連休前ということで(私は連休ではありませんが)片付けておかねばならないことが多く、取り急ぎ思いついたことだけメモしておく。
1)続・マスメディアを叱咤激励しよう
「雑談日記」さんからTBいただいたエントリ「『4月30日現在共謀罪取組政党別マスコミ別評価バナー』を作りました」(※)の中に、次のような一文があった。
【現状を見るならばマスコミ批判の潮流の方がまだまだ弱い、弱すぎると思っています。(中略)まだまだマスコミ批判の舌鋒は不十分で徹底的にやるべきです。そうする中で、良いものをほめる】
※http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2006/04/430_b55a.html
まだまだマスコミ批判は足りない――と思っておられる方は、ほかにも大勢おられると思う。実際、いろいろな方のブログを読むと、マスコミの姿勢に対する鋭い批判をよく見かける。
実のところ私も、今のマスコミ――特に巨大メディアと言われる所には愛想が尽きるほどだ。それでもなお、私は「この状況だからこそ、マスメディアを叱咤激励しよう」などと書いてきた。それは「まともな情報を受け取りたい」と思っている人々がマスメディアを見放した時、マスメディアは完全にダメになってしまう――乗っ取られてしまうだろうからである。
むろん、批判はすべきである。大本営発表のような情報の垂れ流しや、重要な情報を覆い隠すような働きをする紙面(誌面、番組)作り、一種のアリバイとしか思えない(薄い水割りのような)政治批評……等々、すべて「何考えてるんだ」と厳しく批判し、抗議しなければならない。
ただ、その場合、我々は「マスメディアをどう捉えるか」を自分の中で明確にしておく必要があると思う。敵であるのか、それとも味方(に引き入れたいもの)であるのか。
むろん、「マスメディアは百害あって一利なし。まったく信用できない。我々の側ではない」と言い切る立場もアリだ。だが、私はマスメディアを「百害の一方で、まだ一利ぐらいはある」と思っているし、少なくとも「あんたらは全くダメ」と十把一絡げに捨ててしまいたくない。捨てるにはあまりに惜しい、ということもある。また、私はメディアは本来、報道する側のものでも、ましてやスポンサーのものでもないと思っている。報道される情報を受け取る側のものである。だから「叱咤激励しよう」という話になるわけだ。報道の姿勢や視点のおかしさを批判・抗議し、何々を報道せよと要求し、良質の報道があれば応援し……という関わり方によって、マスメディアを我々の手に取り戻さねばならない。
2)メディア攻撃をガス抜きに利用されまい
郵政民営化を叫ぶ時に、与党は我々の中に潜んでいる「反公務員感情」のようなものをうまく利用した。公務員は親方日の丸でヌクヌクとやってる、という感情……。権力は仮想敵をこしらえるのが巧い。仮想敵というと話が大きくなるので、「みんなが石を投げる対象」程度の言い方をしてもいい。それに乗る方も乗る方ではあるのだが、それはさておき、おおっぴらに罵倒する対象が与えられればつい尻馬に乗ってしまうのは我々のなさけないところである。中国や韓国はけしからん、オウムの信者は悪いヤツラだ、このあいだ逮捕された○○(誰でもよい)は人だ、公務員は楽をしている……エトセトラ。
そのうちマスメディアも、具体的に何処が問題であるかがほったらかしにされたまま、「まともな報道など何ひとつしていない」「嘘ばかりついている」「バカだ」と気持ちよく罵倒され石を投げられる対象になりかねない……というのは私の妄想だろうか。一億総評論家になって「マスコミはダメなんだよねえ」などと言い、それで溜飲を下げてしまっては肝心のところに霞がかかる。
一番よくないのはマスメディア自身だが、「ダメだダメだ」の大合唱をしているだけではラチはあかないのである。マスメディアをこれ以上、堕落させまい。いや、むろん堕落するのは自業自得みたいなものであるけれども、堕落を嗤って眺めていた結果、ツケを払わされるのは……。
3)そして、マスコミで働くすべての友人達へ
むろん、メディアの仕事に携わる人々に対しては別のことを言いたい。私達はいま、崖の側まで追いつめられている。その崖は目に見えないから、つい日々の業務の中で見過ごしてしまいがちだが、足が崖っぷちにかかった時はもう遅いのだ。
