史跡や公園の施設に落書きをしてはいけない。これは当たり前である。
だが、その落書きが、例えば百年以上残っていたりすると、落書き自体が歴史的資料になってしまう。
だから、どうせ落書きをするならば、百年以上未来の人に向けて書いた方が良い、
と言いたい訳ではない。
ふと、昔の東京芸大の練習室の落書きを思い出したのだ。
大半がくだらないものだが、時々感心してしまうものもあった。
ドレミファソラシドの楽譜があって、最後のドだけオクターブ高く書いてある。
これは「高井戸」(東京の地名で、高いド)、というなぞなぞ。
次のドレミファソラシドは、シとドがオクターブ高く書いてある。
これは「下高井戸(しもたかいど)」
貴重な?情報もあった。
「黛敏郎の髪はカツラである」
その下に黛先生の似顔絵があり、吹き出しに「芸能界には知られたくないなぁ」とあった。
これには驚いた。当時、題名のない音楽会の司会者で、私の管弦楽法の先生でもあった。
お会いする度に、髪の生え際を凝視してしまう。
すると、日によって生え際の位置が違うようにも見えた。
それでも決め手に欠けるなぁ、と思い、黛先生の昔の写真を探したのである。(私も閑人だな。)
すると、一葉だけ、髪の非常に薄い写真を見つけた。同級生の作曲家、矢代秋雄とのツーショットだ。
決定的かどうかはわからないけれど、これで「カツラ説」を信じることにした。ロマンスグレーのカーリーヘア、こんなカツラ、他に見たことがなかった。さすが黛先生、と思った。
そんな落書きが、ある日、改修工事ですべてなくなる日が来た。
すると、ここぞとばかりに、あらゆる壁に落書きをした学生達がいたらしい。
どうせなくなるから問題は生じないだろう、と思ったのが学生の浅知恵。
計画されていた改修工事は案外小規模なもので、壁はそのまま残る予定だったらしい。
おかげで、想定外の経費がかなりかかり、学生代表がかなり怒られた、かどうかは定かではない。
普通だったら「だから勝手に落書きなぞするな」で終わる話だ。ちなみに私達の学年は上級生らしく?落書きはしなかった。
さて、それから数十年経って…
落書きした学年は、その創造性を音楽面に活かしたと見えて、あちこちで活躍する姿が見える。
一方、落書きしなかった学年は、ずっと大人しく…
大人しくと大人らしく、似ている、
ちょっと違うのだが。
落書きも、創造性の発露なのだ。
普通の大学ではないのだから、一律「落書き禁止」で良いのだろうか。
まぁ、良くないとしか言えないだろう。落書きでない形で創造性を発揮せよ、ということだな。
巨大な機械が置いてあって、その前でチェロを弾く、というような話だった。
送られた人を正確には覚えていないけれど、岩崎さんあたりの世代で、その後一流のチェリストとして活躍している人だったはず。
という昔話だと思っていたが、私の世代はその昔話の世代だったということが最近判明した。
先日、桐朋学園大学を卒業した人達と一緒に演奏する機会があったのだが、彼らによると、その機械は1980年代までは置いてあったそうだ。
403という合奏室の隣の小部屋に置いてあり、その機械の丸い部品が、正しい音程の時は回り続け、外れると止まる…
いやはや何とも、かわいらしいというか恐ろしいというか、後のチューナーと比べて非常に人間的な機械だ。
「チューナーより優れているのは重音でもキャッチしたんだよね。」
「あれを電機メーカーに特注して作らせたっていうんだから(斎藤秀雄先生は)すごいよね。」
現在50代以上の卒業生は知っていて、40代以下の卒業生は知らない、ということもわかった。
多分、日本の音楽技術向上に一役かった音程矯正器?!
博物館に展示してほしい逸品だが、話の感じだと、とうに処分されているのだろうな。ちょっと残念。
先日、多くの中高生がヴァイオリンを演奏するのを聴く機会があった。
女子中高生が大人と同じようなドレスを着て演奏するようになったのは、いつ頃からだろうか?
