脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

163.脳は使いよう

2007-04-30 15:52:32 | Weblog
 何でも「使いよう」という言葉が力を発揮する。聞き飽きたほど、私は自ら左脳がダメージを受けたと言い続けてきた。壊れたものは諦めるしかない。洋の東西を問わず、昔から同じ様な諺がある。「覆水盆に返らず」西洋のフレーズは、訳すと「こぼしたミルクは元には戻らない」という事になる。先日、輪島の地震で大切な漆が大量に流れ出した映像が映し出されていた。職人が一生懸命、床にこぼれた漆を救って大きなワッパに戻していた。上塗には使えなくなっても中塗りや下地には充分使えるという訳である。輪島の漆職人の様子を話すと、塗師の姉は「丁寧に何回も漉せば、何とか使える筈よ」と言っていた。
 そう、左脳の直撃を受けた細胞は決して戻らないけど、回りの他の機能がきっと働き出すから、諦めずに私も期待して呼びかけたらいいのだ。分かっちゃいるけど・・・
 ところで、我々の日常生活では、耳から入る音楽を側頭葉に働きかけて、目に入る映像や景色を後頭葉が捉え、前頭葉が活躍し出すという事になる。耳も目も有難い事に二つずつあるので、幸いにも私のように半身不随で右側だけがストップをかけられても、情報は何らかの形で脳に送られるという事になる。問題は、前頭葉だろう。読んで字の如しで、脳の前部にある前頭葉は人間の場合、他のどんな生き物よりも遥かに大きい。前頭葉は機能的にふたつに分けられ、前半部は高次脳機能に関わる前頭前野で後半部は運動に関わる運動前野である。大脳皮質の聴覚野や視覚野に与えられた刺激は連合野で統合するという訳だ。
 私はつくづく最高次の中枢で運動系が重症でも、情動の自律神経系が無事でよかった、と私らしく思っている。しかし、日常生活を考えると、自分の家の中はいいが、外出すると色々な問題が出てくるのに戸惑ったり、怒れてくる自分に対して慰めようがない事がままある。私のちょっとした悩みは、確かに自分が車椅子の上の人間でも「どこがわるいんだろう?」と不思議がられるのだが、実は動かない右半身の異常な過敏神経の存在にあるという訳である。「どこが悪いの? 何がダメなの?」と見られても、「実は結構重症なの!」とは言えない。もっともっと重病に悩んでいる人はいっぱいいるんだから。視覚障害の人の場合、眼の障害の為に視覚による刺激が視覚野に伝わらないで、視覚と触覚の刺激を比べると、触覚の方が俄然多いという。私は視覚に異常は見られないが、自分の視野に入らずに、急に背後から、例え優しくでもちょっと触れられたりするだけで異常な強さの刺激が触角野の伝わってしまうという訳である。人の目に触れないところで、異常な刺激が体から脳を突っ走っている事実を如何に事前に伝える事が出来るかが、外出時の私にはちょっとした課題なのである。バックミラーも病院の作業療法士の先生に付けて貰ったが、むやみやたらに自分の弱点を口から出していたら、煩い女だ、と言われるだろうし・・・多いに悩むところである。
 所詮、自分の脳は自分の使い方次第なのだから、異常な触角の刺激を穏やかに受け止めるように自分の脳に言い聞かせるのが、最高の処理の仕方かも知れない。

