脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

49.今年の五月

2006-05-27 06:49:11 | Weblog
 大型連休で始まった今年の五月は何とも妙な天気が続いている。晴れるんだか? 雨降りなのか? はっきりしてくれないかなあ・・・
 でも、これが五月らしい不順な天候の状態なんだそうだ。
 ところで、日本書紀にもあるが、五月と書いて「さつき」と読ませる日本語は面白い。この月は田植をする月だから元は「早苗月」と言っていたらしい。「さ」という言葉だけで古語では田植を意味する。後に皐月という字が使われるようになったのだが、元々、皐という一文字で「神に捧げる稲」いう意味をあらわす。桜が散った後に咲くツツジは春の花で、今、調度、街はサツキに入れ替わっているところだ。ツツジが終わってから初夏の花、サツキの季節になるわけだ。ツツジ、サツキと似た様な花が咲き乱れるのが続くのでツツジファミリーが他の花々より長い間、人の目を愉しませてくれる事になる。ツツジとサツキの違いがパッと見ただけでは分からないのも無理はない、一族なんだから・・・ 実は、サツキはツツジより一歩遅れるが、一つの枝に異なった色の少し小さな花を同時に開花させるという大きな違いがある。
 人間社会では旧暦だ、新暦だ、と言っているが、自然界は我冠せずで、実に我が道をゆくである。兎に角、五月は言葉と自然と感触がバラバラに思える月である。旧暦五月は新暦では六月から七月に当たり、梅雨の季節である。だから、お天気自体がどっちにいっていいのか分からないのだろう。梅雨の事を五月雨(さみだれ)というが、五月(さつき)晴れ(ばれ)を梅雨の晴れ間だとすぐ分かるのは難しいかも知れない。鬱陶しい梅雨と爽やかな五月晴れをあまりに無関係に捉えているからだろう。
 五月晴れという言葉は何とも清々しい晴天のイメージが強いが、所詮、梅雨時に使われる言葉なんだから、梅の実がなるというように喜ばしい事があるかと思えば、カビが生え出すというような嫌な事もあるのがこの時期である事は仕方ないだろう。
 自然界の天候不順も、人間界の精神不安定状態もこの時期は避けられないのだから、私の死んだ右半身が、このまま死んだ状態で暴れてやろうか、それとも恰も甦らんとばかり大暴れでもしてやろうか、とどっちつかずになってもしょうがないか!?! でも、耐え難い痺れに襲われ、例の小癪な小人、ホムンクルスがちょこちょこ顔を出しては右半身を困らせるのは始末に悪い事である。
 五月は、いずれアヤメかカキツバタ、ツツジにサツキ、名も知らない花まで綺麗に咲き誇るが、太陽も雨も自分の出番が定まっていないのだから、私も右半身を襲ってくる異常な痛痺れに我慢するよりないのだろう。
 私らしい結末を記そうか。こんな不順な天候の中、色々なたくさんの花が美しく咲くが、こんな最悪な季候の中、姉曰く、次から次へと漆の器は出来上がるんだって! やっぱり自然って素晴しい! 冒頭にもあるが、今年の五月は妙で、晴れるんだか雨降りなのか一向に曖昧だが、これぞ本来の梅雨時の天気らしい状態なのかもしれない。それでは、仕方なく、諦めて、人間界から自然界に向けて、ビバ!ネイチャー!

