PCの不具合で、ここ2日ほど画像をアップできない。UTSその他のバナーを貼りたいのだけれど、そういう事情で……。(くそーッ、また初期化しないといけないのかよっ!)
ネット上の親しい友人である(って、勝手にトモダチ扱いしてすみません)愚樵さんが「報道者って何者?」という記事を書かれた。この中で愚樵さんはH-Yamaguchi氏の「新聞記者はえらい、という話」を取り上げ、報道機関、報道者そして報道というものについての「素朴な疑問」を提示しておられる。実は「新聞記者はえらい、という話」は、もう10日ほども前にコメント欄でご紹介いただき、「華氏さんはどう思いますか」という問いかけも受けていた。ある意味で単純、しかしある意味では非常に難しく――どんなふうに整理すればよいのか途方に暮れたまま時間だけが経過してしまったのである……。だが、報道の末端を担う人間として、この問いには真面目に答えなくてはなるまい(勝手にそう思っているだけだが)。ちょうどいい機会、かも知れない。
「新聞記者はえらい、という話」については実際にこの記事を読んでいただくのが一番だが、一応、要点だけを簡単にまとめておく。
○ある大手新聞社の役員氏によれば、記者はあらかじめ何を書きたいかを決めて(明確な結論まで持って)取材するのだという。
○新聞記者が書くのは事実ではなく、解釈された事実でもなく、その記者自身の主張である。記者が取材に行くのは、事実を積み重ねるためではなく、自己の主張に沿った情報をネタとして仕入れるためにすぎない。
○つまり新聞記者の仕事というのは、事実を伝えるルポライターの仕事とも、事実を解釈する学者の仕事とも違い、むしろ「小説家」に近い。つまりアーティストであり、だから彼らは「えらい」のだ。
以下、愚樵さんの「疑問」に対して、私なりの答えを返してみるという形で構成する。【】でくくった部分は、愚樵さんの記事内の文章である。
【新聞社とそれ以外の報道の世界では、こうも報道に対する姿勢が違っているものなのだろうか?】
新聞社もそれ以外も、基本的な「報道の姿勢」は何ひとつ変わらないと思います。私自身、新聞の仕事をしたこともありますので、この点は自分の責任において断言できます。
【新聞記者は言わずもがな、「事実がすべてを物語る」という姿勢の雑誌編集長も「評論家やエッセイストになってしまう」、つまりアーティストになってしまうという「事実」を指摘する。】
私は、ルポライターは、独り立ちできるようになるとすぐ評論家やエッセイストになりたがる、という雑誌編集長の言葉を紹介しました。しかし「評論家やエッセイストになりたがる」理由は、多くの場合、「アーティストになりたい」からではないと思います。私見ですけれども、ルポライターよりも、評論家やエッセイストの方が「肉体的に楽」だからではないでしょうか。昔、「刑事と記者は足で稼ぐ」などと言われました。何人も何人もの人に会い、さらに話の裏をとって回る。話を聞くためには自分があやしい人間ではないことを真に理解してもらわねばならず、一升瓶下げて行って徹夜で飲み、一緒に泣きもする。ある意味で泥臭い、体力勝負の世界です。しかし、評論家やエッセイストは、靴の底をすり減らして歩き回らなくてもいい。歩き回った方がいいに決まっていますが、必要十分条件ではない。むろんそれなりの頭脳やセンスが必要でしょうが、少なくとも肉体的には楽――なのです。その分、綺麗な仕事でもあります。だから多くのライターが、そちらに行きたくなるのでしょう。
