脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

181.今年前半の私の症状

2007-06-25 06:34:41 | Weblog
 昨年末から私の症状が少し変わってきている。理由は分からない。
 悩みの中心は「痺れ」で、これは身体がビリビリ、ジンジンして電気が走るような違和感があるわけだが、これがちょっとやそっとの代物ではない。この自覚的に感じる異常感覚は、接触など外部からの刺激によるものではないので始末に悪い。
 私の痺れは、確実に中枢神経系によるものだから、片麻痺になる。脳卒中などでは通常は痺れだけではなく、同側の手足の感覚や運動麻痺、それにろれつが回らない等の症状が残る。私にはろれつ云々の症状はなかった。ろれつは律呂の事で、和楽でいうと律は楽音の絶対音高で、呂は低い音域を示す。
 当初の私の失語症の悩みは言葉が出るかどうかであって、呂律云々は全くなかった。言葉に出してみようと思う時、間単に言えば、偶々、運悪く出して聞いてくれる相手がいなかったという事である。そして、何か聞いてみようと思った時、何故か英語が先出したに過ぎず、偶々、そこに英語を話す医者がいただけの事である。そして、必然的に患者と医者の会話が英語になったに過ぎない。
 その後、リハビリ通院でほぼ日本語オンリーの療法士に診て貰い、多くの日本人の患者と話す機会ができてきて、私の日本語が見事に蘇ったのである。日本語に不自由を感じなくなった私は障害者センターに通い始め、私設のリハビリ兼マッサージ施設に通い出した。
 だが、リハビリ病院で日本語が蘇る前に、私の「痺れ」は始まっていた。そして凡そ1年後、リハビリ兼マッサージ施設で僅かな「痛み」を感じ始めた。更に1年後、痒みが始まった。痒みは虫に刺された時以外には、血流が活発になると僅かに感じるようになった。こうして、感覚を徐々に取り戻す私はマアマア喜んでいた。 
 だが、今年に入ってからの感覚はマアマア喜んでいた筈の私に「結構!」より「止めて!」を言わしめる、と思い始めている。これまでの内部刺激による痺れ感覚が更に妙に進んで外部刺激によって痛みが起こり、痺れが増していく事になってしまったのである。あえて私は「なってしまった!」と言いたい。それほど痺痛は私にしてみれば嫌われものなのである。今現在の私の症状には主に三通りある。先ず、全く目に見えない内部刺激による痛覚が私の潜在痺れを襲撃する。ふたつ目は、それプラス触覚である筈の痛みが潜在痺れを脅迫する。そして、最近感じ始めた三つ目は、更にそれプラス末梢神経による痺れが後押しする形になる。末梢神経である三叉神経は顔面皮膚、更に三枝がそれぞれ眼球、舌、歯髄の知覚を司り、この神経が障害を受けるとこれらの領域に痺れが起こり、酷くなると激痛が走る。 潜在感覚として以前から私の脳の中で私を悩ますホムンクルスが動き出すと顔面右半分が何かに咎められた様に想像以上に歪んでいるように感じる。イエス・キリストの創造主の領域に、私が足を踏み入れてお咎めを受けているのだろうか、と思うほどである。
 感覚が戻るという事はこんなにも非情な事なのだろうか。痺れに対してよい効果をあげると言われる漢方で治療の為にする鍼灸治療も真剣に考えてはみるが、中枢性の痺れには、と?マークがあるものを試す気はない。そうかと言って、先日自発的に中止した錠剤等を再び飲み始める気はない。斯くして、我慢と自然任せという二つの言葉が私の脳を占領する事になる。