少なくとも、筆者の世代にはいなかったような気がするが、関心もなかったので、気がするだけで実際には着ていたと言われるかもしれない。
そういった話ならば、それはどちらでも良い。
それほど関心も無かった私が口出すことではないと思うのだが、気になることがある。楽器を持って歩いているのに、ドレスをつまんで歩く姿、これが美しくないと思う。
もっとも演奏に入ってしまえば、そのようなことは忘れてしまう、のが大半だ、と思いたい。(中には繋がって「美しくない演奏」の場合もある。)
演奏の中身の方が大事なのは言うまでもない。でも、美しいドレスに関心がある人は、美しい歩き方にも関心を、と思っているのは、筆者だけではないと思うのだが。

音楽史上始めてであることは無論、今後も二度と起こらないだろうという事件が世間をにぎわせている。
一応「詐欺」ということになっている。確かに騙された人がいるから、間違いではない。
しかし、何とも腑に落ちない点も多く、ついに今日は週刊文春を買い、ことの経緯を知った。
ついでに吉松氏のブログも読んだ。いちいち合点がいくことが書いてあった。
ちなみに、本人が作っていないというのは過去にも例がある。業界で一部話題になっていた方として故・芥川也寸志氏がいる。晩年の話だが、全て奥さんが作っていた、と言われている。
なので、本人が作っていないからといって、格別に驚くこともなく、ああそうか、という程度のもの。というのも、私自身が渦中の人であるS氏の曲もN氏の曲も、あまり好きではなかったからだろう。それよりも芥川氏の曲の方が好きだったので、こっちの話を聞いた時の方がショックは大きい。
S氏の曲を芥川作曲賞に推薦しようとした人がいることの方が滑稽だ。本当は代作者同士で、実にピッタリかもしれないなどと言いたくなるけれど、それじゃ真っ当に作っている人を愚弄することになる。これはNG。
それよりも、吉松説にある「これもありなのではないか」の方に同意する。つまりプロデューサーとコンポーザーがペアになって仕事をする方式。ポップス界では当たり前のこと。
それでも、プロデューサーだけが表に出て、しかもその人が音楽の断片すら作れないというのはいかがなものか、という説もあった。
でもチャーリー・チャップリンの先例がある。今でも、チャップリンの映画音楽はチャップリンが作ったと思っている人は多いけれど、全て他人の旋律を買い取って、それを専門家に渡し、完成させてもらった音楽だそうだ。これも、プロデューサーのみが表に出ている例。
クラシック界でも指揮者のレオポルド・ストコフスキーの編曲は、全て第2オーボエかなんかの人が手がけている、とルイ・グレーラーの本に書いてあった。しかもストコフスキーの本名はストークスでイギリス人だとか。私としては、こっちの方がショック大きい。結構尊敬していた指揮者だったから。これこそクラシック音楽界最大の詐欺師だ。
それに比べれば、仮にソチ・オリンピックを通じて虚構が世界規模になろうと、全然大したことではないと思う。チャップリンの映画音楽を批判している人なんていないでしょ?
まぁ、東日本大震災を商売のネタにするあたりは、やはりあざとさを感じて嫌だし、もし障害者手帳を不正受給していたとすれば、それは問題だが、こちらは音楽の問題ではない。
私がそれよりも嫌なのは、こういう強烈なストーリーがないと、人は注目しないという現実。
聞いているのは音楽なのか、ストーリーなのか?
いやはや、様々なことを考えさせてくれる事件である。
ベルリンの壁が崩壊したのは11月9日と言われている。(一瞬で壊れたわけでもないから、、あくまでも便宜上の話だ。)もうすぐ、ってことか?
