脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

210.苦あれば楽あり

2007-07-30 15:19:35 | Weblog
 雨雲が空いっぱいに広がっているにも拘わらず、私は運を天に任せてリハビリに出かけた。何としても私が信頼する療法士に会いたかったからだ。
 出かける予定が参議院選挙の投票場だけだった週末に、私は新しいプラスチック製短下肢装具を付けて家の中を歩く約束が療法士との間にあった。いつも私が使用している装具は革靴に金属製支柱付き短下肢装具だが、これにすっかり慣れている私に最近、療法士が勧めてくれた装具がプラスチック製の軽いものである。
 軽いのだが、これを履くと痺れが倍増する。酷い痛みも伴う。ところが、実用歩行訓練と活動向上訓練を行うと言うので、リハビリの度に履いてみたが一向に慣れない。歩行練習中にも痺痛は容赦なく倍増し、顔右半分はサロメチールを思いっきり塗りたくった様にヒンヤリ、スースー、目を開けていられないようになる。革靴付の装具より遥かに軽いのに、どうしてそんなに私を苦しめるのか! 療法士曰く、従来の金属製支柱付き短下肢装具は私が持っている3足全てが内反する右足の為に十分以上の優しい角度が付けられているというのである。なるほど、並べて後ろから見ると、その違いは私にもよく分かる。革靴付きを並べてみたら、どれも少々内側になびいていて同じ位の角度があるが、プラスチック製は確かに幾分直立していて、そのふたつの角度の差はほんの僅かなものである。
 あれくらい程度の角度の差が、これほどの痺痛と内反を生じるのか! 信じられない!
「約束通り、週末はずっと家でプラスチック製の短下肢装具を付けて歩いていましたよ」
いつものように私の右半身にストレッチを施す療法士は、いつものように苦笑いした。
「不思議な事に痺れも痛みも信じがたいものなのに、歩行は結構いい調子なんですよね!」
療法士の反応は私が予期したものだった。
「いいですよ。疲れもいつもより表面化しないし、続ける価値はありますね!」
「辛くてもね! 続ける価値ね! 続けるのは私だからね!」
革靴付き金属製支柱付き短下肢装具のお陰で、しっかりした歩行と醜くぐにゃりとはならない内反は当然の結果なのだ、と療法士は言っていた。でも、それは僅かにバランスが正しく保たれてはいないのだ、と療法士は言っていた。唯、長い間、それを履いていたので、恐らく、比較的綺麗な歩行が保たれてきていて、恐らくそれは私の体が忘れないだろうと、療法士は言ったのである。そして、プラスチック短下肢装具を使用して今度は正しい姿勢での歩行を目指そうという事になったのである。
 今日、私がマイミクシィの日記に綴った文が私の脳裏をかすめた。著名な人物をある外国誌が評した言葉である。
― 自らに対する疑いを克服し、殆ど見込みのない中で目標をやり遂げようとしており、多くの人がその未開発の潜在能力の高さを証明している ―
リハビリの度に海馬を頻繁に出入させたいほどで、さすがに素晴らしい言葉である。

