脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

73.早いもん勝ち(早い者勝ち)

2006-08-30 05:55:35 | Weblog
 誰でもきっと一度はバーゲンセールの会場に行った事があるだろう。かつて数寄屋橋に阪急デパートがあった頃、有楽町の読売ビルにそごうデパートがあった頃、近所に勤める私達若い女の子はどちらの野球チームが優勝しても大騒ぎだった。昼食返上でバーゲン会場に駆けつけるのが常だった。
 制服姿でみっともない行動は控えるように言われていたので、ある日、コートを引っ掛けて行った。セール用品に熱くなっていった私はコートを脱いで一寸気に入った服を姿見の前で羽織ってみたりしていた。女店員の「お似合いですよ」という言葉に、私は軽く一回転してみたり・・・と、その時、目に入ったのは、何と他の客が私のコートを握っているではないか!「すみません、それ、私の・・・」「恐れ入ります、それ、こちらのお客様の・・・」すると、物凄い目で睨んだ女性客は「これ、私のです! 早いもん勝ちよ!」と恐ろしい剣幕で言い放ったのである。「あの、そのコートはこちら様の・・・」女店員は言い難そうに頭を下げた。私も「すみません、紛らわしいとこに置いて・・・」「そうよ、紛らわしいわよ!」と女性客は私のコートを投げつけた。女店員は「申し訳ございません。私がお持ちしていれば良かったのです」と頭を下げた。
 早いもん勝ち!だと言っても決してお似合いじゃあないのに。だって、私のオーダーコートはダックスフンドじゃないけれど、袖丈が私専用で短めなんだもん!
 近頃の店で私が大嫌いなのが、心が伴わない女店員の言動である。「お買い得ですよ」「安いですよ。こんな値段では買えませんよ」「ピッタリお似合いですよ」「ひとつ持っていると便利でいいですよ」私の事も知らないでよくもまあ、次から次へと誘い言葉が出てくるものである。「これ、実は私も買ったんですよ!」そうか、じゃあ、止めた! 貴女と同じなら止めた! 口から出任せ商売は止めようよ!
 また、私にはこんな経験がある。
 まず、第二の故郷メルボルンでの逸話である。靴屋で気に入った靴を見つけた。色も、デザインも、サイズもピッタリである。小躍りして「一寸試着したいのですが・・・」の声に「靴を脱いで、この上に載せてみて・・・」と偉そうに言った店員は「う、うんん・・・ノー」と頭を横に振った。「でも、一寸履いてみたいの」「ノー!」形が私の足の形とはかけ離れているので今は大丈夫でもきっと痛くなるからダメだ!と説明してくれた。
 二度目も靴屋だった。イタリアはローマの靴屋でも押し問答はもっと可笑しい物だった。私より半サイズ大きい足の姉の為にお土産にしたかった。あの時のメルボルンの店の教訓が利いていて靴だけは自分のは当然だが、姉のでさえも、目で見て、お似合いをピタリとあてることが出来た。しかし、店員はやっぱりダメ!と言った。私が自分のじゃないと言うと、店員は尚更ダメだと言い張った。結構高価な靴だった。いい案が浮かんだ私は、色といい、デザインといい、革質といい、最高だから玄関の飾りになる、と言った。店員は「まさか!」と言いたげだったが、「仕方ない!売ってあげる!」と言った。斯くして、姉は私の土産を大喜びして長い間履いてくれた。やったー、私の勝ち!
 買い時、買い得、早い者勝ちはこちらが決める事、気持ちも財布の中身もみんな夫々違う筈! こんな時にみんな一緒はないでしょうに! 焦らず、慌てず、確かな物を自分の正しい判断で手に入れたいものである。
 日本現代買物気質を語ると、何でもかんでも手当たり次第、欲しいままに買い過ぎるような気がする。似合う似合わないは二の次でショッピングに興じているような気がする。航空会社に勤めていた頃、ヨーロッパの高級店で日本からの客が多額の現金を手に「これで買えるだけの小物を頂戴!」とか「ショーケースのスカーフを全部包んで!」と言って、店員やガイドを驚かせ、その後顰蹙をかったものである。ショッピングは殆どが自分の為ではない、プレゼント用だったのだ。あの頃は、海外旅行というと餞別が当たり前だった。だからお返しのお土産も当然だった。金の力を借りた義理果たし!心がそれほどこもっていない贈答品というのが出始めたのである。2月3月のバレンタイン時の義理チョコの原点がここにあったのか、とさえ思ってしまう。

72.ウーマンリブって?

