不治の病を突然宣告されたら、あなたならどうする?
いつの場合も どんな時も慌てないのがお気楽人間の私の場合は・・・
7年前、突然崩れるように倒れた私は救急車の中で「何が起きたのか」自問自答していた。
そんな時、盛んに病院との交信をしていた救助員に「何を揉めているんですか? さっさと広尾の日赤にでも運んで下さい!」と言った記憶がある。
「ここは港区で・・・日赤は渋谷区なんですよね・・・」
「だから何なんですか? 同じ日本で、しかも東京都内じゃないですか!」
「虎の門病院がダメなんですよね・・・」
「だから、日赤って言ってるでしょう!ダメなものはねばってもダメ!」
「日赤かあ、日赤受け入れてくれるかなあ・・・」
「ああ、もうダメ・・・」
「チョッと待っててね」
「違うの、ダメなのはあなたなの・・・」
「えっ、わたし?」
「そう、イライラするから早く電話して!」
「日赤にはお知り合いの先生でも・・・」
「ああ、いるいる、だから早く行って!」
まるでタクシーの運転手に行き先を告げるように私は言った記憶がある。一緒にいた友人達は口を挟む余地がなかったようだ。日赤に知り合いはいなかった。今でこそ脳外科医と親しくなったが、あの頃は病院とは無関係の間柄だったので、精々子供を産んだ慶応病院くらいしか知らなかったのである。
何はともあれ、私は少しでも自宅に近い広尾の日赤に運ばれた。
日赤がある広尾は娘の幼稚園のすぐ傍、それより何より広尾、豊分町は嫁ぎ先のかつての縄張り! 亡きお義父が必ず護ってくれる、と私は咄嗟に思った。今は某大使館になっている館の前を通って救急車は日赤に滑り込んだ。
その日は休日だったが、私は医師に当たった! S先生は野球じゃないけどまさにホームランの大中りだったのである。彼の迅速な手当てで私は九死に一生を得たと感謝している。欲を言えば「半身不随宣告」は要らなかったのだが・・・!
だが、後にこの半身不随に私は感謝する事になる。
それまで「時間貧乏」と自ら名乗る私は一分一秒を惜しんで何から何まで自分でやっていた。ところが半身不随になると色々人に頼む事になる。人を選んで頼む私は卑怯な人間だろうか。
今、介護が世間で話題になっている。家族は家族を介護するのが当然という風潮に私は首を傾げる。
私に子供が出来た時、当然嬉しかった。でも大喜びの蔭に大きな不安があった。私は元来、人間の子供より犬が好き! それでも我が子となれば・・・当然可愛い!
私の前に 子育て上手な義母が出現! 私は自信を持って子育てを始めた。義母の後ろには沢山の乳母や手伝いがいた。何より素晴らしい事は、子供達の父親が「3歳までは私が子育ての主導権を握るから、その後はあなたが・・・」と宣言し、その通りの生活が始まった。赤ちゃんの面倒はママよりパパ! 学業や受験はパパよりママ! 我が家はそんな家族だった。パパが通ったのは総合学校で受験の経験がなかった。高等教育の試験は自分が望んで臨んだのである。だが途中からその学校に通学するようになったママである私は中学時代から毎日曜に礼拝ではなく、模擬試験場通いに夢中になってまるでゲームでも愉しんでいるかのような週末だったと思い返す。会場と称して色々な学校の教室にも入ったものである。とは言っても未だ未だ子供だったから、私達は試験の後の「時間の愉しみ方」を毎週工夫していた。東京のど真ん中という事もあって、ある時は日比谷の映画街に、ある時は繁華街のパーラーに・・・愉しい思い出がある。私は主人とは全く違う愉しみ方を満喫していたという訳である。彼は、礼拝? とんでもない! 毎週末クラブ活動のラグビーに興じていたと語ってくれた。
私はその頃から「餅は餅屋」宜しく、自分なりの時の過ごし方を知っていた。だから、右半身不随の宣告も私なりの受け止め方をしたまでである。
