴奏者のようなもの)に毎回ダメだしされるのだそうだ。

曰く「台本はこうです、楽譜はこうです、だから今のはそれに合っていません・・・」

ということのようだ。

大ベテランも、年を重ねてようやく楽譜をすみずみまで読むようになったと告白された。

その3人が口々に、そのコレペティトールはすごい凄い、と言うのだが・・・。

私としては少々違和感があった。

何が凄いのかよく聞いてみると、要約すれば「楽譜を正確に読み取っている」ということだ。 こちらとすれば「楽譜読まないで歌っているんですか?」と問いたいところだ。

サイトウ・メソード・フォーエバー③

2017-10-02 18:46:00 | 指揮
「バレンボイム自伝」に、指揮者はアウフタクトの合図をどう出すかで、全てが決まってしまう旨のことが書いてあった。
別にバレンボイムを持ち出さなくても、指揮する者にとってこれは常識に近い。

歌劇場の稽古は、この「合図」の連続であって、指揮者の卵は、その様々な合図の出し方と、続く音楽の流れ方(流し方が適切か)で、どのように音楽が変わっていくかをじわじわと学ぶ訳だ。

他の要素、例えば音量のバランスの取り方など、本番直前までわからないし、音色の変化みたいな細かいニュアンスは、劇場の場合は一言二言で終わってしまう(程度しかできない)。

残念ながら日本には、そのような歌劇場が無いので、歌劇場を前提とするヨーロッパ方式は基本的に無理がある。

そこを超越した方式がサイトウ・メソードど、というのが筆者の主張である。

言い換えれば、誰でもわかる合図の方法がサイトウ・メソード。

その「誰でもわかる」が、ともすれば「つまらない音楽」になり易いことを危惧して、このメソードから離れていく人たちも多い。

それで良いと斎藤秀雄先生もおっしゃっていた。「まず型に入れよ。そして型から出よ」である。

サイトウ・メソードが習得された上でそれを使わないのは構わないのである。それならば、肝心のところは崩れない。

習得しない、あるいはできないで離れていく人、こういう人の指揮は結構問題が生じやすい。問題が生じても、原因が見えない人も多い。

それで悩むくらいなら、サイトウ・メソードをちゃんと習得したらいかがでしょうか、と言いたい筆者であった。