『すべらない話』を見ていると、
落語って、こうして生まれたんじゃないか?と思うんです。
というのも、
いつ頃だったか、『すべらない話』が深夜に放送されていて、
すべらなければ、過去にした話を再度してもいいし、
他人がした話を別の人がしゃべってもいい、
すべらない話とは、誰が話しても、何回聞いてもすべらないのだ・・・
そんな感じの展開になり、
「姉がレズです」話や、
「猫が走ってる車のタイヤにグルっと巻き込まれて、ニャー!」っていう話を
複数の人が、何度か話し出したのです。
(わたしの記憶違いだったら、ごめんなさい。)
それを観ていて思いました。
落語の始まり捕らえたり、と。
昔の人(江戸時代とかの人ね)は、テレビもネットもないわけで、
仕事が終わったらその後はヒマなわけじゃないですか。
で、まぁ、村の寄合いなんかに行って
田んぼの水当番とかを決める傍ら、
みんなでワイワイ、他愛もないおしゃべりをしてると、
権兵衛さんが、昨日自分が体験した、ちょっと面白い話を始めるのです。
で、そのちょっと面白い話を気に入った八五郎さんは、
次の寄合いの際に、「あの話、もう一回して!」
って権兵衛さんにせがんで、話してもらう。
やっぱり面白い。
家に帰った八五郎さんは、自分の奥さんに
「権兵衛さんのこの話が、何回聞いても面白くてよぉ~」
って話して聞かせるわけです。
それを聞いた奥さんも、
翌日、隣の家の奥さんに話すんですね。
旦那から聞いた話より、ほんの少しだけ面白く脚色して。
・・・こうして権兵衛さんのちょっと面白い話は、
多少の改良を加えられながら、村一番のすべらない話として、
完成され、村中に語り継がれたのです。
→ 落語の「噺」、完成。
一方、
ある時、全国を行脚しているお坊さんが居りました。
村々に立ち寄った折には、村人から、様々な話を聞く機会があります。
村ごとに語り伝えられる、すべらない話(落とし噺、人情噺、怪談etc)を聞いた
そのお坊さんは、のちに、それらのすべらない話を、
説法の前説に取り入れたり、余興としてエライ人に話して聞かせたり、
一つの本にまとめたりしたかもしれません。
はたまた、
いつの時代、どこにでも、何かに長けた人というのはいるもので、
あるところに、たいへん話術に長けた、武左衛門さんという人が居りました。
村一番のすべらない話は、誰が話してもすべらないのですが、
「武左衛門さんがしゃべると、
抜群に面白くなるねぇ、場面が浮かぶよ」
こういって、武左衛門さんのおしゃべりを聞いた人は皆、誉めてくれます。
武左衛門さんも、村の人々が誉めてくれるのがうれしくて、
「もっとたくさんすべらない話を知りたい!皆に聞かせたい!」と思い、
村に訪れたお坊さんや、村の長老から
すべらない話を教えてもらっては、村の人々に話して聞かせるようになりました。
こうして、
すべらない話をたくさん知っていて、
高い話術をもつ武左衛門さんの評判は、みるみる世間に広まり、
ついには、しゃべりで生計を立てられるようになりました。
→落語の「噺家」、完成
という、想像。
時代考証とか全くなってません。
文化やファッションって、ぐるぐる回っているじゃないですか。
変革と洗練の繰り返しと申しましょうか。
笑いという文芸も、ぐるぐる回っている。変革と洗練なんだなぁ、
そう思ったんです。
『すべらない話』も先端のようで、そうでない、、いや、
先端だけど、進んではいるけれど、螺旋の先端。
そんな話。
自分でも言っててわけわからんくなってきました。
追伸。
めちゃくちゃどうでもいいけど、
各界の著名人が来て
「すべらんな~」って言うのは、あれは、なんでしょうか。
エレファントマンに会いに来る、上流階級の人々という構図?
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