脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

147.春爛漫、桜の季節に想う

2007-03-31 08:43:43 | Weblog
 タイトルに使った「爛漫」は春特有の言葉で「花が咲き乱れている様子や光り輝く様子」を思い浮かべて桜に重ねたくなる。
 そこで、ドリーマーでありながら結構リアルに敏感な私はリサイクルを考える。桜を見てリサイクルとは現実派以外の何ものでもないと思うが、現実から色々夢を馳せると再び戻ってくる時には正夢ということになるという訳である。リサイクルは何もゴミの再生ばかりではない。re 即ちリサイクルのリは再びという接頭語で古くは古典フランス語、ラテン語、そしてご存知、英語で使われるが、今では日本語でも広く使われるようになってきている。リサイクル、リダイヤル、リハビリ、など等いっぱいある。サイクルは循環でそれを繰り返すということだが、桜は待ち遠しく人の心をハラハラウキウキさせるが、命果てる時は人をガッカリさせる。だが、1年経てば再び開花する。
 今、日本中の、いや世界中の人々が異口同音に自然環境と自然循環を唱えているが、自然と共に生活し、更に早くも平安時代に、いやそれより前から日本人は文芸理念や美的理念に目覚めていたということが、歴史上からも分かる。桜をめでる心の奥でそんなことに 次回は触れてみたいと想う。

146.障害センターでの今年度のプログラムを全て終了

2007-03-28 20:54:04 | Weblog
 3月最後の木金は第5週になるので、今日で平成18年度のプログラムは全部終了した。私なりに色々振り返ってみてひとりだけの反省会を帰りの車中でやってみた。障害者センターではOT療法の他に、リズム体操、音楽療法、それに絵手紙教室を一年間続けてきた。昨年十月から半年間は月一度の維持コースにも参加した。今年一月からは単発で3ヶ月パソコン中級クラスにも出てみた。どれもこれも半身不随の私には疲れるスケジュールだったが、帰宅した後は結構、爽やかな気分になった。だが、何故か絵手紙教室の日は疲れが異常で、不快感も増した。何故だろう? メンバーはいい筈だ。絵手紙も愉しい。それなのにどうして? 今年最終日の今日、答が分かった! 休憩時間がないからだ。そうだ、休憩を取れないからだ。10分間でもいいから、休憩時間を組み入れるべきである。
 今年最後の夫々のプログラムで、私は自分なりの気持ちを込めた礼が指導者の方々に出来たつもりでいた。だが、絵手紙教室では自分なりに満足できる挨拶を交わせなかった。
 所詮は右半身不随!元気印で普通に見えてもやはり、後遺症を抱える私に休憩無しの絵手紙教室はきついのだろうか。健手の左を異常に使えば、右半身に異常な痺れが走るのは当然である。来年度もこの教室に出席するかどうかは、3週間の春休みの間にゆっくり考えてみよう。