たとえば先日来、多くのブロガーが危機感を表明している共謀罪。あれはメディアにも突きつけられた刃である。表現すること、情報を伝えていくことを使命とするジャーナリストにとって、「語ること」に縛りをかけられるのは死の宣告に等しい。与党の改定案が明示された教育基本法も同様。思想と表現を縛ろうとする動きは、すべてジャーナリズムの敵であると何度も何度も自分の中で確認し続けねばならないと私は思う。
1)続・マスメディアを叱咤激励しよう
「雑談日記」さんからTBいただいたエントリ「『4月30日現在共謀罪取組政党別マスコミ別評価バナー』を作りました」(※)の中に、次のような一文があった。
【現状を見るならばマスコミ批判の潮流の方がまだまだ弱い、弱すぎると思っています。(中略)まだまだマスコミ批判の舌鋒は不十分で徹底的にやるべきです。そうする中で、良いものをほめる】
※http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2006/04/430_b55a.html
まだまだマスコミ批判は足りない――と思っておられる方は、ほかにも大勢おられると思う。実際、いろいろな方のブログを読むと、マスコミの姿勢に対する鋭い批判をよく見かける。
実のところ私も、今のマスコミ――特に巨大メディアと言われる所には愛想が尽きるほどだ。それでもなお、私は「この状況だからこそ、マスメディアを叱咤激励しよう」などと書いてきた。それは「まともな情報を受け取りたい」と思っている人々がマスメディアを見放した時、マスメディアは完全にダメになってしまう――乗っ取られてしまうだろうからである。
むろん、批判はすべきである。大本営発表のような情報の垂れ流しや、重要な情報を覆い隠すような働きをする紙面(誌面、番組)作り、一種のアリバイとしか思えない(薄い水割りのような)政治批評……等々、すべて「何考えてるんだ」と厳しく批判し、抗議しなければならない。
ただ、その場合、我々は「マスメディアをどう捉えるか」を自分の中で明確にしておく必要があると思う。敵であるのか、それとも味方(に引き入れたいもの)であるのか。
むろん、「マスメディアは百害あって一利なし。まったく信用できない。我々の側ではない」と言い切る立場もアリだ。だが、私はマスメディアを「百害の一方で、まだ一利ぐらいはある」と思っているし、少なくとも「あんたらは全くダメ」と十把一絡げに捨ててしまいたくない。捨てるにはあまりに惜しい、ということもある。また、私はメディアは本来、報道する側のものでも、ましてやスポンサーのものでもないと思っている。報道される情報を受け取る側のものである。だから「叱咤激励しよう」という話になるわけだ。報道の姿勢や視点のおかしさを批判・抗議し、何々を報道せよと要求し、良質の報道があれば応援し……という関わり方によって、マスメディアを我々の手に取り戻さねばならない。
2)メディア攻撃をガス抜きに利用されまい
郵政民営化を叫ぶ時に、与党は我々の中に潜んでいる「反公務員感情」のようなものをうまく利用した。公務員は親方日の丸でヌクヌクとやってる、という感情……。権力は仮想敵をこしらえるのが巧い。仮想敵というと話が大きくなるので、「みんなが石を投げる対象」程度の言い方をしてもいい。それに乗る方も乗る方ではあるのだが、それはさておき、おおっぴらに罵倒する対象が与えられればつい尻馬に乗ってしまうのは我々のなさけないところである。中国や韓国はけしからん、オウムの信者は悪いヤツラだ、このあいだ逮捕された○○(誰でもよい)は人だ、公務員は楽をしている……エトセトラ。
そのうちマスメディアも、具体的に何処が問題であるかがほったらかしにされたまま、「まともな報道など何ひとつしていない」「嘘ばかりついている」「バカだ」と気持ちよく罵倒され石を投げられる対象になりかねない……というのは私の妄想だろうか。一億総評論家になって「マスコミはダメなんだよねえ」などと言い、それで溜飲を下げてしまっては肝心のところに霞がかかる。
一番よくないのはマスメディア自身だが、「ダメだダメだ」の大合唱をしているだけではラチはあかないのである。マスメディアをこれ以上、堕落させまい。いや、むろん堕落するのは自業自得みたいなものであるけれども、堕落を嗤って眺めていた結果、ツケを払わされるのは……。
3)そして、マスコミで働くすべての友人達へ
むろん、メディアの仕事に携わる人々に対しては別のことを言いたい。私達はいま、崖の側まで追いつめられている。その崖は目に見えないから、つい日々の業務の中で見過ごしてしまいがちだが、足が崖っぷちにかかった時はもう遅いのだ。
