先週の初めから出張しており、土曜日の零時過ぎにヘトヘトになって戻ってきた。今回はやたらに移動が多いので荷物を極力少なくしたく、ノートパソコン持たずに行ったためネットと無縁の1週間でありました。メールもチェックしておらず、帰宅してパソコン立ち上げたらゲンナリするほどのメールが……。むろん仕事やプライベートの連絡もあるのだが、迷惑モノの多さにブチ切れそうになる。かなり神経質に対策立ててるつもりなのに、浜の真砂は尽きるとも世に迷惑メールの種は尽きまじ。ほとんどモグラ叩きの雰囲気である。
しょうもない愚痴を書いてしまった(笑)。まあそういうわけで、TBいただいたエントリなども先ほどやっと、まとめて読みました。更新もしていないのに、TB送ってくださった皆さん、ありがとう。毎日読めるとは限りませんが、ちょっと遅れてでも読ませていただきますし、私は自分のブログを覗いてくださった方に少しでも多くさまざまな良質のエントリを紹介したい(読んで欲しい)と思っているので、TBいただくのは非常に嬉しいのです。これからも宜しくお願いします。
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貧乏ヒマ無しを絵に描いたような状況下にあるので、今夜は先日から考え続けていることの断片のメモ書きのみ――。ジャーナリズムって何だろう、というハナシである。
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よく「公正中立な立場」などというが、報道にそんなものはあり得ない。いや、「ある事実」の提示についてのみ言えば、「無色透明」はあり得る。と言うか、勝手に色をつけてもらっては困る。NHKの報道だろうと「赤旗」だろうと「聖教新聞」だろうと、たとえば日本の人口は1億2000人余だし、国民投票法参院可決は2007年5月14日。昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれたのは『バーレーを揺らす風』。都知事選の開票結果なども、新聞やテレビ局によって変わったりはしない。当たり前である。相撲の優勝力士が、朝日新聞によれば朝青龍、毎日新聞によれば白鵬(相撲に限らずスポーツ中継をまったく見ないので、実はどちらも名前をうろ覚えしてるだけで顔知らないのですが……)、なんてことはあり得ません。あったら怖い。
だが、ジャーナリズムの役割は「(誰が見ても一目瞭然の)事実」を垂れ流し的に伝えることではない。これもまた、当たり前のことだ。報道者は機械ではないのだから。
たとえば同じ「時の人」にインタビューした記事でも、メディアの性格により、そしてインタビューする人間の個性によって、中身は大きく変わる。私も同じ話題を他の雑誌などと並走する形で取材したことが何度かあるが、事前情報の集め方や質問の項目・中身や尋ね方などは千差万別。当然、出来上がる記事も大きく変わる。変わらなければ、それは取材・報道者の恥でもある。相手が言いたいこと、表面的なことだけ聞いてくるなら記者はいらない。テープレコーダーでも置いといたほうがマシというものだ。事実を歪めてはいけないが、「事実を見る時の眼」は生身の人間ひとりひとりのものである。
ただ――「眼」は個々の報道者個人のものであるとしても、立ち位置はあくまでも「武器を持たない側」であるべきだと私は思う。武器というのは変な言い方だが、要するにあらゆる意味の「力」。権力を握っている側と、その権力の前に右往左往し、ともすれば押しまくられてしまう側のどちらに肩入れするかといえば、後者に決まっている。前者に肩入れするのは、「御用○○」である。
もう随分むかし(笑)になるけれども、私が「マスコミ業界」に就職したとき、親戚のオッサンが「そんなヤクザな仕事に就かなくても……」と言ったのを覚えている。そのオッサンの感覚では、報道というのはまっとうな仕事とは思えなかったようだ。そう言えばはるか昔――そう、確か明治の頃には、ジャーナリストは「羽織ゴロ」などとも言われたのだっけ。
ジャーナリストというのは、基本的に「情報の仲買人」である。自らは何も生産せず、右のものを左に動かすことによって(※注1)銭を稼ぐ。「言葉」を使うという点では小説家や詩人や評論家と同じかも知れないが(※注2)、共通点はただそれだけ。
(※注1/ここでいう右とか左とかは、政治的な立場のそれではない。念のため。 ※注2/確定申告時の私の職業は、「文筆業」である。この文字を見るたびに、私は穴があったら入りたいような恥を感じる……。)
ジャーナリストの文章は、浜辺の砂に書かれた文字のようなものである。その文章の命はほんのいっときだけにしか過ぎず、何年も残るものではない。むろん歴史的な資料として残ることはあるが、それはまた話が別だ。小説や詩が何百年の時を経ても生き生きと息づくのに対し、ジャーナリズム文章はすみやかに過去のものになり、資料として使われるのはただその化石に過ぎない。読み捨てられる多くの文字達を、私も日々書いているのである。
……と苦い口ぶりで言うのだけれども、砂に書かれた文字であるがゆえの矜恃、というものもある。圧殺される側、表現手段においてハンディのある側、そしてマイナーとひとくくりに言われる側……に、小便漏らしそうになるほど震えながらも立つ以外に、その矜恃を守ることは出来ない。
上からの命令で、あるいは売りたいがために、あざとい記事を作ることに耐えられなくなったとき(※注3)、私はフリーランスの道を選んだ。
(※注3/むろん指示命令は露骨な形で下りてくるわけではない。いわゆる現場の裁量はかなりの程度認められているし、納得できない指示に対しては抵抗することも可能だ。しかしマスメディアも“利潤”を上げる必要があるため、“売れる”企画が優先されるのもこれまた厳然たる事実である……)
フリーになったからといって、 「いい仕事(リッパな仕事)」だけできるわけではない。実際問題として、著名人のゴーストライターや、リライト(※注4)や、こまごました趣味的な話題の記事を書いてメシ代稼いでいるのである。孫子の代までフリーライターなんかさせたくない、という気も実のところないではない(子供いないんで、むろん孫とかひ孫もいるわけないですが)。
(※注4/文章を書き慣れない著名人あるいは専門家がメモ的に書きなぐった文章を、テニヲハの調整から始まって、それなりの文章に仕上げる仕事)
しかし、それでもなおフリーのジャーナリストには――NOという自由、あるいは権利、だけは保証されている。私は小心者なのでめったにこの権利を行使しないが、それでも何回かは(貯金通帳の残高がちらついて泣きそうになったけれども)NOと言ったことがある……。「私の思想信条に反するので、その仕事は出来ません」。いやほんと、後で後悔したんですよ(あ、後悔ってのは後でするのに決まってるか)。黙ってやってりゃ何万円……テレビを買い替えられたんだよなあ……とか計算してね。
でもねえ……ジャーナリストの背骨は、反骨でしょう。それを失えば、すべては無。何もいらない。そして自分がやっていることなんざ大したことでも何でもない。ちょっと時間が経てば、誰も覚えちゃいないさ。ただ、時代の共犯者にはなりたくなく、報道しておくべきこと・記録しておくべきことに忠実でありたいと――少なくとも私は、そういうジャーナリストになりたい。死ぬまでに、なれるかどうかはわからないけれども。
(今夜も酔言でありました。し、失礼)
砂に書かれた文字の中で、一度消費されたら吹き飛ばされておしまいなもの、真実に光をあてて読む人間に印象をのこすもの、大きな違いがあるわけで、読む側の人間であるわたしには、華氏さんのような書き手の存在が頼りです。
わたしが某投資銀行をやめて通訳者になったのも、自由な精神と立ち居地を確保したかったからです。収入は半減しましたケドね。