180.人の悩みと解決法

2007-06-24 06:19:26 | Weblog
 人間には心があるから悩みもある。心の紐を解くのは容易ではない。私という人間は障害を受け入れる前まではプラス志向だった。だから、必ずやマイナスになる悩みも常にプラスに方向付けようとしてきた。努力はしなかったが、自然体で前進してきた。生の人間だから深刻な悩みも数多くあった。だが、倒れる寸前も悩み多き50代だった私は突然、前触れもなく、本当に自然の法則に従わなくてはならなくなってしまった。自然体を豪語してきた私が初めて戸惑いを感じ、今もそれが続いている。そして恐らく、この、どうしようもない戸惑いは一生続くだろう、と確信している。
 私は右半身不随の後遺症を受容してから、たくさんの療法士に会ってきた。みんな夫々に個性的で様々な対応の仕方があるものだと思っているが、色々な療法士が自分好みの人であるように望むなら、結局は自分自身の姿勢が尤も肝心なのではないかと私は思う。自らが心から信頼して任せれば、どんな療法士でも私の信頼に応えようとするだろう。応えてくれたら、私は感謝し、絶賛するだろう。その繰り返しが、私に安堵感を与え、更に信頼感が増すという訳で、一方、療法士は自分の療法に自信を持って、更に向上するだろう。
 こんな私の考え方を一例に挙げても、私自身はアドバイザーになれてもカウンセラーにはなれない、と明言できる。リハビリの度に、私は「こんなに大変な仕事、私には到底出来ない!」と思ってしまうのである。私らしく考えると、療法士はアドバイザーであると同時にカウンセラーでもある面がないと難しい仕事だとつくづく思うのである。
 様々な診療を経てやってくる患者は色々な症状を訴える。療法士は必ずしも患者の口から直接悩みや症状を聞く事が出来るとは限らない。言語障害の患者もいる。自分の症状を細かく把握していない患者もいる。昨今は母語の違いで日本語が分からない患者もいる。私のいう優秀な療法士は「聞き手」とか「視て手」に徹する人という事になる。「どこが悪いのだろう」とか「痛いのはどこだろう」とカウンセラーのように分かると、直ちにアドバイザー兼セラピストになるのがいい療法士だと私は思う。
 一般的には、医者はダメな部分を治すのが仕事という事であるが、療法士は大変だ。理想的な既婚女性じゃないけど、信じられないほど何役も引き受ける事になる。女は字の通りに「女として良い娘時代」を過ごしてきて、「他家に嫁ぐ」と突然、大忙しの嫁になる訳だ。可愛い女は名称を妻に変えてもいつまでも男の恋人であり、母親になって家の仕事は家事、育児と膨らんでいく。でも、聡明で愛情溢れる女性は逞しくそれを遣って退ける! では、よき療法士とは毎日のリハビリを通して私が垣間見る限りはカウンセラーであり、アドバイザーであり、セラピストである、という訳だ。
 私は、やっぱりカウンセラーにはなれない。私は悩みを聴いている内に「こうしたらいいのに!」とすぐにアドバイザーになってしまうのだ。確かにそうでもカウンセラーの立場では本人の意向を最も重視するという訳だろうか。私には「こうすれば上手くいく」という考えが脳を占めて、先に進まなくなるだろう。
 自らの仕事を考えても、これまでの語学指導者、外国人相談、とくればアドバイザーの色が濃くなる。脳卒中発病後に復帰した仕事は美術館関係、とくれば確かにカウンセラーは姿すら見えず、確実にアドバイザーが前に出てくる。そんな私にも「兼カウンセラー」的時代もあった。長年に亘る航空会社時代である。職場はまさしく「お客様は神様です」で、お客さんの要望を聞き、ひたすらOKが出せるように努力したものである。要望を聞き、助言、指導というのは自分の意見はかなり控える事になる。
 中途障害者の私が必要とするのは、実はカウンセラータイプの傍観者である。そう、「独り」は寂し過ぎるから、傍観者がいて欲しい。傍観者は読んで字の如しで、私の傍にいて、観ている訳だ。私の痺痛は、私自身が不可解なのだから、他人に理解を求めるのは難しいと思っている。そして、私は自ら自分自身のアドバイザーになる事になるだろう。

179.勿体無いって日本語でしょう!