48.最近の傾向:若手医師の脳外科離れ

2006-05-24 05:13:16 | Weblog
 二年間の臨床研修の後に、脳神経外科を自分の専門分野に選ぶ若手の医師が急減しているらしい。つい先日、産婦人科医の激減のテレビ番組を見て、とても深刻な気持ちになったのとほぼ同じような時の報道だった。一般的には産婦人科、小児科、それに脳外科はそれほど高度な治療を求められずに、一寸した誤診で大きな影響が出ると、医師が責任を問われるからだろうと専門家は言う。とんでもない事である。成功すれば持て囃されるだろうと予想がつくような高度な治療の現場を望み、その一方、失敗すれば医師個人の責任は免れたい、とは何たる事! 
 でも、私は個人的にはそんな怪しからん考えを持つ若手医師の気持ちが分からないわけではない。戦後、持て囃された「みんな一緒、みんな平等」という間違った民主主義が色々な所で大きく影響してしまった、と思わざるを得ない。
 民主主義の発祥は何とギリシャだそうだ。ギリシャのアテネの人間は嫉妬深くて、普通より抜きん出た人はみんなで寄って集って叩かれ、粗探しをされ、追放されてしまう、という事を繰り返してきたという事を聞いた。そう言えば、哲学者ソクラテスも死罪を言い渡されて抹殺されている。
 かつての19世紀の英国ではひとりのユダヤ人をみんなで盛り立てて首相にした。大英帝国最盛期の話である。かつての米国も偉い人が出ると、みんなで励まし、応援して、本物の偉人にしてしまう、という傾向にあった。
「民主主義が成功した民族は、たいてい、この嫉妬心が少ない民族である」
ある有識人が言った。小さな嫉妬心よりも、国家と社会全体の事を考える、広い心を持つ国民でないと、民主主義は成功しない、という事である。
 確かに一般的に、アメリカ人は「人の幸福や成功を素直に喜ぶ」という美徳を備えている。一方、日本人は哀しいかな「人の不幸を喜ぶ」と言われ、卑しい嫉妬心が強いとまで指摘される事が多々ある。
 そんな、国家的規模で話を進めなくても、現在の日本社会でがっかりするのは、ありとあらゆるすべての分野に「私も」「私も」という声があちこちで広がる事実である。そして、他人を認めたがらないのは、よく出会う場面だ。人の失敗を大きく取り上げるのも事実である。私はこの事実にプロ意識とアマ感覚が間違って変に融合しすぎて最悪の事態が引き起こされるような気がしてならない。
 私達人間にとって居なくてはならない医師の話に戻ろう。
 患者は医師を信じて自らの命を任せる。任された医者は自信を持って責任を果たす。医学の業界においてその繰り返しが医学の進歩と人間の寿命に繋がる。無論、人の命には限りがあって、医学上の失敗は免れないのも事実である。人間の長い歴史を考えると、先祖も大切、現存の人も大切、それ以上に次代を担っていく人も大切、という事になる。失敗は成功のもと、というではないか。失敗を糧に変えて前進する事が大事だと思う。失敗ばかりを取り上げないで成功談を敢て取り上げると人間には、自信がつき、更にその自信に肉付けしたくなるものである。
 高度な治療を求められずに、一寸した誤診で大きな影響が出るからとか、大きく責任を問われるだろうとか、懸念する医師が多く出てきたら、日本の医学会に進歩はみられなくなる。耳年増は何も女性に限った言葉ではないが、聞きかじりの素人がプロの医者を扱下ろすなど以っての外で、医師の失敗は医学会で責任をとことん追及して、反省を促し、更なる飛躍に繋げていくべきだろう。目覚しい現代医学にどれだけの失敗があって、犠牲があって、現在があるのか、立ち止まって考えたい。
 兎に角、日本人を語るに「人の不幸を喜ぶ」など言語道断で、即、死語、否、死句にするべきだ、と私は思う。
 

47.もしあの時、バッサリ切られていたら?

