「国民たるもの、すべて国に世話になっている。その恩のある国を愛せないだの、守る気はないだの、否認するだのとほざくのはトンデモナイ奴だ」という類のことを言う人がいる。
だが、果たして私は「国に世話になって」いるのだろうか。「恩」があるのだろうか。それは私だって、これまでの人生でいろいろと「世話になったり」「恩を受け」たりしている。だが、私を世話してくれたり支えてくれたのは、具体的な「人」である。たとえば私は、自分の母親には恩も義理もある。夫を早く亡くし、働きながら2人の子供を育てるために辛酸を舐めたこと、そして子供達の言動(2人共ろくでもない、俗に言う親泣かせの子供であったのだ)を「私は自分の子供を信じています」と言って守り通してくれたことを思うと、未だに言葉に詰まる。場合によっては裏切るかもしれないが、恩や義理は生涯消えまい。しかしそれは母親という一個の女性に対する恩義であって、「○○家」に対する恩義ではないのだ。
以前のブログでも書いたが、我々が不自由なく生活していく上で何らかの枠組みやルールがなければ不便だから、一種の「必要悪」として創り出したに過ぎないもの――それが「国家」であると私は思っている。つまり「道具」である(そのことを書いた記事に対して、いろいろな方がコメントを寄せてくださった。装置、と呼ぶ方もあり、フィクションと呼ぶ方もあった。それらの言い方の方が正しい……というか、わかりやすいかも知れない)。
むろん、道具や装置やフィクションにも、人間は恩義を感じないわけではない。たとえば「針供養」(そういうものが存在するor存在した、ということを知っているだけである。私自身はやったことは勿論、見たこともないが……)。長年使ってきた針を、「世話になったね。ありがとう」とねぎらう儀式であろう。愛用のカメラ、包丁、鉋、などを撫でて「これのおかげで、オレはきっちりと仕事して来られたんや」と言うプロフェッショナルも決して稀ではない。これは道具ではないが、たとえば森などに「我々の暮らしを守ってくれてありがとう」と恩義の感覚(感謝の気持ち、と言うべきか?)を持つ人もいる。所属組織や装置に恩義を感じることもある。
だが、道具や組織や装置などに感じる恩義は、具体的な「人」に対するそれとは性質が違う。人に対する恩義の感覚は、ほとんど問答無用に近い(ときどき恩を押し売りする手合いがいるが、それは話が別。問答無用に近いというのは、無償の好意を与えられた時――のことである)。道具や組織や装置は我々に向かって、無償の好意に基づく自律的なふるまいをするわけではない。だから恩義を感じたとすれば、その恩義は観念が生み出したフィクションである。フィクションが悪いわけではない。人は常にフィクションを構築し、自らをそれに酔わせることで歩き続けてきた面もあるのだから。私は国境のない世界を夢想しているが、これだってある意味でフィクションである。そのフィクションを具現化したいという望みは、あるいは永久運動機械を作り出そうとする愚に近いのかも知れない。
(また話が逸れてきた……戻そう)
組織や装置や道具に対して感じる恩義は、個々人の心の中にある、いわば幻想である。思想(あるいは妄想)によって生み出された幻想に過ぎず、個々人が思っている分にはどうでもよいし、必死で広めようとするのも個人の勝手であるが、少なくとも他者に強要すべきものではない。
カメラなど純粋な道具なら、まだいい。山や森もいい。それらは我々に対して能動的な動きをしないから。しかし組織となれば話が違う。組織はまるで生き物のように育ち、所属するものを従属させ、恩義を感じさせようとする(むろん組織というものが、ではない。組織を動かす人間が、であるけれども)。厄介きわまりないと言ってよい。
私は「国に恩義はない」と思っているのである。所属していることで生活上の便宜はあるが(むろん不便もある)、それは当然のことだ。学校を出てからずっと、税金払っているのである(貧乏人なので、威張るほどたくさんは払っていないが……)。だから、恩義を感ぜよと強要されたくない。それを人、非国民よばわりする人がいれば、私はその人達に真剣に問いたい。「では、あなたにとって国家とはいったい何なのですか」と。「従属させられることに歓びを感じるような(ほとんどマゾヒズムではないか……)、すばらしい対象なのですか」と――。