2007-06-23 06:06:11 | Weblog
 「もったいない」は日本国家のキャンペーンになって今や殆どの人が口にした事のある言葉である。生粋の日本人なら恐らく「何を今更!」と言うだろう。何故なら「勿体無い」は元来、仏教用語で「勿体」とは外見や態度の重々しさを意味し、態度や風格、また、物の品位を表現するのに使う言葉である。それを否定するのが「勿体無い」という事になる。物の本来あるべき姿が無くなるのを惜しんで嘆くのだが、「不都合である」とか「かたじけない」という意味で使われる。「もったいのうございます」とか「かたじけのうございます」等と口走ったら、タイムスリップして時代劇の世界に入り込んだと思われるかも知れない。
 数年前、ノーベル平和賞受賞者のケニヤ出身のワンガリ・マータイが口にして、今や世界共通語になったと言っても過言ではない。日本人みんなが昔持っていた「勿体無い」の考えこそ、今、環境問題を考えるに相応しい精神だとマータイは力説した。無名の日本人がどんなに力強く説いてもきっと誰も取り上げなかっただろう。マータイがノーベル平和賞受賞者だったからである。それなら、1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成がその授賞式で「美しい日本の私、その序章」という記念講演を行ったが、日本人にとっては忘却の彼方に追いやられてしまった話なのだろうか。実に嘆かわしい! 
 「使い捨て人間」が代名詞になってしまったような最近の日本人! 実に嘆かわしい! 電気器具などは特に新しい物が出るとつい去年喜んで手に入れたばかりの物は未だ使えてもあっさり捨ててしまう。それに群がる外国人をTVが一生懸命追っていた。日本で画面に出てくるそんな外国人の殆どが発展途上国の人達なのである。
 だが、1960年代と言えば、日本が発展途上にあった事は否定できない。あの時代から、経済高度成長に急速に突っ込んで行ったのも事実だが、よき時代を忘れていったのも事実だろう。そんな60年代、私にとっての一大事業は豪州留学だったのは言うまでもない。
 東京青山の中心街から飛び出した成人式前の私には海外で見るもの聞くものすべてが驚きだった。何しろあの広大な豪州大陸に日本人留学生はたったの12名で、街に出ても領事館にでも行かないことには日本人に会えるチャンスはなかった。日本企業もやっと進出してきたかなと思う頃で「日立」などはHITACHIと書いて「ハイタッシ」と呼ばれていた。なるほどHIはHi!のハイ、TAは上手に発音できても最後のCHIは米国のCHICAGOのシになってしまうのだった!タヒチはうまく発音できるのに文字をスクランブルしてヒタチにするとどうして言えなくなるんだろう。尤も、タヒチはTAHITIと綴ってCがないが・・・!
 そんな時代に、私は勿体無いほど素敵な経験をしている。豪州は元来、欧州からの移民が多くいる。欧州は歴史が長い。私が住んだ家は大英帝国に深く関わりがあった。そして、親族、親近者には、ハンガリー人、スコットランド人、ギリシャ人、などなど。みんな一様に現地では所謂インテリで富裕族だった。尤も、大英帝国からは政治犯が流刑されてきたと聞いていた。無論、そんな豪州上流階級の家庭だったからこそ、遥々、島国日本から私という留学生を受け入れたのである。あの時、私が持参して行った外貨は僅か200ドル、これで3年も完全留学したのだから驚きである。勿論、世話になった豪州人にしてみれば信じられないほどの費用が当時もその後も掛かっているのは否定できない。何しろ、私を受け入れるに当って財産調査もされたと言うのだから。更に私の部屋まで点検しに移民局の係官が家に来たというだから!
 学生の中ではすぐに人気者になった。さすが! そして、私は豪州一族にとってはアイドルになった。理由は「勿体無い」が潜行するような「物を大切にする娘」だったからだと一年も滞在すると自ら分かった。その通り、私は「衝動買いのチャンピオン」であり、且つ「物持ち(量と期間!)のチャンピオン」でもある。それは今でも変わらない。高額の物でもいとも簡単に買うが、大切に扱うのは私の自慢でもある。
 18歳だった私が留学に持参した文房具に小さな古めいた物差しがあった。竹製の物差しは小学校時代の物だった。何故なら、それには当時大学生だった兄が名入れをしてくれた跡があった。そして、私はそれを持ち帰り、未だに机の引き出しに入れてある。
 「勿体無い」のように自然や物に対する敬意とか愛情のリスペクトが込められるような言葉が、リデュース、リユース、リサイクル、リペアの概念を一語で表すのに最高だと思われたのである。大いに誇りを持つべきだと、思う。