162.障害も色々、でもノーマライゼーションは・・・

2007-04-28 09:57:12 | Weblog
 自分が直接は無論、間接的でも拘わりがない限り、一般的に普通だと思って毎日を過ごしている人間は障害なんて、敢えて問題として取り上げないのは当然だと思う。
 海外在住の知人が「これからの日本は経済大国ではなく北欧諸国のような社会福祉国家の道を進むべきではないかと思う。 福祉大国こそが日本国民が安心して暮らせ、世界各国からの尊敬、信頼を勝ち得る道ではないか。 福祉の充実の為なら、国民は納得して税金を払うのではないかしら? だって、将来、皆お世話になるのだもの」と言ってきた。
 確かに、東方の太平洋の片隅に「山椒の様なピリッとした存在感のある」小さな島国があって、それは歴史小国→農業小国→伝統大国→経済大国→工業大国→高齢大国といった具合に階段を時には一段ずつ、時には飛び段で登って来ている。もうちょっとという踊り場で道が二俣に分かれている。実はひとつはこの先は暗闇に入り、もうひとつは光に出会う筈だが、分れ目では見えない。優柔不断なのに判断を迫られているのは日本である。歴史を誇る小さな国土の日本という国家は今や内外共に大きな国になった、という自覚を日本人夫々が持って欲しいものである。
歴史ある大きな国インドは貧富を両手に賢く自らを見事に貫こうとする姿勢が私は好きだ。つい先日、頭脳明晰なインド人はお調子乗りのアメリカの俳優をピシャリとやった。所変われば品変わるで、殆どの国では「笑い」で片付く事も「顰蹙」だけでお終いに出来ない国もある訳だ。日本人に出来るかな? 名実共に世界的な俳優にお灸をすえる事が出来るかな?
 とかく自己中心になりがちの我々日本人だが、国際社会での振舞いの話はまたの機会にして、自国の問題を考えると経済大国→→高齢大国と進んできた日本は更に、福祉大国→羨望大国と進んで世界も羨む福祉国家になって欲しいと思うのだが、道はかなり遠いような気がする。日本人一人ひとりの心の中に自然に思い遣りという言葉に包まれた福祉の気持ちが根付くには未だ未だ時間がかかるような気がする。そして「自然に」という言葉がキーワードだと私は思う。
 私の子供達が中学生だった頃から、福祉という言葉が目立って来始めたと記憶する。中2で車椅子体験という選択実習があったのを覚えている。必須科目ではなかったので、私の息子はNOという答を出した。
「僕には車椅子の祖父がいて、それまで車椅子を間近に見た事はなかったけど、母や伯母が押すのがきつそうな場所では咄嗟に手を貸す事は出来るし、他人のそんな場面に自分が遭遇すれば出来るから、人間なのだから、出来ない訳がないから」
担任から、そう聞いた私は心から息子を褒めてあげたい気持ちになったのは当然である。
 彼が小学生の頃、こんな逸話がある。
 ある女の子Hちゃんは重度の知的障害をもって普通学級に6年間通った。中学は息子が地元で進学しなかったので、その後は知らない。とにかく、彼は6年間Hちゃんと同級だった。当時は比較的小柄だった息子は倍ほどのHちゃんとは何故かいつも隣同士の席だった。3年生になった時、息子が「何故いつも僕なの!」と不満を漏らした。私はすぐに担任に問い質した。答は簡単で、息子なら安心だからだった。とんでもない! みんなに経験させなければ、Hちゃんにとっても不幸になると私は忠告した。今なら「ノーマライゼーション完全無視だ」と私は言ったかも知れない。安心、安全がHちゃんを取り囲んでいたら、きっと彼女は災難に対する確かな姿勢が取れなくなる筈だ。
 暫らくしてHちゃん行方不明、Hちゃん失踪事件があった。その日、息子は塾の日で帰宅するや否や家を出て行った。同級生が一生懸命、駆けずり回ってHちゃんを探した。夕飯の時間はとっくに過ぎ、TVのゴールデンタイムも終わりかけていた。先生、親、友達、近所の人、いっぱいの人が手分けして探した。海はある。山もある。大変な騒ぎになった。子供達の帰宅時間はとっくに過ぎているのに先生も、親も、駐在のお巡りさんも、みんなが規則を忘れて夜道を探し回った。海の道も、山の道も子供達の方が明るかった。やがて息子が帰宅して、すぐに自転車でUターンするように、彼も捜索隊に加わった。珍しく煌々と電気がついた学校から担任が「いた!いた!Hちゃんがいた!」と転げるように出てきた。時間は既に10時近くになっていた。
 Hちゃんはひとりで浜に出て、ある漁師の家に上がり込み、その部屋にあったお菓子なんかを食べながら、一人でTVを見ていたという。漁師の家は朝が早い。TVも殆ど見ない。この家は漁師老夫婦が住んでいた。この日、珍しくオバアサンは用事があって夜になって帰宅したらしい。オジイサンが起きたのかしらと思って「ゴメンなさい、遅くなっちゃったわ」と言いながら、灯りのついている部屋を開けたら、見知らぬ女の子がおせんべい等を食べながらTVを見ていたので仰天した、と学校に知らせて来たのである。TVを見てても笑いもせず、黙々とお菓子を食べ、話もしないHちゃんに困り果てるオバアサンに寝すぎたと言いながら部屋に入ってきたオジイサンは一言「学校に電話しろ!」と言ったそうだ。ゴリッパ! オジイサン「警察に電話しろ!」じゃなくて「学校に電話しろ!」なんて最高の命令! 何処の話? いいえ、片田舎ではありませんよ! ユーミンのコンサートで有名な逗子マリーナ付近の話ですよ。
 息子ともうひとりの優しい同級生から離れて、色々な人に触れるようになっていたHちゃんは本人だけでなく、周りの多くの友達とも触れ合うようになっていたのでこんな事になっても、みんながノーマライゼーションという言葉をわざわざ掲げなくても、解決出来たのである。普段なら腕白で遊び狂っている子供達も用事のなかった子はみんなクラスメイト全員が、自転車で、或いは駆け出して、Hちゃんを探した夜は天気でよかった! 星空でよかった! 月夜でよかった! そう言えば、Hちゃんは自分でTVは付ける事が出来ても電灯の線を引っ張って電気を付けた事はない、と母親が言ったそうだ。出来たじゃない! それに、辺りが薄暗くなってきたら電気を付けるって知ってたじゃない! 凄い! Hちゃんももうすぐ三十路! どうしているのかな?

