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井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

「拍子」ぬけ

2009-06-20 11:18:42 | コンクール

 続けてさるコンペティションの話。

 部門がピアノ,管・弦楽器,声楽と分かれ,それぞれの専門家が出した点数を参考に,総合評価の審査員が全体から賞を決める,というやり方だった。総合評価を下したのはピアニスト,指揮者,音楽学者,オーケストラ事務局長,元オペラ事務局長といった方々,とても「総合的」な感じがする皆様である。

 トランペットの参加者がいて,短い楽章が4つある曲を吹いた。しかも一つの楽章はフリューゲル・ホルン持ち替えだった。それを管楽器の審査員が二人,弦楽器は私一人,それに総合評価の皆さんで聴いたのである。

 たまたま持ち替えたフリューゲル・ホルンが審査員席から見えにくいところにもあり,さらにたまたま管楽器の審査員が下を向いていた時に持ち替えたとあって,この持ち替えを管楽器の審査員は気づかなかった!
 「あ,この人こんな音もトランペットで出せるんだ,と思ってよく見たらフリューゲル・ホルンだった」と,お二人の先生が口を揃えておっしゃったのである。

 逆に表現すれば,フリューゲル・ホルンからトランペットのような音が出ていた,とも言える。当然のように,この先生方からは低い評価しか引き出せなかった。

 私は持ち替えを見ていたので,フリューゲル・ホルンはこんな音かな,という程度。

 三人共通していたのは,それよりはヴァイオリンの方がまあ上だろう,ということ。

 ところが総合評価の審査員はトランペットを上に評価した。

 考えられる要因は二点。
・トランペットの音量が大きい。
・ヴァイオリンは「拍子」が欠如。

 管・弦楽器の人間としては,なかなか納得のいかないところではある。しかし,技術面にとらわれて,大局的な見方がしばしばできなくなるのも認めざるを得ない。私からして,ピアノや管楽器の学生には,音楽作りのおおもとのところを話すのに対して,ヴァイオリンの学生には弓の持ちかたや左手の使い方に終始していることが多々ある。

 私達としては「拍子ぬけ」,すっきりしない感情を引きずったまま,会場を後にした訳だが,ことほどさように,「拍子」がないとサマにならない,ということだと理解したい。


ソリストだけが全てではない

2007-12-23 10:26:57 | コンクール

日本の新聞には必ずスポーツ欄がある。スポーツ新聞もある。 ウィーンの新聞には音楽欄がある。音楽新聞もある。さすがは音楽の都!

日本の新聞で音楽が一面を占めることは滅多にないが、昨日、毎日新聞では二面も使って、学生音楽コンクール全国大会の様子を報じていた。音楽が大きく扱われることはなかなかない。その意味で、大歓迎である。

ヴァイオリン部門の小中学生は審査員のH先生から全員絶賛だった。多分その通りなのだろう。審査員の点数表を見ると、H先生の生徒さんもかなり含まれていることがわかる。なかなかコメントが難しかったことだろう。

ここでH先生の「コンクール必勝法」を思い出した。 要点は以下の通り。

・速く正確に弾く。

・勝ち進むにつれ、うまくなっていく。

あまりにも身もふたもない表現で、ロンティボーの審査委員長がこんなこと言っていいの、という気もしたが、その心配をよそに、この発言は、あっという間に関係者に伝わった。

言われるまで気付かなかったことではある。でも確かにその通りであることがわかる。

で、これが実現できないのは、やはり速く弾くのは難しいからだろう。具体的には指の力だ。子供の手はフニャフニャしているから、重音でかなり苦労することがある。これが高校生だと何の苦もないことがしばしば。

というのは私の体験であって、この新聞に載る人達には当て嵌まらないのだろう。(正直言って、力がなくても弾けるのか、力がとても強く鍛えられて弾けるのかわからない。)

私の気にかかるのは、この記事を読んで悲観してしまう人々である。これが全てだと誤解してしまう人達である。

多分、現在ソリストは余っている。そこで社会的に動くべき方向は、聴衆を増やすこと。SMAP並に動員できれば問題は起きない。

個人的に目を向けるべきは室内楽とオーケストラ。どちらもソリスト級の腕が必要だ。だからと言って、子供の時から入賞くらいしなければ、などということは全くない。(そう言えばH先生御自身、日本を代表する室内楽奏者だ。)