209.京都島原の文化史

2007-07-29 16:18:17 | Weblog
 ミクシィで「おうち言葉」が話題になり、奥羽地方の人が「おらいん言葉」と持ち出して「あたらしもの好き」というか「好奇心のかたまり」というか、私は当然の事ながら「おらいん」という言葉に興味を示し、更に「おいらん」を思い出したのである。そう言えば「おらっち」とか「おらたち」という方言は耳にした事がある。
 面白い事に夫々の家に「おうち言葉」と「よそゆき言葉」がある。
 我家の「おうち言葉」は江戸弁に湘南言葉が混合されたものだから、かなり凄まじいものになる事がある。唯、少し興奮して大きな声で話すだけでも京都の義母は「おぉ、怖っ!」と言う。喧嘩が始まったと思ったらしい。湘南言葉は紛れもなくかつての太陽族の言葉が少なからず入っていて、江戸弁にはベランメーは入ってくる。娘の学友である菊之助君の襲名披露公演が歌舞伎座であって「弁天小僧」を観た時、江ノ島を思い浮かべながら「知らざあ言ってきかせやしょう~!」という台詞がすんなり自分の身に入ってきた記憶がある。さすが~湘南親子!
 さて、私が興味を持って思い出し「日本の文化史」のひとつとして私の知る「おいらん」の話を綴ってみようかと思う。
 あの日、花魁は八坂神社から、ゆっくりゆっくり歩いて通りを進んできた。下河原の道は既に見物客が集まっていた。奴さんみたいな人が両脇にいて、電線が花魁の髪にぶつかりそうになると、長ーい棒状の物で除けていた。目的の割烹旅館に入る時は大変な騒ぎだった。頭は閊える、衣装は引っ掛かかる、両脇の幼い女の子二人は戸惑う。やっとの思いで、家屋内に進んだ花魁が脱いだポックリの高さに私の目は点になった。七五三で履いたポックリの何十倍もあるその高さには目を見張った。
 花魁を呼んだ客と義祖母が昔馴染みという事で席に招待され、若かった当時のBFと私も勉強になるから、という事でご相伴に預かったという訳だった。
花街の花魁の営業は昭和52年までだったというのだから、私は運がよかったのだろう。営業廃止数年前に未だ義祖母が健在の頃、京都祇園で同席する機会に恵まれた私は確かに運がよかった、と思う。
 私は、そこで慶応生まれの義祖母に「花街」と「遊郭」の違いを教わった。「花街」は歌や舞を伴う遊郭の町で「遊郭」は歌も舞いもない。遊郭では宴会もしない、歓楽のみの町という事である。花街には象徴である歌舞練場があるが、遊郭にはない。あの時、島原の文化史を垣間見た私はよき解説者を得て、幸せ者であった事は否めない。
 それ以前に、海外からの客を連れて、浅草吉原の松葉屋で花魁を観たのが初めてだったが、あれは舞台を観ているようで大した興味は湧かなかったのが私の本音である。やはり、時代を生きてきた女性が語った文化史は次代にも活きてくるものだとつくづく思ったものである。私も化石になる前に、若者達に色々伝授しておこう  

208.リハビリテーション医学

2007-07-29 08:20:49 | Weblog
 日本はリハビリテーション医学では、かなり遅れをとっていると言わざるを得ない。この医学は100年前にアメリカで物理療法に基づいて認知された分野であるが、5000年前の古代中国や2500年前の古代ギリシャの時代から運動療法や温熱療法は行われていたのである。
 昨年春に実施された診療報酬改定で「リハビリ打ち切り問題」が噴出して、リハビリ医療は俄かに社会問題になった。
 日本の厚生労働省は「リハビリテーションは、単なる機能回復訓練ではなく、心身に障害を持つ人々の全人間的復権を理念として、潜在する能力を最大限に発揮させ、日常生活の活動を高め、家庭や社会への参加を可能にし、その自立を促すものである。従って、介護を要する状態になった高齢者が、全人間的に復権し、新しい生活を支える事は、リハビリテーションの本来の理念である」と尤もらしく記している。
 話は突然飛ぶが、そして余談ではあるが、生活保護法では「困窮する全ての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障し、その自立を助長する」のを日本国が目的とすると記している。
 日本の行政が尤もらしく掲げるスローガンはいつも単なる標語で終わってしまうような気がするのは私だけだろうか。奇しくも今日は参議院選の日・・・
 確かに、日本のリハビリの歴史は戦後からと言えるし、リハビリ専門家の出現は極最近になってからであると言えるだろう。高齢化が進む。リハビリはますます重要になっていく。打ち切るのでなく逆に充実させる道こそ探るべきだろう。それなのにリハビリ打ち切りとは・・・
 リハビリ打ち切りが宣告されてまもなく、直接の原因ではなかったのだろうが社会学者の鶴見和子さんが亡くなっている。彼女が自らの体験をもって紹介した装具付革靴を、何としても履いてみたいという想いから私が着用し始めて5年になる。倒れて足掛け6年になるから、維持期殆どのリハビリに私はこの装具を身に付けている。その彼女があっけなく昇天の刻を迎えたのは「リハビリ打ち切り」が何らかの形で少なからずも起因していたんだと思ってしまう。
世界有数の長寿国を誇る日本のリハビリの行方が危ぶまれているなんてナンセンス!
 リハビリテーションという言葉は戦後、アメリカから伝えられた多くのカタカナ語のひとつで、長い間、一般人にはあまり馴染みがなかった。極最近になって、リハビリ医学は予防医学、治療医学に次ぐ、第3の医学として、新しい医学の分野を得るようになったにも拘わらず、既に「打ち切り」が問題になってくるなんて・・・ リハビリに関して、あまり理解されていないのが現実で、リハビリの対象は疾患ではなく障害であり、むしろ障害を有する人(障害者・老齢化すれば障害者化する)であるという認識が薄いという事実の壁にぶつかるような気がする。障害者(老齢者も)のいない社会などあり得ない事は分かりきっているのに、高齢社会にまっしぐらに突入している日本が「リハビリ打ち切り」だなんて、開いた口が塞がらない。
 正しいリハビリの心を持つ医療が存在して、そんなリハビリの心を持つ社会であるかどうかということがとても大切で、これぞ先進国の社会の民度の高さを表す、という事ではないだろうか。

