脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

06.34.目に見えない不便で人間、みんな障害者

2006-03-25 09:30:39 | Weblog
 平成13年9月、左脳で被殻出血が起きて右半身不随を宣告されて私は障害社会に足を踏み入れた。そして、あの時から、障害者手帳が私の身分証明書になった。
 脳卒中は癌や心疾患と並んで日本人の三大死因の一つである。それらはかつて成人病といわれ、年をとるとやむを得ない理由で掛かるのだと考えられていた。無論、成人みんなが掛かる訳ではない。そこで成人病の原因を突詰めると、普段の生活習慣が大きなキーポイントになっている事が明白になってきたのである。生活習慣で考えられるのは、食生活や運動習慣、それに職場や近所付き合いや家庭などのストレスであるという事で、成人病は生活習慣病という表現に改められたのである。
 高齢者の門を潜ると、そこは老齢からやがて死計に続く道が用意されている事はどんなに足掻いても避ける事は出来ない。でも、生活習慣病という表現には「運悪く発症したのでない」とか「自業自得だよ」という主張が込められているのである。勿論、遺伝的素因もあるが、この自業自得病は注意という言葉がある程度防ぐ事が出来るのである。経験者が言うんだから、結構信憑性がある筈だ。
 ちょっと、話題を変えて、「障害」という言葉について少し違った面から考えてみよう。
 私はバリアフリー社会を創造するNPO法人BFC(Barrier Free Communications)のホームページに毎月一回エッセイをノーマライゼーションを念頭に置いて書いている。
 還暦を迎えた私の同輩仲間の殆どは今も生涯お嬢さんや万年青年だが哀しいかな他界した惜しい仲間も少なくない。私の周りでこれまであまり身近に聞く事がなかった病気がままある。ある著名なご婦人の娘さん(私の幼友達)の夫が40代前半の若さで癌で亡くなったと聞いた時、涙も出ない程驚いたが、かつてハワイ旅行を一緒に愉しんだ学友が50歳になるかならないかで肺癌で他界した時は涙が枯れる程私は嘆き哀しんだ。癌とか心臓病とか脳卒中はよく耳にする病名だが、最近、大好きな素敵な女性の一人が夫の膠原病に悩んでいる事を知った。もう一人の可愛い女性は多発性末梢神経炎という聞きなれない病気と連日連夜闘っているのを知っている。まだまだ無知で発展途上だと自称する私にしてみれば、奇病持ちの筆頭は私の友人である。彼女から鐙骨麻痺(2005年ブログNo.30)なる病名を聞かされた時、「アブミ骨?」と私は怪訝な顔をしてしまった。「どこの骨?」とつい聞いてしまった。説明されてもいまひとつ何とも不可解で、図書館で必至に学んだ記憶がある。
 人に知られていない病は沢山あるが、人には見えない所にある障害も沢山あるという事だ。内臓に障害がある人は無論、健常者といわれる人も疲労などで俄か障害者になる場合がある。こうなると人間、みんなが夫々に障害を持っている事になる。障害者手帳を持つ人が便利に感じる事は健常者にとっても使い易いのではないだろうか。トイレといえば、かつては薄暗くて汚くて厭な臭いがしてなるべく利用を控えたものだが、最近ではかなりお洒落になってきている。消臭だけでなく消音装置もよく見かける。だが、多目的用トイレは普通より明るくて誰にも好まれる筈だという事に気づいている健常者がどれ位いるだろうか。障害者用などサインを明らかにしないでも、老若男女を問わず一寸その日一瞬でも不便を感じている人が手すり完備の広いトイレが使えたり、優先席に座れたり、心おきなく事が運べたら、ノーマライゼーションという言葉を殊更ながら敢て取り上げる必要もなくなるだろう。

06.33.ケセラセラ人生はユーネバーノー!