161.障害者の火事災難

2007-04-27 08:17:40 | Weblog
 痛ましい事故の報があった。母親が留守の間に家が燃え上がり、三人が焼死したという事である。「またか!」と思った瞬間、エッ!と驚いて何とも言えない気持ちになった。
 重度の障害を持つ二十歳になる長男は最近ライターに興味を持ち始めていたようだ。2歳年上の姉が母親に緊急事態を知らせながら、必死に何とかしようと思っていたのだろう。長男は喜んでいたのかも知れない。長女がどれほどの体格の女性だったのか。また、長男は大柄だったのか、小柄だったのか。
一年ほど前は、障害者センターからの送迎バスには重度の障害者達が乗り合わせていた。車中で介助する人達の苦労がよーく分かった。しょげている子をチアーアップするのも並大抵の事ではないが、歓喜に興奮する子を落ち着かせるのも大変な仕事である。小柄な子はそれなりに比較的楽なようだが、大柄な子は表現のしようがない程、大騒ぎになる。介助人全員が体格がいい訳ではない。心は大きくても、体は小さい、という介助者もいる。
 憎めない男の子がいた。体格のとてもいい元気な子だ。バスの席に着くなり、突然、騒ぎ出し、窓ガラスに思いっきり自分の頭をぶつけ出す。必死に止める職員、反動的に更に喜んで頭をガンガン叩きつける。窓ガラスこそ割れる場面に私は出くわさなかったが、彼の頭はボコボコではないかという懸念が祓いきれない。送迎バスは別々になったが、センターの玄関で時折、彼を見かける。アーァ、無事だけど、相変わらずかなり高いテンションで喜び騒いでいる。このセンターは、極最近、シンドラー社のエレベーター事故で騒がれたが、あの時もマスコミがいっぱい押し寄せて、障害児達が興奮し、その後恐怖心が意外な行動を取らせる事になってしまった、と幾人もの職員が困り果てていたのが記憶に残っている。
 晩年、車椅子生活を送っていた今は亡き父は両下肢不随だった。一度、たった一度だが、珍しく体の移動に失敗した父に手を貸した事がある。当時、父はよく言えば枯れた高齢者で体重も比較的軽かった。だが、姉と私が抱き上げようとすると、妙な箇所に妙な力が入ってしまうのか、異常な程難しい。父に照れ隠しがあるせいか「ゴメン!ゴメン!」と言う度にその妙な力が更に頑固になる。「お父さん、リラックスしてよ、動かせないから」姉と私が交互に同じ言葉を発する。「分かっている、分かっている。何もしていないよ」と父は言うが、彼の妙な力は明らかに姉と私の邪魔をする。10分もかかる筈のない行動に、30分も1時間もかかってしまう。
 今回の火事に遭遇した姉は、恐らく、必死になって弟を助けようとしたに違いない。実に、何と哀しい出来事で今朝の報道は始まった事か! 見知らぬ姉弟のご冥福を祈りたい!

