華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

言葉への規制は言葉で破る

2006-04-11 00:29:08 | 本の話/言葉の問題
「イラク派兵反対! 憲法守れ!」の意見広告運動をなさった方(呼びかけ人の1人)とお目にかかる機会があった。賛同者1700名が名前を連ね、一昨年3月18日に毎日新聞全国版に7段の意見広告を掲載している。その時の話であるが、意見広告に「憲法違反のアメリカ追従イラク派兵に反対し、即時撤退を求めます」という一文があった。この文について、広告部の審査でストップがかかったという。理由は、憲法違反であるかどうかについては法的根拠がない(司法で決着がついていない)から。
「抗議して戦う方法もあるが、イラク派兵1年目の意見広告を出すことの方が重要だと思ったので、表現を変えることにしました」と、その方は言っておられた。相談の結果、先の一文は「憲法を踏みにじるアメリカ追従のイラク派兵に反対し……」という表現で掲載されることになったが、呼びかけ人たちは「マスコミの自主規制がそこまで来ているとは……」とショックを受けたという。

その話を聞いて、私は「そういったマスコミの姿勢に対する抗議は必要だが、それはそれとして、『踏みにじる』という表現はなかなかいいと思います」と言った。

1つには、「違反」より「踏みにじる」のほうが、ある意味でインパクトがあるからだ。イメージの喚起力がある、と言ってもよい。「違反」「堅持」「反対」「同意」等々、漢字2文字なり3文字4文字なりで構成された言葉は、ものごとを論理的に語ったり定義づけたりするには有効だけれども、同時にそれだけでは「意味するところの中身」について各人の考え方が少しずつズレることも否めない。たとえば「労働」。これを(1)「賃労働」の意味で捉えるか、(2)「何らかの生産活動」として捉えるか、(3)「暮らしをいとなむための活動」として捉えるか――(ほかにも捉え方はいろいろある)では、それぞれ中身が違ってくるのは一目瞭然。主婦労働は労働か、托鉢僧は労働しているのか、テレビタレントは労働者か――等々への答えは、労働の意味の捉え方によって異なる。だからこういった言葉を使う時には(お互い暗黙の了解がある場合以外は)意味するところを明確にする必要があり、私達は意識するかしないかにかかわらず、普段からそのような習慣を持っているはずだ。真正面から説明するか、前後の関係やその他の言葉の使い方との絡みで何となく説明するかは別として(むろん往々にして、うまく明確にできなかったということはある。また、わざとその点を曖昧にすることもあるが、それは別問題である)。

だが、書き言葉であれ語り言葉であれ、全体が短い場合には、中身まで明示するのはかなり難しい。その場合、なるべく聞き手との間のイメージのズレをなくすための、別の努力が必要とされる。方法は幾つか考えられるが、ひとつは「比較的イメージのズレが少ない表現を選ぶ」ということだ。たとえば単に「労働」と言うよりは、「賃労働」なり「働くこと」なりという表現の方が、それぞれの中身を掴みやすい。単に「愛国心」と言っていただくより、「国を守る気概」「忠君愛国」などと言っていただいた方が「ご冗談でしょう」と言いやすい。その意味で、「違反」より「踏みにじる」の方がわかりやすいと言えるのではないか。

もう1つは、言論の統制・封殺にはまだまだ穴があるということだ。人によっては楽天的すぎると思われるかも知れないが、幸いにもまだ、国家総動員法の下、精神総動員運動が展開された頃の状況にまでは至っていない(規制する側も、やや人目を気にしているところが窺える)。だからまだ、網目をくぐったり逆手にとったりする余地は充分にある。アレは駄目、コレは駄目と規制されれば、「なら、これはどうよ?」と突きつけていくことができる。言葉には理論の裏打ちが欠かせないが、それを根っこの部分で支えるのは感性(この字を書くたびに、ほんとに恥ずかしい……のだけれども)だと私は思っている。そして感性は、無限に言葉を創造していくことができる。「戦前」を感じさせる世の中になってきたが、しかしまだ間に合う。ガンジガラメになってしまう前に、私は1つでも多く「抵抗の言葉」を探し、共有していきたいと思う。
コメント (3)
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