2006-05-21 04:54:13 | Weblog
 もしあの時、私のリハビリ治療が発病180日目の平成14年3月末でバッサリ切られていたら? 今の私はいるだろうか? 靴型装具も用意していなかったし、電動車椅子もなかった。それより何より、仕事復帰の考えもなかった。
 リハビリ通院を続けながら、私はパソコン操作を自分の二人の子供に習った。一方、元来二本脚で立って歩く動物の筆頭である人間を名乗る私は、療法士付の確かな方法でのリハビリ訓練のお蔭で曲がりなりにも杖を頼りの歩行を僅かでも可能にし、自分の体調を語っては療法士から言葉での指導を受ける事によって母語を再確認してきたのである。
 やがて、人間としての普通の生活に自分なりの自信を取り戻した私は、パソコンで毎日の生活の様子を国内外に発信した。「よかったね、メル友になろう!」「Congratulations!」等などたくさんの返信をあちこちから貰っている内に朗報付の仕事がやってきた。
 この仕事は私にしか出来ないものである! 遡ればもう20年も前から繋がっている仕事である。1984年当時、彼の地の日本領事館でも「どうして?」の質問が飛び交った。大袈裟に言えば、その根源は更にそれより20年前、1964年の私の留学にあったのである。誰も想像出来なかった筈だ。兎に角、相手は豪州国立美術館。仕事は日本工芸のテキスト作成。84年の日本漆芸展の時、私はエキシビション・オーガナイザー、そして個展の主役の漆芸家は何と、私の実姉だった。美術館学芸員、漆芸家、企画展示者そのいづれもが同世代の女性だった。漆の歴史、漆の仕事、漆芸家とのコミュニケーション、講演、マスコミのインタビュー、すべて英語という言葉の分野は私が一手に引き受けたのである。留学先の親は二人共すでに他界していた。その家族はみんな口を揃えて「やっと花が開いた!」と絶賛してくれたのである。私は実の姉と手を取り合って喜んだ。豪州人の義兄達とは抱き合って日本姉妹を讃えた。
 弁慶草科に花月、別名、金になる木というのがあるが、これはかなり大株にならないと花が咲く事はない。この木は幼木の時に穴のある硬貨を葉の部分に差し込んでおくと成長して厚ぼったくなって硬貨が外れなくなる。これを何年にもわたって繰り返すと硬貨がいっぱい付いた枝になってお金がなっているような姿になるのである。
 金のなる木よろしく、私の仕事の花はあれから20年経って、障害者の前で再び見事に開花したのである。僭越ながら、復帰した私という名の障害者がいるからこそ、平成15年末に美術館のコレクションブックに所蔵漆器として現存する漆芸家である姉の漆器が掲載出版され、翌16年にはThe art of Zenという企画展に際して、新に茶道具を購入して貰う事が出来たのである。そして今年平成18年は日豪友好30周年という事でFocus on Japanese Lacquer展に美術館所蔵漆器が展示されるばかりでなく工程説明の英文テキスト作成を障害者の私に依頼がきたのである。
 私の還暦年に友好30周年を謳って私達姉妹の名前が揃って豪州で再び輝かしく取り上げられるという事はリハビリ治療を長く続けて来れたからだ、とつくづく思うのである。リハビリ治療なくして、今の私はいない。二年前の禅展も、今年の漆展も私無しではガラッと変わっていただろう、と言っても過言ではない。彼の地の学芸員博士は「貴女無しでは考えられない」と言ってくれている。少なからずも、日本の伝統工芸を掲げて国際交流のお手伝いをしていると、私は大いに気をよくして自負するのである。
 個人々々のリハビリ治療は各々それなりの価値がある筈だ。それが個人的な価値だろうと、社会的に必須と言える価値だろうと、その違いに関係なく、どれも同じ様に夫々価値ある成果を生む筈だ。だから、リハビリ治療に関して、本人を無視して、他人である行政などが有無を言わせずにカットするのは如何なものか、と声を大にして言いたいのである。

46.改定されたリハビリ保健医療を自分を重ねてみる

2006-05-20 06:16:19 | Weblog
 もし今回の診療報酬改定の実施が5年否もっと早かったら、そう思うとゾッとする。180日では到底私の社会復帰はなかったろう、と思うからだ。それは誰も語れない。私だけが語れる事である。
 私が脳出血で突然、倒れて救急病院に搬送されたのは平成13年9月の秋分の日のことであった。当初、英語での会話だったとはいえ、日本語も徐々に甦りつつある入院生活に退屈を感じ始め、出来るだけ早く出来るだけまともに回復する事に焦りを覚えた私は退院を担当医に願い出た。
 リハビリ病院に通いだして、月日が経つに連れ、私は私なりに自分の機能回復状態や進度が分かり始めてきていた。
 もっと早く、逸早く、リハビリをと一般的に言うが、実際には容易な事ではない。頭がはっきりしていて、言葉も明確であれば幾分かは医者としてやり易いだろうが、すべてが好都合に運ぶわけではない。
 私自身、何故、倒れたのか、分からなかった。太りすぎ? 食べすぎ? 飲みすぎ? 働きすぎ? どれも当たりだが、すぐに後悔したのは太りすぎと飲みすぎだけである。確かに「倒れた」とはいうものの亡き父は飲みすぎは当りでも決して太ってはいなかった。父の転倒の原因は飲んでた上に不注意があった。私の場合は後々分かった事だが、自覚無しのストレスが引き金だったのである。元来、プラス志向なので自覚なしだったのだろう。
 倒れて一命を取り留めた私を待っていたのは右片麻痺と言語不明瞭だった。言語の問題はリハビリ開始を遅らせたのが少なからずも鍵になっていたのは否定出来ない。日赤のリハビリ室も、療法も、療法士も思い出せば鮮明に私の頭には甦る。そして、平行棒を挿んでの直立が不可能だった自分の姿をいやでも思い出す。
 ところが、リハビリ病院に通院を始めて、発病から一ヵ月半にもならない内に立ち上がりは勿論、歩行も可能になっていったのである。それにも増して、言葉の回復には目覚しいものがあった。リハビリ病院では当初、時折、母語が出難くなって英語を使う私に療法士の先生方が面食らっていたのを面白可笑しく思い出す。周りに入院患者や通院患者が入れ替わりいたのもとても有難い事であった。老若男女、様々な日本語が私の周りで飛び交い、理学療法では1対1で日本語で会話をし、作業療法ではお喋りの仲間に参加した。お蔭で昔取った杵柄よろしく、私の母語は見事に甦ったのである。
 つい先日、現状維持という言葉を嫌がる人に出会った。だが、身体的には残念ながら成長期にある訳でもないのだから、現状維持を念頭に置きながら決して後退せず、リハビリ治療によって他の機能の発掘が出来れば最高だと、私は思っている。別の機能を揺り動かすのに専門家である療法士の助けが不可欠なリハビリ治療は私のような障害者にはとても必要な事である。保険診療を必要とする障害者にとっては、突然予期せぬ経済的重荷を背負う事のなった上に医療費の自己負担割合の増額という多額な経済的犠牲を払う事になって、更にリハビリ医療打ち切りでは正に弱り目に祟り目である。

