脳のミステリー

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258.左脳だ!右脳だ!と言っても脳の何かが残っていれば!

2008-03-29 17:50:27 | Weblog
今を時めく茂木健一郎氏を中心に「左脳だけでも生きる奇跡」の特別番組を昨夜、TVで見た。
私は左脳の視床の近くで出血して、右半身不随になった。
後遺症は典型的で運動野を考えると、右足右腕が全く動かず、この点ではかなりの重症だと思っている。
だが、人間特有の五感を考えると、そこには奇跡と思われる事実がある。

私が損傷した左脳とは大脳左半球で、言語・文字などの情報の処理を行なっていると考えられていて、右脳に比べると論理的で分析的処理に優れていると言われている。
私は自分を分析すると、論理的に分析処理をする能力は損傷していないような気がするのである。
美術館の仕事をしているとはいうものの、私が実際に元々芸術的な才能がある訳ではなく、寧ろ、分析的処理が好きで「好きこそものの上手なれ」宜しく・・・といったところで仕事をしてきたし、復帰劇があったのだと、自認している。

脳出血で倒れた時は、殆どの機能がダメだったような気がする。
体は天井を仰いだままで、動かす事は全く出来なかった。
やがて、一週間もすると、ベッドに座る事が出来るようになり、車椅子に乗り移る事が出来るようになった。
立ち上がって、更にトイレなどに移動するのも自分でと、いう動きはすぐに出来るようになった。
これは倒れた時の年齢が55歳だった、という事が大きく影響している。
自分は未だ55歳だ、何してるの!
女同士だからと言って、未だ20代の娘に世話になる訳にはいかない!
あまりにも子不孝だ!
自分が若かった頃、母親が娘にそんな気を遣わせたか?そんな事はなかった。私は全くの脳天気な女の子だった筈だ!
娘にもそんな呑気な青春時代を送って欲しい!
斯くして、私は着替え、立ち上がり、歩き出し、更に食事を左手で取り、トイレ・シャワーも自分で、と心に決めた。
亡き父が転倒して脊髄を損傷し、下半身不随になった時「娘に世話にはならない」と室内で車椅子に乗り回し、シャワー室やトイレに行っていたのを思い出していたのである。「お父さんに出来て私に出来ない筈がない!」と私は思った。
言語に関しても、話をする事を思い出すと、私の脳の中にはあの時も日本語と英語が存在していた。だが、口から吐き出されるのは英語だけだったのである。私は咄嗟に何語でもいいと思い、英語が解る人達(担当医師や私の家族)に喋りまくった。甲斐あって、更にその後見知らぬ日本人にもいっぱい会う機会を得て、私の日本語は徐々に、だが、スピード感をもって蘇っていったのである。現に、先日、ある人に講演を、とまで言われ、大いに喜んでいる。
講演を引き受ける気持は今の段階ではない。私は自らの大舞台での再出発はやはり、美術館で、と夢見ているから!
耐え難い痺痛を我慢出来るのはきっとこんな夢をいつも持ち続けているからだと思う。

左脳を損傷した私は自らの諸々の回復を決して奇跡だとは思っていないし、例外だとも思っていない。
私らしく「目の付けどころがよかったのかも知れない」と思っているのである。
更に、私がよく引用するハイパーグラフィア、即ち「書きたがる脳」は言語に対する自らの願望を加勢してくれていると思って感謝している。
右脳を摘出し、左脳だけで生きるあの若い女性も、もしかしたら本来なら右脳が司る「絵を描く」という熱望が、左脳に存在する何らかの機能が働いて才能として噴き出しているのかも知れない。

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