言葉というものについて、時々考えることがある〈時々、だけれども。しょっちゅう考えていたら、生活に追われている小心者の私は身が保たない〉。
このブログで前回、次のような文章を書いた。
【平和というのは言葉によって定義づけられた概念だからである(戦争、愛国心、命の尊厳、なども同様)。人と人の間で共有されはするけれども、お互いが思い描いているものの色合いはかなり違っていたりする】
【言葉で定義づけられた概念だけを共有して話していては、いつまでたっても言葉遊びの域を出ず、何も前に進まないということは結構多いのだ】
誰でも経験することだと思うが、同じ言葉を使っていても中身が違うことはままある。昨日、石原慎太郎都知事が産経新聞に連載しているエッセイを何本かまとめて読んだ(あんな人の言うことに対して、いちいち怒ってたらキリがないヨ、という人もいる。だが私はあえて彼の発言に注目しているのだ。接するたびに気分悪いけれども、冷笑を浮かべているだけですむ相手ではないと思うからである)。そのひとつのタイトルが、『いかにして、心意気を取り戻すか』。その冒頭で、彼は次のように語っていた。
【昨年末ある総合雑誌が当節失われてしまった日本語についての特集アンケイトを行っていた。私が問われたなら「心意気」あるいは「こころざし」と答えたろう】(1月9日発売の新聞に掲載)
言葉としては「ご説ごもっとも」。私は「志」はあまり好きではない(ひとつには自分が志の低い人間であるため。もうひとつは、ちょっと綺麗すぎて胡散臭いからだ)が、そういう表現に嫌悪があるわけではない。そういう言葉が使われていただけで反感持つなどということはないし、前後の関係で感動することも少なくない。「心意気」の方は嫌いじゃない――と言うより、比較的好きだったりする。日々のさまざまな場面で、結構、「意気に感じ」たりもしている。だからもしもこれが新聞の読者投書欄に見られた記事であったり、しばしば訪問しているブログの記事であったり……等々ならば「ウンウン」と頷いたであろう。
私が吐き気催すのは、ひとえに発言者が「我らが都知事」であるためだ。
《あんたの「志・心意気」と、私の「志・心意気」は違うんだよ!》
どのぐらい違うかといえば、「結婚したい」という人が2人いて、片方は「家庭は巨大な権力から個々人を守る最小単位の砦である」と考えており、もう片方は「メシ作ってくれる人がいると便利」と考えている、というぐらいに。
ということで、ちらっと考えたことを2つ。
1)言葉だけにごまかされまい
心意気、平和、幸福、品性、自由、平等、博愛(おっと。フランス革命だ)……何でもいいけれど、プラスの価値を持つ(と思われる)言葉は思想信条にかかわらず誰もが口にする。だからこそ、それだけでは「何も言っていない」に等しいと私は思う。口にしたのが誰であるか、こそが問題なのだ。
「正しいことは誰が言っても正しい」という考え方がある。一面で、これは正しい。「地球は太陽の回りを回っている」「兎は亀より脚が速い」といった話なら、ノーベル賞受賞者が言おうと前科数犯の窃盗常習のオッチャンが言おうと、はたまた自民党総裁が言おうと共産党の書記長が言おうと正しいのである。しかし、言葉に価値基準や考え方が含まれる場合は、「誰が言っても正しい」とは私は思わない。
我々は、しばしばここのところを間違える。プラスの価値を含んだ(と思われる。私もしつこいな……)言葉を聞くと、その言葉についつい素直に反応してしまう。「心意気? いいこと言うじゃん」と思ってしまう……。だからこそ、私は声を大にして言う……というより、一生懸命自分に言い聞かせる。おまえな、アッチの言葉とおまえの言葉は、前提となる部分、核の部分が違うんやで……と。
2)言葉を奪い返そう