45.先号で私のブログは100号!&先頃台風第1号発生!

2006-05-18 06:04:43 | Weblog
 昨年7月に始めたマイ・ブログが先号で100号に達した。読者の中には1号づつが一寸長すぎるかもという声もあった。でも伝えたい事が一度にいっぱいあるんだから、我慢して! 
 さて、ゴールデンウィークが終了し、ワーキングウィークが再開してすぐの5月9日夜9時に台風第1号が発生した。成る程、ここ数日の痺れの痛みの原因はこれだったのか! 9日の9時では9痛(苦痛)を感じるわけだ! ほんのちょっと無理しただけで右半身が頭のてっぺんから爪先まで耐え難い痺れが死んだ筈の私を占領して、停滞する。そして、死んでも尚且つ辛苦を引き込んでは強引にそれを感じさせようとするのである。喜びとか幸せなら諸手を挙げて(無理か?)歓迎するのに・・・ 兎に角、自然には逆らえないので、痛みを伴う痺れも受け入れるしかない。季節が定まらない内にやって来る台風はとても厄介物で、処置なしといったところである。私が出来る事は、痺れや痛みを少しでも忘れる事が出来るように、何かに夢中になればいいのだ。
 先ず、リハビリに夢中になる事は必至の現状である。リハビリは個人々々やり方が違って当たり前の事である。私は元来、他力本願より自力本願を好む。無論、正確な方法を知った上での事である。
 先日、今年4月から疾患別にリハビリの日数制限が設けられて最大180日でリハビリ医療が打ち切られる事になったのを受けて、これに反対する署名運動を新聞で知った。世界の先進国の中でも日本はかなりこのリハビリ医療が遅れているのは否めない。障害社会を覗いてみると、そして更に我が身を置いてみると、この遅れは明らかに伝わってくる。病という言葉を背負う人は多かれ少なかれ障害、いわば、不便を受け入れてしまったのである。その不便を取り除いたり、軽減したりするのに医療の援助は不可欠なのである。それなのに、何たる仕打ち!
 今回の診療報酬改定で設けられた様々な制限によって除外者にされた人は、例え医学的に必要でもリハビリ医療の保険診療が受けられなくなったのである。
 意識障害や重度の合併症等で、本格的なリハビリ医療の開始が遅れた場合でも原則として発症後最大180日で保険診療が打ち切られてしまうのである。リハビリ医療の継続で回復が見込まれる場合でも、厚生労働大臣が定める除外規定以外の疾患では、一律に日数のみで保険診療が打ち切られてしまうのである。
 私はゾッとした。4年前から始めた自らのリハビリ診療があるからこそ現在の私がいるのである。そして、この四年間で生し得た仕事はリハビリ医療なしで語る事は出来ず、又、私なしでは出来なかった事が多々ある。
 保険診療を必要とする私達国民は、医療費の自己負担割合の増額ですでに多額の経済的な犠牲を払っている。更に、障害の為に経済的に大変になった患者が、打ち切り後のリハビリ医療を自費で負担する事は酷と言うより不可能とまで言い切れるのである。
 リハビリ医療の継続がなければ、それを必要とする患者にとっては生活能力の低下や要介護度の重度化を招く事は明らかだと想像できるのである。介護保険の方では、要介護ではなく要支援を掲げている。リハビリ医療の継続があればこそ、要介護を要支援に変えていけるのではないだろうか。矛盾を感じる私は自らのリハビリ医療を振り返ってみたい衝動に駆られた。