160.社会復帰もいろいろ

2007-04-26 08:05:06 | Weblog
 障害を持ちながら社会復帰すると嬉しい反面、見知らぬ人に慣れるまでがちょっと時間がかかる。いつもは20年から一緒に仕事をしてきた美術館だから慣れもあるし、気心もしれているから緊張する事もなく運べるが、初めての相手となると、私も少し緊張する。
 五体満足だった頃は、先ず、相手国に赴いて自己紹介をしてから仕事にかかったものだが、現在の私の状態からして、それはそう安易に考えられない。メールで全ての段取りを進めるには相手の気質を理解した上で運ばなければ、ただ単に時間だけかかってしまうだけである。幸い、これまで殆どが英国圏の人達で。私には喜ぶべき状況である。
 今回飛び込んできた仕事は当然、美術館経由だが、パートナーに報告しながら進めるにあたって、早いペースで事を運びたがる相手との仕事は数倍時間も気もかかってしまう。こんな時、私は決して焦らず、一度によい返事を出さない事にしている。悪い言葉を使うようだが、相手は自分に気づかずに付け上がってきて「あれも、これも」と要求だけが多くなるからである。実は、私はこの点を買われて仕事をしてきたので、私の社会復帰も結構早かったと振り返る。
 ただし、現在の問題は、私が確かに厳しい後遺症を持つ障害者だという事実である。中々、具合のよい仕事用のイスを介護保険でお借りしてしまったのが・・・とは言いたくないが、ついつい時間を忘れて原稿作りに精を出し過ぎてしまうのである。食事をしたのかどうかも忘れるほど、パソコンの前に座ってしまうと、後悔と反省は忘れずに私を訪れる。それでも、必ずコーヒーブレイクは取る私だから重症ではないと思っている。そして、私に残るのは後悔と左肩懲りだけ、という事になって反省は隠れてしまう訳だ。だが、人間は実にうまく出来ている生きもので、反省の代わりに満足がしゃしゃり出てくる事になる。
 ひとつ気にしなければいけない事がある。思考能力は衰えずに前進するだろうが、恐らく、体の動き自体のリハビリが疎かになりがちだ、という事実である。だから、せめてあちこちでお願いしているリハビリだけは、仕事を中断してでも出かけなければいけない、と自分に言い聞かせている。もうひとつの問題は英文原稿作成の時間が永過ぎると、英語脳のスイッチが硬くなって日本語への切り替えがスムースにいかなくなってしまうという事があるという訳だ。そこで私らしい解決策を考えた。つまり、ハイパーグラフィアをうまく使う事である。そう、ブログに書き込むという行為に頼る事にしようと考えているのである。
 今日はいい天気で一日が始まったようだ。先ず、北里へリハビリに行って、その後、スターバックスでコーヒーを飲んで、伊勢丹クイーンズで買物をして、帰宅後は夕飯までタップリ原稿作りに時間を費やそう! 幸せだなァー!