2006-08-28 06:08:18 | Weblog
 今週で8月も終わり。私の『八月に想う』も今週いっぱい。音楽セラピーでいつも歌っている井上陽水の少年時代にもさよならかと思うとちょっと寂しい。
 「時の過ぎ行くままに・・・」とは音楽の世界で歌詞によく使われる表現だが、私はちょっと首を傾げる。流れ進むのは私達自身であって、時ではない。だが、今の時代、時は激流の如く流れ去っていくのは確かな事である。そんな急流の中にいて、大切な事は自分のしたい事を自分がよく知っている事で、正に、他人を知る者は賢いが自分自身を知る者は更に賢いと言いたい。
 戦後かなり経ってから、巷に流行ったカタカナ言葉にウーマンリブというのがある。今では、当たり前のようになったこの言葉を強いて使う事もないようだ。Women’s Liberationの短縮形、和製英語に近いウーマンリブは60年代後半から欧米中心に盛んになった女性解放運動の事である。女性であるが故に受ける差別と、それを支えている社会の意識改革を目指した運動である。
 幼い頃の私の記憶では近所に主婦会館というのが四ッ谷駅近くにあって、そこで、奥むめおという女性の名を知った。つい先頃の1997年に他界したこの女性は参議院議員であり、主婦連合会会長だった覚えがある。小学生の私の記憶に残るのだから、女性指導者としてかなりのインパクトがあったに違いない。
 ウーマンリブ、ウーマンパワー、レディーファースト、それにファーストレディー、女性に関するカタカナ言葉を間違った意味に捉える人間がいる。その名は女性自身である。各分野で第一線に立つ女性が結束して行う様々な活動を間違った解釈の元に、女性を優先させる欧米の習慣や礼儀をレディーファーストとして社会に横暴させたりする女どもは決してファーストレディーに成り得ないだろう。いや、なれる筈が無い。
 先ず、レディーファーストの習慣を受けるに相応しい女性でなければならない。男性ばかりでなく、すべての人からレディーファーストの礼儀を払いたくなってしまうような女性が好ましい。ウーマンリブを掲げずとも、改めて女性という差別を付けたくならないような人が望ましい。この世に、女性がいなくなったら子孫繁栄は望めないのだから、女性は自分の性に自信を持って、新世紀も闊歩して欲しい。勿論、男性は素晴しい縁の下の力持ち、花になり得る女性をよいしょして、花は日影でも咲くと自らの功績に自信満々で生きて欲しい。神様がこの世にアダムとイブという男女を置かれた意味をしっかり理解しよう。
 差別や解放を大きく掲げずとも、敬いたくなるような庇いたくなるような人間であるべきなのが女性たる女性だと思う。
 芯は強くても、自然と何となく庇ってあげたくなるような女性になりたい。今からでも遅くは無い、と自分に言い聞かせている!

追加投稿

2006-08-27 06:24:05 | Weblog
 昨日、再び例の療法士のところに行って、首の凝りを話した。
 彼は驚いたように私が指摘する頚骨や肩甲骨を触って診てくれた。
「本当ですね、肩甲骨の奥深く、結構硬いですね」
「両側ですか?」
「まあね、でも、やはり左の方がずっと硬いですね。ゆっくりほぐしていきましょう」
「お願いします」
右側もやっぱり凝っているんだ! 感じていないくせに!
医者も療法士もスーパーマンじゃないんだから、痛かったら痛いと言わないとね! こんな時の遠慮は禁物、無用!

