華氏451度

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「二人の太郎」の付け足し――ユーモアそして含羞

2006-04-19 00:44:05 | 本の話/言葉の問題
前のエントリ「二人の太郎」で、司馬遼太郎への違和感と、山田風太郎が好きだという話を書いた。そのしょうもない話に付け足しをするのは自分でも恥ずかしいが、なぜ「司馬遼太郎がダメで、山田風太郎がOKか」についてもう一度(かなり粗っぽく)考えてみた。

で、ぼや~っと頭に浮かんできたことのひとつが、「司馬遼太郎の小説にはユーモアがない」。

ユーモアという言葉は誤解を招くかも知れない。底にかすかに流れている「戸惑ったような微苦笑」、「接する者をほっとさせてくれる、あるかなきかの微笑」という表現をすればいいだろうか。

「悪ふざけをしたり、笑いをとろうとすることがミエミエな冗談を言う」ことと、ユーモアとは関係がない。いや、冗談や軽口が悪いわけではない。むしろ他者とのコミュニケーションで欠かせないとも思っているのだが、それが必ずしもユーモアとイコールでないのが難しいところ。

実は私も文章を書くときにくだらない冗談を交えてしまうことがままあり、わざとらしいよなあ、と後で思ったりする。わざとらしいのは、戸惑ったような、やさしい微苦笑に支えられていないからだ。

ユーモアは、心の余裕から生まれるのだろう。心の余裕と言うとまたまた誤解を招きそうだが――要するに「自分が何かを主張することで、いっぱいいっぱい」ではない、あるいは「臆面もなくものを言うことに対する含羞」がある、ということだ。笑い転げさせてくれる表現でも、ニコリともしない生真面目な表現でも、ユーモアを感じさせるものと感じさせないものがある。私もいつか、本当の意味でユーモアのある表現を身に着けたいと思う……。


コメント (4)
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