弦楽器奏者はソロ、室内楽、オーケストラが弾けないと一人前とは言えないと昔から言われている。ソロ活動だけのヴァイオリニストは20世紀の現象でヨアヒムもイザイもオーケストラを弾いていた。第一、合奏ができなければヴァイオリン弾きとしては役に立たない。
だから、万障繰り合わせて、わが大学の学生たちにも室内楽を試みさせていた。
しかし、チェロが一人でヴァイオリンが8人いたりすると、まず組み合わせが難しい。一人ずつの力のばらつきもあり、一緒に演奏しても勉強にあまりならない人達も出てくる。その上、弦楽四重奏でもやろうものなら、あっという間に仲違いが始まったりして、こちらは唖然とさせられたことも何度か・・・。
その昔の島根大学の特音(特別教科教員養成課程音楽)は、授業として管弦楽も室内楽もあったというから、うらやましい限り。
それに学生だけに任せていると、遅々として成果を出せずに終るケースも多い。
なので今年は全員一緒に室内合奏をやることにした。一人ずつソリストにしてヴィヴァルディの四季をやったら、興味を持って上達もするだろう・・・と思いきや・・・
練習して来ないのか、やる気がないのか、何週間たっても下手なまま。
ならば管楽器を入れて、モーツァルトの交響曲をやったら、真面目な管楽器のムードに引っ張られて、ちゃんとやるかもしれない、と思った。
だが、正規の編成ではできないから、ある程度ピアノで代用しながらの合奏である。多少の歯抜けは止むを得ないのだが、学生の頭の中まで歯抜け状態、これまたちっともまともには演奏できなかったのである。
かくなる上は、学生の人数に合わせたオリジナル作品を教材にするしかなかろう、となった。
残された回数は2回。2回で仕上げられる作品を、という訳で準備したのが「夏ら・ら・ら」。これは、その昔作った弦楽四重奏のための「春る・る・る」の改作である。
ところが、他の授業の「手伝い」に行かなければならないとかで欠席者続出。1回目に出席したのは半分以下だった。
こうなると残りの一回で何とかするのは、指揮者をたてない限り、まあ無理に近い。
それで、その2回目の授業では、私の指揮で1時間練習して最後約10分が録画の本番、という形で何とか体裁を整えよう、ということにした。
指揮者を使うと、1時間でできるかどうかは指揮者の力次第、学生は一挙にスタジオ・ミュージシャンと化してしまうのだが、それも一つの経験と割り切ろう。
それでも途中で帰る学生あり、練習してこない学生も大半であり、どこまでやる気があるのか不明の集団だった。おまけに、2回出席した1年生よりも1回しか出席していない2年生の方が出来が良かったりするから、出席すれば良いという単純なものでもない。授業というのはそんなものだと、これも割り切ろう。
しかし、8分の曲を9分かけた、ゆっくり目のテンポだったことと、コンミスは一回目の練習にも出ていたので理解が深まっていたことも幸いして、それほど遜色のないできにはなった。
タイトルの「公共曲」には、「循環コード」という音楽の公共の財産が使われているから、という深い意味があるのだが、ここでは浅く触れておくにとどめる。
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ということでめでたく終了できるかと思いきや、3人ほど補習の必要が出てきて、最終の授業ではなくなった。最後までいろいろあるなぁ。