井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

どこに立つ?~ステージ上の音響学

2013-09-28 20:35:42 | コンクール

大学の教養科目なんて、大体は単位のために出席するのであって、それが有用かどうかなんて普通は考えないものだ(と思う)。しかし、後からジワっと「効いて」くる科目もある。これこそが有用な教養科目だろう。

大学時代に「音響学」という教養科目(当時は「一般教育科目」と呼んでいた)を履修した。なかなか難しい科目で有名で、でも「いつか役に立ちそうだ」と誰もが思った科目で、大勢の人が履修し、結構な人が脱落していったような記憶がある。

とにかく毎回違う「音響」が出てくるのだ。世の中にこんなに違う「音響」があるのかね!と驚いている間に先に進んでしまうから、ちっとも覚えきれずに、先に進んでしまったような気がする。

が、割と最初の方で取り上げた「建築音響」、これは面白かったし、今でも大変役に立っている。(これが嵩じて「音響生理学」は無論、楽理科の科目である「音楽音響学」まで履修してしまったのだから、覚えられなくても好きだったのだろう。)

教養科目で得た知識なんて、たかが知れている。たかの知れていることくらい皆知っているだろう・・・と思うのだが、実際は違う。それどころか、音響学的知識は全くないまま現場で仕事をし、関心さえ持たない人も多い。

でも、知らないことで損をしていることもあるのだ。それでさえ「当人の努力不足だろう」とみなされておしまいになっていることも多々ある。

仕方ないから、自分が教える学生には、その一部を伝授するのだが、専門から随分と距離のある分野なので、正直なところおこがましさを感じてしまう。でも、本当に物理学者でも「音響学」となると尻込みされてしまうことも多く、仕方なしに「なんちゃって音響学者」の私がしゃしゃり出るはめになる。

それで、やっと本題。

某コンクールで、ヴァイオリンの立ち位置の目安を決めることになった。

「立ち位置で聞こえ方が全く変わってくる」くらいのことは、ヴァイオリンを弾く人間は経験的に知っている。

しかし、ホールが響くところであれば、どこで弾いても致命的なダメージは無い。

そして、そのコンクール会場の残響は長めだった。なので、並み居る審査員、立ち位置にはほとんど関心を示さなかったし、しかも課題曲が無伴奏だったので、かくいう私も、それほど強い関心はなかった。立ち位置の目安なんて必要かな?と私も思ったのだ。

だけど主催者がせっかくそのような意向を示すので、それならばと、持ち前の「なんちゃって音響学者」の知識を総動員して、立ち位置の目安決めに協力した。

アリーナ型の会場で、言ってみればサントリーホールをそのまま小型化した感じで、緞帳や反響板が無い。どこで弾いても良さそうなものだが、よく見ると、上手と下手の出入り口の部分が少し舞台に張り出し、木の柱のような部分がその横にある。その柱のような部分が一番中央にせり出した形になっているので、そこを結んだ線から奥にいくと舞台上の残響を利用でき、そこより客席側に行くと、よりはっきりした音像になりそうだ、と予測したのである。

ちなみに、そのホールの音響設計は、確かサントリーホールや津田、カザルスなどと同じ方だったと記憶している。

それで、その線上に印をつけさせてもらった。舞台のほぼ中央になってしまった。正直言って普通そこに立って演奏はしないだろうな、という位置である。我ながら「ここで良いのか?」と思わないではなかったのだが、主催者側の「別にそこに立たなくても構いませんから」の言葉に意を強くして、本番に臨んだ私であった。

案の定、8割ほどの出場者からは無視され、いわゆる客席に近い場所で演奏は行われた。

しかし、忠実に印の上に立った少数派は、聞いてびっくり。えも言われぬ馥郁たる香りのような響きにつつまれたヴァイオリンの音がするではないか!

これこれ、こうでなくては、と我が意を得たりの井財野であった。

ただし、これは審査とは結びついていない。

そこに立った人の評価が必ずしも高かった訳ではないし、立たなくても評価の高い人は大勢いた。(だからこそ提供する話題である。)

私は、この残響に包まれた音が大好きだが、みんながこれを好きな訳ではない、ようだ。

はっきりしないのが嫌いという向きもある。でも、それははっきり弾かないのが主たる原因で、ホールのせいにしてはいけないなぁ、と思う。残響たっぷりの中で、ハッキリ弾く、これが王道、と私は思っている。



コンクールの結果を左右する、かもしれない伴奏ピアニスト

2012-11-02 00:19:03 | コンクール

これは自明の理だと言いたいところだが、実際にはあまり神経を払われていないように思う状況が結構多い。

うまい人と一緒に演奏すると、自分も上手くなってしまう。これは、上手い人と一緒に演奏したことが一度でもあれば、理屈抜きでわかる話である。その経験がない人は、上手い人とやったことがないということだ。お気の毒に・・・。