その結果、気づいた様々な事がある。
いつの場合も どんな時も慌てないのがお気楽人間の私の場合は・・・
7年前、突然崩れるように倒れた私は救急車の中で「何が起きたのか」自問自答していた。
そんな時、盛んに病院との交信をしていた救助員に「何を揉めているんですか? さっさと広尾の日赤にでも運んで下さい!」と言った記憶がある。
「ここは港区で・・・日赤は渋谷区なんですよね・・・」
「だから何なんですか? 同じ日本で、しかも東京都内じゃないですか!」
「虎の門病院がダメなんですよね・・・」
「だから、日赤って言ってるでしょう!ダメなものはねばってもダメ!」
「日赤かあ、日赤受け入れてくれるかなあ・・・」
「ああ、もうダメ・・・」
「チョッと待っててね」
「違うの、ダメなのはあなたなの・・・」
「えっ、わたし?」
「そう、イライラするから早く電話して!」
「日赤にはお知り合いの先生でも・・・」
「ああ、いるいる、だから早く行って!」
まるでタクシーの運転手に行き先を告げるように私は言った記憶がある。一緒にいた友人達は口を挟む余地がなかったようだ。日赤に知り合いはいなかった。今でこそ脳外科医と親しくなったが、あの頃は病院とは無関係の間柄だったので、精々子供を産んだ慶応病院くらいしか知らなかったのである。
何はともあれ、私は少しでも自宅に近い広尾の日赤に運ばれた。
日赤がある広尾は娘の幼稚園のすぐ傍、それより何より広尾、豊分町は嫁ぎ先のかつての縄張り! 亡きお義父が必ず護ってくれる、と私は咄嗟に思った。今は某大使館になっている館の前を通って救急車は日赤に滑り込んだ。
その日は休日だったが、私は医師に当たった! S先生は野球じゃないけどまさにホームランの大中りだったのである。彼の迅速な手当てで私は九死に一生を得たと感謝している。欲を言えば「半身不随宣告」は要らなかったのだが・・・!
だが、後にこの半身不随に私は感謝する事になる。
それまで「時間貧乏」と自ら名乗る私は一分一秒を惜しんで何から何まで自分でやっていた。ところが半身不随になると色々人に頼む事になる。人を選んで頼む私は卑怯な人間だろうか。
今、介護が世間で話題になっている。家族は家族を介護するのが当然という風潮に私は首を傾げる。
私に子供が出来た時、当然嬉しかった。でも大喜びの蔭に大きな不安があった。私は元来、人間の子供より犬が好き! それでも我が子となれば・・・当然可愛い!
私の前に 子育て上手な義母が出現! 私は自信を持って子育てを始めた。義母の後ろには沢山の乳母や手伝いがいた。何より素晴らしい事は、子供達の父親が「3歳までは私が子育ての主導権を握るから、その後はあなたが・・・」と宣言し、その通りの生活が始まった。赤ちゃんの面倒はママよりパパ! 学業や受験はパパよりママ! 我が家はそんな家族だった。パパが通ったのは総合学校で受験の経験がなかった。高等教育の試験は自分が望んで臨んだのである。だが途中からその学校に通学するようになったママである私は中学時代から毎日曜に礼拝ではなく、模擬試験場通いに夢中になってまるでゲームでも愉しんでいるかのような週末だったと思い返す。会場と称して色々な学校の教室にも入ったものである。とは言っても未だ未だ子供だったから、私達は試験の後の「時間の愉しみ方」を毎週工夫していた。東京のど真ん中という事もあって、ある時は日比谷の映画街に、ある時は繁華街のパーラーに・・・愉しい思い出がある。私は主人とは全く違う愉しみ方を満喫していたという訳である。彼は、礼拝? とんでもない! 毎週末クラブ活動のラグビーに興じていたと語ってくれた。
私はその頃から「餅は餅屋」宜しく、自分なりの時の過ごし方を知っていた。だから、右半身不随の宣告も私なりの受け止め方をしたまでである。
その結果、気づいた様々な事がある。