145.私特有の症状は?_

2007-03-25 15:16:23 | Weblog
 ミクシィを始めて驚いた事がある。それは如何に障害の悩みを抱えている人が多いかということである。まさに老若男女、悩みも色々ということである。本人が悩んでいる場合と家族が悩んでいる場合も、そこに違いがあって、それが様々である。障害社会の大きさと広さと深さに私は唯々驚いているばかりである。
 絞らないと、考えが纏まっていかないので、家族の悩みを訴える人はともかく、私は自分に近い症状、そう、脳卒中の後遺症に悩む人と共に脳の秘密を探っていこうかと考えている。後遺症にも色々ある。私が体験したものをひとつずつ改めて取り上げてみよう。
 先ず、私が体験したのは一過性黒内症と呼ばれるものである。今だからこそ、シャアシャアと症状名を語っているが、ある日突然右目が暗くなって物が全く見えなくなり、暫らくして再び見えるようになった時は、ほんの僅か驚いただけだった。私の中には当時の年齢からは「マダマダ」という気持ちが自然に潜行していたのである。一般的に多いのは一過性脳虚血発作で手足の麻痺などが起こるのである。双方とも、診察時には症状が治まっているので、再発予防が重要だという事になるというのに、私は一過性黒内症の再来を受け入れてしまったのである。無知ということが如何に残念無念に繋がるかという事実を思い知らされた平成13年だった。
 私は声を大にして言いたい。いつもと一寸違う違和感を体内、特に頭部に感じたら、迷わず診察をお願いするべきだと思う。
 脳卒中に出遭ってしまったら、次は再発予防もさることながら、後遺症との正しい付き合い方を自分なりに研究する事である。それが物理的に無理なら仕方なく、専門家や家族に頼らざるを得ないが、自分が分かるのなら、是非とも自分を自分で救って欲しい。医者と患者を二人三脚に治療を進めるのではなく、一人二役で自分なりに進めるのである。
 因みに、私の場合は「痺れ」だけが今も残る後遺症で、これが特級と言える。
 ここからは私なりの「痺れ」特別講座に入ることにする。少しでも頷けるものに出会ったら、すかさず自らの症状に反映して貰いたい。
 医学的には十近くの感覚異常を表現する用語があるが、私に当てはまるのは実に八個もある。驚きである、なるほど、見た目はマアマアでも障害二級を貰うわけだ!
 Allodyniaという痛みは、正常なら痛みを生じない刺激によって生ずる痛みである。だから、馬鹿みたい、大袈裟な、と見られてしまうのである。Analgesiaは無痛で、正常では痛みを生ずるべき刺激に対して痛みが生じないのである。これは自分にマイナスが出る事になるので注意深く見守って欲しい。Dysesthesiaは正に異常感覚で、自発性または刺激が誘発する不快な感覚のことである。私はこの異常感覚には始終悩まされている。次は、最近になって私がよく見舞われるものでHyperalagesiaという感覚は、痛いと感じる刺激に対する反応の増加である。そう、反応の仕方がハンパじゃない! 刺激に対する感受性の高まりも、私にとっては忘れられないものでHyperesthesiaというらしい。これには痛覚の他に触覚、温冷覚も含まれる。反復刺激に対する反応増加を表すHyperpathiaも私としては見逃せない。ここまでは増加という言葉が使われるが、低下とか減少も頷けるものがあった。感覚鈍麻と痛覚鈍麻である。前者はHypoesthesiaで特殊な感覚でなく、刺激に対する感受性の低下である。後者はHypoalgesiaで痛みの刺激に対する反応の減少である。
 私がアロディニア以外の難しい医学用語を敢えて記したのは、もし自分に当てはめられたら、自分の主治医に訴える時に示せば、詳しく分かるだろうと思ったからである。医者は神様ではない。より詳しい症状を患者本人から聞けば処置の仕方が違ってくる筈だ。感覚は本人だけのもので、他人が見ただけでは名医とて感じることは出来ない。
 痺れの原因である病気や障害を取り除く事が重要で、同時にダメージの程度も診断して貰いたいと願ってはいるものの、私のような疾患では、出現した障害の程度に症状は依存することになる。
 私は、リハビリによって自ら甦らせたものもあると自負している。それは言語である。発病1年後に、出会った人の殆どは私が言葉を発するのが困難だったとは想像できないようだ。私は極自然に、もうひとつの言語である英語を駆使して日本語を蘇らせたのである。確かに、私はラッキーだった。自然に活躍してもらったのが尾状核の英語脳だったという事である。音楽が好きな人だったら、一緒に歌ったらいいのではないだろうか。アンラッキーが続いてもラッキーの出番がくるまで、可能性を信じて自分に磨きをかけたらいい。

