脳のミステリー

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半身不随を宣告された時 -その1-

2009-03-21 08:07:45 | Weblog
不治の病を突然宣告されたら、あなたならどうする?
いつの場合も どんな時も慌てないのがお気楽人間の私の場合は・・・
7年前、突然崩れるように倒れた私は救急車の中で「何が起きたのか」自問自答していた。
そんな時、盛んに病院との交信をしていた救助員に「何を揉めているんですか? さっさと広尾の日赤にでも運んで下さい!」と言った記憶がある。
「ここは港区で・・・日赤は渋谷区なんですよね・・・」
「だから何なんですか? 同じ日本で、しかも東京都内じゃないですか!」
「虎の門病院がダメなんですよね・・・」
「だから、日赤って言ってるでしょう!ダメなものはねばってもダメ!」
「日赤かあ、日赤受け入れてくれるかなあ・・・」
「ああ、もうダメ・・・」
「チョッと待っててね」
「違うの、ダメなのはあなたなの・・・」
「えっ、わたし?」
「そう、イライラするから早く電話して!」
「日赤にはお知り合いの先生でも・・・」
「ああ、いるいる、だから早く行って!」
まるでタクシーの運転手に行き先を告げるように私は言った記憶がある。一緒にいた友人達は口を挟む余地がなかったようだ。日赤に知り合いはいなかった。今でこそ脳外科医と親しくなったが、あの頃は病院とは無関係の間柄だったので、精々子供を産んだ慶応病院くらいしか知らなかったのである。
何はともあれ、私は少しでも自宅に近い広尾の日赤に運ばれた。
日赤がある広尾は娘の幼稚園のすぐ傍、それより何より広尾、豊分町は嫁ぎ先のかつての縄張り! 亡きお義父が必ず護ってくれる、と私は咄嗟に思った。今は某大使館になっている館の前を通って救急車は日赤に滑り込んだ。
その日は休日だったが、私は医師に当たった! S先生は野球じゃないけどまさにホームランの大中りだったのである。彼の迅速な手当てで私は九死に一生を得たと感謝している。欲を言えば「半身不随宣告」は要らなかったのだが・・・!
だが、後にこの半身不随に私は感謝する事になる。
それまで「時間貧乏」と自ら名乗る私は一分一秒を惜しんで何から何まで自分でやっていた。ところが半身不随になると色々人に頼む事になる。人を選んで頼む私は卑怯な人間だろうか。
今、介護が世間で話題になっている。家族は家族を介護するのが当然という風潮に私は首を傾げる。
私に子供が出来た時、当然嬉しかった。でも大喜びの蔭に大きな不安があった。私は元来、人間の子供より犬が好き! それでも我が子となれば・・・当然可愛い!
私の前に 子育て上手な義母が出現! 私は自信を持って子育てを始めた。義母の後ろには沢山の乳母や手伝いがいた。何より素晴らしい事は、子供達の父親が「3歳までは私が子育ての主導権を握るから、その後はあなたが・・・」と宣言し、その通りの生活が始まった。赤ちゃんの面倒はママよりパパ! 学業や受験はパパよりママ! 我が家はそんな家族だった。パパが通ったのは総合学校で受験の経験がなかった。高等教育の試験は自分が望んで臨んだのである。だが途中からその学校に通学するようになったママである私は中学時代から毎日曜に礼拝ではなく、模擬試験場通いに夢中になってまるでゲームでも愉しんでいるかのような週末だったと思い返す。会場と称して色々な学校の教室にも入ったものである。とは言っても未だ未だ子供だったから、私達は試験の後の「時間の愉しみ方」を毎週工夫していた。東京のど真ん中という事もあって、ある時は日比谷の映画街に、ある時は繁華街のパーラーに・・・愉しい思い出がある。私は主人とは全く違う愉しみ方を満喫していたという訳である。彼は、礼拝? とんでもない! 毎週末クラブ活動のラグビーに興じていたと語ってくれた。
私はその頃から「餅は餅屋」宜しく、自分なりの時の過ごし方を知っていた。だから、右半身不随の宣告も私なりの受け止め方をしたまでである。
その結果、気づいた様々な事がある。 

過去の悲喜と不安な今と煌く未来

2009-03-15 08:45:08 | Weblog
私は四捨五入すると未だやっと還暦?・・・でも今一番ガッカリしている事は「定額支給金」の事ですねえ~
一番お金が必要な年齢層が一番少ないんですよねえ~
私が英語を教えている頃、よくこんな事を言いましたよ。
「学童や受験生からは『安い!』って驚かれる金額しか戴きません。だって未だ親がかりですから、いわば浪人生も出世払いですよ。でもビジネスマンは稼いでいて必要だから習いに来るのでしょうから・・・バッチリ・・・」
定額支給金の話に戻って・・・65歳以上の方は箪笥預金にはしないで大いに使って戴いて、と思うけど、幼い子のは多分母親が管理するだろう。心配なの・・・18歳辺りの若い子の事が気になるのは私くらいなのだろうかなあ? 変な犯罪・・・恐喝とか妙なものに使うとか・・・チョッと気になるのです。

