見ないフリ

一時的な対応策にしかならない現実逃避をずっとするブログ

沈黙

2017-12-03 | 本と漫画と映画とテレビ
なにを言いたいのでしょう。自分でもよくわかりませぬ。ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を噛んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を――神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、黙っていられるような気がして……。

―遠藤周作『沈黙』より


「神仏を尊びて神仏に頼らず」―宮本武蔵
「困るとみんな神様が見えるんだよ」―伊坂幸太郎『ラッシュライフ』
「神は人の痛みを測る概念にすぎない」―ジョン・レノン『ゴッド』
「信じる者しか救わないせこい神様拝むよりは、僕とずっといっしょにいる方が気持ちよくなれるから」―B'z『愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない』

神とは?

キリスト教、全然わからん。
カトリックとプロテスタントの違いすら知らない。
キリスト教の知識があると、絵画(宗教画)が楽しめるらしいけれど、
難しいし、ややこしいし、正直あまり興味がなくて……



なので、今年初めに公開された
マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙 -サイレンス-』に
周囲がザワついていても、ホント食指が動かなくて。

しかし、先日。

ヒッチコック特集を観に早稲田松竹へ行ったら、
後日上映予定の『沈黙 -サイレンス-』の予告が流れていて。

それがめちゃくちゃかっこよくて。

「うわー、これ、みたいー!」って急にテンションが上がって、
鑑賞前に一応、原作読んでみるか。つって図書館へ。

したら、原作の小説が腰を抜かすほどおもしろくって。
ジーザス。



『沈黙』
1966年に出版された遠藤周作の小説。
島原の乱が収束して間もない17世紀の日本・長崎を舞台に、
キリシタン弾圧の史実を歴史文書に基づき創作し、神と信仰の意義を描いた作品。
(1971年には篠田正浩監督により映画化され、
遠藤周作は監督と共同で脚本を担当している)


ホントおもしろかった。
先の展開が気になって早く読み進めたいあせりと、
ずっと読んでいたい読み終わりたくない中毒性と。

遠藤周作って、キリスト教徒なのよね?

よくまぁ書けたな、こんな話。という感想。

だって、
主人公のポルトガル人司祭(ロドリゴ)が
ことあるごとに

「信者がめちゃくちゃ苦しんでいるのに、神はなぜいつも黙っているんだ?」
「もし神がいないとすれば、殉教者や宣教師はなんと滑稽なことをしているんだ?」

つって悩むんだもの。

いやこれ、無宗教の人間からすれば、まっとうな疑問なんだけれど、
それを教会の中の人が自問自答し始めるから、
着地点が気になってしょうがない。


そこへきて、
主人公と対立する幕府側の人間(井上さんとか通辞とか)が唱える
「キリスト教、日本には合わない説」の説得力がスゴイからたまらない。

「醜女(しこめ)の深情けは耐えがたい重荷で、不生女(うまずめ)は嫁入る資格なし」
「ある土地では稔る樹も、土地が変われば枯れることがある」
「キリスト教は邪宗ではない、ただ日本という泥沼には合わない」

そんな、
分かりやすい言葉で、キリスト教不要論を語り
「本意じゃなくていいから、表向きだけ転んでほしい」と
主人公を棄教させようとする。

読者の私も、始めは主人公目線で、
「キリスト教、受け入れようよ日本」という気持ちだったけれど、
徐々に「まぁ、ね、<人間はみんな平等>を唱えるキリスト教は、
支配者側からすれば、邪魔な教えだからね。わからんでもない」
なんて説得されていく。

さらに、終盤、
棄教した元司祭のフェレイラが語る
「日本は沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐る」
「日本人は神と太陽を混同し、屈折させたものを信じている」
これらの言葉でもう降参。

そうなんです。

お寺の除夜の鐘を聴いて年を越し、初詣と称して神社へ行き、
結婚を教会で祝い、お盆には先祖の墓にお経を唱え、
ハロウィンやクリスマスといった外国の行事のおいしいところだけを抽出して、
感謝祭はよく分からないからふっとばすけれど(七面鳥に恩赦てどういうことだ?)、
お金のにおいのするブラックフライデーだけは取り入れようとしています。

日本ってそんな国なんです。
すみませんすみません。
神様は八百万。いっぱいいるんです。
謝るしかない。

こうなるともう、
「形式だけいいんだから、絵踏みしなよ。ホント主人公は卑怯者じゃて」
つって体制側についてしまう。

(確かに、
お地蔵さんやお墓を踏めと言われたら
形式だけとはいえ、ちょっと、いやかなり躊躇するけども……)


ともかく最後は、
この神のだんまりを、主人公は主人公なりに解釈し
結果、神は沈黙などしてはいなかったのだ、よかったよかった。
なんていう風に着地するわけです。(適当)