178.宣言って何? 見返り美犬が振り向けば・・・

2007-06-22 08:15:18 | Weblog
 昨日、午後になって猛烈な痺痛が右半身を襲ってきた。いつもは右顔面がひん曲がっているような気がしても覗き込む鏡に映る我が顔は涼しい顔をして何事もなかったかのように静止している。だが、昨晩は違っていた。やっぱり顔が歪み始めていた。ジッと見ているとスゥーッと私の内に潜む小さな怪物は引っ込んだ。その安堵も束の間で今度は瞼が自然と被さり始めた。きっと低気圧がノロリ、ソロリとやって来ているに違いない。
 今朝は、うって変わって爽やかにとはいかないが、昨夜の憎っき奴は身を潜めているらしい。着替えもマアマア、痺痛はジィーって感じ、右足は中々床から離れようとしない。でも、まあ、いけそう! だが、パソコンを開いて、やっぱり! 高気圧は遠く北海道の東に退いて、低気圧が二つも大きな態度でノッソノッソと日本海側からやってきているではないか。梅雨入り宣言をして一週間経ってから雨降りになるなんて!でも、雨乞いをするわけではないけど、暑い夏前の雨は恵みの雨!
 振り返ってみれば、東京地方では6月14日に梅雨入り宣言して、翌15日には何と夏入り宣言! 私も天気予報士になれそう!

177.平和ぼけ

2007-06-18 08:30:35 | Weblog
 先週6月14日頃に無理やり梅雨入り宣言を出した関東地方は真夏日の週末を迎えた。ある所では湿度10%以下という恐ろしい数字を出していた。東京の気温は30度以上にも昇り、湘南の水温は22度を超えた。昨今の世界的な異常気象を考えれば、日本人だけが季節の移り変わりに風情を求めるのは贅沢、否、無理なのかもしれない。自然破壊はグローバルな現象であって、日本人だけがノホホーンとしていていいのだろうか、と思ってしまう。
 On the beach という本をどれほどの人が知っているだろう。私の亡き父が好んで何度も読んでいたのを覚えている。外国の本って分厚くて紙質が悪いな、と冗談抜きで思ったものだ。映画化は過去二回で、私は最初の映画を見ている。先ず、1959年の邦題は「渚にて」、そして2000年の映画は「エンド・オブ・ザ・ワールド」という邦題が付いている。
 1956年のメルボルンオリンピックから3年後という事は、私がオーストラリアに大いに興味を持っていた頃である。
 核戦争によって人類が死滅する直前までの数ヶ月を描いた映画だったので、恐らく父は一番下の私を日比谷の映画館に連れて行ったのだろう。第三次世界大戦が勃発して核爆弾によって放射能が北半球を汚染して何と全滅するのだが、辛うじて南半球の豪州大陸が残されたかに思えたのである。そこへアメリカからモールス信号が発信されてくる。生き残った米海軍の原子力潜水艦がメルボルンに寄港して、直ちに調査に向かうが虚しい現実に驚愕する。何と、無人の中で風に吹かれた空き瓶が揺れて電鍵を叩いていたのだ。やがて、メルボルンにも放射線に侵された患者が出始めて市民は最早、更に南下する事を選択せず、自宅で薬物による死を選ぶ。米海軍の潜水艦々長は豪州での死を望まず、あくまでも米海軍の軍人としての死を望んで、同じ様な選択をした乗組員と共に潜水艦を豪州領海外で沈没させる事を選ぶ。
 映画は1959年、私はそれから5年後にメルボルンに留学したわけである。米映画は全般をメルボルンロケだったと知った私はアンソニー・パーキンスが横断していたフリンダース駅前の通りを確かめるように歩き、エヴァ・ガードナーが佇むフランクストンの海を食い入るように見た。フリンダース・ストリートは数えられないほど何度も歩いたし、フランクストンは私の歯医者がいたので通ったし、それ以上にそれから20年近く経った時、私は歯医者に行く豪州のグエンママと一緒にフランクストンを訪れた。私の二人の子供もケンも一緒だった。診療が終わるのを待つ間、私達は海辺の公園で遊んだ。まさか、それが私達日豪親子!?にとって最初にして最後の遠出になるとは誰も予想していなかった。だが、悲劇は来るべくしてやってきてしまうのが世の常というものだろう。この時の事故というか事件というか人間の世界だからこそ起きた惨劇は他に書き綴っている。
 On the beachのテーマである第三次世界大戦は人類が引き起こした最悪の罪と罰だったのである。私は子供を連れて幾度となくあの駅では乗り降りしている。何も考えずに、何事もなかったかのように。英作家シュートは私の留学前にメルボルンで亡くなっている。シュートは逝去一年前の映画製作に関しては原作から大幅に変更されてとても嫌がっていたと言う。小説では、ソ連製爆撃機によるエジプトのアメリカ爆撃が発端として書かれている。第二次中東戦争、即ち、スエズ動乱である。私の亡き父は原作を好んで読んだ理由が分かる。
 私は最近の異常気象も人類による自然への破壊戦争だと思う。飛躍しすぎるかも知れないが、一部の脳神経破壊も私という迂闊な人間の自己管理の不備という事で始まったが幸い、自分自身で食い止める事が出来ている、と思っている。