44.「いつか、どこか」ではなく「今、ここで」

2006-05-13 08:51:13 | Weblog
 前回は「現代の若者にちょっと期待が・・・」という事で終わった。一寸とは言ったものの一部の若者にはかなり期待しているのが私の本心である。老いても期待され、尊敬される人は数多くいる。その存在はその影に知識という個々の埋蔵貯蓄があるからだ。若者の場合はどうだろう。貯蓄が浅く、掘り起こされて活躍する場に出逢うチャンスがないのかもしれない。私達、人生の先輩はそんなピカッと光る若者に出会ったら、先ず、誉めて自覚させる事である。誉められるとよい気分になって又、誉められたいと思うのが普通の人間である。
 細い道で人とすれ違う時、ちょっと停止して待つと色々なリアクションに気付く。慌てて通り過ぎようとして転びそうになる人。会釈しながら過ぎ去る人。丁寧にお辞儀をしながら「ありがとう」を口に出して通る人。何事もないように平然と歩く人。憮然とした顔で通る人。文句を言いながら立ち去る人。私は二人目の人の行動が出来れば最高だと思っている。会釈は笑顔同様に万国共通のゼスチャーである。
 若ければ若いほど、この笑顔に会釈の大切さを自然に身に付けて欲しいものである。若いほど照れくささが前面に出てしまう。こんな場面によく出会う事がある。犬同伴の朝の散歩でよく会う女の子がいる。登校中で忙しい筈だが、優しい表情で犬を見詰める可愛い子だ。ある朝、いつもの道が工事中で幅が狭くなっていた。通りすがりに「お早うございます」と挨拶すると少女は微笑んで会釈をした。数日後、再び出会った少女は自分の方から笑顔と会釈をくれた。数週間前まで、赤の他人だった少女は顔見知りの女の子になった。どちらからでもいい、いい事に順番はさほど重要ではない。だから、私は私の方から挨拶の言葉をかけたのである。多感な時期にこのような経験をする事が少女にとっては大切な事なのである。
 障害社会に足を踏み入れる前、言葉のボランティアに挑戦しようと思い立った時、私は恩人以上の愛すべき豪州人、グエンの言葉を思い出していた。私が感謝の気持ちを彼女に伝えようとした時グエンは言った。自分以外の人でもいい、偶々あなたの目の前にいる人が援助を求めていたら、その人に今のあなたの感謝の気持ちを向けなさい、と言った。又、「どう、恩返しをしたらいいの?」とグエンに聞いたら、彼女は答えた。今でなくてもいい、恩返しは自分に、とは限らない、と言った。
 だが、障害者になった私は還暦を迎えて、考えが変った。「いつか、どこかで」は止めにしたのである。今の60歳は未だ未だけど、でも、現実には確かに高齢者予備軍という名は免れない。だから「今、ここで」が大切なのである。生涯障害現役人生を生き抜いた父はやっぱり逝ってしまった。私は彼にもっともっと色々教えて貰いたかった。だから、私はマイ・ブログを小さな冊子にする事にした。
 私は偉大なトルストイにはなれないから「人生の唯一の疑いのない幸福は、他人のために生きることだ」とは言い切らない。でも、せめて、今している事、今考えてる事を誰かに伝えて、誰かを喜ばせる事が出来たら、何らかの価値があると思えるのではないだろうか。今を大切に。明日は明日の風がふく、というではないか。いつと言わずに、明日は今になるまで待ったらいい。どこでと言わずに、ここで活動開始を試みるのが大切だと思う。
 トルストイの言う「人間が幸福である為に避ける事の出来ない条件は勤労である」というフレーズを思い出した。そして、私は経験から「人間は幸福である為には自ら起こすべき行動がある」と思った。偉大な人の名言は大切な事に気付かせるものである。