しかし、上手い人はなかなかいない場合もあるだろう。だが、大抵の場合は探し方が徹底していないように思う。探す方の見識も問われる。何をもって上手いとするかで、結果は違ってくるし。

そのような次第で、まず子供やその親が探すのには無理がある。持っている情報が少なすぎる場合がほとんどだからだ。そこで、その先生やそれクラスの人の出番になるのだが、今度はその先生のセンスが問われることになる。

先日会った先輩の言。

やはり伴奏ピアノに誰を選ぶかも含めて「準備」だよね。

全くもってその通りなのだが、現実にはなかなか厳しいご意見でもある。その先輩はピアノも達者な弦楽器奏者だ。そう、ピアノに詳しくないとこんなことは言えない。

その先輩は、生徒のコンクールのために私が選んだピアニストを褒めてくれたのだが、正直言って、私もここまで良い結果を出してくれることを想定しておらず、我ながら驚きの本番を聞いた後だった。

何があったかというと、ピアノが良いからヴァイオリンも調子が良くなり、それを受けてさらにピアノも良くなるという、相乗効果が発揮されていた。コンクールの成績も、ひょっとしたら実力以上、とも言える結果だった。

そう言えば、以前にもこのピアニストとの組み合わせで、似たようなことが起こったから、やはりこの事実はこのピアニストが優れていることを物語っている。

とは言え、百発百中ではないので、ヴァイオリンの方にも力がないとこうはならない。

アンサンブルは持ちつ持たれつだ。どちらかだけが良かったり悪かったりということはあまりない。ピアノがまずいと実力が発揮できないどころか、足をひっぱられてしまわないとも限らない。だからコンクール等で、ピアノをケチるべきではない。それで成績が左右されるかもしれないのだから。

この優れたアンサンブル・ピアニストを育てるのは、本人と共演者、そしてその先生格の人であって、ピアノの先生ではない。つまり我々ががんばるべきことだと思っている。

早く、そのようなことを声高に言わなくても良い日が来ますように。



掃除より楽しいコンクールの練習

2012-02-23 23:51:22 | コンクール

「受験までは少し時間があるし、コンクールを受けるなら今しかないから挑戦してみたいけれど、どのコンクールを受けたら良いでしょうか?」

というような質問を受けて1ヵ月考えた。

というのも、私自身はそのようなことを全く考えていなかったからだ。

子供のコンクールは、あくまで「中間発表」のようなもので、まずキャリアにはならない。うまくいくと励みになるが、大半は挫折感を味わう、と最初から決まっている。受ける場合は、勝ち進む可能性がある場合か、他に何かメリットを見いだせる場合に限る。

まぁ、大抵は後者だ。

この頃は地方のコンクールも多いから、一見選択肢はいろいろあるように見える。

しかし、ほとんどの人が予選を通過する、というのではメリットを見いだせない。

かと言ってハードルが高すぎたら、最初からやる気が高まらない可能性がある。

「ちょうど良いもの」を探してみたのだが・・・

結果は「無い」

コンクールを聞くと常に提示されることがある。人間は同じように努力すれば同じように成長する、という真実だ。ここに差をつけようとするのだから、考えようによっては無茶な話なのだが、コンクールとはそういうものだ。

ほとんど同点で並ぶ時に、差がつくファクターは、ほんの些細なことが多く、このボーダーライン上の論議は、あまり意味を成さない。そして、図抜けて優れていれば、そのようなことは問題にならない。だから、そこを目指すしかない、という考え方にいたる訳だ。

そうなると、ハードルの高いものを受けるのと同じことになる。

結局、難しいコンクールを目指す、が結論になってしまった。これは大変。

前述した「他のメリット」があるか?

これは「ある」。

音楽の練習は、もともとかなり強い意志と集中力を要求するものだ。コンクールともなれば、精神面でかなり鍛えられるのは間違いない。ただしこれは両刃の剣、最初から「自分を鍛えるぞ」というつもりで臨まないと逆に傷ついて立ち直れなくなることもあるから要注意だが。

また己に打ち克つ、という勝負力が試される。表面的には他人に勝つかどうかに見えるが、本当の敵は自分の中にあると思うべきだ。自分を攻めていくと「イントネーションが」「リズムが」「歌い回しが」「コントラストが」と様々な弱点が見えてくる。それを一つ一つつぶしていく戦いだ。