そんな綺麗な言葉をアッチが使うなんてモッテノホカ、という考えも出てくる。私はこの国の不幸は、アッチ側の方に「巧みに言葉をあやつる人間が多いこと」だとかねがね思っていた。頭がいいのかどうかは知らないけれども(いや、我らが都知事とかは、私よりは知能指数高いんでしょうけれど……ね)、言葉のめくらましに通じていることは確かだと思う。ご説ごもっとも、の話を、豊富な?知識を駆使して展開してくれる(本当に知識が豊富かどうかは別。少なくとも豊富に見せる術は心得ている。でもまあ……私よりは豊富かも。ナサケナイ)。だから今、彼らから「言葉」を奪い返すことを真剣に考えた方がいいような気がするのだ。言葉なんて実のところ何ほどのものでもないけれど、すこぶる強力な道具ではある。アッチに好き勝手に使わせておく手はない。綺麗な言葉の裏に潜む、人間の素朴な感覚に反する棘に敏感でありたい。おまえにそんな言葉を使われたくない、と言いたい。「初めに言葉ありき、言葉は神なりき」という見方は私の感覚からはかなり遠いけれども(確信犯的無神論者なので……)、言葉の力はおそらく、ふだん感じている以上のものがある。相手に言葉を奪われたままでは身動きとれないのだ。
このブログで前回、次のような文章を書いた。
【平和というのは言葉によって定義づけられた概念だからである(戦争、愛国心、命の尊厳、なども同様)。人と人の間で共有されはするけれども、お互いが思い描いているものの色合いはかなり違っていたりする】
【言葉で定義づけられた概念だけを共有して話していては、いつまでたっても言葉遊びの域を出ず、何も前に進まないということは結構多いのだ】
誰でも経験することだと思うが、同じ言葉を使っていても中身が違うことはままある。昨日、石原慎太郎都知事が産経新聞に連載しているエッセイを何本かまとめて読んだ(あんな人の言うことに対して、いちいち怒ってたらキリがないヨ、という人もいる。だが私はあえて彼の発言に注目しているのだ。接するたびに気分悪いけれども、冷笑を浮かべているだけですむ相手ではないと思うからである)。そのひとつのタイトルが、『いかにして、心意気を取り戻すか』。その冒頭で、彼は次のように語っていた。
【昨年末ある総合雑誌が当節失われてしまった日本語についての特集アンケイトを行っていた。私が問われたなら「心意気」あるいは「こころざし」と答えたろう】(1月9日発売の新聞に掲載)
言葉としては「ご説ごもっとも」。私は「志」はあまり好きではない(ひとつには自分が志の低い人間であるため。もうひとつは、ちょっと綺麗すぎて胡散臭いからだ)が、そういう表現に嫌悪があるわけではない。そういう言葉が使われていただけで反感持つなどということはないし、前後の関係で感動することも少なくない。「心意気」の方は嫌いじゃない――と言うより、比較的好きだったりする。日々のさまざまな場面で、結構、「意気に感じ」たりもしている。だからもしもこれが新聞の読者投書欄に見られた記事であったり、しばしば訪問しているブログの記事であったり……等々ならば「ウンウン」と頷いたであろう。
私が吐き気催すのは、ひとえに発言者が「我らが都知事」であるためだ。
《あんたの「志・心意気」と、私の「志・心意気」は違うんだよ!》
どのぐらい違うかといえば、「結婚したい」という人が2人いて、片方は「家庭は巨大な権力から個々人を守る最小単位の砦である」と考えており、もう片方は「メシ作ってくれる人がいると便利」と考えている、というぐらいに。
ということで、ちらっと考えたことを2つ。
1)言葉だけにごまかされまい
心意気、平和、幸福、品性、自由、平等、博愛(おっと。フランス革命だ)……何でもいいけれど、プラスの価値を持つ(と思われる)言葉は思想信条にかかわらず誰もが口にする。だからこそ、それだけでは「何も言っていない」に等しいと私は思う。口にしたのが誰であるか、こそが問題なのだ。
「正しいことは誰が言っても正しい」という考え方がある。一面で、これは正しい。「地球は太陽の回りを回っている」「兎は亀より脚が速い」といった話なら、ノーベル賞受賞者が言おうと前科数犯の窃盗常習のオッチャンが言おうと、はたまた自民党総裁が言おうと共産党の書記長が言おうと正しいのである。しかし、言葉に価値基準や考え方が含まれる場合は、「誰が言っても正しい」とは私は思わない。
我々は、しばしばここのところを間違える。プラスの価値を含んだ(と思われる。私もしつこいな……)言葉を聞くと、その言葉についつい素直に反応してしまう。「心意気? いいこと言うじゃん」と思ってしまう……。だからこそ、私は声を大にして言う……というより、一生懸命自分に言い聞かせる。おまえな、アッチの言葉とおまえの言葉は、前提となる部分、核の部分が違うんやで……と。
