広い意味では、当然そうなのだが、狭い意味では昔から論議の的である。
部屋の片づけをする度に、つい読んでしまうものがいろいろあるのだが、その一つに、或るアマオケの周年誌というのがあり、またついつい読んでしまった。自分が在籍したこともなければ、実は演奏さえ聞いたことがないのだが、著名人の記述などが入っていて、ちょっとした文化史が垣間見えるので、実に興味深いところがある。
その黎明期、1960年台あたり、全国にアマチュア・オーケストラが相次いで誕生する頃だ。その頃は初任給が1万円とか2万円の時代、LPレコードは2500円した。なのでアマチュアであれ、舞台に楽器がいっぱいならんで音を出すのを聴けるだけで喜べた時代だ。
しぼり出すオーボエ、はずれるホルンにジャージャー鳴る弦楽器、それでもそれなりに楽しめた。
この頃は、小さい時から楽器を練習しているのはプロを目指している人、アマは大人になってから楽器を始めた人、という「わかりやすい」区別があったのが一般的だった。
それが時代が進むにつれ、徐々に境界線がわかりにくくなる。即ち、音大を出てアマオケに入ってくるケース、あるいは音大卒業でなくても、小さい時から楽器を練習していて、そこそこ弾ける状態にあるケース、そのようなケースが集合すると、アマオケと言えども高度な指標を持とうという動きはごくごく自然である。
ここで摩擦が生じる。
音楽を前にしてプロとかアマとか言っていてはいけない。できる限り質の高いものを目指して、聴衆に訴えかけるべきである、という考え方。
プロではないのだから、プロと同じことを考えるべきではない。お金を払ってやっている活動なのだから、自分たちが楽しまないでどうする。やれる範囲を無理なくやって和気藹々と楽しもうではないか、という考え方。
一見対立する考え方なのだが、両方とも正論、だからかどうかわからないけれど、大抵のアマチュアは両方の考え方を合わせ持っている人が大半を占める。そして状況に応じて、どちらかの考え方が表面に出る訳だ。
しかも「やれる範囲で無理なく」も、実に幅広い考え方で、「シェーンベルクなんてやらないでもマーラーくらいでいいじゃない」から「ベートーヴェンなんてやらないでもAKBメドレーでいいじゃない」までのグラデーションがあり、この中での対立は充分にあり得る。
さらに「やれる範囲」が仮にベートーヴェンだったしても「マーラーみたいに難しくないから、これならハイレベルの演奏を望める」から「ベートーヴェンも難しいとこは難しいけれど、それは弾ける人に任せて空中ボウイングでもいいじゃない」まである。
皿に茶碗に「弾ける人に任せる」も、「そのためにプロを雇おう」から「みんなで霞めばこわくない」まで広がっている。
これらの問題はオーケストラ特有と言って良いだろう。なぜならば、プロのために書かれた譜面をそのまま演奏しようというのが、アマオケの一般的な姿だからだ。最初から無理があるのである。
同じアマチュアでも合唱や吹奏楽は、比較的この問題が少ない。なぜならば、彼らの大半はアマチュア用に作られたものを演奏するからだ。
オーケストラもアマチュア用の作品を演奏すれば良いのに、そうならないところがアマオケである。やはりチャイコフスキーやブラームスをそのままやりたいのだろう。
この「周年誌」を読むと、そのあたりの葛藤があちらこちらに顔を出す。そして、それは1980年代から90年代にかけての主要な問題だったのが見てとれる。楽しければ良いのかどうか、この時代は結論が見えない時代、と言えそうだ。
長くなったので、続きはまた次回。