71.アンバランスな私の体(特別挿入投稿)

2006-08-26 09:07:25 | Weblog
 脳出血に倒れた後も、確かに生きている左半身と既に何かが死んでしまった右半身で波瀾万丈の毎日を過ごす私は色々な発見をする。心の変化はひとまず休ませて、体そのものの変化を考えてみると、明らかにアンバランスな私の体に起因しているのが解かる。
 歩行中は無論、確かな左半身に頼る事が俄然多いので、左首、左肩、左肩甲骨、左腕、左手、左指、左脇腹、左腿、左脛、左足、何もかも左側を酷使しているせいか、左側の凝りはハンパじゃない。
 それでも、慣れとは大したもので、早くから先ず立つという動作を懸命に試みてきたせいか、右足をかなり長時間に亘って支えて来ても滅多に音を上げない。左の腕手も日常の様々な行為に欠かす事が出来ないが、更に私にはパソコン左手操作という蔑ろに出来ない作業がある。だから、左の上腕も結構、我慢強くなってきている。
 ところが、久しぶりに首が悲鳴をあげたのである。比較的、首が長い私は若い頃から、首からくる凝りに悩んできた。デスクワークが重なると、頚骨がほんの僅かずれては、カイロプラクテクのお世話になったものだ。主婦業が長くなってついぞ忘れかけていた首の凝りに突然、再会したのである。首に注意してきた私は(勿論、謝金で首が回らなくなる事にも気をつけてきた)枕をとても大切にしている。マッサージを受けるに当たって細長いベッドに横になるのだが、右半身不随の私は恐らくバランスを保てずに体を横たえているに違いない。昨日はいつもよりかなり長い時間、狭いベッドに寝た状態で待たされた私は我慢出来なくなって、起き上がった。療法士の「寝てていいですよ」という声が少し恨めしく思えた。「寝てる方が辛いんです」という私の声に「えっ?」と言いながら覗き込んだ療法士に「枕が合わなくて・・・」とつい本音を吐いてしまった。
 首は両側が凝っていたのかもしれないが、右側は無感覚なので、私は情けなくも左側だけに感じた強烈な痛みに耐えられなかったのである。多分、仰向けに寝た私の体は無力な右側がベッドに落ち込んで、左側が必死に落ち込まないように力を入れていたのだと思う。その証拠に私の左手は何度もベッドから落ちそうになった。枕とその下にあてがっていたマットのお蔭で首から肩甲骨にかけての背の部分がアーチ状になっている時間が長過ぎて、首に凝りが生じたのだと思う。自然に任せて左手がブランとベッドから落ちかけても「知らぬ存ぜぬ」で知らん振りしていればよかったのかも、と一寸反省もしている。

70.差別界と平等界

2006-08-25 05:20:23 | Weblog
 以前、『差別と平等』について綴った事がある。
 戦後61年が過ぎようとしているが、戦後の日本は平等という言葉を過大評価してきたように思えてならない。「人間は障害と力を競い合う時、自分自身を発見する」という誰かの言葉を思い出す。私は自ら障害者を名乗って初めて、障害と競い合って私という人間が少しずつ理解できるようになってきた。確かに、自らの考え方や態度を貫き通そうとすればするほど、自分という人間がそれなりに偉大になっていくような気がする。自信喪失はがっかりで、自信過剰は嫌味たっぷりだが、自信満々の人は輝いているものだ。
 そこで、私は自信を持って自らの考えを述べる事にしている。それによって好評を得たり、批判を受けたり出来るからである。自信ある発言は講評を受ける事が可能になってくる。すると、私という人間が進歩するだろうと、願う事になる。
 『差別と平等』の受け入れ方を少し間違えている人が少なからずいる。仏教の世界では、差別界と平等界という言い方がある。差別のある現象界、即ち、この世に対して、すべてのものの間に差別のない平等界があるというのである。この世には差別があって当然と言っているのだ。障害に出会った私は今、時折、差別に出会う。そして、自らの障害と競い合って必ずや勝利を手にする自分を発見するのである。大きな利点は、物事を主観的にではなく、客観的に捉える事が少しづつ出来るようになってきているからだろう。
 私が子供の頃は、先生を師と仰いで、両親を敬って育ってきた。最近は、先生と生徒の間の壁がなくなり、親と子の間の塀がなくなってきている。差が偏見に振り回され、どちらが教え、どちらが教わっているのか全く分からない。そんな妙な世界では「何かを習おう」という気にもならないのではないだろうか。論語の中にある余りにも有名な孔子の言葉を今更ながら、噛み締めてみたい。
― 子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず ―                
誰にでも分かるように現代語に代えるとこうなる。
― 私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命(人間の力を超えた運命)をわきまえ、六十になって人の言葉が素直に聞かれ、七十になると思うままに振舞って、道を外さないようになった ―
 少しの間、『8月に想う事』を続けてみよう。私自身が還暦を迎えて少しは他人の言葉を素直に聞く事が出来るようになったかしら? 古希を迎える頃には想うがままに振舞う事が出来るようになるかしら? 老計に向う正しい姿勢が僅かづつでもみられる様になるかしら?