43.みんな夫々に不便という共通語の障害を持っている

2006-05-11 06:49:08 | Weblog
 先日、ある申請に関する話で、区の障害者の仕事に携わっている職員を訪ねた。以前から顔見知りで、一ヶ月ほど前にスタートした区の新体制にちょっぴり戸惑っていると言う職員は若いが、その道では結構ベテランだと私は思っている。彼女の手際の良さがよく物語っている。役所全体で外来者も然程多くはいなかったので、ほんの僅かお喋りの時間を持った。
 右手が不自由な私の為に職員は多分利き手の右手を使うと便利だと思う部分を手伝ってくれた。彼女は土地柄、時折、英語で色々質問されて困惑する事があると言う。私は極近所なのだから雨が降っていない限り、役所の最上階から玄関脇の総合案内に駆けつける位の時間で車椅子なら、馳せ参じる事が出来るからいつでも連絡して、と笑いながら携帯の番号を教えた。
「ホントに必要な時だけね!」
「勿論!」
相変わらず爽やかで屈託ない、とても好感が持てる職員である。
 この区役所の支所が入っている建物のエレベーター内では、その時その時折々、様々なノーマライゼーションの実態を見る事が出来る。無論、現在の私は障害者の立場から見るのである。便利を実感していなかった数年前も、不便を悉く感じる現在も全く変らずに、この正常化という考えが、先進国日本では未だに、人間のきわめてありふれた行為に現れてはいない、と痛感するのである。
 ノーマライゼーションとは高齢者や障害者を施設に隔離せず、健常者と一緒に互いに助け合いながら暮らしていくのが正常な社会の在り方であると考え方を意味するのである。
 確かに、高齢者とごく普通の人間の間には年齢という差が境を作っているが、障害者にはその差というものが如何なる定義をもって判断できるのだろうか、疑問である。不便は本人が感じる事で、他人がとやかく言う事ではない。
 狭いエレベーターでは、時折、私には「まずい事になる」という予感がよぎる事がある。そして、得てして予感が命中してガッカリする。狭いドアの片側に精一杯、体をくっ付けて「ドアを開けておきますから、出て下さい」と実しやかに言う。そして、私は心の中で言う。これは年配の女性によくみられる行為である。「あなたが邪魔なの! ドアを開けといてってお願いしたわけじゃないの」でも、ドアと一体になったつもりの人間は続ける。「早く! 出られるでしょう? 出られない? 大丈夫よ!」私は更に心の言葉を使う。「違う、違う、あなたの体がバリアフリーを遮ってるのよ! 気付かない?」
 エレベーターを使用する時、通常は直進して中に入るのでドアが背中に来てしまう。たった一人なら、或いは健常な盛年と乗り合わせた時なら、私は電動車椅子のスピン操作を利用して一回転する事が出来る。反対を向いたままで目的の階に来てしまうと当然バックで降りるので感覚の利く左側の肩越しに後を見ながら進むわけだから、周りに注意しながら後進する事になる。こんな時、前出のような人は気付かず、往々にして左側に立っているものである。
 エレベーターなどという便利な物は、短く感じても、ある程度、普通の動きを容認する時間は察知するように出来ている筈である。かつて健常者を誇る身だった頃、それでも幼児二人を抱えてエレベーターを使用した時は「すみません、ありがとう」を連発して我が身の行動を優先して貰ったものだ。あんな時は正に「みんな夫々に不便という共通語の障害を持っている」で、私は不便という障害を抱えた五体満足健常者だったのである。
 だが嬉しい事に、同じ日本人として、この長い歴史を持つ国の中で、優秀だと長い間言われてきたこの国民に、近年、相反して悲観してきた事は否めないが、私は障害者というレッテルを貼られた今、次代を担っていく若者には微かな期待が持てるようになってきたような気もする事実がある。次回、是非、私がどんな所で、どんな風に、僅かでも期待が持てるような気がしているのかを述べてみよう。

06.42.ゴールデンウィーク真っ只中に!

