脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

102.11月26日(日曜日)

2006-11-27 08:01:58 | Weblog
 11月の最終日曜日は音楽セラピーの発表会で華やいだ雰囲気を満喫した。天気はドンより曇り空だったが、障害者仲間の心は確かに晴れ渡っていた。
 地域社会との交流をテーマに、音楽セラピーの仲間に続いてプロの音楽家による演奏が玄関ホールに流れた。プロは専門の力を披露するのは当然だが、規定通りに運びたがっているのがよく分かった。演奏家と聴衆を懸命に一体化しようとする場面が出て、自らは楽しんでいるのが分かるが、聴衆を誘い込むのに苦心しているのも分かった。
 音楽セラピーの仲間は夫々が心底愉しく歌った。Amazing Graceも自画自賛が得意の私は自分達に軍配をあげる。自らが愉しいから、聴衆も愉しくなってくる。感情とはそういうものである。だから「貰い泣き」とか「笑いを誘う」とかいう言葉が次々に日常茶飯事、出てくる。
 私は今年の音楽セラピーの発表会には100点満点中90点をあげたい。常にあと10点だと、希望が持てる。すぐに気付いたマイナス点は「時間が短い!」だ! やっぱり、私は自画自賛がうまい! まさにAmazing!

101.驚異のストレッチ体操

2006-11-18 06:08:44 | Weblog
 障害者センターで10月から始めたリハビリ維持コース、二回目はストレッチ体操、これは普通、運動の前後に行うものである。筋肉をほぐしてくれるだけでなく、ストレッチには全身の代謝を上げ、血行促進、疲労回復と嬉しい悲鳴をあげたくなるような効果がある。無論、怪我の予防や柔軟性の向上にも一役買っている。
 健常な左側は気持ちよく筋肉の伸びを感じながら、療法士に身を任せる事が出来るが、痺れが強い不随側の右は一寸やそっとの我慢では耐えられないのが本音だ。痛覚は鈍い筈なのに、ストレッチを続けると痺れの上乗せの痛みが確実に感じ出す。顔の右半面には冗談抜きにペンフィールドの小癪な小人が蔓延る。そして長逗留を勝手に決める。その内に右手先がジンジンしてくる。療法士はそ知らぬ顔でストレッチを続ける。可愛い彼女の顔が悪魔のそれに見えてくる。嬉しい悲鳴の前には悲痛なそれがあるのは否めない。
 夕方、帰りがけにマッサージに寄ると、何と靴の脱着がスムースな事この上ないではないか。ベッドが少し高いので、私は小さな台を家から持ち込んでいる。ベッドに腰掛けて足を台に載せても狭いのでいつも苦労しているのに・・・ 台が本来の援助力を発揮してくれたのである。更に、夜、ベッドに潜り込んだ時も・・・ 就寝前のストレッチも自然にやりたくなったのである! 更に、更に、翌朝の起き上がりのいい事! 毎朝、起き上がり、靴の脱着、衣類の交換に手間取る筈なのに、いつもの半分の時間で出来た!
 正に、驚異のストレッチだ。起き掛けのコップ一杯の水と共に、朝の簡単ストレッチ体操には「継続は力なり」と言ってあげよう! A先生、ありがとう!

