前々回の記事を書いて、友人が「この間亡くなった玉木さんだよね」と教えてくれるまで、訃報を知らずにいた。
「大江戸捜査網」の音楽を知っている人は多いが、その作曲者の名前を知る人は少ない。私が玉木氏の名前を覚えたのは小学校高学年の頃だったような気がする。だから私にとっては有名人、声を大にして功績を称えねばならないような気分になってしまう。
最初は「NHKみんなのうた」で放送された「森のくまさん」の編曲者として、次に「さすらいのバイオリン」の作曲者として。このあたりの記述がウィキには抜けているから困ったものだ。
この歌が放送された頃、すでにバイオリン少年だったから、ヴァイオリンの歌には鋭く反応した。前奏が「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の変形なのだ(出版されているピアノ伴奏譜は全く違う平凡な前奏がついているが)。爾来、現在にいたるまで「アイネク」を演奏する度に、この前奏が頭をよぎる。影響などというレベルではなく「刷り込み」である。
次の出会いは、NHK全国学校音楽コンクールの中学生の部の課題曲「レモン色の霧よ」。これはワルツ、課題曲でワルツが出たことはなかったと思うが、とても品のいい佳曲であった。
ところが何とししたことか、この年には私は高校生になっており、この歌は歌えなかったのだ。昭和37年から40年生まれの後輩共にその恩恵はかっさらわれてしまった。
でも後輩思いの良き先輩のはずの私たち数名は、夏休みの補習授業を抜け出し、長崎市からバスで2時間かけ、佐世保市民会館までコンクールの応援にかけつけた。応援の甲斐あって、わが母校は県大会で1位をとった。嬉しいのと(歌えなくて)悔しいのとがないまぜになった思い出である。
同じ頃、NHK朝の連続テレビ小説「おていちゃん」の音楽も流れていた。これもワルツ。
それから10年くらいして、仕事場でご本人にお目にかかることになる。
当時、玉木氏はNHK教育の「ゆかいなコンサート」のレギュラーだったから、結構変な人の印象は持っていたが、お会いしたら本当に変な人で、ますます尊敬してしまったのである。「ヴァイオリンは新しいのが一番」なんて、そうそう言えたものではない。
田中千香士先生の影響で、当時私はコンピューターヴァイオリンと呼ばれた楽器に凝っていた。皆さん1980年代当時でも数百万はする楽器を使うのが当たり前の仕事場に数十万円のヴァイオリンを持っていって眉をしかめられること度々だった。
変な人だったけれど、膨大な音楽の知識も持っていて、そこは誰もが認める尊敬のポイントである。山本直純さん直系の音楽家と言えるだろう。
思い出がどんどん出てくるし、玉木氏が声高らかに主張されていたことも色々と思いだされる。その中のいくつかは、玉木氏亡き今、残された者が代わって伝えなければならないかもしれない、との思いにも駆られたので、続きはまた次回。