144.ペットアニマルは究極の癒し

2007-03-24 07:49:42 | Weblog
 ペット大好き家族に生まれ育った人間大好きを自称する私は今、とても幸せな気持ちに浸っている。自らたくさんのペットの死に直面してきて、一昨年かけがえのない愛犬が逝ってしまった後「ホント、どの子も可愛い!」という心境に本当に自然になっている事に遅ればせながら気付いたのである。
猫もピーター、リリー、ミックと3匹飼い3匹見送ったが、犬は現在私の車椅子の横を歩いているテトが我が家の6代目なので、今日の主役は猫でも脇役は犬で固めておく。
 朝、マイミクシィを開いたら、ロシア生まれでバンコク育ちの気品溢れる白い猫ちゃんが登場した。ワンちゃん繋がりのお仲間が猫ちゃんをご披露してきたのだ、と喜ぶ寸前に訃報だと気付いた私はガックリ肩を落とさずにはいられなかった。
私は早速、お悔やみと慰めをメッセージにして送った。マイ・ラブ、マイ・ドックの主人公ドックが先に逝っているから、きっと一緒に遊んでくれるよ、と白猫には語りかけた。
 今、犬の和がどんどん広がり、色々な人が夫々の場所で様々な問題を抱え、愛犬達が少なからずも「癒し」を実行してくれている。アロマで癒すのもいいだろう。音楽で癒すのもいいだろう。でも、私らしい考え方は極端かも知れないが「犬の癒し」が最高だ、と思えるのである。何しろ、動くのは尻尾とか犬の体だけでなく、犬の感情も・・・円らな目が語るのだから・・・

143.今期最後の音楽セラピーは

2007-03-20 23:49:17 | Weblog
 平成18年度最後の音楽セラピーは地域交流を兼ねた発表会になった。春に因んだ日本の歌の数々から始まった。日本語の素晴しさを改めて噛み締めるいい機会だった。昨年末、親子で歌いつごう日本の歌百選が発表されたが、選ばれなかった歌も私達は敢えて歌った。印象に残ったのは蛙の笛である。作曲は友人のご尊父故海沼実である。コロロコロロと鳴くのだが、何とも情緒ある音楽だ。日本最古の文学論といわれる古今和歌集の序に「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」とあるが、つい先日、鶯が鳴いていた。蛙が道路に飛び出してきた。高輪も捨てたものではない。蛙は縁起物として現代も結構持て囃されている。日本式の店にはよく招き猫が座っているが、私は蛙が本来のサービス業には必要だと思う。一回こっきりの来店ではなく、是非、リピーターとして客にいつも戻って来て欲しいと願うわけだ。
 春の小川は港区の川から作られた歌だと知ったのは音楽セラピーのレッスンの時だった。長い間、私は横浜の歌だと思っていた「赤い靴」も港区の歌だと知ったのは麻布十番祭りの時だった。赤い靴は子供の時からよく歌ったものだが、今日は日本語ではメロディーに載って歌い、英語は台詞のように披露した。日本語での章が終る度に英語で語ったのだが、言葉を噛み締めてフレーズを読むと、何とも言えない気持ちになった。ダークロングコートの外国の男と赤い靴を履いた日本の女の子の取り合わせに、実はゾッとしたのである。現代ならそんな事はないだろうが、時代の背景が色々想像させたのである。だが、最後のフレーズを口にする時はそんな思いに耽っているどころではなかった。口の重いOさんに語って貰おうと指導者と話し合っていたからである。果たして、Oさんの口から声が出るか! 出た! しかもはっきりと! 大成功! 先生も、私も、そして母親も自信を持った。彼はイケル! 来年度はコレでイケル、歌と英語で! 英語で話がスムースになるかも、きっとなる! だって、実際になった本人の私が言うんだから・・・