室内楽は日本人の資質にとても合っていると思うのだが、現在優秀な室内楽奏者は不足気味。私としては、一人でも多くの室内楽奏者が誕生することを願っている。

そのような次第で、今、思うように伸びなくても、新聞に載らなくても、諦めないで続けて下さい、と申し上げたい。


江藤俊哉ヴァイオリンコンクール

2007-08-05 23:03:01 | コンクール

受賞者演奏会を聴いた。場所はルネこだいら大ホール、実は前日のリハーサルと当日のゲネプロから聴かせてもらった。毎日新聞の梅津氏言うところの「さわやか世代」の演奏にも触れてみたかったし、昨今の新日本フィルも興味あったし、何より師匠が棒を振る姿を見ておきたかったからである。

出演者は7人だから7曲演奏されるのだが、このうち4曲はこの師匠からレッスンを受けたのだから、興味はひとしおである。

江藤先生の名を冠しているので本番には江藤先生がお見えになるのかと思いきや、とてもお宅を出られる状態ではないらしく、会場には審査員でもあるアンジェラ夫人と堀米ゆず子さんの姿が見受けられた。

このコンクールにはジュニア・アーティスト部門(12~16歳)とヤング・アーティスト部門(17~26歳)がある。二つの部門の差は明瞭で、やはり子供と大人といったところか…。

そうは言っても、みんなすばらしい音を持っている。私の生徒達に是非聴かせたいというのが正直なところだ。 その中にあっての以下のコメントなので、そのつもりでお付き合いいただきたい。

やはり子供だなぁと思うのは、オーケストラに対してろくにお辞儀もしないで始める人がいること。これは礼儀の問題もあるが、オケ側にすると、いつの間にか始まってしまった感を持つ。気分が乗らないから演奏もうまくいかない、という問題も生じていたように見受けられた。要注意である。 最初のワルツ・スケルツォの演奏者は、とても伸びやかで澄んだ音色の持ち主である。これ自体は大変魅力的だ。大人になるには次の標語が参考になる。 「とびだすな、車は急には止まれない」

オーケストラの人数は多い。そう簡単に速くしたり遅くしたりはできない。その上、最後の異常なテンポアップはチャイコフスキーの様式を逸脱しているから、オケ側も抵抗感がある。だから最後になって盛り上がらなかったのが残念だった。

次はブラームスの協奏曲終楽章。こちらは逆に音色の輝きが弱く、ブラームスに必要な重量感こそないが、音楽が溌剌としていて、そのビート感がオケをリードして最後を盛り上げたのは立派!対照的な二人で3位を分けあったのも、むべなるかな、といったところ。

次のツィガーヌを聞いてから件のチャイコンを聞いていたら、もう少し違うコメントになったに違いない。 思いっきりチガーウのである。一音入魂以前に中国風、所謂ルーモっぽい、だけならまだしも、楽譜をテキトーに読むのだけは改めていただきたいものである。 たまたま間違ったのかと最初は思ったところが本番まで訂正されず、三連符の意味も理解していないようだった。三つの音符をまとめて和音にして良いというルールは地球上にはない。

こうしてみると1位は1位になるだけのことはあると言わざるを得ない。サンサーンスの協奏曲第3番を弾いた彼女、リハーサルではテンポが揺れ、オケとしばしばズレていたのだが、翌日は見事に波をキャッチ、本番では持ち前の豊潤な響きで聴衆を魅了したのである。

さて大人のヤングアーティスト部門、こちらは音色が鮮明になるにしたがって順位が上がっていった感がある。

唯一の男性が弾いたモーツァルトのロンド変ロ長調。私は寡聞にして初めて聴いた曲だった。 選曲のみならずカデンツァも自作するなどユニークさは群を抜く。くっきりした輪郭が魅力だった。これに右手首のしなやかさが加われば、さらに成長が期待できそうだ。

次のショーソン「詩曲」は今日の出演者中、最年長者によるものだが、それだけに一番音楽を聴かせてくれたように思った。オーケストラを聞きながら、共に音楽を作っていくことができていたと思う。安定した技巧と艶やかな音色も美点であろう。

最後にシベリウスの協奏曲全楽章。とてもブリリアントな音色を持ち、恐らくそれが一位を導いたのだろうと思われる。しかしそれだけでは不十分という典型だった。

1楽章の最後、コーダで事故が起きた。リハーサルで危なくて何回もやり直した入口のところではなく、しばらくしてから管楽器が微妙にズレ始め、弦楽器も彷徨、金管楽器は咆哮、ついに全員が方向を見失った。 いやはやここまで盛り上がらない1楽章は珍しいと思うが、それでも拍手が起きたので、わからない人にはわからなかったと思われる。