176.自分という心療内科医

2007-06-16 09:35:42 | Weblog
 政府は2007年版「障害白書」なるものを仰々しくも決定した。精神障害を持つ人は年々増加している。疾患別では気分障害というか感情障害といわれる躁鬱病が最多だと報告されている。
 朝の散歩で、つい昨年までお元気パリパリだった素敵な女性が「私はウツ!」という顔をして車椅子の私と少し会話を交わした。確かに、昨年後半の彼女は高齢の母親の世話でかなり心身ともに疲れていた。それが凡そ半年でまるで病人のようになってしまっていた。折角の美貌も隠れがちで、持ち前の明朗快活は失せていた。ストレスの増加は確かに拍車をかける。心療内科の増加も何気なく後押しをしているような気がしてならない。
 私の知り合いが「年のせいにする医師は藪医者よね」と言っていた。これは私とて否めない名言だった。私が長年頼っていた脳神経外科医がうまい事を言っていたのを思い出す。
「誰にでも有り得る症状ですが、そうかと言って、無論、加齢を無視する事は出来ませんがね」
その医師は私より年齢が上だから、やはり自分にも言い聞かせていたに違いない。彼は私にとっては名医である。何しろ、彼の勧めでこのブログが続いているのだから。
 もうひとつ、他の知人から聞いた素敵な話がある。
 九州で同窓会があったという。それに90歳を超えた女性が参加する事になっていた。彼女は本州からの参加だという事だから、とても素晴らしい。だが、当日、外出を躊躇う電話を受けた知人は「ゆっくり、でも、是非!」と促したようだ。素晴らしい応対である。その結果、ご高齢の女性は参加し、躊躇のチの字も伺えないほど参加者全員が愉しんだそうだ。何て素敵な話だろう!
 医者は技術と薬を駆使して治療にあたるのが仕事だが、ホントに心療という言葉が活きるのは本人次第という事である。事実、私も医者や療法士から様々な言葉を貰う。その度におめでたい私は自分に都合よくプラス志向を全面的に押し出す事にしている。様々な言葉を表現の通りに受け入れていたら、恐らく、私は幾度となく、生命の危機にさらされていたに違いない。
 人の心は他力では動かせない。マイナス志向の人をプラスに変えるのは難しい。ここに「自分」という心療内科医の出番があるという事である。尤も、プラス志向の人間が一変して、マイナス志向になるのも容易い事である、とは常にみんなが念頭に置くべきだと思う。心療内科の増加などで医療機関を受診し易くなったのかもしれないが、そう簡単に訪問する所ではないような気がする。商売妨害って怒られるかな! かつて、精神病院は口に出すのも控えた。私が幼い頃、東京近辺では「松沢病院」と言えば、その手の病院の代名詞だった記憶がある。今では更に口に出し易く、心療内科という言葉が巷で聞かれるという事である。
 顰蹙を買うかも知れないのを承知で私なりの考えを綴ってみた。同感、反感、あって当然、だが、私が力強く言いたいのは「自分自身が自らの最高の心療内科医」という事である。