207.7月最終の週末に何というハードタスク!

2007-07-27 08:39:57 | Weblog
 私は二つのリハビリ病院に通院する中で、整形外科系と脳外科系の違いが自分なりに早期の内に分かっていた。運動器など末梢神経の障害の医療のN医師と、麻痺などの原因に関心を寄せるT医師のお陰で、私は二人を融合して自らのリハビリに励む事になったのは有難い事であった。これまでの医学会では整形外科と脳神経外科が夫々の専門分野に立ってリハビリ科を作ってきたが、現代は初めからリハビリ科を専門にする療法士がいて、彼らは様々な患者に出会って、実践に挑みながら、患者個々から色々知りながら治療の仕方を研究していく。
 私が信頼する療法士は自ら考案した知覚支援装置付コルセットと助言して作製して貰った靴の装具を私の身に付けて歩行訓練をする。コルセットを着用してすぐは右足が地にへばり付いたように中々取れない。すると、膝が伸びっ放しになって二進も三進もいかなくなる。まして、特性の装具を足に付けていると、右足を運ぼうとする私の気持ちを全く無視して、更にへばり付き、挙句の果てに内反が起きる。
 こうなると、欲も得もなくなり、痺痛が右半身を急襲する。先日のアレクサンダーを思い出して、更に上腕のストレッチの上出来を思い出そうとするが、並大抵の状態ではない。リハビリ室では、脇に療法士が見守ってくれているから、しかも彼特性のコルセットを着用しているから、暫く我慢して歩行を続ける内に次第に慣れて来るせいか、歩行に落ち着きが見え出し、私自身も気持ちが少し和らぎ、歩行が僅かながら安定してくる。何往復も何往復も歩行を続けていると、療法士はコルセットを外しにかかる。初めは敵と思っていた装具が少しずつだが、私の味方になってくる。
 リハビリ終了の頃には、私の歩行はいつもの装具付革靴を着用した感覚が戻ってくる。そんな事だったら、いつもの装具で過ごせばいいじゃないかと思ってきた。だが、療法士曰く、装具付革靴は無理な抵抗がなく、安心して身を任せられるが、正しいバランスが取れないまま、安易な姿勢に慣れるだけらしい。新しい装具は僅かながら角度が従来のものとは違うのだ、と言う。
 療法士は、治療の対象になる障害と私という患者の多様性・個別性に注目しているかのように語ってくれる。私はここ数年間の担当理学療法士のやり方を見ていると、彼は確かに私にはオーダーメイド的な訓練をしてくれているのに気付く。そこの病院には脳神経外科が備わっていない。だから、殆どが整形外科医の処方に従っての訓練や指導が主だと思うが、私が信頼する療法士は「同じように見える麻痺でも、人によって筋緊張が高いのも低いのもあるが、彼は私の筋緊張をそれなりに理解してくれている。年齢、性別、生活環境、更に私の外的内的要因で対応を変えてくれる療法士は私にとっては実に嬉しい存在である。彼は、私が精神的に、また、心理的に違うと異なった治療を密かに考えてくれているようだ。そして、今週末、私が与えられたタスクは「慣れぬ装具を着用する」というハードなものである。よ~し、頑張ろう!
 今週最後のリハビリで、療法士は私が好みそうな本を貸してくれた。この本を読む事によって、私はリハビリ科が現代社会に於いて、最も重要な診療科であり心療科ではないだろうかと思う。

