華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

続・言葉を奪い返そう(コメントへの返事)

2006-04-07 22:43:07 | 本の話/言葉の問題
前回掲載した記事『言葉を奪い返そう』に対して、田中三郎さんという方からコメントをいただいた。それに対してコメント欄で返事を書き始めたのだが、途中で気が変わり、新しくエントリを設けておくことにした。言い訳めいてしまう点はイヤなのだが、私にとって大事なことなので少しまとめておこうと思う。

田中三郎さんのコメントは以下の通り。
【初めまして。
>ひとえに発言者が「我らが都知事」であるためだ。
>おまえな、アッチの言葉とおまえの言葉は、前提となる部分、核の部分が違うんやで……と。
要するに、都知事は悪いやつだから、良いことを言っても無視しろ!と言いたいのでしょうか?
それにしても、アッチとコッチという二元的思考は単純で危険ですね。戦前の愛国者と非国民、冷戦時代の左翼と右翼・・・・。そういった曖昧さを切り捨てた思考が対立や軋轢を生み、戦争につながっている気がします】(転載終わり)

このコメントに対する私の返事――
田中三郎さん、はじめまして。たしかに私は乱暴な言い方をしています。私は評論家でも政治学者でもなく、またブログはあくまでも個人の覚え書き。ブロガーの中にはブログを通して大々的に運動を展開しようとか、あるいはブログ・ジャーナリズムの場でオピニオン・リーダーを目指そうと考えている方もおられますが、私はそういう気は毛頭ありません(そんな実力もありませんし)。つまりはささやかな個人通信に過ぎません。自分がものを考える手掛かりとして気楽に書いておりまして、発信を通していろいろな方のご意見を聞く機会があれば喜ばしいという程度。そういうお気軽ブログですので、あえて乱暴な言い方をすることも多々あります。私自身が頭が単純・粗雑であるとか、考え方が乱暴であると思われるのはよいのですが(事実ですし)、護憲を語る奴はみんなそうだという誤解だけはなさいませんように。地道に、そして誠実に記事を書いておられる方は大勢おられます。

それはそれとして、
> 要するに、都知事は悪いやつだから、良いことを言っても無視しろ!と言いたいのでしょうか?

……とは言ってないです(そう聞こえたとしたら私の表現力不足。反省)。私は都知事の考え方の基本について、相容れないものを感じております。したがって彼が「○○を大切にしよう」といった発言をする時、その「大切にする根拠や、やり方」は、私がそう思うものとは違っている。その点をはっきりさせておきたいということです。なお、別に、悪い奴だとも思っていません。嫌いですが、だからといって悪人とか非国民などという言い方でくくろうとも思いません。悪とか罪とかいう観念で語ろうとは思わないのです。私とは絶対に合わないな、と思うだけです。

たとえば私は納豆が嫌いなのですが、だからと言って納豆は撲滅すべき食品だなどとは言わない。モノにたとえると話が変になるので人間の話をしますと……そうですね、歴史上の人間で言えば――誰でもいいんですが、たとえばインカを征服したフランシスコ・ピサロ。歴史の本を読んでいる我々は、ピサロの話に接して「ヤな奴だな」と思っていればすみますが(むろん、好きだという人もいるかも知れません)、当時のインカの人々にとってはそれですむ話ではなかったでしょう。ピサロおよび侵略してきたスペイン人達に対して「おまえの“神”と我々の“神”」は違う。「おまえの“正義”と我々の“正義”は違う」と叫んだ、あるいは叫びたかったはずです。

石原慎太郎氏が広い影響力を持った「文化人」(あまりいい言葉ではありませんね)ではなく、ましてや都知事でもなければ、「嫌い」ですみます。しかし都民である私にとっては、間接的にではあれ自分の暮らしに関わってこざるを得ない(力を持つ)人物。だからこそ、私は「言葉の中身が違う!」としつこく言い続けるのです。彼は「心の東京革命」なるものに熱心ですが、彼のいう「心」と、私が考える「心」とは、少なくともこの三次元の世界では永遠に交わるとは思えないのです。クラインの壺にでも放り込めば、交わるかも知れませんけれども。

二元的思考が危険だというのは、まことにおっしゃる通り。汗顔の至りというほかありませんが、ただ、私が書いた「アッチ」と「コッチ」は、右と左、愛国者と非国民、善人と悪人、正常と異常、というような「アッチとコッチ」ではありません。「アッチ」は明日は「コッチ」になるかも知れず、「コッチ」が「アッチ」になることもあるでしょう(ですからあえて、このような小児語的な言葉を使いました)。コッチというのは、互いに言葉をかわし、認めあえるところは認め合い、何とか了解点をみつけられると思える人々。アッチというのは、残念ながら交わらないだろうと思える人々、という程度の感覚です。私は多くは「コッチ」の人ではないかと思っていますし、一見「アッチ」に見えても実はそうではない、という人も少なくないと思います。

アッチとコッチ、などという単純な対立図を描くのはいかにも幼稚で、まずいかも知れない。しかし私の場合「どうしても譲れないもの」はあり、その部分で思想信条が完全に対立する時だけは――やはり「アッチ」なのです……。

コメント (1)
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