たとえば先日来、多くのブロガーが危機感を表明している共謀罪。あれはメディアにも突きつけられた刃である。表現すること、情報を伝えていくことを使命とするジャーナリストにとって、「語ること」に縛りをかけられるのは死の宣告に等しい。与党の改定案が明示された教育基本法も同様。思想と表現を縛ろうとする動きは、すべてジャーナリズムの敵であると何度も何度も自分の中で確認し続けねばならないと私は思う。
ところで、マスコミに対する私の不満の一つに、「誰が政治家になっても社会や政治は変わらない」というような言説を有権者の声として選挙のときなどに新聞の紙面などに出すということがありますね。(何日何時何分何秒に紙面に出たのか?なんてツッコミは無しね。)
こういうことを思う一般の人がいることは確かです。でも、こういう言説を無批判に広めることは、社会を腐らせる第一歩だと思います。こういう言説が広まることで政治や社会に対する市民の無力感は広まり、ますます政治が市民の意思とは関係ない方向に漂流していくのではないでしょうか。
マスコミは「有権者の政治離れや政治的無関心」を語ることによって「政治を批判している」つもりにならないでほしい、と強く願います。
同時にこれまで情報体を牛耳ってきた、既存のメディアの価値は、相対的に低下し、一部では「朝日が反対するから賛成」などと笑えない主義(というほどのモノか?)が蔓延する風潮ですね。
しかし華氏さんが書かれているように、ただマスコミを批判して、それで問題が解決したかのように安堵して、ただのガス抜きで終わっている現状には、前から不満を持っていました。
どんなに素人が頑張ったって、メディアの情報収集力にはかなわないんです。だったら、メディアはメディア、ボクら素人は素人と、住み分けて発信していけばよいのではないでしょうか。
だからボクもあえて云いたい!
ガンバレ!メディア!!と。
先の記事にもTBさせていただいたのですが、貴ブログはTBが多く、埋もれてしまいそうなので、こちらにも再度TBいたします。
いつもならがらの、温かい記事ですね。
華氏451度さんのまなざしには「愛」を感じます(恥ずかしい~)。
「愛」を伝えることは難しい。華氏451度さんの伝え方は、明示的ではありませんけど、「愛」がたっぷりと盛り込まれていると思います。
個々のジャーナリストはがんばってる人がいくらでもいるのでNHKだとか朝日だとかいうことだけでレッテル貼りするのをやめないといけないと思う。
・・・とおっしゃる愚樵さんのご意見に大きくうなずきました。(^^)
「ふじすえ」さんとこのコメント欄見て、おもわず微笑んでしまった~。
発掘屋さん;
> どんなに素人が頑張ったって、メディアの情報収集力にはかなわないんです
そうなのです。いえ、私もマスコミの人間ですが、我々フリーの場合、ひとりでやれることは限られています。ですからフリー・ジャーナリストも大きな問題に取り組むときは、新聞なり雑誌なりのスタッフと協力して、一種のプロジェクトを組むことが結構あるのです(※)。たとえば――ジャーナリストではありませんが、森村誠一さんが『悪魔の飽食』を書いた時は、『赤旗』の取材班が資料集めや取材に協力しましたね。
※むろん、かなり大きな問題であっても、フリー・ジャーナリストが1人でコツコツ調べて……というケースも多々ありますが、その分、時間がかかりますし、1人ではカバーしきれないものもあるのです。
ですから、メディアの情報収集力というのはバカにできないし、変な言い方ですが、私達はそれを巧く利用しなければ損、だとも思います。(インターネットを使えば確かに膨大な情報を手に入れることが出来ますが、私達個人が真偽不明な情報についてすべてきちんとウラをとることは難しいということもあります)
愚樵さん、ぷらさん;
ははは……「愛」……(恥ずかしいのは私のほう)。ふじすえ議員の所ですか。読んで思わずコケそうになったのですが(笑)、この切羽詰まった状況においては、取り急ぎ「頑張ってくれッ」というのが先決かと(汗)。
かといって、突然ほかの共謀罪と全く関係ないブログにトラックバックをしたら、反感を買ってしまう。
そこで提案。
個人ブログならではのテーマの流動性を生かして、政治性の薄い内容、例えばスポーツ等の自分がもっている取って置きのねたを披露し、そのネタに関連したブログにトラックバックを送っていく。
こうすることで、少しずつでも認知の輪を広げていけるのではないだろうか。