206.今朝のリハビリとアレクサンダーの考え方

2007-07-25 16:47:21 | Weblog
 痺痛は最悪! でも空模様は最高! こんな時のリハビリは?
 天気図を見ると、高気圧がいっぱい! 低気圧は遥か彼方に! でも、私の痺痛は立ち去らない。しぶとい奴だ!
 リハビリが始まって真っ先に気付いた事は左手と右手を組むという行為がまあまあスムーズにいったという事である。いつもなら、右手の指が頑なに開かず、無理に一生懸命組もうとすると海辺の貝ではないが「絶対に開くもんか!」と凄んでいるのが分かる。「いいよ、嫌なら、そのまま頑なに塞いでいたらいいよ!」と私も言い返すのだが、今朝は「妙に緊張しないように」という恩師の言葉を思い出しただけで、右手の指がパーァと開いている。まるで目の前に置いてある白いカサブランカのように開いている。右手の掌に左手のそれを箱根の寄木細工のように見事に互いの指が組んでくれた。
 組んだら、こっちのもの!とばかり、私は組み手の作業が終わるまで決してバラバラにしないぞ!と思った。療法士が、組んだ手を目の前に真っ直ぐ「前へ習え!」を合図する。夢のようだが、右腕が左に従う。右手がしっかり伸びないのは仕方ないが、左についていこうとしている。結構、自然な動きである。その両手を真上に上げて、耳を塞ぐように真っ直ぐ上に持っていく。出来る、出来る! 嬉しい、出来る! 背筋も出来る限り真っ直ぐ伸ばす! こんな動作をいくつかやって退けた私は満足感にプラス「アレクサンダー、凄い!」が脳裏を横切った。
 私は「手を前へ、上へ」を動作ではやってもアレクサンダー宜しく、頭の中ではやらなかった。私は頭の上で自分の両腕で教会の尖塔のような形を作りながら、アレクサンダーが「生きている人間が必ず持っている、体全体の協調作用」を持論にしているのを思い出していたのである。
 ラマチャンドランのパーシャルミラーには騙されなかったが、アレクサンダーの騙しはイケルというのだろうか。やっぱり物の道理を叩き込むと、自分は何となく分かる人間なんだ、と今更ながら、思う私は奇人変人なのだろうか。

205.アレクサンダー・テクニークって?