69.八月に想う

2006-08-23 08:21:56 | Weblog
 8月は何となく特別な月のような気がする。
 日本にいて「8月と言ったら?」と聞かれれば、私なりの筆頭の答えには、終戦記念日がある、高校野球があるといったところだろうか。高校野球は打ち上げ花火みたいに、夏をパッと飾るが、終戦記念日は線香花火のように長期に亘ってパチパチ火花を散らし、地面に乾燥した草花があろうものなら後が燻って煙る事さえある。高校野球、私の思い出は、早実の王さんが東京駅に甲子園から戻った日の事だ。中央郵便局の私書箱を見に行くのに父のお供をして出かけて、偶然、帰京一行に出会ったのである。そして終戦っ子の私にとって、終戦記念日は父の誕生日と重なり、毎年々々敗戦を話題にしてきた。
その8月は、まだまだ残暑が続くのにファッション業界では秋ものの洒落た洋服がいっぱい並ぶ。今すぐ、着れないのに欲しくて堪らなくなる。店先には秋の味覚が私達の視覚や嗅覚をくすぐる。商人には敵にも思える小売業者の常識『ニッパチ(2、8月)』という言葉が昔からあるが、現代人にとっては死語に近い。
 敗戦後、目覚しい発展を成し遂げた日本では、まもなく高度経済成長期を迎え、日本人個々の心の中から忍耐の字が薄れていった。『負けられません、勝つまでは』は私が子供の頃は『欲しがりません、勝つまでは』というフレーズに変わっていたという記憶がある。だが、今は『早いもん勝ち!』とか言って、物の争奪戦があちこちで見られる。
 所謂、団塊の世代以前の日本人に出会うと、ホッとするのは何故だろう? 断じて、私が年を取ってきたからではない、と言いたい。何故なら、もっともっと前から感じていた事だから・・・
 先日、同じ年代の人に出会ってホッとした事がある。この人は知り合った時から、付き合いが続けば、私との関係が業者と客になる事が明白だった。ところが、数年間もメール交換をしていながら、つい最近、初対面のその日からずっと互いの尊敬は相変わらずの形で残る事になったのである。そして、予想通り、老舗会社と個人客の関係に今、進展している。
 同じ様な業者との付き合いの中で「今なら・・・」「特別に・・・」と期間限定、特別低価格を盾に相手がせっついてくると、興味が半減して、嫌気さえしてくる。そして、前出の人の株が俄然上昇するという訳である。
「低料金に越した事はありませんが、良ければ多生高くてもいいんですよ」
早いもん勝ち!が大嫌いな私は声高に断ってしまうのが関の山という結末を迎えてしまう。期間限定、特別低価格の確たる理由も掲げられない相手に、何を好んで自ら近づいて契約を結んだり、買物をするわけがない、というものだ。
 業者と客、男尊女卑の論争。更に、差別は平等の反対語でないし、平等も差別の反対ではない。金持ちは必ずしも上位にいる訳ではなく、貧乏人がいつも社会の底辺にいる訳でもない。それなのに、戦後の日本社会は一億総中産階級になってしまった。それも多くが中産というよりもっと上だと思っている人がいる。世界の富裕族から見ると、日本の富は殆どが中産層だという事だろう。だから、買物に『早いもん勝ち! 買わなきゃ損!』現象が蔓延ってくるという訳だ。そして、平等を可笑しなくらい掲げ、ウーマンリブを強引に前に出してくる。平等って、そんな簡単なものではない。ウーマンリブって、そんな眉をひそめるような変な力があるものではない。
 8月になると、熱く語りたくなる私はやっぱりホントのウーマンリブ提唱者の一人なのかな? 差別あっての平等を語りたくなる私はもしかして差別平和主義者かな? 8月、まだまだ語る時間はありそうだ。

