華氏451度

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二人の太郎――司馬遼太郎と山田風太郎

2006-04-18 02:35:31 | 本の話/言葉の問題

これは単なる好みの問題である……。そのつもりでお読みいただきたい。

〈司馬遼太郎への違和感〉
先年物故した司馬遼太郎――国民作家と呼ばれ、愛読者も多いが、実のところ私はあまり彼の小説が好きではない。おもしろいことはおもしろい。巧いとも思う。だが、どうしても違和感を拭えないのだ(そう言いながら何冊も読んでしまうところが活字中毒のゆえん……。いや、何処に違和感を感じるのか首をひねり、つい読んでしまったのだ)。

もっとも、初めて接した時から違和感があったわけではない。最初に彼の小説を読んだのは、多分、中学2年生の頃。図書館に行くなどしてオトナの小説を読みふけり始めてから少し経ったあたりで、彼の初期の小説に触れた。その時は、「ぼーけんしょうせつ」を読む感覚でおもしろく読んだ(もちろん難しくてわからない所もたくさんあったはずだが、彼の小説は筋を追うだけなら子供にもわかりやすい)。ただし、続けて何冊も読もうとまでは思わなかった。わくわくさせてくれる作家の小説は、ほかにもいくらでもあったから。

まとめて読んだのは、社会人になってからだ。きっかけは忘れたが、『峠』か『城砦』を読んだような気がする。もしかするとその頃、司馬小説の何かが映画かテレビドラマにでもなったのかも知れない。そうやって一種のブームが巻き起こると書店にコーナーが出来るから(流行を追う気はないけれども、そういう時はついつい、ちょっと読んでみるかという気になる)。おもしろいという感想を抱いた点は、子供の時と同じだった。だが同時に、かすかな、軋むような違和感を持った……。

違和感を持つ理由のひとつは、おそらく、登場する主人公達があまりに颯爽としているからだ。ここでちょっと強調しておくと、私は「颯爽とした主人公」は好きなのである。子供の時から冒険小説や伝奇小説が大好きだったし(今も好き)。ついでながら、司馬遼太郎があやかってぺンネームを付けたという司馬遷の、『史記』も好きである。だが、司馬小説の主役クラス(主人公および副主人公たち)は、あまりに――そう、「臆面もないほど颯爽と」しすぎている。司馬遼太郎は「漢(おとこ)の典型をひとつずつ書いていきたい」と言ったそうだ。何を書こうと作家の自由であるが、私は彼の小説を読んで、「ふ~ん。これが彼の考えたオトコの典型なのか」といささか鼻白む。

今風の言葉を使えば、司馬小説の主役は「勝ち組」である。いや、現在使われているような意味の「勝ち組」ではない。戦いに敗れて殺されたり、暗殺されたり、志半ばで仆れたりする者達も多い(主人公はそういう人物の方が多いかも)。しかし彼らは「胸を張って大義や志に生きた」者達なのである。また余計な付け足しをすると、私は「大義」や「志」は結構好きだったりする(好きなものの多い人間なのである)のだが、これらは高らかに歌い上げるものではないとも思う。ある種の危険をも孕んだ言葉だから、自分の心の隅っこに、鍵をかけてひそかに仕舞っておく方がいい。むろん司馬小説の主人公達が「大義、大義」「志、志」と暑苦しく連呼しているわけではない。いくら何でも、そのぐらいはわかっている。ただ、全体の雰囲気をそう「感じる」のだ。さりげない、しかし執拗で圧倒的な「大義や志」の洪水。これには異論も多いと思うが、感覚は自分でもどうしようもないのである。

巻き込まれて踏みつけられ、懸命に抵抗し、あるいは抵抗しきれずに「犬のように」死んでいった者達の視点が、ここにはない。そういった人々を主人公にしていないから悪い、と言っているわけでは無論、ない。そんな無茶苦茶な無いものねだりをする気はない。英雄豪傑が主人公でも一向にかまわないのであるが、そういう小説(物語)であっても地を這うような視点を持つことは可能だし、実際にそういう小説・物語はいくらでもある。

違和感のもうひとつの理由は、企業の経営者や政治家など、「大声でものを言うことができ」、「それを強引にでも多くの人々に聞かせることの出来る」人々、別の言葉で言えば「勝ち組」「成功者」(または、自分でそう思っている人々)の中に司馬小説ファンが多いから――かも知れない(もちろん勝ち組や成功者以外のファンも大勢いるのだが、経営者あたりが愛読書を聞かれた時、司馬遼太郎を挙げる例が多いのも事実である)。誰がどんなふうに読もうと、作者自身とは何の関係もなく、責任もない、とも言える。だが、「どんな人に、どんなふうに読まれるか」ということは、その作家の資質や作品の位置を考える上での参考にはなる。

パスティシュ小説の名手・清水義範の小説に、ある企業の会議の模様を描いたものがある(題名は忘れた。私は記憶力はダメだが忘却力には自信がある)。この作品の登場人物が、「司馬小説の主人公ふう」に喋るのだ。絶妙の文体模写(会話体模写、と言うのかな)に、読みながら笑い転げてしまった。たかが一企業の、それも企業の存亡を賭けた、といった深刻なものでもない会議の席上で、「戦国・維新の英傑」ふうの喋り方をするという、あまりの落差にも笑いが止まらなかった。エライサン達はその滑稽に気づかず、1オクターブ高い言葉にひたすら酔っている。そう……司馬小説は、人間の「英雄願望」をくすぐり、酔わせて思考停止させてしまう魔力がある。それは彼の、小説家としての非凡な才能の証左でもあるのだけれども。