さてさて、今日の本題に入ろうか。
今世紀最大の難問が「地球温暖化」である事は誰もが知っている。これが自然由来の要因と人為的な要因の分けられる事も分っている。
この現象は地球表面の大気や海洋の平均温度が長期的に見て上昇するという事であるが、かつて氷期が訪れると海岸線が極端に遠退き、陸上の大部分が氷に覆われて動植物も激減して、それらを食料とする狩猟採集生活の人類にとっては大きな打撃となった。人類になる前は樹上生活であったらしいが、氷期の環境で地上生活を始めた時から 二足歩行を開始して人間の世界が出来たという訳である。
長い「氷河時代」が重要な事は人類の進化に並行していたからだったという認識を新たにすると、今重要な事は過去を振り返りながら人間の現在を考え、更に人間の未来を考えなければ大変な事になるのは明らかだと思う。
大きく世界の人間を考える前に、先ず身近な日本の人間を取り上げるのが妥当だとだろう。
人間にとっての「あたたかな未来」って何だろう。対象になりうる主な人間とは「老人と子供」という事になるのだろうか?
老人は過去の経験を生かし未来に繋ぐ事が出来る。子供は現在に学んで未来に希望を持つ事が出来る。人間のあたたかな未来には「老人の経験」は不可欠である。長く歩んできた人間の悲喜交々を次代を担う子供に正確に伝えて貰いたい。それは戦争という辛苦の時代を乗り越え、高度成長期という至福の時代を謳歌し、今地球温暖化という危機を目前に見つめている現代の老人が「良いも悪いも」出来る限り正しく子供に伝えてこそ「あたたかな未来」を約束出来るのだと私は思う。
先ず隗より始めよ、という訳で日本社会であたたかい未来を考える時、当然、千年からの長い歴史の中から伝統的な我が国特有の礼儀とか作法を受け継ぐのは特権だとさえ思う。熟年者や高齢者が次代を担う若者への伝承を義務と捉えず愉しみと考えたら「あたたかな未来」はもう約束されたも同然と考えられる。
家族という小さな社会の中で、ふれあいを通して正しい礼儀や綺麗な日本語を始終自然に互いの中に認めれば、若者が一般社会に入っていった時、必ずや「素晴らしい習慣」として根付いていくのではないだろうか。
若者特有の態度や慣性、そして現代語、これらを高齢者も使ってみたらいい。中々どうして、同意したいものもいっぱいある。私なんかは結構「超~」とか「ムズイ!」とか使う事が結構ある。「ムズイ!」等は「ムズムズする」と考えたら現代人としては落第で、これは「難しい!」という意味である。難しい等と敬遠せずに文豪平和主義者トルストイの名言を思い出したらいい。曰く『流れ進むのは我々であって、時ではない』この名言は実に色々考えさせられる。私の豪州の恩人はI don't know I don't care! というフレーズを如何に上手に使うかが素晴らしい未来を齎すと教えてくれた。一方、同年輩の日本人は「知らないという恐ろしさ」は未来を無意味に時に流してしまう、と教えてくれた。
でも、人には無意味な出来事があるからこそ未来がやってくるのだと思う。行動を起こすから成功も失敗もある。頭の中で考えているだけでは失敗も成功もない。人間の行動が齎す蓄積つまり失敗でも成功でも、その意味を大切だと考えれば未来が見えてくる筈である。
私はこれまで結構、自らの敗戦っ子という事実に拘ってきたが、今はもはや戦争を体験した人達が少なくなってきていて、体験として語られる戦争論はだいたい五十年代で終わったと思っている。だが、それを対象化して、体験を引き出していく事による「経験」は、歴史の上で決定的な意味をもっていると思う。因みに私は個人的には戦中後に偉大な功績を残した義父の記憶にあたたかな未来を発見する事が時折あるのを自認している。
つまり最終的に言える事は「あたたかな未来」の土台が「歴史と経験」だというのが私なりの答だと思っている。

春の訪れ

2009-03-07 13:34:21 | Weblog
クイーン・メリーなんていたかしら?
クイーン・エリザベス、クイーン・ビクトリアなら知ってるけど・・・
1970年代初めの頃、人気を集めたプラウド・メアリーというヒット曲なら・・・