このあたりのことがわかったのは、実はようやく最近のこと。それまで私も実に勝負運が弱かった。他人と戦うというのが嫌いだったのから端を発しているのだと思うが、これが本番に弱い体質とつながっていたことに、なかなか気がつかないでいたのである。

勝負運を強くする方法というのを教えてもらったことがある。惜しげもなく公開するのは惜しいので、でも珍しくも何ともないからやはり公開すると、「勝ち続けること」である。

これは、例えば「今日はここを掃除する」と決めたら、必ずそれをやること。それでその場は「勝った」ことになる。その連続、という意味で、何も大げさなことではない。

賢明なる皆さまはお気づきのことと思う。これは音楽の練習そのものではないか。

「今日はこの小節が弾けるようになる」「来週までにこのフレーズが」時には「3ヵ月以内でこれをマスターする」等々、積み重ねていけば立派に勝負運がついてくる。

それに、音楽ができた時は掃除よりも「美しさ」と「感動」が大きいではないか。掃除よりずっと楽しいだろう。

一見無謀なコンクール受験といえども、このように考えたら「他のメリット」が充分見えてくるはずだ。

そんなことを件の方にはお答えした。

さて本日、ちょっとだけ掃除をした。これはこれで良い気分だ。きれいになった「美しさ」と「感動」がない訳ではなかった。うーむ、掃除よりも、と言ってはいけないか・・・。

お家の神様、ごめんなさい。このブログは音楽の神様優先なので、タイトルについては悪しからずご了承くださいね。




新・ツィガーウ or ツィガワヌ

2011-01-23 07:33:02 | コンクール

以下しばらくは2007年7月31日に書いた記事である。

 ユーチューブというのは問題も相当あるが,便利と言えば便利,見入ると止まらなくなるのも問題である。

 「琉球頌」のピアニスト,エム氏が出ているというので,観てみた。チャイコフスキー・コンクールのヴァイオリン二次予選である。曲はツィガーヌでヴァイオリンは高校生。

 高校生としてはさすがに立派な演奏だと思った。が,天下のチャイ・コン,世界最高の水準に照準をあてると,あれやこれやと思わせる。そして,ラヴェル!私は,この作曲家の作品が大好きで,これに関してはちょっと詳しいのだ。

 この曲は長いヴァイオリン独奏で始まる。この類のものを日本人が弾くと「一音入魂」になりやすい。また「一音入魂」の演奏は日本人好みなのである。
 が,西洋音楽のスタイルには反する。4拍子で書いてある以上は4拍子で演奏するのが原則である。と私は師匠から叩き込まれた。

 同じ事を昔,かのブロン教授も言っていた。20年近く前,まだ今程有名ではなかったが,弦楽指導者協会が招いて公開レッスンを聴講したことがある。日本音コンで入選だか入賞だかした男の子がツィガーヌを弾いたのだが,まずはカウントを取らされた。ブロンの腕が1,2,3,4と規則的に動くのである。
 かくして「一音入魂」の世界は消えていくのだが,やはり日本人の民族性に基づいたものなのか,なかなか根絶はしないようで……。

 とはいえチャイコン,ブロンの言うことに逆らって先には進めないだろう。はっきり逆らっているほどではないのだが,時々拍子を無視しているのが気になる。この段階でまず「ツィガーウ」!

 ピアノが加わると,しばらくはピアノの好サポートもあって,なかなか良かった。時々「越中おはら節」に聞こえなくもないが,スタッカートは鮮やかだし,落とすのも惜しい,と感じた審査員もいたかもしれない。

 が,新たなメロディーが出るハンガリー風のところで,またもや拍節感が失われ「ツィガーウ」!ハンガリー語は語頭にアクセントがあるから1拍目をしっかり弾いてからシンコペーションを出すべきなのだ。シンコペーションだけ出しては「鹿児島おはら節」か「串本節」と同じ節回しになってしまう。ここは躍動感を期待する場所だが,浮遊感に変わってしまった。エッジがない音が連続する,いわゆる「ルーモっぽい」音なので,当人は1拍目をきちんと弾いているつもりだろうとは思うのだが,うーん残念。

 最後の16分音符の連続でも強拍が失われ「寿限無」状態。しかしジュゲムは面白い。面白いと思った人も聴衆にはいたと思う。ただ作曲家の意図とは違うのは明らか。ラヴェルはテンポの幅さえ許容しなかった。

 とどめの2小節,ここにハンガリー風の逆付点リズムがピアノ・パートにある。これをきちんと聞かせるにはリテヌートをかけなければならない。これを無視しては「ツィガーウ」。

 という訳で,総括すると,かなり日本風の演奏と言えるかもしれない。それで井財野としての結論は,早く「ナガウタ」という名のヴァイオリン曲を作って,国際コンクールで弾いてもらわねば・・・というものであった。皆様,今しばらくお待ちを・・・。