68.パイナツプルって知ってる?

2006-08-15 06:30:22 | Weblog
 痛い! とても痛い! 耐え難い痛みが毎日襲ってくる。酷い痺れの上に容赦なく乗っかって来る痛覚は異常だ。電車などで、僅かしか空いてない席に強引に座ろうとして巨大なお尻を割り込ませて来る女客(女同士で失礼だが)に片腿の上に乗っかって来られた時の何十倍もの痛さだ。感覚は大切なものだが、痛覚や痒覚は嫌なものである。
 恐々、天気図を見てみたら、いるわ、いるわ! 日本列島をグルッと取り囲んだ低気圧が! 何だか、細くて小さな列島が虐められているみたい。遠巻きに、様子を見守っているような高気圧が恨めしく感じる。自然と闘っても勝ち目はないか!
ところで、パイナツプルって知ってる? いえいえ、パイナップルじゃなくて、パイナツプル!
 私がご幼少?の頃、流行った典型的な遊びの話だ。あの頃の子供は遊びといったら、戸外に決まっていた。健康そのものである。鬼の子の後方に子供達が散り散りバラバラに立って、鬼が大木に寄りかかって腕で目隠しをしている内に、隙を見て夫々が移動する。鬼が目隠しを外して振り向いた途端、ちょっとでも動いて「○○ちゃん!」と動きを見つけられたら、その子はアウト! この遊びを今、始終思い出しては大奮闘している事がある。
 愛しのゴールデンがあちらの世界に逝ってしまった今、私の車椅子の脇にはダックスフンドが歩いている。この子は中々の子で、賢いのか脳タリンなのかちょっと不思議な子だ。単なるケアレスなのか、注意欠陥症なのか。この子の動きがパイナツプルを思い出させる。
 私が立ち上がって、玄関方面を向くだけで耳がピクッと動いて、ダッシュの体勢に入る。私の前に出て、玄関に置いてあるリード目掛けて走り出す。ダメ!モドル!と叱られてスゴスゴ戻る姿が何とも言えない。実はこの子の毛並みは我が家歴代のお犬様の中でもトップを争うのである。山椒は小粒でもピリリと辛い!
 ホントの散歩の時も「待ってました!」とばかり、逸早く駆け出しては私の制止の声にピタッと止まっては、また走り、止まり、走りを一心不乱に続けて「何が悪いの? ボク何か悪い事した?」とつぶらな瞳で私を見上げる。そして「戻る!」「バック、バック」という私の声で彼の足は抜き足差し足状態になる。可笑しな子だ。玄関にあるリードを私が手に持つと、途端にジャンプ!ジャンプ! リードを銜えて振り回す。「バカだ!」と呆れられると、我に返って「誰の事?」と私を見上げる。こんなくだらない事を暫く続けると、またまた我に返ってシュンとして、顔を上げて私にリードを首輪に付けさす。
 私は、というと、何しろ利き手の右が無能なので左手だけで犬の世話をするのはそれ程簡単な事ではない。去年の暮、癌で家族皆に惜しまれながら他界したゴールデンは慣れていたし、のんびり屋さんだったので比較的楽だったが、ダックスフンド君は、セッカチでチョコマカチョコマカ動くので、私の制止も声高になって忙しなくなってしまう。
 そして用意万端、それこそ「待ってました!」という訳で、近くに住む私の姉がドアの向こう側に到着する段取りになっている。無論、私が独りで犬の散歩をするのではない。危険極まりなしという事で、列記とした?侍女が脇に従う!のである。
 結論から言うと、とにかく犬は人間に忠実で可愛いものだ。戌年記念に命日のクリスマス・イブまでに、愛しのゴールデンを偲んで彼女中心の犬物語『マイラブ・マイドッグ』を出版するので是非、多くの人に読んで貰いたいと思っている。涙あり、微笑みあり、大泣きあり、大笑いありの犬物語完成の日に乞うご期待!