だが、果たして私は「国に世話になって」いるのだろうか。「恩」があるのだろうか。それは私だって、これまでの人生でいろいろと「世話になったり」「恩を受け」たりしている。だが、私を世話してくれたり支えてくれたのは、具体的な「人」である。たとえば私は、自分の母親には恩も義理もある。夫を早く亡くし、働きながら2人の子供を育てるために辛酸を舐めたこと、そして子供達の言動(2人共ろくでもない、俗に言う親泣かせの子供であったのだ)を「私は自分の子供を信じています」と言って守り通してくれたことを思うと、未だに言葉に詰まる。場合によっては裏切るかもしれないが、恩や義理は生涯消えまい。しかしそれは母親という一個の女性に対する恩義であって、「○○家」に対する恩義ではないのだ。
以前のブログでも書いたが、我々が不自由なく生活していく上で何らかの枠組みやルールがなければ不便だから、一種の「必要悪」として創り出したに過ぎないもの――それが「国家」であると私は思っている。つまり「道具」である(そのことを書いた記事に対して、いろいろな方がコメントを寄せてくださった。装置、と呼ぶ方もあり、フィクションと呼ぶ方もあった。それらの言い方の方が正しい……というか、わかりやすいかも知れない)。
むろん、道具や装置やフィクションにも、人間は恩義を感じないわけではない。たとえば「針供養」(そういうものが存在するor存在した、ということを知っているだけである。私自身はやったことは勿論、見たこともないが……)。長年使ってきた針を、「世話になったね。ありがとう」とねぎらう儀式であろう。愛用のカメラ、包丁、鉋、などを撫でて「これのおかげで、オレはきっちりと仕事して来られたんや」と言うプロフェッショナルも決して稀ではない。これは道具ではないが、たとえば森などに「我々の暮らしを守ってくれてありがとう」と恩義の感覚(感謝の気持ち、と言うべきか?)を持つ人もいる。所属組織や装置に恩義を感じることもある。
だが、道具や組織や装置などに感じる恩義は、具体的な「人」に対するそれとは性質が違う。人に対する恩義の感覚は、ほとんど問答無用に近い(ときどき恩を押し売りする手合いがいるが、それは話が別。問答無用に近いというのは、無償の好意を与えられた時――のことである)。道具や組織や装置は我々に向かって、無償の好意に基づく自律的なふるまいをするわけではない。だから恩義を感じたとすれば、その恩義は観念が生み出したフィクションである。フィクションが悪いわけではない。人は常にフィクションを構築し、自らをそれに酔わせることで歩き続けてきた面もあるのだから。私は国境のない世界を夢想しているが、これだってある意味でフィクションである。そのフィクションを具現化したいという望みは、あるいは永久運動機械を作り出そうとする愚に近いのかも知れない。
(また話が逸れてきた……戻そう)
組織や装置や道具に対して感じる恩義は、個々人の心の中にある、いわば幻想である。思想(あるいは妄想)によって生み出された幻想に過ぎず、個々人が思っている分にはどうでもよいし、必死で広めようとするのも個人の勝手であるが、少なくとも他者に強要すべきものではない。
カメラなど純粋な道具なら、まだいい。山や森もいい。それらは我々に対して能動的な動きをしないから。しかし組織となれば話が違う。組織はまるで生き物のように育ち、所属するものを従属させ、恩義を感じさせようとする(むろん組織というものが、ではない。組織を動かす人間が、であるけれども)。厄介きわまりないと言ってよい。
私は「国に恩義はない」と思っているのである。所属していることで生活上の便宜はあるが(むろん不便もある)、それは当然のことだ。学校を出てからずっと、税金払っているのである(貧乏人なので、威張るほどたくさんは払っていないが……)。だから、恩義を感ぜよと強要されたくない。それを人、非国民よばわりする人がいれば、私はその人達に真剣に問いたい。「では、あなたにとって国家とはいったい何なのですか」と。「従属させられることに歓びを感じるような(ほとんどマゾヒズムではないか……)、すばらしい対象なのですか」と――。
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それが、さらに加速していく。小さな企業の組織でもよくありますね。