175.私と薬

2007-06-14 10:21:46 | Weblog
 久しぶりのセンターでのOT,やっぱり、調子がいい。センターでの今現在の療法士は今年で何年目になるだろう。初めの内はお互いが知り合えなくて少し戸惑った期間が長かったと言える。だが、最近では、恐らく双方共に性格が幾分でも分かってきたのか、私にとってはとてもいい療法の時間に思える。指導はとても的確で、説明も分かり易い。
 最近、私は我が身に悩んでいる。あまりの痛痺に絶えかねて、整形外科医と脳神経内科の医師達を改めて訪ねた。
 前医はノイトロピンとメチコバールという薬をくれた。共に副作用として発疹などの過敏症、食欲不振、下痢を上げている。ノイトロピンは主な作用としては過敏になった痛みを和らげ、循環をよくすることによって鎮痛効果を示すとあり、メチコバールはビタミンB12を補給し、痺れや痛み、また、筋力低下などの末梢神経障害を改善するとある。効果はそれほど感じられない。
 後医はトリプタノールという三環系抗うつ剤といわれるものをくれた。一日一回一粒だが、これが脳に直接働いて感情の調節と高揚作用を示し、さらに自律神経を安定させる作用もある、と説明書にある。これらの作用により抑うつ状態(理由のないゆううつ感におそわれたり、気分が沈んだりするうつ病の症状)を改善し、精神活動を活発にし、また、夜尿症にも用いられる、とあった。鬱になることはなく、精神活動は至って快調で夜中たまにトイレに行く事はあっても夜尿症だとは思わない。暫くの間、真面目に服用してみる事にした。
 何だか変だ! 私らしくない! 妙に怒りっぽいし、着替えに異常な時間が掛かる、だから気持ちが苛立ってくる。何だろう? どうしたのだろう! 綺麗なブルーのトリプタノールという錠剤がちょっと気になって、副作用を今一度よく読んでみる。血圧の低下または上昇、動悸、筋肉の強張り、手のふるえ、口や喉の渇き、それに排尿障害などが起こるとある。改めて主な作用を読んでみると、感情の調節と高揚作用そして自律神経を安定とあるが、これって今までの私には何の問題にもなっていない症状じゃない! トリプタールとやらが直接、私の脳に働き過ぎて、血圧の変動や自律神経云々で、動悸や筋肉の強張りがもっともっと出始めたら、どうしよう。やめよう! 私は元々服用してきた降圧剤エースコールだけにしようと自ら決めた。これは血圧降下作用の他に末梢血管を拡張する作用も私にとってはかなりいい錠剤である。それに高血圧症に基づく心肥大を抑える効果も報告されている系統の薬である。副作用の最たるものが空咳で薬を中止すればなくなるというから悪性の咳ではない。元々、空咳は私の長い間の友で若い頃からエヘン虫には慣れていて、特効薬(役!)のニッキ飴がある。これは、かなりの量のニッキが含まれているが、嫌味のない甘さが使用を長続きさせている。
 今現在、他にはビタミンEの補給としてユベラNを毎食後飲んでいる。ビタミンEには末梢の血行障害や動脈硬化症に効果がある。更に、組織の代謝を活発にして、組織に障害を与える過酸化脂質が出来るのを抑えたり、血液の凝固性を弱める作用もあって高脂血症にも薬剤として使われている。ユベラNの副作用には食欲不振、下痢、便秘、発疹などが起こるらしいが、私には今現在は全部無関心でいられる症状である。
 亡き父の晩年期に気づいた言葉がある。彼は亡くなる数ヶ月前から「夜寝る前に必ず、明日も朝が来るかなと思うよ」と妙な事を言い出しては私に「お父さん、バカな事言わないでよ。夜が来て、次に朝が来るのは当たり前に事よ」と笑い飛ばされていたっけ!
 綺麗なブルーのトリプタノールのお陰かどうか分からないが、この錠剤を貰う時、「眠くなるから夜一度の服用になります」と言われたが、確かに、ここ最近は私にしては珍しく「ヤバイ!もう起きなくては!」という位の時間までよく寝てしまう。よく寝るのはいいが、目が覚めてから着衣の時間が恐ろしく掛かって、痛痺が一向に治まらず、かえって酷いのでは考え直そうと思うのは当たり前だろう。
 今朝は従来のエースコールとユベラNだけにしてみる。薬とは自分にピッタリ合う物を服用して初めて効果が出るものだろう。乞うご期待!と自らに言っている私はやはり奇人変人?