2006-03-22 07:36:25 | Weblog
 成人した娘と息子が同じ時期に海外旅行に出るのは初めての事である。だが、確かに二人が日本不在というのは二度あった。息子が留学していた頃、大学最後の年に娘は話の種にニューヨークのクリスマスが体験したくて年末に渡米した。また、その直後、彼女は一年間シドニー滞在の予定で渡豪した事実はある。今回、海外渡航というのは観光目的の事を言っているのである。 
 息子は午後になって友人と台湾に出発した。そして娘は友人と二人でその夜、ゴールドコーストに向かった。二人とも障害者の母親に二歳のダックスフンドを預けて意気揚々と成田から出国したのである。残された私は嬉しかった。私を不便な障害者だと思っていない。無論、去年還暦を迎えた私は高齢者ではない。彼らにとって私は普通以上に面倒見のいい母親という人間でしかないのである。幾つになっても頼れれるのは気分のいいものである。
「買い置きのコンタクトレンズは何処?」
「はいはい、ここよ」
「サングラスは何処?」
「はいはい、そこよ」
いつまでも自分が必要な存在だと自覚する事はとても幸せな事である。
 もし、地震がきたらどうする? もし、テロが発生したらどうする? もし、事故にあったらどうする? 天地に異変が起きても、もしかしたら障害者の私だけが生き延びるかもしれない。正にケセラセラでユーネバーノー!である。(記3月18日)
 
 今日、3月22日の朝日新聞朝刊の「声」という読者の紙面では「海外渡航自由化」の特集を組んで、そこに私の投稿文も載ったのである。昭和39年4月に自由化に踏み切った時は観光目的の渡航は年一回限りで持ち出し外貨は500ドルの制限があった。その年の9月、東京オリンピックを前に留学目的で渡豪した私が手にしたパスポートは故椎名悦三郎外務大臣の署名がある紺の皮製だった。
 英語というハンディを持って飛行機(ジェット機でーしたよ!)に乗り込んだ私は言葉の壁も不便も全く感じていない呆気らかーんとした十代の小娘だった。まして不便を障害だなんて思うわけなかった。
 障害社会に首を突っ込んで一番よく解った言葉は「不公平」である。世の中に不公平があるからこそ公平がある、という話は以前記した事がある。不便があるからこそ便利という言葉が使われるのである。という事は、障害は何処にでもあり、誰にでもあると言える。
 大きな二人の子供がいつまでも母親を扱使い?甘えては我侭を言うのだが、これが結構、私の活力を奮い立たせてくれている。人間関係から言うと、我が家は無論、いたる所が私流バリアフリーで、敢えてノーマライゼーションという言葉は使う必要がない。これは恐らく私の口癖を頑なに守る二人の子供に感謝するべきなのかもしれない。口癖はアイ・ドント・ノー、アイ・ドント・ケアーである。一見、不親切な「知らない、気にしない」とい訳すこの二つのフレーズは私が留学時代、豪州人母のグエンが頻繁に言っていた言わば彼女の口癖である。無関心を装う彼女は実は口とは裏腹で本当はとても私の事を気遣ってくれていたのだ。彼女の口癖は私に自覚を持たせ、それはやがて自信に繋がっていくのであった。私自身が母親になった時、私は知らない内にグエンの口癖を自分のものにしていたのだ。
 我が家の海外渡航自由をフルに活用した二人の子供達が昨日、相次いで帰国した。留守宅を護った私と愛犬テトには夫々、嬉しいお土産が渡された。二人はホント、夫々で、勝手知ったる豪州から帰国した娘のお土産は近所のスーパーで買ってきてくれたような貴重品!で、初めて祖父縁の台湾に趣いた息子は空港で買い求めた貴重品だった。