2007-07-24 09:27:31 | Weblog
 知らない事って、何といっぱいあるのだろう。オーストラリア・タスマニア出身のシェイクスピア劇の舞台俳優であったフレデリック・マサイアス・アレクスサンダーという名前を知ったのはつい先日の事である。19世紀の舞台俳優FMアレクサンダーは実はシェイクスピア劇の一人芝居をする朗唱家だった。
 幼い頃から、呼吸器が弱かったという事実がアレクサンダーにはあった事もあって、学校教育に馴染めずに乗馬に熱中し、勉強は個人レッスンを受けていたというが、かなり優秀な生徒だったという業績が指導者の学校に残っている。バイオリンを独学で弾いたり、アマチュア演劇に参加したり、彼が若き日に身を寄せた伯父の家がメルボルンだった、という事を、私は興味深く知る。メルボルンは豪州の中でも芸術の都という名が相応しい処である。因みに、私が関係するNGVは豪州最多のコレクションを誇る美術館である。
 アレクサンダーはメルボルンで音楽、絵画、演劇など様々な芸術に触れたのである。彼はプロの朗読者として舞台でのキャリアがスタートして、昔の豪の芸術家の殆どがそうだった様に、彼もまた35歳でロンドンに移住したのである。
 その後、彼は舞台に立つと声がかすれたり、時には声そのものが出なくなるという悩みを持つ事になる。そこで彼は、鏡を使って自分を観察する事によって解決方法を探し始めた。セリフを言おうとする時に実際には自分が何をやっているかを観察する事にしたのである。そして、不必要な体の動きをやめようと試みるようになって、声を出すという機能を取り戻す為には、発声器官だけを変えようとするのではダメだと悟ったのである。自分の体全体をひとつのものとして捉え、その全体としての使い方を再検討する必要がある事が彼には分かったのである。彼は「生きている人間が必ず持っている、体全体の協調作用」に気付いたのである。とくに頭と首と背中の繋がりを再認識する事は、体全体の協調作用の為に 大切だと考えたのである。
 そして今更ながら、私は自分自身の妙な喉に注目したのである。私は高校生の半ば頃から喉のエヘン虫に悩まされだしている。これは幼い頃からの扁桃腺肥大に起因していると自分は思ってきている。高校時代を思い出すと、礼拝の時間になると決まってエヘン虫がシャシャリ出て来るのに大いに悩んだ自分がいた。牧師先生は「妙に緊張しないように」と当時の私にはちょっと不可解なアドバイスをくれていた。
 だが、今にして思えば、素晴らしい牧師だったという事である。アレクサンダーは「うまくやろうと一生懸命になると、自分を騙して喉や首の緊張などが増えていないと思いがちになる」と言うのだ。彼は、自分の声の為に「頭を前へ、上へ」とはせずに、その反対で「後へ、下へ」をする事だと言うのである。彼曰く、心身の不必要な緊張を止める為には「前と上へ」を探す事から始める事はしない方がいい、殆どの人にとっては「後ろと下へ」がどうなっているかが探索すべき事なのだ、という事である。
 確かに、自らの喉の異変に関しても、アレクサンダーの持論を私自身に生かす事ができるのは、自分の体の動きと自分の考えとが相互に深い関係にある事に気づいて、自分の習慣的な考えを自分で再教育していく事によってだ、と私は少し理解し始めている。
 私が長年悩んできている喉のエヘン虫を介してアレクサンダーの持論が、今現在悩んでいる右足の内反にも、更には痺痛にも、多少なりとも影響するのかと思うとゾクゾクしてしまう。しかも、このアレクサンダー・テクニークの生みの親がオーストラリア人だったとは、彼の芸術性を見出したのが私の第二の故郷であるメルボルンだったとは、奇遇だと思うと同時に何となく嬉しくなってくる。