174.自然の恩恵と虚無

2007-06-08 10:53:14 | Weblog
 人間は、地球上の様々なものは雨が加勢して育む自然の恩恵を被って成長するという事を知っている。では、人間は確かに真実を突詰めて絶望する事はあるが、真理の認識に対する人間の能力に絶望する事はあるのだろうか。
 宇宙では、視覚も聴覚も無効だから人間特有の言葉の機能は働かなくなり、空虚を感じると言うかも知れない。生き物に関して考えると、宇宙の自然と地球の自然は絶えず連携プレーをしていることに気づく。だが、そういう考えを直視すれば、生きている以上、虚無はあり得ないのではないか、と想ってしまう。
 珍しく、NHKのドキュメンタリー番組の再放送をゆとりを持って見て、自分自身の障害を絡み合わせて様々な事を考えた。
 樹齢何年というような名札もない大木が老木となって伐採せずとも、倒れ崩れていく姿を取りあげてみる。木が大きければ大きいほど倒れた後の空間は広く、大地にはいっぱいの太陽の日当たり場所が広がる。すると、埋れていた生き物があちこちで成長を始める。巨大木は信じられないほど永い間、風雪に耐えて生き抜いてきた挙句の果てに死んだと言われるかも知れない。人間は時に、愚かで非情になるから、ウドの大木とあざ笑ったり、無用の長物などと冷ややかにいうことがある。大木だったからこそ後に残した空間は巨大で恩恵を被るわけだ。直射する太陽の暖かさは非常に広範囲に広がるわけだ。直降する雨の水分も同じだと言える。
 私も愚かな人間だから、当たり前のことに感謝するのをつい忘れる。
 いつも言うように最近、障害を持つ人間に対してノーマライゼーションという言葉が盛んに取り立てられる。我が身を以って実感した事を語ってみる事にする。
 6月とは思えないほど晴れ渡った青空の下で三人の豪州人と二人の日本人の出逢いがあった。日本人の一人は私で、もう一人はこの日の主役である漆塗工芸家である。豪州人は撮影隊でディレクター、カメラマン、それに音声係りのプロジェクト・チームである。そこには沢山の不便があった。まず言葉の問題である。撮影隊は日本語が理解できず、漆芸家は英語が分からない。よくある事である。そこに右半身に不自由を受容した私がいるという訳である。
 私達日本人二人と撮影隊豪州人の三人は初対面だった。だから、豪州人にしてみれば、オーガナイザーの私が車椅子の身だという事は、この時初めて知ったのである。彼等にとっての障害は日本語であり、漆芸家には英語で、私の障害は右半身不随という事である。私達五人は互いに夫々の不便を補った。豪州人三人がこの時、得意とするのはカメラとサウンド効果、それに指揮官であるディレクターは監督して演出するという訳だが、漆芸家は腕を披露する訳である。では、障害者の私は? 私は言葉の不自由を払い除け、漆学の知識を披露するという訳である。高が右半身不随、されど半身不随!である。この日、長い時間、夫々が夫々の壁をぶち抜いて、撮影は無事終了した。三人の大きな男性が私の車椅子を持ち上げて段差に挑んだ時、僅か少し前には私が彼等の不便、言葉のバリアをフリーにしてあげたんだ、と思い出していた。
 ノーマライゼーションもバリアフリーもごく自然に!