(ガチのキリスト教徒だからこそ、悩み抜いたからこそ、
こんな風に折り合いをつけれたんでしょうな。頭が下がります)


そして11月下旬。

満を持して鑑賞した映画はもう最高。



『沈黙―サイレンス―』
監督:マーティン・スコセッシ
出演:アンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、
アダム・ドライヴァー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形 他


いやー、忠実。
これは原作にかなり忠実。

ただ、江戸時代の日本人の英会話能力の高さに加えて
ポルトガル人司祭たちが英語をベラベラとしゃべり倒すことには
若干首を傾げるけれども。

小説の中で日本のキリシタンたちが連発する
ポルトガル語の「ハライソ(天国)」や「コンヒサン(告悔)」も、
映画では、司祭たちがいちいち「パラダイス(paradise)ね」とか
「おぅコンフェッション(confession)か…」と英語に言い換えていく。
そりゃ、ハリウッド映画だもの。しょうがない。

(71年の篠田監督版では、
司祭たちが片言の日本語でしゃべるけれど、これはこれでなんだか微妙)

あと、モキチ(塚本晋也)が最期に唄う歌もあれではないし、
主人公(アンドリュー・ガーフィールド)が逃亡した五島が
ただのかわいい猫島になってるし、
モニカ(小松菜奈)が主人公に与える食べ物はキュウリじゃなくて白瓜だし。

でもこんなことは、無粋な揚げ足とり。重箱のすみ。

さすがはマーティン・スコセッシ! とうならざるを得ません。

敬虔なカトリックの家庭で育ち、映画とストーンズが大好きで、
1988年の監督作『最後の誘惑』というキリスト映画? の試写会時に
大司教さんからプレゼントされたのが『沈黙』だったのだとか。

映画がダレないように、
多少の演出・編集があるとはいえ、
だてにカトリックの司祭は目指してねぇぜ! という気概? を感じます。

構想28年じゃて。

主人公が五島に逃げる舟の中で、
のどの渇きを紛らわすために唇を海水で濡らすところとか、
まるで小説を片手に映画を観ているかのよう。

なかでも、
ジュアン(加瀬亮)の例のシーン。

小説でいう
「そりば捨つとはあったらかのう」
「ごうぎい惜しかよ」
からの件のシーン。
(映画では、番人とジュアンは
「おまえいくつよ?」みたいな会話をしている)

観ているこちらとしては、
「よ、まってました!」
なんていう場違いな声援をおくりそうになる。(酷い…)


そして、最後のキチジローのコンヒサン(告悔)場面。

小説では、
私の読解力が追いつかなくて、
主人公がキチジローでキチジローが主人公でってこと?
なんでキチジロー怒ってんの? といろいろ腑に落ちないこと満載だったのだけれど、

映画を観て、はーそういうことなー。と納得。

さらに小説は、
最後の最後を「切支丹役人日記」という
漢字だらけで候な文書で締めくくっているため
「ん? ん??」という読後感だったのが、
(これは翻訳で読む外国語圏の人のほうが有利と思う)
映像で観るとまた違ってよかった。

スコセッシ解釈が強いのだろうけれど、
まぁそうだろうよ。っていうか、そうであれ。っていうか。

親から強制されて、周りの空気を読んで、
男性用の服を着て男性的にふるまい、普通に彼女もいるけれど、
心はずっっと女だし! 的なことでしょ。(違うか)


余談ながら、
同時上映されていた
『ハクソー・リッジ』(2016年、監督:メル・ギブソン)もすごく面白かった。
太平洋戦争版のフォレストガンプという感じ?

日本人の私には、タイトルを聞くとどうしても歯クソがちらついてしまうし、
なぜ日本軍はあのロープのハシゴをさっさと切らないのか? と思うけれど。
(「ハクソー・リッジ」とは、1945年の沖縄戦において
「前田高地」という日本軍陣地にあった崖に付けられた呼称のこと)

「良心的兵役拒否」という考えは衝撃だったし(初めて知った!)、
日本でも本当に上陸戦があったんだなぁと再認識した。

こちらもがっつりキリスト教を考える映画で、
この2作品を同時上映に組んだ人すばらしい。

ついでに、アンドリュー・ガーフィールドどんだけ信心深いねん! という気持ち。


なんていうか、
神や宗教って難しくて、やっぱりよく分からないけれど、
自分を律するための手本や指南書みたいなものがあるっていうのはいいなーと思う。

上司にめんどくさい仕事を言いつけられたときに、
嫌な態度をとってしまう自分に辟易することがあるんだけれど、
これ、毎度コンヒサンできたら少し楽になるなーという思いと、
残業が辛くて泣きそうなときに、
隣で一緒に泣かれても邪魔だなぁという思いとが入り乱れる。
(そもそも1人につき1体なのか?)