142.不可解な公的サービス

2007-03-18 07:03:08 | Weblog
 サービスって何?「人の為に力を尽くすこと」であり「顧客の為になされる様々な奉仕のこと」である。それが能動的な立場に立つとその姿勢に疑問が湧くことが多々ある。
 かつて「お客様は神様です」というフレーズがとても流行った。この言葉は一時的に持て囃すフレーズではなく、「ありがとう」と共と始終お互いに念頭に置くべきだと思う。「ありがたい」という気持ちが充分に分かっていながら、勝手に切るのが公のやり方である。問題になっていた「リハビリ、期間によって打ち切り!」が正にそうだ。
 私は、金曜日に最後のリハビリ維持コースに出席した。利用者の感謝をよそに容赦なく、区はこのコースの打ち切りを無残にも利用者に宣告してきていた。理由は簡単で「週1回のコースは無意味!」ということである。利用者不在の中で勝手に話し合いがあって、即、決めたようだ。区は利用者と提供者という言葉に翻弄されているようにさえ、私の目には映る。せめて、言葉を顧客と提供者に変えたら、考え方も違ってくる筈である。如何にいいサービスを用意しても、利用者が敬遠するような内容だったら「開店休業」で普通ならダメージが大変なものになる。だが「親方日の丸」はいつも安泰!ということである。
 私は有難いことに、先ず社会人として踏み台にしたのが大使館という公的職場だったが、間もなく自ら一般外資企業に転職した経験がある。この転職で、私は相手の立場に立つという習慣が身に付いたことにとても感謝している。「官尊民卑」という言葉を覚えた時代であり、奇しくもあの「お客様は神様です」が流行り言葉になっていた時代でもある。驕らず、サービスに徹するという習慣は、以来、私から逃げずに留まってくれているらしい。願わくば、この気持ちは私の中には是非、長逗留して貰いたいものだ。
 因みに、最後の維持コースの感想を述べておく。3人の職員は出来る限りのリハビリを夫々障害者に施してくれた。時間を惜しむように個別に接してくれた。障害者達は異口同音、ありがとうを口にした。でも、最後の維持コースは打ち切られた。家に帰った私は「悲喜交々」という言葉を頭に浮かべながら、教わった自主トレを忘れない内にやってみる自分を慰めた。

141.痙性麻痺って人を見るのね!

2007-03-17 10:15:06 | Weblog
 昨日は、障害者センターで最後の維持コースを受けた。最後という言葉が気になるだろうが、私からの自発的な最後ではない。このコースは月一度のリハビリで利用者は満足しているのに「効果はないだろう」という勝手な見解から今月で打ち切りになる。またも「行政のやることは・・・!」と開いた口が塞がらない。
最後の維持コースの感想は後ほどにして、清々しい気持ちに触れることが出来た例の女性を私は再び思い出している。
 突然、声をかけられたのに、何故、私の痙性麻痺は騒ぎ出さなかったのだろう。女性の声が特別優しかった訳ではない。女性の言葉が別段丁寧だった訳でもない。
 女性と一緒に100メートルほど連れ立って歩いたが、女性はかなり自然に会話を働きかけた。女性は躊躇することなく、息子さんが車椅子だと言った。原因は知らない。先天的か、後天的かも分からない。想像できることはお母さんがごく普通に普段から接しているだろうということだ。日常生活の中で車椅子生活者に健常者が慣れているということだ。だから、初対面の私に背後から声をかけた時も女性がTPOを自然に心得ていたからこそ、私の体内に潜む痙性麻痺を揺り起こさずに済んだのだろう。いい意味の慣れは斯くも素晴らしいことなのである。

140.私は障害者! でも、もし障害児の母親だったら?