やや余談ですが、私もほんの数回ですけれど、恥を忍んで講演めいたもの(要するにひとさまの前でちょっとしゃべる)をやったことがあります。自分が持続して関わった記事の関連で、刺身のツマに呼ばれただけですし、ツマですから講演料も刺身本体の先生がたとは比べものになりません(1度など、予算がなくてちゃんとした方には来てもらえないから、仕方なくあんたに頼んだと正直に言われたこともあります……さすがに自嘲せざるを得ませんでした)。それでも、2時間程度しゃべって、私が雑誌などに取材記事を書くときの「仕事の時間単価」と比べると、驚くほど多額のお金をいただいて腰が抜けました。また、ペンネームを使って、幾分か評論家的な記事を新聞に書いたこともありますけれど、その時も「こんなにもらっていいのか」とビビったのを覚えています。400字あたりの原稿料は取材記事と同じですが、取材という辛い作業がないわけですから、感覚としては桁の1つ違う金をもらってしまった、という印象でした。ほとんど麻薬を嗅がされた気分だったのです。 そういう経験を経て――私は「自分が足で稼いだ仕事以外でカネをもらったら、記者は腐る」という結論に達しました。そりゃ私だって、楽して稼げるものならそうしたい。常にそういう誘惑はあります。でも……ここはもうほんと、やせ我慢の世界なのですけれども、「誘惑にのっちゃあ、おしまいよ」。芸は売っても身は売らぬ、なのです。もっともこんなノーテンキなことを言えるのは、私が養うべき何者も持っていないからだと思います。自分の始末さえつけられればそれでよく、どこでのたれ死にしても嘆く者も困る者もいない。親や妻子のことを考えねばならない人達は、そんなキレイなことを言っておれないのです……。
【報道機関とは常にモラルを問われるところに位置する存在である。「アーティスト」たる新聞記者はそのモラルが疑われるし、その姿勢はH-Yamaguchi氏が疑問を呈するように「取材って本当に必要なのか?」と報道機関の存在意義を疑われてしまう結果を導く。】
新聞記者は「予断を持ち」「自分の中で明確な結論をもって」取材する、とH-Yamaguchi氏は書いておられました。これはある意味では事実であり、同時にある意味では偏見?かも知れないと私は思っています。 こんなことを言うのは語弊があるかも知れませんが、記者が「予断を持つ」のは当然のことです。記者はコンピュータでも人形でもなく、血肉を持った人間です。主張を持ち、予断を持つのはある意味であたりまえだと私は思います。たとえば私が医療関係の法律改定の取材をするのであれば(実際、間歇的に取材しているのですけれども)、「受益者負担の思想は格差社会を補完するものだ」という自分の考えにのっとって取材するでしょう。「白紙の状態」という言葉は聞こえがいいのですが、実際問題としてはそんなことはあり得ません。人はすべて、それぞれに自分の立ち位置、視点、考え方のベクトルを持っているのですから。その意味でH-Yamaguchi氏の指摘は正しくもあり、やや論点がずれているとも言えるでしょう。 ただ、いずれにしてもその「予断と偏見」は自分だけのものであると知っておくこと、そして「予断と偏見」に賭ける覚悟があること。さらに――予断と偏見を抱きしめながらも、それが「事実」の前に膝を屈することもままあると知り、その場合は潔く兜を脱げること。――それが、報道者が報道者として生きることを許されるための必須条件であろうとも思っています。
◇◇ 夜がふけ、さすがに眠くなってもきたので、話は中断。あらためて続きを書きます。このエントリは、「報道」を考える第一歩、ということで……(実際のところ、この問題は自分にとってハンパじゃない話なのだ。しつこくしつこく、私なりに考え続けたい)◇◇
山口氏の『記者は偉い』では記者とコメンテーターとは全く違うものだと言う主張です。
今回の記事では『記者』と『コメンテーター』を『報道者』として混同しています。
コメンテーターは事実を正確に読者に伝えるのが仕事です。
しかし記者(新聞社)は自らの主張を読者に正確に伝えるのが仕事なのです。
山口氏は記者は作家と同じと言っていますが、其れは違います。
良い小説家は何かを書く前には、取材に膨大な時間を使います。作品に現実感を出す為、出来る限り控えめに表現します。
良い記者(新聞社)は出来る限り短い時間で出来る限り多くの事実を取材します。多くの事実の中で書くものと書かないものを取捨選択します。ここは記者も作家も同じ作業を行います。