私の勝手な思い込みかも知れないが、司馬遼太郎は非常な勉強家であると共に、新聞記者の資質を色濃く持っていた人だと思う(元来そうであったのか、新聞社に勤めている間にそうなったのかはわからないが)。それもかなり優秀な。対談を読むと、相手の言葉の引き出し方の巧みさに脱帽するし(実はこれは非常に難しいことなのだ。単なる聞き手ではどうしようもないし、かといってひとりで突っ走って持論を展開してもダメ)、『街道をゆく』では主観と客観のほどよい兼ね合いや、滑らかな語り口に感心した。彼はある種のルポルタージュを書いたり、初期のような伝奇小説を書き続けたりした方がよかったのかも知れない……。歴史上の人物を取り上げた史談小説に手を染め、それによって大家になってしまったところに、実は作家・司馬遼太郎の悲劇があるとかも知れない……などと思ったりもする。

〈そして、山田風太郎〉
同じ太郎と名のつく作家では、私は山田風太郎のほうが好きだ(この人も既に故人)。彼の小説を初めて読んだのは、多分、司馬小説を初めて読んだ時よりも少し後(手当たり次第の乱読人間なので、何をいつ読んだかといったことは、特別な何かがない限りよく覚えていないのだ)。兄貴のものだという『忍法帖』シリーズを学校に持ってきたのがいて、授業中に何人もで回し読みをした。その時は、伝奇ポルノを読む感覚でニヤニヤしながら読んだのだけれども(余談――中学の終わり頃から高校にかけて、ご多分に漏れずポルノ、というかエロティシズム小説を読みふけった。もちろん半ば以上は低劣な?好奇心に駆られてのことだったに違いないが、大人が読ませたがらない小説の中にはきわめて良質な、人の心の闇や原初的な感覚などを垣間見せ、人間の一筋縄ではいかなさを理解させるものがいくらでもある。当時読んだ本の中のいくつかは、今でも私の愛読書である)。

『忍法帖』以外を読んだのはいつのことか。これまた情けないことに、よく覚えていない。大学生の頃から少しずつ読み、いつの間にか大半読み終えた、というところだろう(ついでながら、忍法帖シリーズも大人になってから改めて読み返した)。『室町少年倶楽部』『婆娑羅』『神曲崩壊』『地の果ての獄』等々、どれも読むたびに衝撃を受けたことだけはよく覚えている。

たとえば『エドの舞踏会』――これは西郷継道に命じられた若い武官が、鹿鳴館の舞踏会への参加をしぶる高官達の夫人を説得して回るというのがいわば小説の額縁。回っているうちに、夫人たちに関わるさまざまな事件を見聞きし、時には巻き込まれる。そして、もと芸者であったりする夫人たちのしたたかさ(夫である高官たちの大義や志――血肉になっていないからこそ1オクターブ高くならざるを得ない大義や志――を笑い飛ばすしたたかさ)に圧倒されるのだ。中でも出色なのは、森有礼夫人を巡る話。欧化主義の筆頭である森有礼は、夫人に西洋風の生活スタイルを強要し、夫人が妊娠すると、胎教のために西洋人(多分フランス人だったと思う)を――家庭教師としてだったか、単なる話し相手だったか、そのあたりは覚えていないが――屋敷に出入りさせる。だが、夫人本人はそういう暮らしが(夫の理想とするところを頭では理解しているつもりでも)嫌でたまらず、子供の頃に聞いた日本の子守歌を懐かしむ。それを知った高官夫人達は、森有礼夫人のために一肌脱ごうとする……。未読の方の興味を削ぐといけないので詳しくは書かないことにするが、森夫人が出産した時に驚くべき事実が明らかになるのだが、それをかばう高官夫人達の言葉が何とも言えず皮肉だ。

何だか読書ブログみたいになってきた。本の話などは「役立ちますよ」というご紹介以外はあまりグダグダ書くもんじゃないと思っている(本を読むのはきわめて私的な歓びであるし、個々の読者ごとに感覚のズレがあるのは当然で、それをどうのこうのと言っても不毛なだけである)ので、いい加減なところでやめよう。……私が山田風太郎の小説に魅了されるのは、主人公達が「大上段に」構えていないからである。大義名分なんて関係ねえよ、と彼らはうそぶく。もちろん「大義」や「志」がないわけではないが、彼らのそれは、あくまでもささやかで、声高に言うようなものではない。ほとんど意識されていない、と言ってもよい。

『外道忍法帖』(タイトルはこれで間違っていないと思う)の主人公は「(自らの)大義」のために敵と戦う。そして小説の最後で敵の首領と相打ちになるのだが、その時「○○のために」と高らかに言いかけて、ふと言葉を変える。
「いいや、伽羅のかたきだ」
伽羅というのは主人公が愛した(と言っても一般的な意味で愛人とか恋人というわけではないのだが)女性の名前である。【夢見たものはひとつの幸せ/願ったものはひとつの愛】と歌った詩人の世界が、ここにはある。疑問を持ちながらも帰属する集団のために忠実に働き続けた『忍法双頭の鷲』の主人公達も、最後には自分達を使い捨てようとする権力に反抗し、愛する女性と共に地の果てまでの逃避行に旅立ってゆく……。

追記/Under the Sun の日替わりコラムで、月曜日のコラムを担当している。人手が足りないということで、執筆態勢が整うまで当面のお手伝いができればと腰軽くやり始めただけだけれども。実はそこでこの話を書こうかと思ったのだが、間に合わなかった。結局はわけのわからない話になってきたので、間に合わなくてよかったのかも……。

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