100.ノンバーバルコミュニケーション

2006-11-11 06:26:44 | Weblog
 私のブログ、気の向くままに綴って100回を越える ― 何事も何と言っても継続は宝という事である。
 100回記念という訳でカタカナの好きな最近の日本人の為にノンバーバル・コミュニケーションというのを取り上げてみようか、と思う。
 ノンバーバルは「言葉を用いない」とか「言葉にならない」はたまた「言葉の下手な」という意味にさえなってしまう言葉である。まあ、安全な説明を敢えてするならば、ジェスチャー等の非言語的コミュニケーションとでも訳そう。NVCはnonverbal communicationの略語で世界に行き渡っている。私にしてみればNVCを一寸悪戯でスクラブルして並べ替えてCに一本小さな横棒を引けばNGVでナショナル・ギャラリー・オブ・ビクトリアという事になってしまう! まあ、日本人にしてみれば、それならそれをそのまま寸借して、道路を走り抜ける天然ガス使用のNatural Gas Vehicleだと言うだろう。
 障害社会に身を置いて、先ず触れ合った不便を訴える障害者は、私に似通った人達だが、他に、知的障害者と精神障害者という名称が一般に知られている。名称は簡単に活字になって一般社会を一人歩きするが、説明を問われると、中々難しい。
 知的障害者とは、特に法律上の明確な定義はないが、先天的な原因や生後比較的早い時期に脳に障害を受けてしまった事によって、知的能力の全般的な発達が不完全であったり、不十分な状態にある訳である。また、精神障害者とは、総合的な失調症で精神作用物質による急性中毒とかその依存症とか精神病質などの精神疾患を有する人をいう訳である。
 これらの障害は、私にしてみれば、未だ未だ専門家の手を借りなければ対応はとても難しいと思ってしまう。全く、自信はゼロである。
 肝心の私は正しく、身体障害者のひとりだから、こちらの方はいくらか理解出来る筈だ。身体障害者とは、目や耳、手足、そして内臓などに一定程度以上の永続する障害のある人の事を指す訳で、身体障害者福祉法に基づいて知事から身体障害者手帳を交付される。
 さて、人間特有な言葉というものは、色々な機能の障害で不便になるものである。不便になっても思考が侵されていない限り、障害者というレッテルが貼られても、希望は色々あるもので、夫々の前に広がっている。目が不自由で、耳が聞こえなくても、口が働かなくても・・・ヘレン・ケラーの「水、WATER」を思い出してご覧! ヘレン・ケラーが手を水に触れて、その掌にW・A・T・E・Rと指で書いて貰い「冷たくて、濡れるのはWATERというものなんだ」と知っていく、という話はあまりにも有名である。
 手話は必ずしも聾唖障害の人にだけ、その力を発揮するものではないのではないだろうか。ヘレン・ケラーのように触手話があるからだ。確かに、英語はアルファベットが26文字しかないが、日本語の仮名は倍の50文字もある。文字は、言葉を表記する為に社会の習慣として用いられる単なる記号だと考えれば、高が50ほどの記号、すんなり暗記出来る筈だ。思考の数だけ言葉の数は増える。そう、言葉は思考によって増えるのだと考える。確かに、言葉をフルに使うという事は、読み書きが左右すると言えるのかも知れない。だが、思考という人間特有のものは、言葉という、これまた人間特有のものを、更に広く、深くする優れものなのだ。掌に書いて貰った文字をそのまま脳にインプットして考える。この素晴しい連動プレイは人間ならではの働きだと思う。
 ノンバーバル・コミュニケーションって片仮名、何だか素敵じゃない!