追伸:8月15日は終戦記念日であり、亡き父の生誕95年に当たる。お父さん、相変わらず、犬、飼ってるのよ! しかもお父さんが秘かに憧れていたジャーマン・ダックスフンドよ! ロン毛で、ちょっと縮れ毛の彼は、ゴールデンが暢気なお母さん似ならちょっとお父さん似で少しセッカチ! お父さんが逝ってしまってからの二代目よ。

67.ユーモアの分かる人って嬉しい!

2006-08-12 06:19:55 | Weblog
 以前、PNF療法を取り上げた事がある。時節柄、活発になっている低気圧の影響が多分にあると思うが、内的痺れの現れに最近、とても外敵痺れを感じる事がある。頭右半分に感じるのは困難だが、最近、左半分に頭痛が生じた事がある。私は元来、頭痛持ちではない。だから、これまでに頭痛に悩んだ記憶が無い。偏頭痛なるものも経験したことが無い。
 PNF療法を取り入れ始めて、すぐの頃、左に頭痛を感じたが、一回こっきりだった。一回こっきり、と思っている内に大変な事が密かに進んでいた経験を持つ私はちょっと注意を払いたいと内心思った。あの一過性黒内障の事である。あの時、迂闊にも早期に正体を掴まなかった私はとても悔しい思いをしたのだから、持続するものより、瞬間的に出現して即座に消滅する方が何とも気になるのは当然かもしれない。
 時間に余裕を持った昨日、私は降圧剤を貰いに行った時「そうだ、久しぶりに脳外科の先生に話してこよう」と思い立った。いつもの医師は休みで、初めて会う医師は若くてとても感じのいい人だった。
「あれ! ああ、この脳出血体験談を書いた方ですね」
いつもの医師は常にデスクの上に置いて、どの先生も読めるようにしておいてくれたらしい。病院の脳神経外科は救急車で緊急入院してくる人以外は殆どが入院患者を診察するのが日常なのか、整形外科などに比べると一日の患者数は少ないのが現状だ。
「カルテを見て、お名前に覚えがある、と思ったんですよ」
若い医師は親しそうに言った。
「ああ、そうです」
私は恐縮したように答えた。
今現在のちょっとした我が身の心配事を私は漏らした。前のカルテをパラパラ捲りながら、医師は言った。
「血圧も正常だし、現在の痛覚も痺れも脳自体に関係は無い筈ですが・・・」
「先生、エースコールは毎日欠かさず飲んでいますが・・・」
「薬だけで血圧の状態が安定しているわけではないと思いますが・・・」
「そうですか。食べ物も然程制限していないんですよ」
初めの頃から、食べたいと思うものは食べたらいいと言われ「先生、それって、この年になったら、という言葉が隠されているんじゃないでしょうね!」「んっ!かもね!お互いにね」と笑いあったものだが、今、目の前にいる若い医師はホントに薬のお蔭だけではないと言いたそうだった。私がその話をしたら、何とも言えない表情で笑った。先輩医師を思い出し笑いしていたのだろうか。
「先生、来月で発病五周年なんですよ。脳の写真、撮って戴こうかしら?」
「そうですね、では来月22日に予約しましょうか」
「それって、正に記念日前日ですね」
「そうですね」
「意識して、その日を選んだんですか?」
若い医師もユーモアが分かる人で、私は嬉しくなった。