204.わたしと薬

2007-07-23 05:57:18 | Weblog
 今年6月14日のブログに「薬と私」というタイトルで綴っているが、今度は「わたしと薬」である。ライスカレーとカレーライスじゃあるまいし、どちらが先でもいいじゃないかと思うかも知れないが、そうでもない。カレーの事になると、最近、ライスカレーと言う言葉は殆ど聞かない。時代的にはライスカレーの方が先だったという事である。今は、ライスはそっちのけで、ビーフカレーとかポークカレー、チキンカレー、マトンカレー、キーマカレー、野菜カレー等などきりがない。ひとつ気付くのは素材の名がカレーに付くとライスという言葉が消えているのである。料理のバリエーションのひとつであるカレーにはその国の主たる食材がメインになってくるという訳だろうか。確かにビーフカレーライスとかビーフライスカレーというのはメニューには載っていない。
 カレー談義で終わってしまう気配が浮上してくるようなので、このブログこそ本流に向かう事にする。
 さて、「薬と私」では確かに薬の話が主流だったが、今回は後遺症を抱える「わたし」が主役という事だ。抗XX剤というのをよく耳にする。私が常用しているのは「こうあつ剤」という薬だが、漢字は降圧剤で、明らかに血圧を降下されるのか、と素人にも分かり易い。だが、癌という病で普通に聞く抗がん剤を英語で考えるとan anticancer drugとなり、癌に反する意が強く出てくる。そして、私の降圧剤はan antihypertensive drugになって、やはり抗高血圧という事になる。
 人間は「反」という語に微妙に意識的になるものである。私とて「抗高血圧剤」という薬名で出されていたら、ちょっと気になったかも知れない。
 私が「抗痺れ剤」(私が名付け親!?)という薬での治療を遠慮したのは、明らかに「薬」と私の闘いを阻止したいと思ったからである。私は抗痺れ剤で治療はしない。そう私に明言させたのは、痺痛が病とは別で、寧ろ苦痛とだけ言えるからかも知れない。自分の人生の喜びの裏に苦痛が存在していた事もままある、ならば我が蘇り人生の喜びに痺痛があるのも当然と私には言えるのである。
 痺痛があまりに酷いと、私は「今が最悪の状態だと言える内は未だ最悪の状態ではない」というシェークスピアの言葉を思い出す。今年の妙な梅雨入りの頃、痺痛に耐えかねた愚かな私は脳神経内科医の処に駆け込んだ。数週間後、気分を和らげる筈の薬が効き過ぎて反する作用がてき面に働いたのか、私は苛立ち、気分を害する毎日が続き、自主的に薬をやめた。そして、ある人の「不幸に対する特効薬はありません、ただ昔から退屈な忍耐とか、諦めといった美徳があるのみです」という言葉が私を慰めてくれたのである。
 常用する薬を降圧剤だけに戻した私には新たな感覚は戻り始めている。これも嬉しくもかなり辛い感覚である。時折、虫に刺された訳でもないのに、右手の甲が無性に軽い痒みを覚える。私が掻き毟ることをせず、軽く左手の指先でくすぐる様にしてあげると、暫くして痒みは遠退く。これは何だろう。本当に痒い訳ではないのだろうか。その証拠に痒みが立ち去った後は、何も残っていない。激しい痺痛の頻度と、地の引力との引っ張りっこは確実に増してきている。
 でも、いい! 「不幸に対する特効薬・・・」という言葉を念頭に置く事にした私は「薬と私」の主従関係を覆すつもりはない。だから今は、やっぱり薬での治療は止めておく。