新聞には機関紙と言って政党や労組などの発行しているものも有ります。
日本では新聞は不偏不党いずれにも偏らず誰に対しても公平と言う建前になっています。本当にそうでしょうか。
アメリカでは各新聞社は支持政党を鮮明にしています。
事実は新聞をよく読めば判ります。
先程産経新聞の紙面にインターネット上での『君が代』替え歌事件なる記事が代一面に有りました。
『新しい歴史教科書を作る会』か安部晋三や石原慎太郎の機関紙のようです。
中曽根内閣の時この新聞は、今にもソ連軍が北海道に攻めて来る話を書いていました。中曽根康弘の機関紙だったのでしょう。
全ての新聞はそれぞれの人達の、ある意味では、それぞれの機関紙なのです。記者か誰に対して何を書くかが問題なのでしょう。
> 新聞は明確に主張する
> 全ての新聞はそれぞれの人達の、ある意味では、それぞれの機関紙なのです
と言われるのは、正しいと思います。おっしゃるように、決して「不偏不党」などということはあり得ません。新聞だけでなく、雑誌も同じことです。芸能関係やファッションや旅行等々、“政治や社会問題と無縁な話題”を扱う雑誌であっても。
主張まではいかなくても、少なくともそれぞれの「立ち位置」を持っています。たとえば、「ウチの雑誌は勝ち組の応援をするんや」的な立ち位置や、「ウチの雑誌は日本の伝統文化を守るのだ」的な立ち位置もあるでしょう。
ひとつ、これは言葉の問題ですが――
> コメンテーターは事実を正確に読者に伝えるのが仕事です。しかし記者(新聞社)は自らの主張を読者に正確に伝えるのが仕事なのです。
と書かれていますが、「コメンテーター」というのは「コメントを述べる人」。新聞や雑誌で「この問題は……」等々、専門家や事情通が注釈を加えたり意見を述べていることがある。こういう人をコメンテーターと呼ぶのだと思います。つまり、コメンテーターは「事実を正確に伝える人」とは言えません。
事実を伝えるのは、やはり「記者」の仕事ではないでしょうか。それぞれの立ち位置によって事実の取捨選択や取り上げ方は違うはずですが、少なくとも「取材もせずに報道」したり「事実に反することを報道」してはならない。
そして、新聞や雑誌が「それぞれの人達の、ある意味では、それぞれの機関紙(誌)」であったとしても、現場の力によってひっくり返ることもあるのです。
この「予断」からすると、「黒衣(くろこ)」は“認める者”であって、それに撤するということは“認められたい”という本性に反する「不自然」ではないか、ということでした。
でも、華氏さんのエントリを拝見してわからなくなりました。
>予断と偏見を抱きしめながらも、それが「事実」の前に膝を屈することもままあると知り、その場合は潔く兜を脱げること
これは報道者の「モラル」そのものだと感じましたが、同時にちっとも「不自然さ」を感じませんでした。そうなると、私が書いた記事は整合性が失われてしまいます。私ももっと考えなければ。
でも報道を巡るシステムについては「不自然」なものだと、今回の華氏さんのエントリでよくわかりました。この「不自然さ」は今の社会全般に言えることですが。
それと、追及するようで恐縮ですけど、なぜ
>「自分が足で稼いだ仕事以外でカネをもらったら、記者は腐る」という結論に達し
たのか、興味があります。「楽をすれば堕落する」というのは世の中の一般原理ですけど、華氏さんがこの結論に至ったについては、報道の世界の特殊事情のようなものがあったのでしょうか?
どうか、これからもよろしくお願いします。
光市事件の弁護士、イラクの人質達など、本来バッシングとは無縁のはずの人達が被害に遭っています。
報道者(報道機関)が犯罪まがいの人権侵害の下手人に成り果てています。
裁判では99.8%以上有罪になります。警察に捕まった容疑者の90%以上は犯人でしょう。
しかし当然無実の人もいるのです。10%以下でも当然マスコミには報道する責任があるでしょう。
現在の私にはマスコミ(報道機関)と宣伝(広報)との区別が付かなくなりました。