06.32.人間学の上にある医学

2006-03-19 07:15:23 | Weblog
 本当の医学は人間学だと思う。
 最近「白い巨塔」というテレビドラマがアメイジング・グレイスのテーマ音楽をバックにリバイバル化した。一般人にしてみれば、医学会での外科医は最高峰と言っても確かに過言ではない。心臓を、肝臓を、脳を、何十年も診てきた医者は確かにその知識と技術を高く評価されるのである。
 今、巷では在宅医療という言葉が右往左往している。リハビリで病院に毎日のように顔を出すと大勢の入院患者に出会う。彼等は異口同音、退院の日が近づくと誰もが嬉しそうに語る。住み慣れた家に帰るという事は誰にも好ましい事なのである。設備の整った、冷暖房が完全な素晴しい建物でも自宅に勝る場所は無いのだ。自宅が立派とは限らない、光熱費を考えながら電源を入れたり切ったりしても自宅がいいのだ。住み慣れた我が家には自らの歴史があるから・・・
 一つの病院で権威ある医者より色々転移してきた医者は様々違う患者に会う。色々な人に出会うという事は色々な人間関係に出会うという事である。
 人という字は・・・と始めるとテレビの金八先生を思い出す人は大勢いる筈だ。二画の人という字をじっと見詰めていると色々な事が考えつくものである。先ず一画が外れると二画目が倒れるのは明らかだが、最初に二画目が外れても一画目が落ちるのも確かな事である。では、という事で二画目に突っかえ棒を付けていくと崩れる事はなく、それをどんどん続けると網の目のようになっていくのである。人と人の間には細かい網が張り巡らされていくわけだ。
 漆塗師の姉の仕事場で極細の篩を見た事があるが、私には網ではなく繊細な布のように見えた。しかし、姉がその篩に粉を入れて揺らすと見えないような穴から細かい細かい粉が落ちる。そして、篩の中にはゴミとは思えないような細かいカスが残っていた。
 人も出会いが多ければ多いほど、人間の網の目が細かくなって不用な人はいないという事を実感するのではないだろうか。
 明治生まれの実父は入院1ヶ月後に病室で混沌とした状態で酸素呼吸器を付けたまま84歳の生涯を閉じた。入院前に、その父が「素晴しい人生だったよ」と私に語った事がせめてもの慰めとなったのは否めない。それより遥か以前に、90歳を超えていた慶応生まれの義祖母は自宅の畳の上で静かに息を引き取った。京都祇園の自宅は料理屋を兼ねた建物で、当日も義祖母縁の客人が来ていた。自らが出演する歴史劇の主たる舞台は自宅だという事である。
 このように考えると家族とかご近所さんという人間の網が張られた在宅医療は正に死計に入れる資格は充分にある。
 生まれてくるのは一生にたった一回だけ、勿論、死ぬのも一回だけ。ならば、悔いの残らないような逝き方をしたいと思うのは当たり前の事である。生まれてから、失敗は何度もやり直しが出来るが、死ぬのは正に一回限りでやり直しは出来ない。それは五体満足であろうと不満足であろうと、健康で便利な身体の持ち主でも障害者で不便な身体の持ち主でもみな同じなのである。僅か足掛け5年という短い障害者生活の経験者だが、私という本人が思うのだからこれは本当の話である。