クイーン・メリーⅡというからにはⅠが存在した筈である。
その進水は遥か昔で 1934年9月26日、引退は 1967年12月1日 で、その後はロングビーチで静態保存という事で、ホテル、レストラン、博物館として使用中だという事である。このクイーン・メリーⅠは534番船体と仮の名が付けられていたが、本船の命名については極秘のうちに進められ、キュナード・ラインの船名の命名規則に従い「ヴィクトリア」(Victoria)に内定していた。この裁可のため社長代理がジョージ5世に謁見した際に「この新客船には“イギリスの偉大な女王(クイーン)”の名を冠します」と遠まわしに奏上したところ、ジョージ5世の王妃(クイーン)メアリー・オブ・テックと勘違いされ「そうか。ありがとう」と言われたことに起因して「クイーン・メアリー」という名がついたという。

今年年3月6日、雨の横浜港へ寄港したクイーン・メリーⅡは、今世紀に入ってまもなく2003年の進水で命名は翌年で、処女航海は2204年1月という事であるから、クイーンというよりプリンセスと言いたいような若く新しい豪華客船である。その大きさから横浜ベイブリッジの下を通過できないため、旅客船が通常使用する大さん橋ではなく大黒埠頭に着岸したらしい。
日本寄港の理由が開港150周年を迎える横浜市が誘致したことにより実現したというのだから何とも嬉しい限りである。
日本寄港の後は香港だとか・・・

誰がかぜを見たでしょう

2009-03-05 19:44:30 | Weblog
かぜ・・・
誰が風を見たでしょう
 わたしもあなたも見やしない
 けれど木の葉を震わせて風は通り抜けていく

二週間も寝ていると色々な事を考えるものである。
「かぜ」って何だろう?
一言では言い表せない「かぜ」に私は興味を持った。

初めの一週間は考えるどころではなかった。
豪兄のコートニーが 夢枕に立った時はさすがにギョッとした。
多分 今年のビクトリア州の大山火事が歴史に残るほど凄いものだったと聞いたからだろう。多くの犠牲者を出したにも関わらず私の豪家族から一人の被災人も出さなかったのはきっと天国の家族が見守ってくれたからだろうと思わざるをえない。

だが、豪州の大火災が鎮まるや否や、私の体内で大人災が起き始めていた。「かぜ」らしい「かぜ」を私はひいた記憶がない。子供の頃は扁桃腺の高熱がひくと「かぜ」は出る幕もない内に引っ込んでいた。咳だけが居残って私を苦しめた。エヘン虫は30年近くも私を悩ませた憎い奴だった。ところが、子供を産んだ後、私の体に何かしらの変化があったとみえ、扁桃腺炎もエヘン虫も全く出てくる事がなくなっていた。

還暦前(早過ぎる!)の脳卒中で常用するようになったエースコールという降圧剤は一日一回朝だけ服用するのだが、副作用には咳と書き記してある。だが、この副作用もなく、私は痺疼痛という最悪の後遺症を受容しても、快適に過ごして来ていた。ところが「今度のかぜ」は最悪で「薬の副作用」としては何も残さずに立ち去ったのに静かに大人しく長年寝ていた「エヘン虫」を持ち帰るのを忘れて行ってしまった。
「忘れ物! 忘れ物!」って叫んだのに・・・
この咳絡みのエヘン虫は 確かに「かぜ」のそれではない。何十年も前に悩んでいたあのエヘン虫なのである。
人間の体の変化とは実に興味深いものである。

「風立ちぬ」・・・若い人は松田聖子ちゃんの歌を思い出すだろう。
♪風立ちぬ 今は秋. 今日から私は心の旅人. 涙顔見せたくなくて 性格は明るいはずよ ...  風立ちぬ 今は秋 風立ちぬ 今は秋.
 帰りたい帰れないあなたの胸に 帰りたい帰れないあなたの胸に.
 風立ちぬ 今は秋 風立ちぬ 今は秋. 今日から私は心の旅人
私だって口ずさむ事の出来る名曲である。

でも「風立ちぬ」と言えば、やっぱり堀辰夫の名作が思い出される。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置くこの小説は、高原療養所とそこから山一つ隔てた村を舞台に、婚約者の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証を模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描いた小説である。。婚約者の死という「私」の痛切な体験を、詩情溢れる言葉の中で昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくるという最高の堀文学である。

「かぜ」という言葉「先輩かぜ」とか言うように他の名詞に付いて、そぶり、ようす、わざとらしい態度などの意を表す。
また、「風が吹けば桶屋が儲かる」なんて事も言う。
これは、意外なところに影響が出る事とか、あてにならない期待をする事の例えに使われるのである。風が吹くと土ぼこりがたって目に入り盲人が増える。盲人は三味線で生計を立てようとするから、三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える。猫が減ると鼠が増え、鼠が桶をかじるから桶屋が儲かって喜ぶという事である。何とも遠回しにだが理解できる話で、実に面白い。