99.11月第1火曜はメルボルン・カップ・デー

2006-11-07 06:34:39 | Weblog
 メルボルンのフレミントン競馬場の芝で行われる競馬は144年の歴史がある。だから、今年は145回メルボルン・カップ開催の日で今日はビクトリア州だけが祝日という事で会社も学校も一斉休業になる。ファッション都市メルボルンの催事とあって、男性はスーツ、スポーツ・コートあるいはブレザーにネクタイ着用で、女性は気品あるドレスにつばの広い大きな帽子で競い合う。大きな花や羽を添えた帽子はイギリスの伝統を確実に引き継いでいる。ミュージカル、マイ・フェア・レディのイライザとヒギンズ教授が現れるアスコット競馬場が思い出される。因みに男性のシルクハットはご存知だろうが、アスコット・タイはこの競馬場から名付けられた。そう、あの往年のダンス・アクター、フレッド・アステアのお気に入りのタイ、そう、そう、日本の藤村俊一さんもほんの一寸若いところでは関口広さんも好きね、アスコット・タイ!
 私のメルボルン・カップの思い出は、21歳の誕生日直後の11月第1火曜、社交界入りの日だった。あの日、私は白いドレスに白い帽子、髪は生まれつきの黒髪、黒いエナメルの靴、帽子の黒いベルトには白バラが華やかさを添えていた。白と黒に着飾った私はイギリスのウィスキー、ブラック&ホワイトのニックネームが付いた。長い間、白豪主義の名を馳せた豪州に於いて、敢えてブラック&ホワイトで日本娘を着飾らせた私のグエン・ママの勇気が素晴しい! 現在では豪州は人種対して最も公平な国のひとつになっているが、英国の植民地としてスタートした住民は、初期の頃はみな白人だった。1850年頃からゴールドラッシュが始まって、中国系の移民が労働者の中心になり、1888年には中国人移住制限法が制定された。1901年に英国から自治権を得て事実上の独立を果たした後は徐々にホワイト・ポリシーが完成していった。第二次大戦では、米国の黒人部隊の上陸を豪州が拒否したとも伝えられている。40年前の私はメルボルン・カップでブラック&ホワイトの名を欲しいままにし、RACVの貴賓席でピンク・シャンペンを手に浮かれたものである。
 後年、在日豪州大使館の外交官達と中山競馬場で同じようにバカ騒ぎした思い出がある。あの時、賭けた馬の名が「ter・rif・ic」、でも、結果は・・・全然ダメだった!
 懐かしき良き時代! 初夏のメルボルンは街にも熱気が漂んでいるんだろうな! ビバ! メルボルン・カップ!

98.10月26日は特別な日?

2006-11-05 05:30:13 | Weblog
 昭和50年10月26日は私にとって特別な日である。
永い春が過ぎて、日比谷の帝国ホテルでの華燭の宴に私を誘導した日である。前夜の大雨が嘘の様に晴れ渡った最高の小春日和だった。宴の席で私は多くの有識学者に逢った。緊張の余り、ご馳走を全く口に運ぶ事が出来ず、後でホテルが客室に運んでくれてやっと味わう事が出来た記憶が明白な日だった。純情だったんだな!
平成13年10月26日も私にとって特別な日である。
 九月の誕生日直前に、虎ノ門のとある喫茶店で脳卒中(stroke)に出遭ったが、無事に甦り、晴れて退院した日が奇しくも10月26日だったのである。数十年前のあの日も、数年前のこの日も共に天高く晴れ渡った秋晴れの最高の日だった。
 そして平成18年10月26日も、今度は世界的に特別な日になったのである。
 その日を「世界脳卒中デー(World Stroke Day)にする事が公式に宣言されたのである。目的は、世界的に増加しつつある脳卒中に取り組む事だ。今では、世界的に心疾患に次いで第二位の死因というお墨付きを貰っている脳卒中は、重大な障害の第一の原因だという事である。「脳卒中にならない年齢、人種、性別、国はなく、加齢、運動不足、喫煙、質の悪い食事は世界における脳卒中の増加の原因になっています」と宣言起草委員長として、米国心臓協会学会誌STROKEの編集長でもあるハチンスキー博士(Vladimir Hachinski)はケープタウンで開催された合同世界脳卒中会議における世界脳卒中デーの記念式典において、宣言を提起し、世界中の保健機関からのメッセージを発信した。
 博士を始めとして、合同世界脳卒中会議の主催者は学際的チームが専門的知識と経験を活かして脳卒中専門病棟(Stroke Unit)を作って、脳卒中を起こした人の要望に対応出来る脳卒中ケアシステムを築く事によって、脳卒中を克服する事ができる、と強調している。
 脳卒中の原因と症状の知識を一般市民の間で高める事によって脳卒中は予防できる筈だ。
 主な兆候症状を記してみよう。
① 突然、顔、手、足に麻痺または痺れが生じる。特に、体の片側に生じる。
②突然、錯乱状態になったり、喋り難くなったり、他人の言う事が理解できなくなる。
③ 突然、片側あるいは両側の目が見え難くなる。
④突然、歩き難くなったり、めまいやふらつきが生じたり、体がスムーズに動かなくなる。
⑤ 突然、原因不明の激しい頭痛が生じる。
 ハチンスキー博士は「もしこのまま何の対策も講じなければ、今後15-20年間に脳卒中になる人の数は2倍になると予測されています。しかしながら、既に知られている予防方法が適用されれば、脳卒中の半分は予防できます」と述べ、「脳卒中デーは、1年に一度、たった1日しか注意を喚起しませんが、脳卒中との闘いは毎日続くのです」と結んでいる。
 脳卒中の会場で『予防そして治療可能な世界のカタストロフィー』というフレーズを用いたのは流石だ、と私は感動した。カタストロフィー(catastrophe)とは一般的には「突然の大変動」とか「大きな破滅」という意味があるのだが、自然界および人間社会の大変動を意味したり、劇や小説の悲劇的な結末を意味したりする。
 ケープタウンの会場では、「脳卒中は全世界的に広がっており、生命、健康、そして人生の質を脅かすものであるが故に、脳卒中の予防と治療、リハビリテーションの為には、更に多くの事をなし得るが故に、専門家と一般市民の認識がまず第一歩であるが故に、ここに我々は『世界脳卒中デー』を宣言する」と結んでいる。
 来年の10月26日は、果たして何があるかしら? 多くを望まず、平穏無事を願いたいものだ。