これが当時の見解である。今でも基本的に変わってはいない。「ナガウタ」はなかなかできないが。

さてこの動画、現在でも見られ続けていて、再生回数は優に2万回を超えている。これを読んで下さっている方々の中にも、ご覧になった方は多く含まれていると推察する。高校生だった彼女も大学生。さらに磨きがかかったであろうから、現在の話と受け取ってもらっては困る。あくまで過去の話だ。

ところで、先日ふと耳にしたツィガーヌ、最初はカウントを守っていたが、徐々に一音入魂的演奏に変っていくものだった。私が馴染んでいるパールマンあたりはまずやらない方法だ。あれ?と思い、演奏者を調べたらレーピンである。

実は前述の公開レッスン、ブロンは二十歳そこそこのワジム・レーピンを連れていて、最後に模範演奏のようなことをさせたのだ。体格はやたら大きくて、顔だけ子供のレーピンだった。そこで弾いたのはサンサーンスだったか何だったか、あまり覚えていない。というのも、それほど上手いとも思わなかったからである。

で、ここから先は想像なのだが、真面目なレーピンはずっとブロン師のレッスンを舞台袖で聞いていたのではないだろうか。そして、心ひそかに「先生は、あの日本人のやり方に否定的だけれど、結構面白いかも」と思う。「いつかやってやろうじゃないの・・・」

そして、自分のレコーディングの際、それが実現した・・・

ロシア人は元々の原住民と攻め入ってきたモンゴル人との混血が祖先だという。ヨーロッパ人の中で、割とアジア寄りの民族と言えなくはないだろう。日本流の演奏法が琴線にふれた可能性が考えられる。

さらに一方、例えは悪いが、嘘も百回言えば真実になると言われている。画像の演奏が「嘘」ではないのだが、少なくともフランスの伝統からは遠い。しかし2万回も見られているということになると、新しいスタンダードという解釈が可能になってくる。

日本的な無拍節な演奏が、市民権を得るというのは、日本人にとってなかなか愉快な話ではないだろうか。今後の世界の動向を見守りたい。


専門家と素人

2009-12-19 22:50:12 | コンクール

 レヴェルの高い音楽コンクールは,専門家によって審査,評価される。しかし,それほどハイ・レヴェルでないコンクールの審査には,専門家でない審査員が含まれることもよくある。専門家でないと書いたが,それでも音楽の専門家ではある。その分野,楽器の専門家ではない,という意味だ。

 専門家集団の評価であっても,所詮は主観で判断する,ということは以前にも述べた。バラバラの評価になることも珍しくないし,価値観が多様であることの証しになることもあるから,バラバラであることが即,悪いことだ,とは言えない。

 しかし,そうは言っても「専門家の常識」が覆ることは皆無と言える。小学生レヴェルの曲で90点,高校生レヴェルの曲で80点,という演奏があったとする。専門家が評価すれば,間違いなく高校生レヴェルの80点の方が評価は高い。

 ところが,90点はあくまで80点より上,という評価になることがある。非専門家による評価の場合だ。小学生と高校生のレヴェルの違いは,専門的な知識がないとわからない。どれだけ難しいことをやっているかどうかは,専門的な勉強をしてわかることだ。そうなると,90点は単純に80点より高い点数になる。

 このような結果がコンクール等で出てしまうと,専門家としては穏やかでいられない。

 しかし・・・

 私もヴァイオリン以外では非専門家なのである。

 審査員ではなかったが,偶然,高校生コンクールの打楽器部門に居合わせたことがあった。5人くらい演奏したような気がするが,正直言ってお手上げ,誰がうまいのかそうでないのか,全くわからなかった。2番目の生徒が難しそうな曲をやっているから,それが多分上の評価なのかな,と思い,審査した打楽器奏者に後できいてみた。
「2番目の人が,多少上かな,くらいのことはわかるんですが…」
「あ,それ(2番目)は問題になりません。その曲,易しいですから。」
「……」

 ヴァイオリンで言えば,ベリオの9番とヴュータンの5番が並んだ,というところか?

 だから,専門家による評価でないとアテにならない,というのは早計。世間一般では,非専門家,いわゆる「素人」の評価で動くことが大半である。コンクールで入賞したから聴いてみよう,ということはもちろんある。が,それ以上に,何らかの付加価値,ストーリー等によって聴衆が動くことの方が多い。「素人の評価」は結構重要であり,無視できないのである。

 そう考えると,「音楽の素養のある素人」の評価は,かなり良心的な評価になり得る訳だ。

 と,理屈で割り切るしかない場面,今年もあったなぁ・・・。