159.ハイパーグラフィア

2007-04-25 06:19:58 | Weblog
 言語と創造性の科学のある書物を開いたら、見慣れない言葉が飛び込んできた。
本のタイトルは「書きたがる脳」― 原題のThe Midnight Diseaseの方が書店で手にしたくなるようなワクワク気分になる。数年前に読んだ「脳の中の幽霊」は北里の療法士に薦められたから買い求めたのであって、これも原題はPhantoms in the brainの方が私の興味をそそったものである。そして今でも時々開いている。さて、「書きたがる脳」は日本語の題名通り、書き出すと止まらない「ハイパーグラフィア」と書きたくても書けない「ライターズブロック」という症状を中心に探索して書かれた本である。著者自身が神経科医でありながら、この症状を持つと自覚している。見慣れなくとも、ライターズブロックの方は勘が働くが、私にとってはハイパーグラフィアは注釈なしには意味不明である。
 とにかく、この二つの症状は文筆業を仕事にする人なら、恐らく誰でも思い当たる節があるだろう。書く事大好き人間の私もこの二つの症状には結構幾度となく出くわす。でも、もうひとつ、後遺症とも言える大切なものが、私にはある。それは、自らの青春の話である。誰にも華やかな青春はある。その後、日が経って、私の様に山あり谷ありの人生を歩んでくると、ふと、その時代夫々の山や谷を思い出して、山にもその頂上とそこに辿り着く上り坂があり、谷にもどん底とそこに繋がる下り坂がる。どん底はさて置き、頂上は至福の時として書き留めておきたいような気がする。これが私のハイパーグラフィアだという事だろうか。
 遠距離恋愛という言葉がある。それならば、クラスメイト同士の恋愛は近距離恋愛とでもいうのだろうか。幸せな事に、私は両方とも体験している。留学中はナット・キング・コールの「ラブレター」と後にカーペンターズのカバーでヒットした「プリーズ・ミスター・ポストマン」が私のテーマ曲だった。大好きだったクラスメイトから敢えて離れて留学した私は自分を磨いてからの再会を夢見ていたのである。私宛の郵便物がポストに入ると、メルボルンのポストマンは笛を鳴らして教えてくれたものである。
 帰国して再会を果たしたが、国内の遠距離恋愛になった私は東京・京都間を毎週のように通ったものである。当時の私の交通手段は自家用飛行機とも大袈裟に言えるものだった。当時のわが社の飛行機は1週間に3便ロンドン・アンカレッジ・東京・大阪を運行していた。東京・大阪間だけが日本国内で他は異国を繋いでいた。航空業界の細かいルールを話すつもりはないが、この間だけの利用は社員の特権で千円足らずの税金だけで飛べた。午後、半日休暇を貰って国際線が羽田から発ち、伊丹に着いた時代である。
 我が愛すべき会社のお蔭で、私は若い頃に京の都を思いっきり楽しむ事ができた果報者である。お正月の八坂神社からは伝統の火縄を祇園の家(僅かな距離!)に持ち帰り、その火を使ってかまどでご飯こそ炊かなかったが、昔の風習を少し経験した。春の到来を華やかに告げる伝統の都をどりの「ヨーイヤァサー」には日本人である事に嬉しさを感じたものである。歌舞練場の茶席で、私は初めて抹茶を点てて貰った。あの時の点茶は立礼式だが、芸妓は地毛で島田のまげを結い、衿を裏返しての黒紋付の正装姿を鮮やかに記憶している。ついでに島原のおいらんを間近に拝見する事までできた幸せ者でもある。更に、葵祭、祇園祭、大文字焼き、時代祭、鴨川をどり等など・・・
 私は単に自らの恋愛を書き綴りたかったのではない。古都京都での和洋、新旧を味わった醍醐味を書き記したかっただけである。料亭の本格日本料理と万葉軒あたりの洋食、神社仏閣巡りと京都の教会で迎えたクリスマス・イブのミサ、祇園の小さな映画館で見たアメリカ映画「愛情物語」、これらのミスマッチ感覚が現代日本にはとても必要な気がする。夜中に、先斗町あたりの酒場に立ち寄ると、著名な教授達にも巡り会っては言葉を交わしたり、東京では中々経験出来ないような時を持つ事が可能であった。
 余談になるが、私は「ライターズブロック」で悩まない限り、「ハイパーグラフィア」がウズウズして、この「脳のミステリー」を書き続けるだろう、と自分に期待している。
 