その翌1990年10月にドイツは再統一された。
その1ヵ月前、私はミュンヘンに数週間滞在したことがある。酔狂にもコンクールを受けていたのだ。どうしても受けたかったからである。正式には全ドイツ放送何とかという名称だが、俗にミュンヘン国際音楽コンクールと呼ばれているものの二重奏(ヴァイオリンとピアノ)部門というやつ。
成績は1次落ちで全くダメだったし、それなりにガックリはくるのだが、それでもこれは面白い体験だった。
ミュンヘンのコンクールの規模は世界一と言われている。室内楽部門まであり、それには私が受けた二重奏の他にチェロとピアノの二重奏や弦楽四重奏などというものもある。とにかく部門が多い。それを何年おきかに開催している。
その年も、一般的なピアノや声楽の他にファゴット、チェロなどがあった。それらを並行して開催、会場は予選がバイエルン放送局のスタジオ、本選は当時ヘラクレスザールという石造りのコンサートホールも使った。
特筆すべきは、このコンクールがミュンヘンの(特にじいちゃんばあちゃんの)毎年お楽しみの行事になっていること。オリンピックを小規模にした感じと言えばわかるだろうか。じいちゃんばあちゃんが、今年はどんな若者がシューベルトを、モーツァルトを、ベートーヴェンを演奏してくれるだろうか、と期待して会場に赴く姿が忘れられない。
そして何より、参加するのがこんなに面白いとは思わなかった。
練習会場にはミュンヘン国立音大の部屋が提供される。友人の留学生がいろいろ教えてくれた。
ここはピアノのゲルハルト・オピッツ先生の部屋。壁には「安川電機」のカレンダーがかかっているでしょ。あれは安川加寿子先生からの贈り物。オピッツ先生は日本語がわかるから、油断できないよ。そしてついでに、ここは戦前ナチスの執務室ね。
1次が終わったら、今度は応援団の一員である。こういう時は日本人同士すぐ友達になるし、もともとの知人はさらに連帯意識が強くなる。2次まで進むと、メーベンピックというレストランの食事券が渡される。進まない人は渡されないのだが、なぜか私も声楽のヒシキさんという人ほか数名と一緒に食事をした。こういうことは国内ではあまりないような気がする。
欧米のコンクールの良い所は、審査員との接触が比較的自由で、コメントを得るのも難しくないことだ。審査員も心得たもので、全員のメモを作って、いつでも質問に応じられる態勢をとっている。
とは言え、なかなか聞き出すのには勇気がいるが、一回やってしまうと勢いづいて他の審査員にも訊きまくった私、自分のでは飽き足らず、大和撫子の先輩を連れ出し、その先輩へのコメントまで引き出したほどで。
その先輩は2次で落とされたのだが、ウィウコミルスカ先生にコメントを求めると「なぜ落とされたのかわからない」という、受けとりようによっては最高の賛辞をいただいた。それを聞くとなぜか私まで嬉しくなったりして。
そう、ミュンヘンといえども納得のいかない審査がある。友人曰く「今年はOからか・・・」
朝から夕方まで審査は続く、やはり午後の2時前後が順番的に恵まれたポジションだ。ミュンヘン音大からは、いわゆる「本命」が送り込まれる。その「本命」が一番有利な順番になるように、アルファベット順をAからでなく、どこか途中から始めて調整する、というのだ。
ヴァイオリンの本命はドイツ人ではなく中南米の小男テオ。これがまた動き回ってロビー活動に余念がない。君は何を弾く?から始まって、魚は食べるか?などという話までしていた。
このテオを指導していたのがクルト・グントナー。その昔、カール・リヒターが日本で「マタイ受難曲」を演奏した時に第一ソロを担当した人だ。(礒山先生はまだ学生、故吉田秀和は「マタイのことはまだとても書けないけれど」と言わしめた幻の名演である。と言ってもCD録音はあるけれど、本当に名演です。)
しかしテオが弾いたシューベルトの幻想曲はペータースの旧版を使っていた。当時すでにベーレンライターが原典版を出しており、これが旧版と比べ、かなり難しくなっていた。コンクールでしょ?古い慣行版でお茶を濁していていいの?
テオは最終まで残りはしたものの案の定、入賞はできなかった。どれだけ裏で操作があったかはわからないが、これで結果的に公正な審査結果になった訳だ。悔しそうなグントナーの顔も忘れられない、印象的な最終審査だった。
そのグントナー、武蔵野音大でも教えた時期があるからご存知の方もいらっしゃるだろう。
最近、ようつべにお出ましになって、いささか驚いている。ちゃんちゃらおかしいのは、ヘンレの原典版の宣伝をしていることだ。あの時は使わせなかったくせに・・・。
ひょっとして、あのテオの落選で懲りたのか、あるいはミュンヘンのヘンレ社でなければ認めたくないのか、そのあたりはわからない。(ベーレンライターはカッセルという街の出版社)
それにしてもヘンレ社もおもしろいことを考えるものだ。そしてこのようつべ、ドイツ語のオリジナルに加え、英語版と日本語版がある。我々を重要な顧客と考えてくれているのは、ちょっとばかり嬉しいかな。いずれにせよ、他の曲も合わせて、結構参考になるものもあるので、時間があったらご覧いただきたい。