とにかく60年に一度の「かぜ」をひいたのだが、これほど色々考える時間を与えてくれた事に私は感謝する。
「風邪」つまり、鼻・喉・気管などのカタル性炎症で、くしゃみ・鼻水・鼻詰まり・喉の痛み・咳・痰・発熱・頭痛・倦怠感などの症状がみられのが「かぜ症候群」だと言われているが、今回私が経験したのは くしゃみ・鼻水・咳・倦怠感であった。結論から言うと「倦怠感」が何よりも最悪だったというのが正直な感想である。

二週間も寝ていると色々な事を考えるものである。
「かぜ」って何だろう?
一言では言い表せない「かぜ」に私は興味を持った。

初めの一週間は考えるどころではなかった。
豪兄のコートニーが 夢枕に立った時はさすがにギョッとした。
多分 今年のビクトリア州の大山火事が歴史に残るほど凄いものだったと聞いたからだろう。多くの犠牲者を出したにも関わらず私の豪家族から一人の被災人も出さなかったのはきっと天国の家族が見守ってくれたからだろうと思わざるをえない。

だが、豪州の大火災が鎮まるや否や、私の体内で大人災が起き始めていた。「かぜ」らしい「かぜ」を私はひいた記憶がない。子供の頃は扁桃腺の高熱がひくと「かぜ」は出る幕もない内に引っ込んでいた。咳だけが居残って私を苦しめた。エヘン虫は30年近くも私を悩ませた憎い奴だった。ところが、子供を産んだ後、私の体に何かしらの変化があったとみえ、扁桃腺炎もエヘン虫も全く出てくる事がなくなっていた。

還暦前(早過ぎる!)の脳卒中で常用するようになったエースコールという降圧剤は一日一回朝だけ服用するのだが、副作用には咳と書き記してある。だが、この副作用もなく、私は痺疼痛という最悪の後遺症を受容しても、快適に過ごして来ていた。ところが「今度のかぜ」は最悪で「薬の副作用」としては何も残さずに立ち去ったのに静かに大人しく長年寝ていた「エヘン虫」を持ち帰るのを忘れて行ってしまった。
「忘れ物! 忘れ物!」って叫んだのに・・・
この咳絡みのエヘン虫は 確かに「かぜ」のそれではない。何十年も前に悩んでいたあのエヘン虫なのである。
人間の体の変化とは実に興味深いものである。

「風立ちぬ」・・・若い人は松田聖子ちゃんの歌を思い出すだろう。
♪風立ちぬ 今は秋. 今日から私は心の旅人. 涙顔見せたくなくて 性格は明るいはずよ ...  風立ちぬ 今は秋 風立ちぬ 今は秋.
 帰りたい帰れないあなたの胸に 帰りたい帰れないあなたの胸に.
 風立ちぬ 今は秋 風立ちぬ 今は秋. 今日から私は心の旅人
私だって口ずさむ事の出来る名曲である。

でも「風立ちぬ」と言えば、やっぱり堀辰夫の名作が思い出される。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置くこの小説は、高原療養所とそこから山一つ隔てた村を舞台に、婚約者の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証を模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描いた小説である。。婚約者の死という「私」の痛切な体験を、詩情溢れる言葉の中で昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくるという最高の堀文学である。

「かぜ」という言葉「先輩かぜ」とか言うように他の名詞に付いて、そぶり、ようす、わざとらしい態度などの意を表す。
また、「風が吹けば桶屋が儲かる」なんて事も言う。
これは、意外なところに影響が出る事とか、あてにならない期待をする事の例えに使われるのである。風が吹くと土ぼこりがたって目に入り盲人が増える。盲人は三味線で生計を立てようとするから、三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える。猫が減ると鼠が増え、鼠が桶をかじるから桶屋が儲かって喜ぶという事である。何とも遠回しにだが理解できる話で、実に面白い。

とにかく60年に一度の「かぜ」をひいたのだが、これほど色々考える時間を与えてくれた事に私は感謝する。
「風邪」つまり、鼻・喉・気管などのカタル性炎症で、くしゃみ・鼻水・鼻詰まり・喉の痛み・咳・痰・発熱・頭痛・倦怠感などの症状がみられのが「かぜ症候群」だと言われているが、今回私が経験したのは くしゃみ・鼻水・咳・倦怠感であった。結論から言うと「倦怠感」が何よりも最悪だったというのが正直な感想である。

誰が風邪を見たでしょう
 わたしもあなたも見やしない
 けれど私の体を震わせて風邪は通り抜けていく