井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

21世紀はノン・ヴィブラート?

2006-11-16 10:31:28 | 音楽

 去る2006年11月10日深夜に放映されたNHK音楽祭で,NHK交響楽団がモーツァルトを演奏していた。指揮はロジャー・ノリントン,75才だそうだ。演奏の前にノリントン氏のインタビューがあった。ここでノリントン氏が力説していたのは「ヴィブラートは1920年以降の習慣である」ということ。つまり,それ以前の音楽はノン・ヴィブラートを前提の音楽で,それが本来の姿のはずだ,と。

 だからと言ってノリントン氏は演奏相手にノン・ヴィブラートを即要求するのではなく,提案して話し合うとのこと。(ここがニクイね!)うまくいかない団体もあるからである。N響は提案を受け入れ,初日からノン・ヴィブラート,その練習風景も放送された。そして見事にノン・ヴィブラートで交響曲第39番をを奏でたのである。

 これはかなり重要なできごとだと感じた。N響にかぎらずオーケストラの慣習を変えるのにはかなりのエネルギーを要するものだ。オーケストラに限らず百人の集団があれば,その全員の慣習を変えるのは並み大抵では無いことくらい容易に想像がつく。そのオーケストラが受け入れたということは,これから他の指揮者がモーツァルトを振る時に影響があるだろう。メンバーの左手の動きは一様に鈍くなる可能性がある。

 これには予兆があった。曖昧な記憶で申し訳ないが2001年頃だったか,ウィーン・フィルが来日した時,ベートーヴェンの交響曲第2番を,いわゆる「ピリオド奏法」で演奏していた。指揮はサイモン・ラトル。あの保守的なウィーン・フィルが……,と大変驚いたものである。

 それから考えると「ついに来たか」という感もある。数年後には日本中のオーケストラがノン・ヴィブラートを採用することになるかもしれない。

 これは,初心者に大変な思いをしてヴィブラートを教える労苦から解放された,バンザイ!を意味するのだろうか。ノリントン氏は,音程をより正確に取らなければならないから,技術的にはより難しいといっていたが,初心者にとっては逆である。音程をとる方が易しい。

 だが本当に「ヴィブラートは1920年以降の習慣」なのだろうか。ヴェクスバーグ「ヴァイオリンの栄光」(1972)よると,間断なくヴィブラートをかけるようになったのはウジェーヌ・イザイだという。19世紀末から20世紀初頭に活躍しているから,年代的には合致していると言えよう。

 一方で,ヴァイオリニストのバイブルとも言われるカ−ル・フレッシュ著「ヴァイオリン演奏の技法」(1923)には「ヴィブラート」の項目がある。これを読む限りでは,それほど新しい技法とは思えないのである。さらに今年の9月に声楽家の服部洋一氏から伺った話「モーツァルトは自然なヴィブラートのかかった声が一番美しいと言っていた」。モーツァルトが言ったかどうかは別にしても,みながノン・ヴィブラートで歌っていたとは考えられない。さらに声楽の模倣をしていた器楽が,ヴィブラートだけ真似ようとはしなかったというのも考えにくい。

 そのような次第でヴィブラートが20世紀の習慣だと断ずるのにはまだ消極的だ。これは別の視点から考える必要があるように思う。それこそ「ヴァイオリン演奏の技法」に記載されていた言葉「美よりももっと美しいものがある。それは変化である。」私はヴィブラートによる音楽作りにそろそろ人々が飽きてきたのが要因ではないか,と考える。昨年来福したヴァイオリニスト,パーヴェル・ヴェロニコフ氏はフランクのソナタを時々ノン・ヴィブラートで演奏していた。(これはイザイ所縁の曲だから,本来ヴィブラートなしはおかしいのだが)このようにしてノン・ヴィブラート奏法はじわじわと拡がっていくはずだ。

 ここで困るのは,子供を教える時!である。以前の学生音楽コンクールでピリオド奏法の男の子がいた。しかし全く相手にされなかった。それは演奏が全く良くなかったからだと思う。奏法の問題ではないだろう。だがノン・ヴィブラートで説得力のある音楽を作り出すのは至難の技である。さあ,どうする?

 多分当面は従来型のヴィブラートありで音楽を作ることになるだろう。そしてある日突然,ヴィブラートを停止させられ「できなーい!」と言うのである。可哀想に……。しばらく混迷の時代は続きそうである。


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