06.31.社会人と会社人

2006-03-18 05:27:36 | Weblog
 最近、ちょっとTVの画面から遠ざかっているジョージ・フィールド氏というオーストラリア人をご存知の方は大勢いると思う。日本人より流暢な日本語を話す豪州人である。私が留学以来、頻繁に日豪の間を行き来している頃、日本にドップリ浸かっていたとジョーク交じりの会話が弾んだ事がある。つい数年前、フィールド氏が日本社会に於ける社会人と会社人なる人間を語っていた。なるほど、色々な言葉を駆使して生きてきた人間は言葉遊びが実に上手だ。
 日本人である私は是非とも日本社会に於ける自分を考えねば、と思った。
 オギャーと生まれ出てすぐに家族という仲間に迎え入れられるのは家庭という社会である。公園デビューとやらで幼児社会、幼稚園という園児社会、小学校、中学校、そして高等教育の場、といった具合に学生社会が誰もの人生の半分を先ず占めるのである。
 自ら振り返れば、小学校低学年の頃まで私は母の手が届く社会で屈託ない生活を送っていた。母は率先して末っ子の私の為にPTAの役員を引き受けていた。近所の公立小学校には役員だけでなく連日のように近所のオバサンがやってきていた。おとなしい男の子の両親は和菓子舗を営み、季節の菓子を自転車に載せて職員室に運んできた。ヒイキだのゴマスリという言葉は殆ど聞かなかった。「季節を愉しんでください」という純粋な気持ちからのオバサンの行動は誰もが頷いていたのである。その事がきっかけで男の子が虐めにあうなどの行為は全くなかった。何時の日からか、大袈裟に言うと学校と家庭の関係がギクシャクしてきた。距離ではなく本当の意味での関係が妙になって来たのである。
 自分の子供が通っていた逗子の海辺の学校でもそれを感じたのは否めない。かつては若布の時期がくれば生若布が、芽昆布が、干し若布が、学校に運ばれたという。初鰹はその昔は鎌倉の八幡様に献上されたが、寺子屋が学校に変わっても逸早く恩師に配られたという。ここでも何時の頃からか、贈る事も受け取る事も罷りならんという風潮が蔓延るようになった。何とも味気なく、侘しい現代である。鎌倉の中学ではPTAの事を親師会と呼んでいる。何といい感じの呼び名である。あの学校には様々な家庭から子供達が通って来ていた。商人、職人、お寺さん、文化人、勿論、医者も弁護士もサラリーマンも・・・親の職業は色々だが、先生はみんな師と仰ぐ人物である筈だ。そんなほのぼのとした関係が最近は全く薄れている。
 しかしラッキーな私は自らの子供時代は昭和の良き時代の最後を経験したようで、子供達の学校生活では湘南の地でまだ残っている良き親師関係に触れる事が出来たのである。
 社会人になってから、私も会社人生活を十数年経験した。会社という枠に自らをはめ込んで社会人として生きるのはエスカレーターに乗ってしまったようで、時には自分を無視しなくてはならない事もある。最近の風潮と違ってかつては「サラリーマンは気楽な家業・・・」と流行歌にもあったように大企業の傘の下は比較的安心だった。沢山の人の中から企業をバックに出世するのも夢ではなかった。名刺を出せば何でも通ると言っては過言かな? ただ、難問は自分の勝手気侭はダメだった。
 自由人仕事人間になってから十数年、障害社会に突然、私が身を置いたのは企業から離脱した社会で一般人として復帰する事が出来た喜びは何とも嬉しい事だった。自分なりに送ってきた人生が社会人として過ごした時期、会社人として活きていた時期、そして今再び、社会人として第二の人生を送る事が出来る自分は幸せ者だと、実感している。児童、学生という時代の社会を巧く活きるという事は、続く会社時代を上手く過ごし、自ら高齢社会を迎えて美味く生きる事が出来るに繋がるのである。このエスカレーター人生がうまく作動していくには人間という生き物をじっくり考えたらいいのではないだろうか。私なり人間学に、乞うご期待!