事故は2楽章でも起きた。もともとどちらの楽章もポリリズムだらけで油断するとすぐにズレ出す難曲である。しかし今度の事故は楽章中盤で起き、最後まで乱れは続いた。

指揮者には問題がないと言えば嘘になる。しかしオーケストラには事故が起きないための安全装置がいくつもある。事実、コンサートマスターの弓は指揮棒代わりにしばしば動いていたし、あちこちのパートで体を大きく動かす人がいた。 それでも防げなかったのは何故か…。

3楽章を聞いて、その原因がわかってきた。ソリストにビート感(拍節感)がないのである。シベリウスに合わせて日本舞踊を舞っているような感じと言えばおわかりいただけるだろうか。

アンサンブルをする場合、演奏者はお互いにパルスのようなもの(音)を出しながら音楽を進める。これを聞きながら自分も音を出し、ズレが生じれば微調整する。このパルスは通常ビート(拍)で、いわゆる強拍を強く感じ、奏することにより、それが相手に出すシグナルにもなっている、という仕組みだ。

つまりビート感がないと本物らしく聞こえないだけでなく、アンサンブルまで不可能になることが実証された形だ。

でも人も羨む音色の持ち主、是非とも獲得してほしいビート感である。

今日の模様はミュージックバードというデジタルラジオで放送されるので、学習者にとっては貴重なドキュメントになるかもしれない。

オーケストラにとっては、とても心臓に悪い本番だったであろう。それでも険悪な雰囲気になっていないのが、師匠の人徳と言うべきではなかろうか……と言っては贔屓が過ぎるかもしれないが、先生の冗談に笑い転げるオケメンの図、そうそうあるものではないだろう。 いつまでもお元気であってほしい我らが師匠であった。


全九州高等学校音楽コンクール

2006-11-02 22:13:20 | コンクール

佐賀市文化会館で行われた弦楽器部門の審査をした。この部門の水準を上げるため、実はちょっぴり運動をした。その甲斐あってか、結構高いレヴェルだったと思う。10年前は「どうやって良さを探そうか」という演奏も少なからずあった。今年は確実にプロになれる人々が散見された。私だけが言っているのではない。共に審査員だった川崎先生(東京芸大助教授)も同様のことをおっしゃっていたし、金賞が参加者の半分を占めたのも、それを物語っていると言えるだろう。 アンサンブルができる人はまだ少ない。彼等にはそれができる人に!と思う。


ザルツブルク・スタイル

2006-10-27 11:57:33 | コンクール

も良いけれど,ここはイタリアン・スタイルで,と言われて,モーツァルトを演奏した強烈な思いでがあるのです。こんなことはアルプスの北側事情を知っているイタリア人しか言わないと思いますが。

このイタリアの話は長くなるので別の機会に譲りますが「モーツァルトはこうだ!」と思っている姿が,ドイツ・オーストリア,フランス,イタリア,ついでにロシア,ではかなり違って,お互いに時として批判的ですらあります。
またドイツ・オーストリアと一言でまとめましたが,たまに「ウィーンの流行奏法」もあったりして,我々外国人が惑わされることも,無きにしもあらず。

私が論ずる立場ではないようにも思うのですが,あえて踏み込み,そのような細かい違いを除外してまとめると,以下のような特徴があると思われます。
ドイツ・オーストリア:アクセントは強く,アーティキュレーションははっきり。
フランス:アゴーギクは少なめに。
イタリア:アクセントは長短で表現する。とにかく歌う。

「ギャラント・スタイル」はスラーの句切れをはっきり切り離すなど,アーティキュレーションを明確に打ち出す様式で,イタリアではあまり重視されていないような気がします。

これだけでもモーツァルトがいかにコスモポリタンだったかがわかろうというもの。モーツァルトの演奏が難しい一因になっています。で最終的には「お好きなように」になってしまい,「変な演奏」も出てくるのかもしれません。
しかし例えば20年前クレーメルのモーツァルトは「変な演奏」と思ったのですが,今聴くとちっとも変ではないので,思い込みが強すぎるのも良く無いな,と思っています。

グリュミオーこそモーツァルト世代の戯言でした。