2006-05-06 06:11:03 | Weblog
 久しぶりに映画を見に行った。
 風薫る新緑の5月、本来なら自然とたっぷり戯れたいこの時期にどうして敢えて選んで、暗い映画館に入ったのか、理由は勿論ある。障害者の私は、多くの人が多分アウトドアーを愉しむだろうと思い、混雑を避けて映画を選んだのである。もう一つの理由はゴールデンウィークにある。GWは和製英語の筆頭で、正月興行やお盆興行よりヒットした娯楽映画の上映がこの時期だったので、映画会社の専務がその時に使った造語である、という事を以前から知っていたので、何となく行ってみたかったのだ。
 昭和20年代の、その時の映画は社会と家庭からの解放を求めてルンペンの群落に入った一人のサラリーマンあがりの四十男が、初めて接した別世界や人間像にふれ、そこに真実の生き方を見出してゆく、というものだったらしい。
 私が選んだのは「戦場のアリア」:第一次世界大戦中にフランス北部の前線で起こった実話を映画化した感動ものである。フランス軍、スコットランド軍、ドイツ軍によるクリスマス休戦と兵士の交流が描かれている。戦死した仲間を葬るのに、イエス・キリストが誕生したその日を選び、そこで心温まるヒューマンドラマが自然に織り込まれていくのはヨーロッパに語り継がれる実話だからこそ感動を呼ぶんだ、と思った。
 戦争をテーマに作られた映画は悲劇的で、日本映画などはとても悲惨になりがちで楽天家の私には、元来、向かない筈だが、「戦場のアリア」は敵味方、共に同じ人間として尊重する騎士道を感じさせる時代を背景にした素晴しい物語だ、と思った。指揮官は面子を前面に押し出し、敵に勝利する為に兵士の戦意をあおっては戦闘の中に送り込み、兵士も単なる任務遂行の為に懸命に戦うのである。だが、ふと我に返ると、前線で身も心もボロボロになった者の中で戦いを望む人間は敵味方、誰ひとりもいないのだ、という尊い心が強烈に伝わる映画だった。
 フランス語、ドイツ語、更にスコットランド英語、と違った言葉の不自由な坩堝の中に心の言葉の尊さをマタマタ感じ取った私である。

06.41.みんな違うの、夫々違うの

2006-05-03 08:37:40 | Weblog
 再び、私のブログにトルストイ登場!
文豪曰く、人々は自分がその原因をなしている事を知らずに、他の人々の苦悩に同情しているものだ。
 不幸にも青年は事故に遭って両足を切断した。若くしてそんな悲惨な事故に遭った人に出会うと、人は「不幸にも」という言葉を使う。「不運にも」という言葉の方が本人にとっては響きがいいかも知れないのに・・・ 運とは? 運とは、人間の意志を超えて一身上に巡る幸・不幸を支配するものである。運がいいとか、悪いとかは他人にも判断出来るが、幸せか不幸かは本人だけが語る事が出来るのではないだろうか。
 自らの両親を振り返って語れば、母は無言で逝ってしまったので分からないが、父ははっきりした口調で言った。
「幸せな人生だった。ありがとう」
娘に、様々なエピソードと色々な言葉を残した明治の男だが、父の最後のこの言葉を私はいつも思い出しては、今でも指南役を買って出てくれるのに気付く。
 70歳で不注意にも転倒して両足の機能を失った父は、車椅子をお供に悠に干支を一周してから、他界した。
 古希を迎えて以来、不自由な生活を余儀なく強いられた父は娘との、孫との会話をたっぷり愉しんだと常日頃から言っていた。言葉とは、斯くも便利なものかと父が教えてくれたのである。盛年を誇っていた頃の父は殆ど家には寄り付かなかった。昭和の良き時代の典型的な社会人だった父は会社人と娯楽人を自分だけの器に載せて人生朗々と歩んできた。
 そして十数年間の車椅子生活を彼は「幸せだった」と表現したのである。娘としてこんなに喜ばしい言葉はない。人は言った。親族は言った。
「もっと介護に専念してあげたらいいのに・・・」
「気候がよくなったら、連れ出した方がいいんじゃないかしら・・・」
勝手な事を口から出す人達に私は言った。
「本人がこれでいいって言うんだもん」
そんな私は顰蹙を買う事もあった。非難すら浴びた。でも、父は「気にするな。お父さんがこれでいいって言うんだから」とはっきり言っていた。父はむやみに遠慮する人間ではなかった。父は人知れず耐える人間でもなかった。私は父の言葉を素直に受け入れていただけである。二人三脚、仲良く上手くやってきた姉ですら「お父さんの事、もうちょっとやってあげなきゃね」と言う事が時折、あって犬も食わぬ?姉妹喧嘩になるのであった。
 余計なお世話という言葉がある。英語にもマインド・ユアー・ビジネスという言葉がある。相手が「ありがとう」とか「サンキュウ」とか、極自然に感謝の言葉が出る行動を取りたいものである。
 余計なお世話どころか間違っても、有難迷惑と、思わせたくない。有難みはみんな夫々に違うのだから・・・