2007-03-14 06:16:35 | Weblog
 私は偉そうに自ら障害者云々を色々語ることに抵抗を感じていない自分と向き合う必要があるような気がする。突然「もし障害児の母親だったら?」と質問を投げかける機会に遭遇した。これまで障害児の母親達と幾度となく言葉を交わした事はある。でも、その時は私自身に障害者というレッテルは貼られていなかった。
 自分の子供達を念頭に私の口癖は「自分の子供達が火の中で助けを求めたら救うのは先ず、母親でしょう」だった。私は自信を持ってそう言ってきた。だが、最近、これが大きく揺らいでいる。自分自身が障害社会に身を置くようになって、老若男女、様々な障害に悩む人達に出会った。殆どが、本人だった。
 今年に入ってすぐ、お子さんが重度の障害だというある母親に会った。その母親は自分の言葉が続けば続くほど感情が高ぶって理性を失いかけていった。自分の声に興奮するので、終いには何を訴えたいのか理解できなくなってしまった。
 爽やかな触れ合いもある。ある女性に突然、背後から声をかけられた時のことである。痙性麻痺が極度に強い私はこれに弱い。背後からは、触れられなくても、声だけでも伝わってきて強張りが始まる事が多い。だが、この時の女性の声は違った。場所は警察署の真ん前だった。信号が変わって、横断歩道を殆ど占領して停車する車の前を私は渡ろうとした。女性は軽やかな声で「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。振り向く事は不可能だが、私は即座に「大丈夫です」と答えた。歩道に辿り着いて、ほんの僅か走行したところで女性が再び声をかけた。
「その車椅子、どちらのですか? 軽そうですね。息子が車椅子で走り回っているので・・・」
女性は操作器具のある側を私と並んで歩き始めた。道が二つに分かれ、私達も別れるまで口数少なく会話した。あの女性の息子さんなら、未だ未だ若いだろうな、と思い、それでも女性の清々しい声が頭に残って爽やかな気分になった。お邪魔な乗用車が出過ぎで横断歩道を殆ど塞ぎ、警察前で何の為に立っているのかしら?と首を傾げたくなるような警察官に少し憤りを感じた私だが、女性の言動は私を晴れやかな気分にした。
 常に、健常者の頃からアドバイザーに徹しようと自分なりに努力してきた私は、やっぱりピアカウンセラーには中々なれそうにもない。
 何れにせよ、自分自身でなく、我が子が障害を背負ったら・・・答がすぐに見つからない私は未だ未だ人間が出来ていないのだろう。

139.弛緩性麻痺と痙性麻痺

2007-03-10 07:48:11 | Weblog
 一昨日、朝の犬との散歩で妙な体験をした。先日の音楽セラピーの時は口から入った冷茶が喉を通り過ぎた直後にヒヤーッとして、足の先から冷水がストローで吸い上げられるようにかなりのスピードで走ったのとは違うヒヤーッを感じたのである。左に犬のリードを繋いだ私はドアに寄り添う形で車椅子を寄せた。突然、風も然程感じないのに一筋の、奇妙な事に、ホントに一筋の冷たい風が右目に差し込んだ。私は目を開けていられないほどの冷たさを感じた。慌てて逃げる私に、車椅子に繋がれた愛犬テトは夢中になってついてきた。
「ごめんね、テト、ウッ!」
一筋の冷たい風は容赦なく私の右目に切れ目なく吹き込んできた。妙な、本当に、たった一筋の冷風だった。
 その日、北里病院で初めて療法にあたった熟練療法士との会話で再確認した事実があった。偶々、担当の療法士が不在だったのである。
「想像より遥かに重度ですね」
療法士の言葉が気になって、私は言った。
「やっぱり!」
「やっぱり?」
療法士は彼なりの話を始めた。かなり詳しく、分かりやすい説明だった。
 一般に「痺れる」と言うのは、正座などで足の神経が圧迫されて一時的に感覚障害が生じる事だが、手足の運動障害の際も「痺れ」という言葉は使われる。更に、触った感じを痛みと感じるような異常知覚も「痺れ」と表現される。痺れという表現には様々な症状が含まれるので、出来るだけ具体的に表現した方が診断、治療に役立つという訳だ。
 麻痺には大きく分けてふたつある。ひとつは弛緩性麻痺で、もうひとつは痙性麻痺である。因みに、私のは後者で、しかも強度のそれだという事だ。下位ニューロンの障害では、筋緊張が低下して筋萎縮を伴う弛緩性麻痺を起こすという訳である。私の痙性麻痺は、簡単に言えば、硬直した麻痺という事である。
 腱反射が亢進し、バビンスキー反射などの病的反射が出現する訳だ。バビンスキー反射は19世紀フランスの医者が発見したという事で、特定の刺激に対して決まって表れる予測可能な不随意の反応で、一過性にみられる場合と永続する場合があるようだが、残念ながら私のは長逗留を決め込んだ反射異常という事である。
 自分に対してとても有難いことに、私が出来るだけ具体的に自らの症状を表現したので療法士にはかなり適切で満足な治療を施して貰えた。