06.30.日本付近の自然と私の痺れ

2006-03-14 06:07:33 | Weblog
 血液の循環が悪いのか、血管が細いのか、どちらも以前診断の結果として言われた事だが、私は夏でも寒暖の大きな差で指先が蝋人形のそれになる事がある。だが、右の指先は不随を宣告されてからは一度もそれが表面化はしていない。そして左の健指は青白く変色してからの回復が極端に早くなった。何故だろう? 
 今までは寒暖に左右されるんだ、と思ってきたが、低気圧がキーファクトなのかも知れない、と最近は特に思うのである。
 気圧とは本来、気体による圧力の事をいうのだが、空気の圧力だと思えばいい。日常生活においてはあまり感じないが、空気にも重さがあるので人間はいつも空気に押されていると思えばいいのだ。気圧が変化した時、その変化を感じ取るのに飛行機の中を考えてみたらどう? 機体が急降下したり急上昇した時、耳の鼓膜が変になるのは多くの人が経験しているだろう。気圧は結構大きな圧力で人間を押すが、我々もまた同じ大きさの圧力で内側から押し返しているので潰れる事はないが、急に変わったりすると体の対応が遅れるというわけで鼓膜の圧力が外と内でつりあわなくなるのである。この時の気圧の変化が人間の体に連鎖反応する一番説明し易い変化だと思えばいいだろう。
 高い山の上では空気が少ないので気圧が小さく、海面では空気の量が多いのでぎゅっと詰まって気圧が大きい。気圧は水圧と同じ様に物体を押し潰すようにあらゆる方向から働くのである。
 世界中で日本付近は急速に発達する爆弾低気圧と呼ばれる温帯低気圧の発生が最もよく見られる地域で、それは偏西風などの動きで生まれた渦がきっかけになっている。北の寒気と南の暖気の温度差が発生源である事は確かである。寒気と暖気の境目では大気が不安定になって雨を降らせたり雷が発生したり突風が吹いたりする。
 赤道付近の豊富な熱エネルギーによって暖められて海水が水蒸気になって上昇して発達する熱帯低気圧は温度差で発達したものではないので前線はなく、発達すると台風になるわけである。
 急に発達した低気圧は大きな震源のエネルギーによって引き寄せられる可能性があるらしい。北方向など普通と違う方向から来た低気圧には要注意という事だ。震源があってそれに向かって進んでしかも震源の大きさに合った低気圧だと、衝突して地震が起きるというわけである。
 私の右半身が震源でもないのに、発達した低気圧は眠るライオンを起こすように、私の痺れを揺する。自然界の厄介な動と私の右半身の折角の静の境界線では私地域の大気が不安定になって、突然、ガンガン、ビリビリ、痺れが最高潮になって行くのである。
 3月11日早朝には季節抜きの経験が私の体の中で起こった。テレビの画面で、時々氷の部屋が紹介される事があるが、中では冷たさだけが映し出されるのが通常である。現実に私を引きずり込む部屋はかなり変わっている。鉄が溶ける溶鉱炉の中に突然、ドライアイスという招かれざる訪問者が電動ハンマーを片手に舞い降りてきたような最悪の状態に気付いたのである。予期せぬ急変に私の痺れがついて行ける筈もなく耳の鼓膜のヘンと同じ様にここでも究極のヘンが生じたのだ。簡単に言うとシンメトリーが保てなくなったのだ。これもやはり、地球を相手に大暴れする低気圧の悪ふざけのせいなのだろうか。

06.29.遊びとか余談ほど素晴しいものはない!

2006-03-11 06:14:18 | Weblog
 遊びと同じで人間にとって余談もまた、豊かに生きていく為には必須と言える。きつい仕事の後のとっておきの愉しみには人夫々様々である。
 所謂、キャリアー・ウーマンを自ら目指していた頃、煙草をふかす格好が何とも素敵な上司がいた。自分は喫煙を好まなかったが、彼女と煙草のコンビに憧れたものである。普通だったら、女性の身で鼻から煙を出すなんて、と眉をひそめたくなる筈だが、彼女は違った。仕事の話で彼女のデスクの脇に立つと「ちょっと待ってね!」と言って、煙草を口から外し、私から顔をそむけて鼻から煙を吐き出し、シガレット・バッツを灰皿に揉み消す。その格好がスーツ姿の彼女を憧れのスタイルにしたのである。後にも先にもあの上司ほど煙草の似合う女性はいない。
 私の家族は皆結構酒豪揃いである。亡き父はその筆頭だった。彼は三度の飯よりビールが好きという男だった。そうかといってビール腹の親父ではなかった。昔ながらのロマンスグレイ(古い!)で明治生まれながら、バーバリーのコートを着てパイプの似合う人だった。それならばスコッチがピッタリだろうが、彼は何よりビールが好きだったのである。明日の活力の為にと言っては毎晩、午前様のお帰りだった。父にとっては仕事帰りのバーは最高の遊びだったのだろう。
 逗子マリーナにいた頃、早朝に犬の散歩に出る事があった。妙な時間にもよおしては懇願されて否応なしに外に出たのだが、マリーナの入り口近くがいつも賑わっていた。モダンなマンションの入り口付近は昔ながらの漁村そのものだった。海からぞくぞくと漁船が戻ってくる。市場がわいわい騒がしくなる。あたりは真っ暗で裸電球だけが異様に人の手を照らす。ある漁師の女房が言った。
「急がなくちゃ!」
「何を?」
「家に戻って食事の用意と風呂の用意、それから子供の世話!」
働き者である。漁師の家族は実に働き者だ。朝の食事は活きのいい魚貝の贅沢なご馳走で酒も出すという。そして朝8時には就寝だそうだ。だが、女はそうもいかず、子供を学校に送り出した後は主婦の仕事をこなすらしい。凄い!あっぱれ! 
「お母さんの遊びは? お婆ちゃんの愉しみは?」
「朝、獲ってきた魚を即、さばく事かな!」
漁師の家庭からも大勢の子供が私の主催する子供英語教室に通ってきていた。
「先生様、今朝、獲れた魚です、活きがいいからすぐ食べて!」
漁師の子供達は学校の勉強よりも私の所の英語の出来よりもイカの皮剥きが巧かった!
 余談も遊びと同じで、人の脳に埋蔵貯蓄されて人間を大きく育てるものである。だから、私は余談が好きだ。習おうと思って習得した知識は簡単に忘れ去られても、余談として自然に脳にインプットされた知識は何時と言わず、始終、口から耳へと出入りするのである。
 半身不随の私は遊びと余談をこよなく愛するが故に楽天家にもなれるのかも知れない。
 現在の私にとって確かに余談に匹敵する人生の項目が少なくとも三つある。これらの遊びは今や主役になってきている。ひとつは勿論、英語を駆使しての仕事、もうひとつは最近見つけた音楽セラピーへの参加、そして執筆という遊びである。
 私のブログを愉しみながら読んでくれている皆さん!一緒に喜んで下さい。去年の『第二の人生に嬉しい期待が』と題したエッセイに続いて、今年も『痺れと闘いながら言葉の甦りを実感する私』と題して言葉をテーマに綴ったら、5月の脳卒中週間を前に社団法人日本脳卒中協会から表彰されちゃった! 嬉しいな! 仕事も愉しく、遊びは無論愉しく、私はやっぱり幸せ者だというのが結論である。