97.十三夜

2006-11-03 20:40:44 | Weblog
 古くからの風習、お月見は何とも風情のあるものである。中秋の名月といわれる 十五夜は中国から伝来したものだが、十三夜は日本独特の風習で、十五夜は天気に恵まれない事が多く、十三夜は「十三夜に曇り無し」という言葉さえある。
 今夜も晴れで月見には絶好の空模様と言える。月見の宴や舟遊び(一寸寒い!)、歌を詠んだり酒を飲んだり、何ともいい風習である。所変われば何とやらで、ヨーロッパでは満月は人の心を掻き乱して狂わせると言われ、月の女神が死を暗示したり、狼男が変身する等、怖い言い伝えがある。
 ああ、日本人に生まれて良かった! お月様とウサギさんの餅つきのお話を、大人になって壊されるのは切ないものね。東京のマンション生活では味気ないけど、ベッドに入れば、幼い頃に縁側から見たお月様の夢を見る事が出来るかも・・・ 痺れでそれどころではないかも知れなけど、せめて夢の中ではウサギさんみたいに跳ねたいな!

96.やっぱり必要な規則的なリハビリ

2006-11-03 20:01:59 | Weblog
 秋は学会が多いせいか、毎週のようにあっちの療法士がお休み、こっちの療法士がお休みといった具合に、どこかしらに穴が開いてしまう。
一般的な生活が維持できて、毎日の行動や動作のキーワードは自己管理だとは思っているが、専門のセラピスト抜きでは中々、上手く運ばない事を実感する。今、自立支援に関する話題があちこちで盛り上がっている。自立に向って努力している人がヤル気を失くすような支援法は如何なものだろうか。昨年10月31日、障害者自立支援法が成立した時、議場では拍手が湧き起らなかった。そして、凡そ半年後、支援法は今年4月に実施された。データの間違えや反対の声の中で3年後の見直しまで放置させておいていいのだろうか。
 私は何でも自力でやりたがる人間だが、先日、中途障害の私に療法士無しでのリハビリはあり得ないと思った。久しぶりに私のお気に入りの療法士が脇についてくれた。彼女は私が留学した頃に生まれた女性で、私とは優に一回り以上もの年齢差がある。愛らしい顔の彼女は平然と強力なリハビリを強いる。右半身を労わりながら身を横たえる私の不安をよそに、見下ろす彼女の顔が一瞬鬼のように見える。小悪魔がリハビリを指導するとなれば、世の男性障害者は喜んでまな板の鯉になりたがるかも知れない。私でさえ、彼女なら許すのだから・・・ 
「右から起き上がってみましょう!」
簡単に言って退ける。悔しい! 勝ち誇ったような彼女の顔が憎たらしい!
「無理! 無理でしょう! そんな事したら、右は無感覚のくせに痺れが恐ろしい勢いで襲ってきて、尋常ではない緊張が起こって右側の頭の天辺から足の先まで突っぱちゃう!」
「・・・でしょうね。でも大丈夫、寝てるんだから、転ぶ事はない!」
成る程! 言い含められて私は我が愛しの右半身を彼女に委ねると、案の定、死ぬ程の痛さに大声を出したくなる(ホントに死んだ事ないからね・・・)、でも彼女は表情を変えず、それより少し笑みを浮かべて「大丈夫!」を繰り返し、更に「これって、いいかも。イケルイケル」と寧ろ喜んでいる。「こん畜生!」と思っていると「このリハビリ、暫く続けましょう」ときたもんだ。20分近い格闘を繰り返した私は驚くや、最終的に起き上がって、更に胡坐の姿勢をとらされた。下になった右足が軽く胡坐に従った。愛すべき療法士は更に続けた。
「今度は腰掛けて足を組んでみましょう。ううん、逆、逆!」
「エッ! 無理! 無理!」
足を組む時、障害の私は痛いのは分かっていても、つい、装具をはめた右足を左に乗せてしまう。硬い装具で左の腿に痕が付いても、ついつい装具付の右足を上にしてしまう。ところが療法士の彼女は再び笑みを薄っすらと浮かべながら「足を組む姿勢、似合いますよね・・・」とおだてる事も忘れない。
 家に帰って、未だ、足を組むのは難しくても、胡坐をかくのは何という事だろう、成功!
 小癪な小悪魔の彼女! されど天晴な彼女! 療法士なしではリハビリも儘ならない!!