たとえば、部長は温厚であまり怒ったりしない人だったとしても、下の課長が気を使って「そんな企画を見せたら部長に失礼だろ」って言うものだから、部長の性格が一人歩きして、部下が怖がってなかなか話しかけてくれなくなったり。課長は出世したいから、部長のご機嫌を考えてそうするんだろうけど、仕事上、いろんな案を見たいっていう場合もありますね。いろんなヒントが隠れているかもしれない。
誰かが、変な気を回して話し、伝わった話は、徐々に大きくなって、最初に言った者も想像がつかない事態になったり。
手なづけようとして、献金していた集団が、託した政策が思いもよらず、自分らを困らせる政策に変化したり。単に人気を取りたくて、どこかの集団の言いなりになって「愛国心を涵養する教育を」って言ってたら、気がついたら、日本全体がおかしくなっていたり。どこぞこの集団に気を使って、理由も明らかにせず、「理解し難い」とだけ言って書き換えさせる教科書で学習する高校生は、どうなっていくんだろう。そんな気じゃなかった。そこまでは思ってなかったと言っても後の祭り。合議や分権によって歯止めが効いていたものが、独裁によって歯止めがなくなり、突っ走っていく。取り返しのつかないぬかるみに、戦前同様、はまり込んでいっている、そんな気がする今日この頃です。
> 本来,特に高等教育はヨーロッパのように全て税金で賄われ,
おっしゃる通りだと思います。教育は単にその個人のために行われるものではなく、社会のため(大きく言えば人類全体のため)という意味が大きい。親が負担するというのは間違っています(社会にナンも還元せず、受けた教育を悪用する奴は……ちょっと話が別ですが)。
テッドさん;
> 国家も会社も同じと考えると真実が見えてくる。
まったくそうですね! 人によって「社長に世話になった」とかいう場合もあるでしょうが、組織体そのものに恩のある人は……あったとすればどこか考え方の回路が間違っている気が。
皆さん、「国家」など鼻であしらいましょう。
つまり,小沢派や羽田派の保守本流や,野中・亀井・後藤田のように,国家よりも国民を守ることが保守政治家の信念だと考えている,戦争体験者たちとはかなり考え方が薄っぺらいせいじゃないかなというのが私個人の感想です。
先日も横浜市長が再選されましたけど,また「コペルニクス的ばか」などと,科学史を全く無視した愚かなバカ発言をしやしないかと,ひやひやしていたりします。天国の飛鳥田さんはきっとお嘆きのことでしょうね。
いつも華氏451度さんのご意見に同感しています。
最近の、TVに出ている政治家はなぜみんな
国家主義者なんでしょうか?特に民主党の議員がその傾向に傾いているのが気になります。
なんで日本人なのかって聞かれたら、ほとんどの人が
「生まれて育ったところだから」「家族・友人が住んでるから」と
答えると思います。人があっての国で、国があっての人じゃないのです。
今回は中身のないコメントですが、だいたいいつも納得しながら読んでますということだけ言いたく、投稿いたしますね。
などと書くと,お前は俺たちの税金で勉強したくせに何さらすかボケと言う奴が必ずいるけど,それは単なる負け惜しみか嫉妬に過ぎないと私は思っています。
本来,特に高等教育はヨーロッパのように全て税金で賄われ,入学金も授業料も必要なく,教科書代と生活費だけ自前で用意すれば良いとするべきなのである。現に,高専のほとんどや防衛医大・防衛大など幾つかの国立の高等教育を行う学校はほぼ完全に税金で賄われているではないか。
つまり,国家は人材育成の責任を負っているのであり,国民が自ら身銭を切るとなると,結局金持ちしか高等教育を受けられず,優秀な人材が育たないといった結果となります。
最近,若い官僚や学者が留学先から帰ってこないという現象が顕著に起こっています。彼らは日本に帰っても「未来がない」ことを悟ってしまったので,日本で汗を流すことに嫌気をさしたと言うわけです。当然,彼らは国立学校の生徒とは違い,給与という形で生活のすべてを国家の税金によって賄われていた人々です。本来ならば彼らが「非国民」「国賊」と呼ばれるべきではないでしょうか,右よりの人たち!
従って,私も日本国には何の恩義も感じていないし,支払った税金で十分に借りは返したと考えております。国は単にステップアップの機会を与えてくれた,それ以上でも以下でもないのです。