06.28.ペーパームーン!

2006-03-10 05:25:08 | Weblog
 脳卒中や心筋梗塞の患者から1滴の血液を採取し、僅か80分間で治療に使う抗血栓薬の最適量を判定する装置という画期的な発表を朝刊(06・03・04)に見つけた。患者一人ひとりの体質に合った治療を可能にする装置で、副作用が問題になっているリューマチ薬や抗がん剤などにも応用できる可能性があるらしい。4月から一部の病院で使用を開始するというが、一部の病院ってどこ? まあ、研究が東大医科学研究所だから東大病院では使うのかな? この抗血栓薬「ワーファリン」は、血の塊(血栓)ができにくくする働きがあるので血管が詰まる病気の治療に幅広く使われるという。ただ、体内に長時間とどまると、鼻血、内出血のほか、脳出血などの副作用を起こす恐れがあり、適正な投与量は患者によって大きく異なるのだそうだ。
 東大の教授らは、血液の凝固や代謝に関係する二つの遺伝子を調べ、その違いが、ワーファリンが少量でも効くなどの体質の違いにつながることを突き止めたのである。教授は「判定時間を短くできれば、もっと患者に役立つ」と話している。日本の研究者の優秀さは世界に誇れるが、それを実際に使ってみて経験を積む場が乏しいような気がする。
 宝の持ち腐れという言葉がある。読んで字の如しで意味は簡単に理解できる。では、自分の身辺でこの言葉が使える? 
 世界中の人を魅了したフィギュアスケート、金メダルの選手より4回転を本番でもトライした選手に拍手を贈りたい。「出来るんだ、出来るんだ」と思ってるだけでなく、トライする事が肝心だというわけである。トライしなければ金メダルは夢で終わってしまう。
 ペーパードライバーが溢れていた時代はもう過去の話で、狭い日本も一家に車2台の時代になったといっても過言ではない。ペーパードライバーではいくら講釈が素晴しくてもゴールドカードは貰えない。
 英文法は確かで英単語は万と暗記した、英検は何級、トフルは、トエックは、何だかんだと言っても街で通じる英語が使いこなせなければ、宝の持ち腐れという事になる。日本はこの英語コンプレックスに何年、悩まされているんだ!
 日常の生活の中でもいかにペーパー・・・が多い事か。言うは易すし、は止めようよ!
 医学の進歩は素晴しい! だから、医療の進歩もそれに見合ったものであって欲しい。医者の世界で時折、話題になる事で、安楽死という重大な問題がある。日本では安楽死を認めていない。これには賛否両論あって、明確な答えを出すのはとても難しい。哀しくも植物人間になった人は、本当に心から生きている事実を幸せとして受け取れるのだろうか。命の貴さだけを善しとする医者だけがこの世にいたら、どうなのか。薬だけに頼って生命維持装具をつけて無理に命を繋ぐ。極楽浄土に送ってあげることも、人間らしい行為ではないだろうか。そして、幸い考えて表現する機能にダメージを受けなかった人には体験をもって医学への現在進行形の協力を義務、否、権利と捉えて貰いたいと思う。
 とにかく、一般人としては発表だけで終わらずに実行を急いで欲しい。ペーパームーンは私の大好きな昭和30年代の夢のあるヒット曲で終わって欲しいのである。