138.所変われば品変わる:異常気象

2007-03-07 05:41:37 | Weblog
 中国から漢字と一緒に色々な言葉が伝えられてきて、その後、日本らしい素敵な表現に変わっている。読み方も日本語は日本人の私にはとても趣があって心豊かになるような気がする。それでは、ここ最近の日本を取り巻く天候に、少しリラックスして考えてみよう。
 私の好きな言葉は「五風十雨」五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降る、天候順調で農作物の為には至極都合がいいということである。農業国ならではの表現だった。
 因みに、一般的にお馴染みなのが「三寒四温」である。晩秋から初春にかけて、三日間位寒い日が続いて、その後、四日間位暖かい日が続くのだが、これを繰り返しながら、徐々に本格的な春を迎えていくという訳である。
 だが、最近の日本は情緒ある四季の歌などおざなりになってしまう事が往々にしてある。留学中、メルボルンではクールチェンジという異常気象に驚かされた。九月に渡豪した私は再びすぐに迎えた夏に浮かれ、海岸で騒ぐクリスマス休暇に目を丸くしたものだ。ところが私をもっと驚かせたものがある。先に、ちょっと触れたクールチェンジである。シドニーでもこの異常気象は見られるが、何と言っても有名な場所はメルボルンである。
 初めてのクリスマス休暇、初めてのバーベキューは海辺で始まった。時は1964年、東京オリンピックの年である。東海道新幹線が走り出した年である。驚く事はいっぱいあった。だが、私を最も驚かせたのは異国の地での異常気象だった。
 浜辺でラム肉(これも初体験)を味わって、豪州のビールを飲んで(オッと、私は未だ未成年だった!でも、時効だわね!)「鮫が出たぞ!」というアナウンスがない限り、泳いじゃ飲み食い、飲み食いしては泳ぎ、とハチャメチャパーティーを海辺で愉しんだ。若さの特権である。
 仲間のひとりが遠くを見詰めて言った。
「クールチェンジになるみたいだ!」
「ウソ、ホント!」
仲間はセッセと片づけを始めだした。何が始まるんだろう? どうして突然、片付け始めたんだろう? 帰りの車の中で私は妙なことを言われた。
「今夜のダンスには、暖かいコートも用意しておいた方がいいよ」
「コート? この真夏に?」
家に着く頃には、ガタガタ、ブルブル、真夏の姿の私達は会話も少なく、別れた。家に飛び込んだ私に「大丈夫だった?」と気遣ったグエンママが、更に「暖房つけてあるから」と言った。暖房? この真夏に? 夜になっても、寒さは一向によくならなかった。斯くして、私は綺麗なドレスに真冬のコートを引っ掛けて夜のパーティに出かけた。そして、翌日は確か、爽やかな夏の朝を迎えた記憶がある。
 私が一番初めに覚えたメルボルンの慣用語はクールチェンジだったかも知れない。
 季節を感じ、自然に興じる事が少なくなったとは想いたくない。春一番が吹いて、二番、三番と続いて、梅は咲いたが桜は未だかいな! という閑もなく、五月晴れも言葉が追いつけずに梅雨がきたら、どうしよう!
 クールチェンジという言葉が右往左往した40数年前、言葉の不便を障害とは感じなくとも、四苦八苦していた私の前にはバリアフリーが自然に如かれ、ノーマライゼーションは言葉にもならないほど事はノーマルに運ばれていた。
 昨日、音楽セラピーの時も右半身を強い痺れが襲ってきて、右目は見え難くなる、右手の動きは止まりそうになる、といった具合に最悪の状態になってしまった。休憩時間に貰った冷茶も口に含んだ時は潤いが嬉しかったが、喉を通った直後、右下肢に冷気を帯びた痺れが走った。東京の温度がグングン下がる数時間前のことだった。