173.私のカラー

2007-06-03 14:22:16 | Weblog
 昨年は豪日友好30周年という事で、両国の間で様々な催しが開催された。そしてメルボルンの国立美術館NGVでは「フォーカス・オン・ウルシ・ジャパン」と銘打っての展覧会が好評を得た。美術館所蔵の漆器の中には唯ひとつ現存する創作家である姉の赤漆の器がひと際華やかに飾られた。姉独自の赤に魅せられたと言う人が幾人か遥々日本を訪れている。中々鋭い目の持ち主である。現在、仕事に協力している人は今や世界を股に驀進する豪州のフィルム制作会社のスタッフである。この話はこの会社とNGV美術館に正式な許可を貰ってから後ほど詳しく、語る事にする。
 ここ数年、私には黒い洋服のイメージが強いらしい。一昨年、還暦を祝って赤い漆の杖を使うようになって以来、敢えてイメージチェンジをしてみようかと、想っている。イメージチェンジは少し勇気のいる事だが、かつてのイメージに戻りたい願望がどこかで働いているのが今すこし分かり始めている。私は自らの還暦後の時は1年を10年に換算する事にしている。Before Christ とAfterに習って、還暦を境に還暦前と還暦後という訳だ。つまり、私は今やっと十代後半になったばかりで、もうすぐ二十歳という訳だ。成る程、確かに、障害社会での独り立ちもそそろかな、と思う今日この頃である。
 私は若い頃は真っ赤な服のイメージが強い女だった。赤いコート、赤いスーツ、赤いルビー、赤い財布等など・・・ 赤い財布は「お金がアカンベェーして出ていくからやめた方がいいかも」と亡き母が冗談めいた風に笑いながら言っていたのを思い出す。そして、バッグや靴には好んで黒色を選んでいた。髪がいつも真っ黒だったから・・・
 豪州のグエンママがカラーの使い方では助言してくれたのをよく覚えている。社交界デビューのメルボルン・カップ競馬場に行く時の衣服を決める時だった。黒髪を中心に考えたBlack & Whiteのイメージを彼女はスコッチウィスキーのあるブランドを持ち出したが、その時、フランスの文豪の小説の事も話した記憶が私にはある。幸い、私はスタンダールの『赤と黒』は中学生の頃、読んであった。グエンママがBlack & Whiteと言った時、私は未だ酒類には疎くRed & Blackなら、知っていると言ったのがきっかけだった。以来、私の基本三色はBlack、White & Redになったのである。
「黒髪は大事にしなさい。貴女のチャーム・ポイントなのだから」 
 グエンママはBlack & Whiteの話を続けた。
 主による贖いの信仰をしっかり持ち続ける人に「白い衣」を着せると主は言う。「白い衣」とは信仰によって罪の汚れが清めきられた者の着る衣だと言う。これは主イエス・キリストを着る事でもある。主イエスは、死んでいる状態の者に悔い改めを求め、目を覚ますように導こうとし、信仰が眠っている状態ではなく、主の贖いの恵みに応えるように、生きた信仰生活を送れる事を願うものだ、という話を聞かせてくれた。これも幸いな事に、日本ではキリスト教の学校に通学したのでよく理解出来た。
「社交界デビューはある意味で出発点だから「白い衣」を着なさい。次の機会の白はきっとウェディング・ドレスね」
そう言って笑ったグエンママは帰国する際、彼女のウェディング・ドレスを私にくれた。そして、私はそれを自分の縫い師に縫製して貰って身に付けた・・・30年余り前に! そう、誰にもある数十年前!
 スタンダールの名作『赤と黒』は、小説としてはそれほど強い印象を受けた小説ではない。主人公のジュリアン・ソレルが出世の手段にしようとした職業は軍人と聖職者だった、という事で、題名のRed & Blackは軍人の服の赤と聖職者の黒衣の色を表している。
 禅宗では、赤い衣は大僧正を表す。 つまり、だるまさんの赤い色は、禅宗を開いた達摩大師に敬意を表す為に赤い衣を着せているのである。
 日本にはこんな話も伝えられている。
1568(永禄11)年、幼少の頃から織田信長に仕えた前田利家は信長の赤母衣衆(あかほろしゅう)に選ばれた。母衣とは背後からの矢を防ぐ為に鎧の後ろに背負った布製の道具の事である。赤母衣衆は黒母衣衆とともに、馬廻衆(近侍の騎馬武者たち)から選ばれた、いわば武勇のエリート集団だ。戦場では大将の命令を味方の武将に伝える役目だった。利家は信長直属の機動部隊だった。
 現在、祭や誕生祝いなど吉事に赤飯を炊くが、古くは凶事に食べていた。赤い色で邪気を祓う効果を期待しての事である。いつ頃から反転したのかは不明だが、本来吉事に食べる白飯を凶事に食べ、逆に凶事の赤飯を吉事に食べる事で縁起直しを図ったと考えられている。現在は平時に白飯を食すのが一般的である。因みに、黒飯というのもあって、北海道で弔事に食べる黒豆と共に炊いたもち米のご飯の事で赤飯と違いご飯に色はついていない。葬式や法事の食事の際に、折詰で出される事が多いらしいがお目にかかった事はない。
 ところで、トリコロールとは三色の事だが、tricoloreとフランス語にすれば国旗の三色、青白赤の配色を指し、tricolourと英語にすれば何と黒、黄褐色、白のブチ犬の事を指す。因みに、私のトリコロールは赤白黒であると言いたい。ここ十数年、好んで黒い服を着てきたが、還暦祝いの赤い杖も貰った事だし、かつて「いざ出陣!いざ出発!」とばかり勇んでビジネスに立ち向かった自分を思い出して、マイ・カラーだった赤い服も!・・・なんて密かに思っている。赤は血の色、確かに活気が漲ってくる! 生きている事を感じる! 白は原点に戻って、障害者としてまっさらで汚れない白い心を前面に出して生きていこう! 黒は「目の黒い内は」と言うではないか! 正しい目で物のよしあしを判断できる人間でありたいものである。だから、今、しばらくの間は私のカラーは赤白黒のトリコロールだと言いたい。時には赤い服を、時には白い服を、そして時には黒い服で気分を変えてみようか。