2)言葉を奪い返そう
そんな綺麗な言葉をアッチが使うなんてモッテノホカ、という考えも出てくる。私はこの国の不幸は、アッチ側の方に「巧みに言葉をあやつる人間が多いこと」だとかねがね思っていた。頭がいいのかどうかは知らないけれども(いや、我らが都知事とかは、私よりは知能指数高いんでしょうけれど……ね)、言葉のめくらましに通じていることは確かだと思う。ご説ごもっとも、の話を、豊富な?知識を駆使して展開してくれる(本当に知識が豊富かどうかは別。少なくとも豊富に見せる術は心得ている。でもまあ……私よりは豊富かも。ナサケナイ)。だから今、彼らから「言葉」を奪い返すことを真剣に考えた方がいいような気がするのだ。言葉なんて実のところ何ほどのものでもないけれど、すこぶる強力な道具ではある。アッチに好き勝手に使わせておく手はない。綺麗な言葉の裏に潜む、人間の素朴な感覚に反する棘に敏感でありたい。おまえにそんな言葉を使われたくない、と言いたい。「初めに言葉ありき、言葉は神なりき」という見方は私の感覚からはかなり遠いけれども(確信犯的無神論者なので……)、言葉の力はおそらく、ふだん感じている以上のものがある。相手に言葉を奪われたままでは身動きとれないのだ。
恋愛ドラマや少女マンガが苦手な私は「愛」という言葉をやすやすと使う事にとても抵抗がありますが、ビートルズの歌詞などに出てくる「愛」は、好きです。
タイトルはヴィトゲンシュタインという哲学家のことばです。うろ覚えなんですけど...。華氏さんは哲学家ですね。
世界というと、とっても大げさですけど、自分の「思い」とは「理想」とかも小さいけれど立派な「世界」です。哲学もこれまた大仰ですが、要は考えるということです。そしてそれは言葉による「ゲーム」だ、と。
面白いことに、このゲームは自分ひとりで遊ぶゲームではないんですよね。他人ともプレーする。だから言葉を奪われたり、奪い返されたりということがおきる。
実は私は、言葉の力をそれほど大きいものだと思っていないのです。というのは、言葉が力を発揮するには舞台が必要で、その舞台が整わないと言葉は力を発揮しない。この舞台を作ることが一番重要ではないか、と思っています。で、この舞台とは何なのかと言うと、例えば「仲間意識」だったりします。
昨夜、華氏さんから拙ブログに私のUTS参加を歓迎する旨のコメントいただきました。嬉しいと思いました。ありがとうございます。この嬉しさ、ちょっとした仲間意識、これが舞台です。同じ舞台に上がると言葉は伝わりやすい。相手の真意を探ろうと思うからです。私の言葉を相手が探ってくれると信頼できるからです。信頼できる相手には「お前のことなんか嫌いだ」と言っても、言葉とは裏腹の真意を汲み取ってもらえるのです。
言葉なんて相手にくれてやってしまっても良い、と私は思っています。重要なのは「舞台」です。
けど、この「舞台」も言葉で伝達するものだったりするから、難しいんですよね(苦笑)...。
葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙せぬ国 しかれども 言挙ぞわがする 言幸く まさきくませと 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき 言挙す吾は
反歌
しき島の日本の国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ
★お経と同じでわからないところがありがたい。
>ひとえに発言者が「我らが都知事」であるためだ。
>おまえな、アッチの言葉とおまえの言葉は、前提となる部分、核の部分が違うんやで……と。
要するに、都知事は悪いやつだから、良いことを言っても無視しろ!と言いたいのでしょうか?
それにしても、アッチとコッチという二元的思考は単純で危険ですね。戦前の愛国者と非国民、冷戦時代の左翼と右翼・・・・。そういった曖昧さを切り捨てた思考が対立や軋轢を生み、戦争につながっている気がします。
そう、口当たりのいい言葉って、自分の中でいいように解釈してしまって、
発言者(権力者)の本当の意図を見えにくくするように思います。
そのための美辞麗句なんでしょうけど。
「郵政民営化は改革の本丸」なんてのも同類かと。