203.不治の後遺症

2007-07-22 08:49:46 | Weblog
 不治の病と聞けば、誰もが落胆して心が痛む。不治の後遺症とは聞きなれぬ言葉かも知れないが、こちらの方が恐らく巷で出会い易いのではないだろうか。
 後遺症には感覚がとても鋭敏な症状か、比較的鈍感か、はたまた無感覚か、街中では是非、気を付けて貰いたいものである。私の右片麻痺という後遺症は鈍感には殆ど関係なく、限りなく無感覚に近くて、同時にとても鋭い感覚が痺痛に大影響を齎すのである。
 私がどうしても好きになれない言葉がある。「だんだんよくなってきていますね!」である。先ず、医者や確たる療法士は使わない言葉である。私が知る限りでは、脳障害の後遺症の殆どは細胞の一部が壊れるのだから、現在の医学では完璧な再生は出来ないという事だ。まして、感覚障害は心に通じるものがあると思えるから、尚更、不治という言葉が使えるのだと思うのである。
 次第によくなっているのではない!だんだん他の機能が再び働き出すか、或いは新しく働き始めるかで、後遺症受容後のそれらの働きが盛んであればあるほど、不治とみなされた症状が単に忘却の彼方に押しやられているという訳だ。新しい働きには別の痺れ感覚や痛覚を伴う事になる。発達という言葉があるが、機能の起動も発達するらしく、痺れと痛みは以前のそれよりずっと激しくなっている。だが、これを「生きている証」と取るかどうかは本人次第である。
 最近、電動車椅子で移動する人がとても増えている。事故か、先天性か、病気の後遺症か、何れにしても症状・状態も様々という事である。
 一昔前の日本の道路でも同じ車種がすれ違うと互いに手を振ったものである。この行為に初めて出会ったのはメルボルンでシトロエンのスポーツタイプの助手席に乗る私は、時折、すれ違うこのタイプの見ず知らずの人に「お互いにいい車に乗っていますね~!」とばかり互いに手を振っていた記憶がある。そして、帰国後、そう、あのVWカブトムシで湘南を走行中、日本でも日本人が反対車線のカブトムシから手を振る姿によくあったものである。私は今すれ違う車椅子に手を振る事は出来ない。だって、頼みの左手はマニュアル操作に忙しく、助手側の右手は涼しい顔をして無表情なのだから。だが、脳卒中の後遺症の人は殆どすぐに分かる。経験のない人には見かけからはすぐには皆が皆は分からない。
 因みに私には「どうされたのですか?」という質問が一番多い。立ち上がって歩き出すと、まっすぐ歩いて「姿勢はいいですよ!」なんて言われても、大型鏡に映る我が身は明らかに脳卒中の後遺症だが、座っていたり、車椅子で走行中は「どうしたの? 事故?」と言われる事の方が多い。そうじゃない、後遺症が、しかも四六時中潜む痺れと痛みが尋常ではないのは単に見えないのである。痺れと痛みが衣服の上からでもセンサーが働いて蛍光塗料のように少しでも光って警告してくれればいいのに・・・
 今朝、ミクシィ仲間のあるワンちゃんが私に無意識に警告色の事を教えてくれた。人のよさそうな?顔をした大きなワンちゃんがクンクンしている野草がエゾキンポウゲ(蝦夷金鳳花)という聞きなれない植物だった。そう、エゾというからには北海道、蝦夷の植物である。緑の葉っぱに見事な黄色が印象に残った。私はこの大きなワンちゃんのお陰でトンと疎かった色々なお花を勉強させて貰っている。ありがとう!  
 黄色とはどんな色か、考えてみた。
 先ず、黄色は3原色のひとつであると同時に警戒色でもある。その証拠に、小学生の黄帽子、幼稚園児の黄カバン、黒と組み合わせると更に警戒心が強くなるのが黄色である。
 五行思想では、黄色は土を表し、穀物が実ると黄色くなる事から「豊穣」「金運」を表す事がある。だから、黄色の財布がいいとされている。ところで、赤い財布はお金が「あかんべぇー!して無くなっていく!」と言われる事がある。そして、古代中国では、黄色は皇帝・皇位を表す色として重宝されたそうだ。 その理由には「黄」と「皇」の発音がオウとコウで同じだからという説が存在している。
 黄色は太陽や向日葵の色という事で、心理学的には光に象徴されるように、開放感や気分の明快さを与える色であるが、紙や白布が古くなると黄ばむと言ってよく思われないことも多い。
 結局、いつものように唯、話が長くなったようだが、肝心な事は何事も夫々で、実に奥が深い という事が言いたかったのである。

202.海の日って!

2007-07-20 12:24:11 | Weblog
 そもそも海の日ってなあーに?
 曰く:-
1.日本は四面を海に囲まれた海洋国で、外国文化の伝来、人の往来、物の輸送等、昔から海に深くかかわってきた。
2.最近は、ウォーターフロントの開発および整備が進み、マリンレジャーが広く普及し、海の利用が多様化してきた。
3.一方、地球環境の保全から海洋汚染防止などの必要性が一層深まってきている。
 こんな風に、海の重要性から国民の祝日「海の日」の設定運動が盛り上がって、平成8年に制定されたのである。海の日は「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日として平成8年に7月20日が選ばれた。
 当時、私は一年中で国民祝日が全くない月が6月、7月、8月と3ヶ月も続くというので間を取って7月に特別休日を設けたかったのか、と思っていた。だが、制定から僅か5年で、海の日は流動性ある休日になった。平成13年6月に「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」が成立し、海の日は平成15年7月から7月の第3月曜日になって三連休化された。なあーんだ、やっぱり、単なる休日確保じゃないか!
 7月を「海の月」として、海の日の三連休化を契機に「海の日」本来の意義が失われないように、海に対する理解と認識を高めて貰う為に7月1日から31日までを「海の月間」にすることにしたらしい。
 でも、海は怒っている。皆で集まって、話し合って、何にも実行に移さない人間に怒っている。太平洋側、遠く海の彼方で発生した台風4号は13日の金曜日に日本に接近してきた。花の金曜日をTGIF!(Thank God It’s Friday!)なんてビヤーガーデンや居酒屋であの夜ばかりは奇声をあげていられなくなった。続く土日はもう完全に海から上陸の雨台風に脅かされた。
 挙句の果てに、海の日当日は更に日本海側では中越沖地震が待ったなしで人間を襲った。
 「海と空」の襲撃は私達にどれほどの教訓を与えただろうか。恐らく昔の人なら、きっと「たたりじゃ!」と言うだろう!
 昔のまま、7月20日にしておけばよかったのに! 今日、7月20日金曜日は晴天なり、晴天なり!