66.療治、変化、そして期待する結果

2006-08-06 05:03:11 | Weblog
 私という中途障害者に慣れた療法士と付き合いの未だ浅い療法士の違いは「挨拶」の言葉である。前者は「どうですか?」と、簡潔でさっぱりし過ぎているようだが、私はとても安堵感を覚える。後者は「如何ですか? 大分よくなりましたか?」と、自らの療法の手応えが知りたいらしく、私は「結果なんて、そんなに簡単には出ない!」と心の中で返事をする。相手をよく知るようになると、人は自分の腕より相手の気分を気遣う事が出来るようになるという訳だ。
 新しく知り合った療法士達に私はこんな素晴しい言葉を拝借して自分の心の中で投げかける事にしている。
― 巧みに喋る機知と、沈黙する術を心得ていない事は大いなる不幸である ―
急いでは事を仕損じる、という訳で私としてはもう少し、付き合ってみようよ、という意味も含めての事である。私は出会いを大切にしたい。縁あって診ていただくことになった療法士には私という一人の脳出血後遺症者を知って貰いたい。私にだけでなく、きっと他の人を診る時に役に立つ事もあるだろうから・・・
 私の場合は、脳出血という病気は急速に快復したが、後遺症はそう簡単に回復出来るものではない。血が出たりしていて誰にでも分かるような傷と違って、後遺症の痺れは本人しか分からない。痺れの度合いより、感じる度合いが問題だと思っている。誰もが自分の痺れや痛みはハンパじゃない、と思っているだろうし、どの人よりも重症だと思っているものである。「人の感じ方」をあれこれ評するものではない。
 リハビリの他にマッサージをお願いしているが、このマッサージは手法が色々あっても通常は後々気持ちがよくなって、身も心も軽くなるものである。目が疲れて、自分でコメカミ辺りを揉み解すと目がパッチリする。肩が凝って、一寸でも人に叩いて貰うとすっきりする。見かけによらず首が長い私は若い頃からよく首が凝ったものだが、カイロプラクティックの治療を受けると、世界はバラ色に輝いたものだ。だが、今は違う。どんなにいい先生でも「ああ、気持ちいい!」という言葉は私の口から出ない。それほど、右半身の痺れの強さが強烈なのだ。外的刺激による痺れは時間が消滅の手助けをしてくれるが、内的刺激による痺れは、残念ながら、いまのところ撲滅の気配は皆無なのだ。
 ストレッチ、マッサージと連日、自ら筋肉を揺り起こしていれば、変化が出るのは当然で、結果が吉と出るか凶と出るか、時間がかかるのも当然の事である。現在の私は変化の出現を嬉しく思っている。変化の後には必ず「違い」が出るのだから・・・

追記:7月末に社会学者鶴見和子さんが亡くなられた。発病以来、初めて出向いた高輪の図書館で偶然、手にした本、所謂、脳卒中体験記の中で絶賛するウォーカーケインを知り、何度も貸し出し依頼をして、何度も読み返しては自分の後遺症を鶴見さんの後遺症と照らし合わせた。今、私が絶賛している。私の症状にもピッタリの装具である。享年88歳の鶴見和子さんに合掌!

65.素敵なウドの大木

2006-08-03 06:32:35 | Weblog
 ご自分を魯鈍とおっしゃる等ウィットに富んだ方からコメントを戴き、嬉しくなった。自らをウドの大木と称する男性に以前会った事がある。自称ウドの大木とは似ても似つかない容貌に私は表現の語源を探った記憶がある。
 日本の山野に自生する多年草のウドは山菜として若芽を天ぷらにして春の食卓を飾る程度の知識しかなかった。花にはたくさんの蜜があり、昆虫たちが大喜びするのがウドの大木。でも、大きくなりすぎて生け難く、敬遠される。それなのに、秋の実と枯葉はとても情緒がある。
 自分というものは不変である、と思っている。『変わる』という事は悪いことではないが、良いことだとも思っていなかった。しかし、脳障害に出遭って、私は『知る』『学ぶ』という事は『変わる』ということだと学んだ。更に、ブログをはじめて、色々な人から、様々なことを知り、いっぱい気づかせて貰うチャンスに恵まれて、私はやっぱり幸せ者である。