158.いきものがたり

2007-04-22 09:35:19 | Weblog
 風は強いものの、気温は上がり、気象病は少し遠ざかりつつあったのか、娘に誘われるままに近所の古本屋に行った。駅前の書店よりずっと車椅子で移動し易い店内に嬉しくなった。でも、難点は入り口の段差である。私は幾度となく、娘か息子と一緒に来れば、きっと店が覚えてくれて、馴染みになればもうこっちのものだ!と思ったのである。元々、古本屋は大好きで子供頃は比較的近くの神田の古本屋を梯子したものである。そう言えば、昔は貸し本屋という商売もあったっけ。
 逸早く私の目を釘付けにしたカラフルな本があった。題名は「いきものがたり」一瞬エッ!と戸惑うタイトルである。「生きもの物語」かな、と思って手にしたら「もの」という字がいまひとつ足りない事に気づいた。では「粋な物語」かな、と思うと、イラストがお世辞にも「粋」ではない。我が息子がメルボルンの幼稚園時代に描いた絵に絶賛して惚れ惚れとした記憶があるが、イラストはそんな感じ、だから、私の目には止まったのである、と頷く。本を開いて「アッ!」と驚いた。
 地球は人間だけのものじゃない、と訴えている。本の末尾に企画監修が東京大学生産技術研究所教授と厳しい肩書きがあって、以下、そうそうたる大学教授の名前が連なっていた。表紙には、小さく生物多種多様性11の話とあり、更に遠慮がちに「日本全国の学校に寄贈された本」という但し書きがある。なるほど、私は私なりに「いきものがたり」というタイトルを考える事にした。
 いきものがたりとは、私の脳裏を横切るだけでも域、息、閾、粋、遺棄、生き、活き、等など考え始めたら限がない。地球というかけがえのない「域」を共有するのは人間だけではないという訳だ。「息」をしているのは人間だけではない。それなのに色々な物を意図的に「遺棄」するのは人間という事である。 しかし「閾」即ち、心理学上、ある感覚や同種の刺激の相違を感知できるか否かの境目という訳だが、これを感知するのは人間だけだという事に注目したい。そして、粋に生きる事が出来るのは人間だけだろう、と私は思うのである。
 私は更に語尾変化させたくなり「いく」にも様々な字がある、と面白くなってきた。行く、活く、往く、逝く、そして落ち着く字は「育」である、という訳だ。
息づく地球には育む生命が無数にあって、恐竜の時代から同じ水が、地球の海や川から蒸発しては、再び雨になって舞い戻り、グルグル巡回しているという事で、その水が「いきもの」の生命を途絶えることなく、この先も続いていくのだ、という事を全ての人間が当然の知識として蓄えて欲しい、と懇願したくなった。
 私に閾を改めて考えさせるこの「いきものがたり」は、実に粋な計らいが詰め込まれた本である。つい数週間前に発刊されたばかりの新刊に古本屋で巡り会うとは、やっぱり、古本屋も捨てたものではない。多分、安くしても買って貰いたいという願望が働いて寄付のつもりで数冊置いたのだろう。

157.気象病だって!

2007-04-21 09:01:46 | Weblog
 脳障害で悩む人に出会う機会が多くなって「もやもや病」という病名も耳にする事がしばしばある。そもそも1950年代から重視されてきたこの病気は日本で初めて発見されたウィリス動脈輪閉塞症である。日本での発症率が多い為にその研究も世界一進んでいて、英語名もmoya-moya diseaseと呼ばれている。脳を栄養する頚動脈と椎骨脳底動脈が頭蓋内に入ってから形成されるのがウィリス動脈輪という訳だが、この動脈の輪が徐々に閉鎖してもやもや病を発病するのである。脳の血流を補う為に側副血行がモヤモヤした状態に見えるのでこの病名がついた訳で、この閉鎖原因は現時点では医学的には解明されていない。
 この「モヤモヤ」という言葉を知ってか知らずか、私の亡き母は自らの体調を「ニヤニヤ病」と言っていた。母特有の表現で「痛くも痒くもないが、気分がさえなくて、何となく胸の周りがニヤニヤ」と表現したのである。流石、母らしいと兜を脱ぐ。声を出さずに意味ありげに薄笑いを浮かべる様を引用するなんてアッパレとしか言いようがない。母は私が生まれて間もなく自らが子宮外妊娠で病院にいた時にも、幼い私に「お母さんのお腹が爆発しちゃったのよ」と説明したのを私はよく覚えている。
 因みにモヤモヤは湯気が立ち込める浴室や、実体とか原因がはっきりしない様や、心にわだかまりがあってさっぱりしない心境を語って、異常な血管網が見られる病気にモヤモヤという表現を使ったのだろう。
 然るに、気象病なるものは短時間に気温が急上昇して体調不良や気分が落ち着かなくる変化という事である。気象病は人間と気象庁が連動して発表できる症状だ。これは気象の変化によって発病する現象で、雨の日には神経痛が酷くなったり、気温や湿度の急変化が私の痺痛が激怒したりする訳だ。
 環境が急変すると、人間の体がついていけなくなる事は理解出来るが、厄介な人間はイライラしがちになってとんでもない行動に出る者も少なくない。現に、長崎の市長射殺事件、川崎の通り魔事件、町田の篭城発砲事件、次から次へと信じられないくらい日本中の人々を震撼とさせている。
 私の気象病は可愛いもので!?、昨日は私の期待通りに風はあっても気温があまり変わらずに今朝を迎えたせいか、痺痛は心なしか小休止している。