201.7月はブログ誕生月です!

2007-07-18 17:07:10 | Weblog
 今年も既に中盤に突入して、更に今月ももう第3週に入ってしまった。
 2年前の7月にブログを始めてみて、自分は確かにハイパーグラフィア症候群だな、と今つくづく思う。書きたい事がいっぱいある。それを書く事ができる。書く場がある。それを読んでくれる人がいっぱいいる。そして、私は幸せを感じる。幸せを感じるから、また書きたくなる。これは私にしてみれば、決して悪循環ではない。他人様のコメントに一喜一憂する事は何故かあまり経験していない。コメントには偶々同意が多いからに違いない。私はまさしく楽天家で且つ幸せ者である。好き嫌いはあっても、私にしてみれば善悪をブログのコメント上で述べ合うのは論外という事になるのかも知れない。万が一、私が反対の立場にいたらどうだろう。幾人かが立ち上げたブログを開く事がある。引き続き、定期的に開くものもあれば、数回限り、はたまた一回こっきりというのもある。その人の考え方はその人のだし、取り立てて、論議する事もないだろうと私は思う。
 そして私はふと、ロンドンのスピーカーズ・コーナーを思い出した。スピーカーズ・コーナーは言論の自由を体現したもので、ここからカール・マルクス、ウラジーミル・レーニン、更にジョージ・オーウェルなどが後に世に出て有名になっている。聴衆の激しい野次はあっても、誰もが日々自説を論じる事ができる。英国王室への批判と英国政府の転覆はタブーであっても、あのコーナーではほぼあらゆるテーマについて自由に語る事ができる。
 ミクシィを始めて凡そ半年強、こちらの場ではかなり無差別に様々な考え方が入ってきて、これもとても興味深い。ミクシィにはスピーカーズ・コーナーの野次ようなものが私のブログよりも、もう少し入ってくるような気がする。ロンドンのハイド・パークは王位公園のひとつで、ニューヨークのセントラル・パーク同様、巨大な都市型公園だが、誰でも入れる公園だから、自説に真っ向から反対を食う事もある訳だ。先日、ひょんな事で私のミクシィに所謂足跡を付けた影が見つけられた。私は首をかしげて、ちょっと覗いてみた。読めば読むほど、交わる線はなく、寧ろ平行線が先がどんどん開いて離れてしまう。嫌悪感こそなかったが、私らしい唖然とした感想は少なからずあったと言える。そこには同じ興味はあっても、その概念が全く違っている事に気づいた私はそそくさと退散する事にした。しかし、学ぶ事はあった。ああいう考え方をする人もいるのだ、という事だった。人生いろいろ、人さまざま、という訳だ。ミクシィのいいところは雑踏の中で出会うアンラバブルにはきっと再会はないだろう、と思える事かも知れない。
 人を傷つけない限り、例え間違っているかも知れない事でも、ルールを守って言論の自由を愉しんで生きたいと、願う私は勝手な人間だろうか。
 これからも、マイ・ブログを綴っては自らの後遺症に真っ向から取り組んでいきたいと思っている。