06.27.オーラって?

2006-03-06 17:02:58 | Weblog
 草木がますます生い茂ってくる3月は別名、弥生という。3月1週目の週末は気圧の変化が激しいのか私の右半身の麻痺は異常である。東京湾の海岸ではイルカの大群が浜辺に打ち上げられて話題になっている。地球を取り巻く自然が色々氾濫を起こしているらしいが、昨年より11日遅いと言うものの東京近辺では今日3月6日月曜日、今年初めての強い南風、所謂、春一番が吹いた。なるほど、春一番は発達した低気圧が日本海を通る時に吹いて気温が急に上がるんだ、と小学生の頃に習った覚えがある。それにしても私の右半身は実に正直である。発達した低気圧は早々と私の右半身にチョッカイをかけていたのか。
 自然という事では、まず人に嫌われる事がない花を取り上げてみよう。
 生花ほど値段に忠実なものはないと思っている。果物も同じ事がいえる。病人へのお見舞いの品に選ばれたり、献花とか献果とかいって仏前に置かれたりする。だがこれ程、正直なものはなくて値段によって持ちが違う。殊に、暖房の効いた部屋に置かれると忽ち弱ってくるのが生花と果物で、見るも無残な姿になってしまうのである。
 だが、私はここ数ヶ月の間に素敵な経験をしたのである。昨年のクリスマスイブに泣く泣くお別れをしたゴールデンレトリバーの写真の前には華やかな花が始終、彼女を取り巻いているのである。当初、一番長持ちした花は何とタクシーの運転手さんが届けてくれた花束だった。彼は最後の最後まで大きな愛犬を病院まで搬送してくれたのである。そして1月も終わる頃まで最後まで凛として残っていたのは百合の花だった。
 元来、中国や日本は百合の宝庫と言われるが、欧米では格別に好まれてフランスの国花にもなっている。細い茎に大きな花がつくので風に揺れる事から「揺る」が葉や鱗茎が多数重なり合う「百合」に変化した漢名に頷く一方、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と謳われるように美人の姿を形容する花である。切花で1ケ月以上も華やかに他界した愛犬を飾ってくれるとは思ってもみなかった。
 その後、夕方遅くに閉店間際の花屋で買い求めた花束も驚くほど長持ちしたのである。私は所謂、オーラを信じた。オーラとは人体から発散される霊的なエネルギーを意味するのだが、私には昇天した愛犬が発する一種独特な霊的雰囲気を考えずにはいられないのである。彼女は確かに私達にエターナル・ラブを残して逝った。だが、私は3月3日のひな祭りの日に、敢えて生花を供えるのを止める事にした。これからは命日以外は私手製の愛犬のイヤープレートを飾り、素敵でキュートな造花を置く事にした。万が一、愛犬のオーラが遠い天国から届かなくなったら、どんなにがっかりするだろうと先手を打ったのである。生と死の違いを考えずにはいられない私らしい判断だ、と自ら思って苦笑いした。

06.26.たらいまわしって何?