156.春の雪

2007-04-20 08:02:25 | Weblog
 新聞等で季節はずれの「春の雪」と書かれる度に、私はつい三島由紀夫を思い出してしまう。全部で四巻ある「豊饒の海」の第一巻が「春の雪」である。三島由紀夫がこの四巻を書き終えた直後に死を選んだという事は自分自身の輪廻転生を信じていたのだろうか。輪廻とは、生ある者がイルーションに満ちた生死を絶え間なく繰り返して生まれ変わる事だが、自ら転じて、環境や生活を一変させるのに、雅の世界を求める一方、あの衝撃的な死を人々の脳裏に焼付けた三島由紀夫は私のような凡人にはその生き方と死に方は理解し難いものがある。
 そして、話題が大きく飛躍するが、今年の春の雪も信じ難いものがある。4月も後半に入った18日の夜から翌朝にかけて、低気圧の影響で列島の上空に寒気が入り込み、何と北海道から関東の山沿いに雪が降ったのである。信じられない! だが、私の右半身は実に正直で、一昨日、火曜日の夜に今迄で最悪の痺痛を右足に感じた私は正に足掻きが取れず、苦し紛れにジタバタして夢中で装具付の靴を脱ぎ捨てたのである。暫らく素足でもがいている内に自由になるかと思っていたら予想をまんまと裏切って、右足の痺痛は収まらず、ここ数日間は絶えず繰り返して一向に休まらないのである。ひっきりなしに続く強度の痺痛が原因らしく、足首に浮腫みを生じ、更に坐骨神経痛を起こしにかかってきている。辛い! かなり辛い!
 だが、今日は夜8時近くになると、痺痛が少し、ほんの僅かだが、薄れてきた。明日は幾分、天気も回復して平年並みの暖かさに戻るだろうか。
 朝が来た! 期待の朝が来た! 今日の痺痛はかなりましだ! 脳のミステリー専属天気予報士より! 今日一日に大いなる期待を!

155.「生きているという実感」の追記

2007-04-16 16:01:01 | Weblog
「一番生きていると感じるのは、どんな時に、どんな風にですか?」
父親が私にそっくりな症状を訴えてきていつも暇を見つけては読んであげています、という若者から質問があった。コメントに記そうかと思ったが、追記の形で書き込むことにした。あくまでも私の確認のやり方だから、全部を当てはめる事は多少無理があると思う。
 先ず、就寝時に健側を下にしてベッドに寝転がり、次に仰向けになろうとする時、異常な痺れと痛みが右を猛スピードで走る時「勘弁してよ!」と叫び、私は生きている事を否が応でも知らされる。仰向けで伸びをし、極度の痺れと痛みを無視して更に体を動かし、今度は麻痺している右側を下に強引に我が身を全部委ねる。すると、どうでしょう、天邪鬼なのかどうか知らないが、何と私の右半身は諦めたようにゆっくり、とってもゆっくり、痺痛が緩んでくる。冬のホテルで飾りの氷の彫刻が溶け始めるのを見ているみたいな気持ちになる。そう、これは明らかに生きている証である。
 ぐっすり寝て、朝爽やかに目が覚めると、一秒もしない内に、痺痛が私を急襲してくる。
「何なの! 何もしていないでしょ」
叱り飛ばしてやりたくなる。朝は気持ちと言葉だけは激しい怒りをぶつけてあげるけど、行為というか行動は出来る限り優しくしてあげるように心がける。さもないと、一日中暴れっぱなしの痺痛に悩まされるからだ。こんな朝のひとり芝居も明らかに生きている証拠である。
 私は夜の右半身不随にちょっと意地悪くなる。ベッドに伸びてストレッチ体操をして思いっきり虐めて眠りに入る。朝は、前の晩に辛さで涙ぐんだ右半身に「具合はどう?」と訊ね「今日も宜しくね!」とばかりお世辞を使う。実は私は子供の頃から島崎藤村の「朝」という歌が大好きだったのである。若い人の為にルビも忘れないで!
 朝は再び ここにあり 朝は我らと 共にあり
 埋れよ眠り 行けよ夢 隠れよさらば 小夜(さよ)嵐(あらし)
 諸羽(もろは)うちふる 鶏(くだかけ)は 咽喉(のんど)の笛を 吹き鳴らし
 きょうの命の 戦闘(たたかい)の 装(よそお)いせよと 叫ぶかな
毎日5時に起きたら、用意をするのに小一時間はかかってしまう私は、朝が忙しい! 愛犬テトの散歩、出かける前のメールのチェック、何しろ復帰した私の仕事には時差があるので妙な難問でも受信していたら、もう、大変! あっちが痛いこっちが痺れるなんて言っていられなくなるから、朝は右半身にはたっぷりご機嫌を取っておかないと、後で困るのは私だ、という事である。朝、頭の中で「朝」が歌えたら、私は生きている!