95.All Saints' Day 万聖節

2006-11-01 05:44:27 | Weblog
 今日は11月1日、万聖節、即ち、あらゆる聖人を記念する祝日だ。キリスト教徒が少ない日本では10月31日のハロウィーンの方が知られている。
 古代ケルト暦では、10月31日が1年の終わりの日。新年と冬を迎える祭りで、夜には死者の霊が家に帰るといわれる。11月1日がHallowmass = All hallow mass = Hallowdayで諸聖人の休息日という事でAll Saints' Dayとも云う。HALLOWEENの語源はXmas Eve を思い出して、Hallow( 神聖な) + een( = even = evening)と考えればいい。Hallow Eveという事だ。
 以前にも、この時期に説明した覚えがあるが、改めてハロウィーンのお祭り騒ぎをおさらいしてみよう。かぼちゃ(西洋のは皮が薄くて色も薄い)をくりぬいて創ったジャック・オー・ラタンを庭先に置いて祝うのだ。Happy Xmas!ならぬHappy Halloween!と言いながら祝うのだが、ヨーロッパ生まれの、この行事はアメリカで宗教色が薄れて、今や子供達だけでなく大人の間でも盛んなイベントになってきている。子供達はTrick or Treat?(悪戯してもいい? それとも歓待してくる?)と言いながら近所を回るのである。悪ふざけが仇して間違えて銃殺されてしまった日本人留学生の辛い思い出が頭を横切った。習慣や気質が違う異国での悪ふざけには充分注意して貰いたい。
 アイルランドに伝わるジャックの伝説は、私なりの考えでは、英国の文豪チャールズ・ディケンズの名作「クリスマス・キャロル」あたりを読んでから、触れてみるとかなり解り易くなるような気がする。ジャック伝説は、ケチで飲んだくれのジャックは死んでも神様が天国に入れてくれないという事から始まる。そこでジャックはくりぬいたカブのランタン(提灯)に真っ赤な残り火を入れて、道を照らしながら地上に戻ってきた。これを知った人々が魔物を追い払う為にジャックのランタンを創るようになったのである。
 そう、ケチはダメ! ケチが増えると経済が動かないから。ジャックも私みたいに甦ったのかな? でも、私、ケチじゃないから、みんな喜んで改めて迎え入れてくれた、と思っているのは「ウソ! 私だけ? まさか!」そこで、私の反省は・・・
― 第二の人生では、お金は湯水の如く使わず、賢く使う事を肝に銘じるである ―