2006-03-02 07:09:55 | Weblog
 あちこちで盛んにたらい回しする風潮があるけど、たらいってそもそも何?「てあらい」という言葉が変化したんだって言うけど手や足を洗う為の容器? 洗面器って言ったら、顔は洗うけど足は洗わないよね。「てあらい」に「お」を付けて「御手洗」って言うとトイレットの事だね。
 若い頃、ビジネスマン対象にアフター・ファイブの英会話を指導していてこんな事があった。30代後半の男性がトイレに行きたくなって、当時20代前半の女の先生に英語で許可を貰うのに難儀していた事があった。そして、無事に用を終えて教室に戻った生徒も交えてトイレ談義に花が咲いたのである。先生は無論、私、当時は日系?それとも中国系?と不振がられて授業中は一切日本語を使わなかったので何の抵抗もなく私はトイレの話題に入った。どうして何の抵抗もなくなの? まあ、一寸聞いて!
 つい先だって記した京都の古寺でのトイレ話を思い出すだろうが、日本では水洗トイレの歴史は長くはない。表現も古くは「かわや」と言ったらしい。さすがに私の記憶の範囲にはない。川屋は川の上に設けた意で家の側に設けた便所をも意味したらしい。便利な場所というわけだろうか! かわやは勿論、便所も今や死語に近い。モダンという言葉が氾濫していた頃はトイレと短縮された外来語が流行っていた。今ではバスルーム、レストルーム、ウォッシュルーム、パウダールームといって列記とした部屋として扱われている。日本に入ってきた英語の順序はどうだったのだろうか? WC、トイレ、ラバトリー、そして何々ルームの順? 
私が若い頃、日本では盛んに頭文字のWCを使っていた記憶がある。Wは無論、ウォーター水の事である。Cはクローゼットで小さい部屋を意味し、密談などで閉じこもるという意味もある。次に登場するトイレは懐かしい響きさえあって最近ではトイレットペパーに使うぐらいである。トイレットルームは元々WC付の洗面所であった。トイレットウォーターは化粧水であって用が終わって流す水ではない! 今でこそ「当たり前!」と笑われるかもしれないが、トイレットの原語であるフランス語では化粧とか服装の意味を持っている。そして、ラバトリー、これは英会話の中では稀に使用するかもしれないが、日常生活に外来語として入ってきてはいないようだ。ラベイボウという言葉がキリスト教のミサの後の洗手式を意味する所から発生したのだろうか?
水洗トイレが極普通になった今、トイレに水を流すのにフラッシュ・トイレットという英語もよく聞く言葉である。ウォーター・トイレットとは言わない。トイレ自体もコンフォート・ステーション(居心地のいい場!)とかリトルガールズ・ルームとかジョン(日本語の太郎花子は英語のジョン・ジルとかジャック・ベティである)とか色々な名称がある。なるほど、これ程、生活に密着した話題は他にはないから、英語の授業には持って来いのテーマである!
今や、トイレの常識はフラッシュ・ウォーターとフレッシュ・エアーである。巧い! 我ながらオチがウマイ! 自画自賛の私は未だに健在である!
さてさて、盥、この見慣れない漢字が「たらい」である。水を真ん中に両サイドに人が立って手を出しているようでその下に受け皿がある。うーむ! 漢字って! 漢字って!感心していたって先に進まないよね。とにかく、かつては張り板と盥はお母さんだけの道具だった。張り板は着物を解体して洗い、糊付けしてはこの板に張って乾かしていた。尤も幼き日の私はお母さん専用の大事な張り板を滑り台にして遊んだ記憶がある。
では、盥回しって? 語源は、仰向けに寝て足でたらいを回す曲芸らしい。私の記憶はお父さんの足で私を回して「ブーン、飛行機!」という遊びの方が確かだ。この盥回しが人や物、更に権利や地位等々・・・ある限られた範囲内で順送りする意味に使われるが、これは日本独特のやり方のような気がしてならない。日本国内で外資系会社に勤務していた頃、日本の大会社によく腹を立てていた自分を思い出す。病院を転々と盥回しにされるとか、派閥内で政権を盥回しにするとか、書類が社内で各課で盥回しにされるとか、あの歴史ある盥は碌な事に使われないのである。
この春は、自立支援法で障害者の生活はどう変わっていくのかに関心が集まっている。無論、私達障害者の社会での事であって、一般社会の健常者にとっては専ら得意の「対岸の火事」というところだろうか。願わくば、盥回しという言葉の出番がないように!