154.生きているという実感

2007-04-16 09:25:34 | Weblog
 人間はどんな時に「自分は生きている」と感じるのだろうか? ある人は死と直面した時に感じると言う。また、ある人は九死に一生を得た時に感じると言う。三途の川を渡らずに蘇った時に感じると言う人もいる。人それぞれというが、本当にそうだな、とつくづく思う。死を感じとるのと生きているという事を感じるという事はどう違うのだろう。
 私は幾度となく死を看取った。両親の死、豪州のケンとグエンの死、家族の一員になっていたペット犬達の死、様々な死に出遭った。だが、死を「看取る」と「感じ取る」には確かに違いがある。この世から本当にいなくなっちゃった、と思い、私の心が空白状態になった死がこれまでに二度ある。死を感じ取った事が私の記憶には二度ある、否、プラスワンと言える。
 一度は20数年前に突然私を訪れた死との直面である。幼子二人を両側に私は教会で讃美歌を歌った。口からは英語のフレーズが、頭の隅には日本語の歌詞が見え隠れしていた。葬儀が終わり、外へ出た私には、メルボルンの初夏は抜けるような青空がグエンの昇天を待っているように思えた。棺が向ったボックスヒル墓地には予め大きな穴が掘られていた。黒い服を着た四人の男達が立って、徐に無言でグエンの棺に土を被せ始めた。
「オーノー、ドント、ノー、ストップ!」
私は叫んだ。否定するあらゆる言葉が私の口から吐き出された。あんなに美しいグエンに泥をかけるなんて、私は許せなかった。私は叫びながら穴に飛び込みそうになった。私は完全に理性を失っていた。グエンの息子達がそんな私を必死で止めた。息子の一人、コートニーが私を羽交い絞めに背後から抱きしめた。
「ママはいないんだよ。もう、天国に逝ってしまったんだよ!」
それでも私のノーは止まらなかった。やがて、ノーは私の涙で消されていった。四人の男達はコートニー達に促されて土かけ作業を再開し始め、グエンの棺の四角のロープを持って、ゆっくりバランスを取りながら下に下に降ろしていった。グエンママは本当に死んでしまったのだ! 私はその時、グエンの死を感じ取り、今でも彼女は天国から眺めていると感じている。その証拠にグエンが昇天してから、私の人生は華々しく開いて行ったのである。
 二度目は一昨年、私を失意のどん底に落とした訃報だった。コートニーの死は、ある意味で私は覚悟していた。兄のディビッドを追い越して先に昇天した彼は病魔と数年間闘った末に母グエンの処へ旅立った。メールを通して、私の脳出血の話を一生懸命読んでくれた彼は、自らも闘病生活を綴って送ってきてくれた。心臓病に癌が追い討ちをかけた闘病によく耐えた、と言ってきたのは精神科医の妻エバだった。元大学の先生であるコートニーは私の留学生活では英論文の家庭教師だった。そして、闘病、否、後遺症生活に入った私には異なったクライアント同士という事でコートニーはよき理解者になってくれた。コートニーと私の症状日記なるメールはエバから訃報が入る直前で止まってしまった。私の最後のメールに返信はなかった。コートニーらしくない、と私は想っていた。彼の死もまた、私は感じ取る事が出来た。グエンの死は視覚に訴え、コートニーの死は聴覚に委ねられて、私は確かに感じ取ったのである。
 そして、プラスワンはそう、愛犬ゴールデン・レトリバーのドックの死である。彼女の死もまた、私は感じ取ったのである。今現在ある私は、この三つの死を踏み台にして、それを海馬に始終働かせているのかしら、と想う事がしばしばある。確かに私は生きている。